定年退職は、長年築いた立場を失う大きな節目です。特に重責を担った層ほど、現役時代の意識が再雇用後の壁となり、組織内で孤立するケースが少なくありません。定年後の再雇用において、いかにして新たな役割を見出すべきか。ある男性のケースを見ていきます。

「元部長」という過去を捨てられず、組織の底辺に沈んだ男

大手建設会社の営業部長として、年収1,200万円を稼いでいた田中一郎さん(60歳・仮名)。60歳の定年を迎えた際、彼は迷わず再雇用の道を選びました。

しかし、提示された月収は28万円。額面の激減に愕然としましたが、「これまでの経験を還元してほしい」という人事担当者の言葉を、文字通り「アドバイザー的な立ち位置」だと解釈し、現場に残る決意をしました。

しかし、再雇用後の実際の仕事は「庶務」でした。若手が多忙で放置している備品整理や、会議室の片付けを命じられるたびに「何かの間違いだろ……。俺の経験を何だと思っているんだ」と心の中で毒づいていました。

そんなある日、田中さんはいつものように、若手社員たちが集まるフロアの片隅で、古い資料のPDF化作業をしていました。そこで耳に入ってきたのは、かつての部下である課長が、トラブル対応で疲弊し、孤立している様子でした。

かつての田中さんなら「俺が代わって交渉してやる」と口を出していたでしょう。しかし、今の自分にその権限はありません。田中さんはふと思い立ち、指示されたわけでもないのに、その課長が翌日の会議で使うであろう膨大な関連資料をあらかじめ整理し、要点を付箋でまとめてデスクに置きました。

「翌朝、彼が『田中さん、これ助かりました。昨夜はこれを作る余裕がなくて……』と、久しぶりに私の目を見てお礼を言ったんです。部長時代の『ご指導ありがとうございます』という社交辞令ではなく、一人の同僚としての、等身大の感謝でした」

田中さんは気づきました。

「かつては、彼らを思い通りに動かすことが私の仕事でした。でも今は、彼らが気持ちよく動けるようにすることが私の役目なんだと、再確認できた。面倒なプライドが邪魔をして、自分の役割が見えていませんでした」

それからの田中さんは、文字通り「最高の雑用係」に徹するようにしたといいます。備品が常に整い、資料が先回りして用意されている。田中さんがいるだけで、チームの事務的ストレスが激減しました。かつての部下たちも、今では「田中さん、ちょっと相談いいですか」と、現場の愚痴や悩みをこぼしに来るようになりました。

「上司ではないからこそ、彼らの本音が聞ける。今の私は、部長だった時よりも、組織の『潤滑油』として機能している実感があります」

定年→再雇用サラリーマン、成功の秘訣

株式会社パーソル総合研究所『企業の60代社員の活用施策に関する調査』によれば、企業の約4割(38.1%)が50~60代の人材に対して「過剰感」を感じているという実態が明らかになっています。この「過剰感」を生んでいる正体は、田中さんが当初陥っていた「現役時代の意識」と「現場が求める役割」の大きなズレです。

「戦力」としての期待値のズレ

同調査では、60代社員の活躍を阻む要因として「役割が不明確」「本人のモチベーションの低さ」などが挙げられています。企業側がシニアに「現役並みの成果」を期待しにくくなっている一方で、本人が過去の成功体験に固執することが、周囲の「使いにくさ」を助長しています。

「上司のやりにくさ」という障壁

独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)の「高年齢者の雇用に関する調査」によれば、継続雇用における課題として「高齢者の配置・仕事の割り当て」を挙げる企業が多くなっています。特に「元上司」への指示系統に苦慮する現場の声が反映されています。

意識のソフトランディング

内閣府の「高齢者の就業に関する調査」等でも示されるように、再雇用後の仕事満足度は、賃金水準だけでなく「自分の能力や経験が活かされている実感」に左右されます。田中さんのように、直接的な「指揮」から、間接的な「支援」へと役割を再定義できた人ほど、精神的な安定を得やすい傾向にあります。

田中さんのように、再雇用において重要なのは、過去の役職や年収に固執せず、現在の組織が求める役割に自分を適応させることです。指揮官から支援者へと自身の機能を切り替えることが、定年後の安定した職業生活を維持するための現実的な条件といえそうです。

[参考資料]

株式会社パーソル総合研究所『「企業の60代社員の活用施策に関する調査」を発表 約4割の企業が50~60代人材に過剰感』

(※写真はイメージです/PIXTA)