終活への雑感(35) 抽象論の限界(追記)
昔から人が他者を批難する場合に使う“抽象的な言葉や表現”に違和感を感じている。
よく見る言葉に「誹謗中傷」があるが、はたしてその意味することをわかって使っているのだろうかと思う。「誹謗中傷を受けた」というが、相手の言動がはたして「誹謗中傷」なのかどうかを第三者は判断できないままに、同情したり賛同したりしてはいないだろうか。
そう、「具体」が示されていないのだ。誰に、何について、どのような言葉や表現で、どのように言われたのか、書かれたのかという「具体的な内容」が欠落しているのだ。
そして、相手の言動によって、自分はどのように、どれほどに傷つけられたのかも「具体的に」語られることはない。
相手の「誹謗中傷」といわれる“言動”と、“傷ついた心身”との相関関係も当事者にしかわからないことだ。それを証明するためには、やはり「具体」が“事実”として明らかにされなければならない。
それなくして、第三者が公正に、公平に判断などできるはずもない。だが、同情者や賛同者は「誹謗中傷」を受けたという者を“被害者”と思い込み、相手を“加害者”と信じ込み、相手の言動を十分に検証することもせず(できず)、一方的かつ手段を選ばないで“批難”する。
「誹謗中傷」という言葉は、実に曖昧な抽象的な言葉であることをわかって使っているのだろうか。このことは文章を書く立場、たとえネット上の記事であろうとコメントであろうと、公の場、誰の目にも晒される場において公開する以上、わかった上で、十分に吟味して書くべきことである。自分の言動が「誹謗中傷」に当たるかどうか、「プライバシーの侵害」に該当するかどうか、「風説の流布」にはならないか、何より特定の個人を名指しで批判する場合は慎重に言葉と表現に配慮すべきである。
意識して、意図的に、あえて「誹謗中傷記事」と公言して書く人間は論外であるが、良識ある大人であれば、当然のことである。しかし、感情が先走って「暴言」を吐く人間が跡を絶たない。
GoogleのAIさんは、「誹謗中傷」を次のように定義している。
「誹謗(ひぼう)」と「中傷(ちゅうしょう)」は、組み合わさって「誹謗中傷」として使われることが多いですが、それぞれ異なるニュアンスを持ちます。「誹謗」は相手の悪口や罵倒を指し、「中傷」は根拠のない嘘やデマで名誉を傷つけることを指します。どちらも人格否定や嘘により相手を深く傷つける、悪質な行為です。
詳細は以下の通りです。
誹謗:根拠の有無にかかわらず、他人の悪口を言うこと、罵ること。攻撃的な言葉で人格を否定する行為を指すことが多いです。
中傷:根拠のない嘘やデマを言いふらし、他人の名誉を傷つけること。事実無根の情報を流して相手を陥れる行為です。
誹謗中傷:誹謗と中傷が合わさった言葉で、根拠のない悪口やデマを言いふらし、相手の社会的な信用を傷つけ、深く傷つける行為の総称。
厳密な“定義”はないと私は思っている。何より、“悪口”“罵る”の内容も多様で複雑で、主観的な要素が強い。「言われた者」の受けとめ方にも左右される。人によっても異なる。
ある人はその言葉を“悪口”と受けとめ、酷く傷ついたが、別の人は“軽口”と受けとめ、さほど気にもしていない。“罵る”言葉もさまざまだ。「暴言」もあれば「揶揄」「嘲笑」「愚弄」もある。同じ言葉でも“ニュアンス”や関係性に左右される。「バカだな~」もあれば、「バカだ」もある。ただ文字にするだけでは厳密には伝わらない。
ネット上の記事やコメントは「誹謗中傷」とのみ書いている場合がほとんどである。
「何年も誹謗中傷を受けてきた」「誹謗中傷を書かれた」など。「具体的な内容」が書かれていない以上、何もわからない。ある言動(記事かコメントか)によって、酷く傷ついたことは伝わるが、それが当事者が言う「誹謗中傷」なのか、「誹謗中傷」の何に該当するのかは不明だ。
たとえば、「クソジジイ」「ヘタレメンタル」等々は明らかに“暴言”であり、“誹謗”であることはだれもがわかることだ。
相手は「誹謗中傷」をした人間(加害者)であり、自分は「誹謗中傷」を受けた人間(被害者)をアピールしているに過ぎない。そして、「何年も誹謗中傷を受けて、日々苦しんできた。辛かった」等々と訴えれば、その言葉に“同情”“共感”した人間が慰めてくれる。
しかし、「被害者」の言う「誹謗中傷」と「同情者」の共感した「誹謗中傷」は“同じ”なのだろうか。「被害者」の言葉を“鵜呑み”にしている場合が多いのではないだろうか。
また、かつて自分が受けた「誹謗中傷」を想起して、それと同等の内容だろうと想像して共感するのではないだろうか。そこに“抽象論の限界”がある。
私は「誹謗中傷」という言葉は、“抽象論”でしかないと思っている。同様に、揶揄・愚弄・嘲笑・罵倒なども“抽象”的な表現でしかない。
繰り返すが、「具体」のない「誹謗中傷」など信じるに値しない。ネット上など、いくらでも虚偽も捏造も作り出せる仮想空間だからだ。
私事ではあるが、ある方が他者の記事のコメント欄に書き込んでいるコメントの一部である。
藤田孝志さんの記事。
あれは諍いをやめようという呼びかけではなく、特定の人たちを批難する内容としか、私には思えません。
特に藤田孝志と増田達彦、ついでに福田尚弘の三名は言い訳と自己の正当化に終始していて、御丹珍となんら変わりはありません。
こんな人たちが正義とか優しさを語るのは、お門違いも甚だしいと思います。
藤田さんの誰の悪口から判らん低レベルな記事
藤田孝志だって、さんざん記事でいろんな人の悪口書きまくってんじゃん。
このコメントを見て、気づかないだろうか。まったく“具体的な内容”が書かれていない。感情的な決めつけ、主観的な感想でしかない。私を批難するのは自由であるが、公の場において誰の目にも触れる以上、名指しで文句を言うのであれば、“具体的な内容”と根拠、理由を明示すべきではないだろうか。
「特定の人たち」とは誰か、「批難する内容」とは何か、「言い訳と自己正当化」とは“具体的”にどれか、「御丹珍となんら変わり」ない根拠と理由は何か、なぜ「正義と優しさを語る」ことが「お門違いも甚だしい」のか、「悪口」の“具体的な内容”と理由・根拠は何か…等々、一切書かれていない。
似たようなコメントをあちらこちらで見かける。
文章を書く人間であれば、たとえコメントであっても、他者を批難するのであれば、“具体的な内容”を明示した上で、正当な理由と根拠、意見を述べるべきである。
「抽象論」に隠れて他者を揶揄・愚弄するコメントは、文章(小説)を書く人間にしては少々情けなくはないだろうか。
昔から“知ったかぶりの人間”が「教育」に物申して、自己アピールすることは度々目にしてきた。
誰かの本や雑誌の論文、記事などを援用して、自分もそう思っていたなどと、まるで自分の主張であるかのように、「教育論」を展開する。さも実際に見聞したり体験したりしたかのように書く。
かつて5年間にわたって私を攻撃した牧師も同様のことを繰り返した。私とは一面識もないし、私の授業も教育実践も知らない。しかし、ネットニュースで教師の不祥事や教育問題が報道されれば、また教育問題に関する本やネット検索で拾った記事などがあれば、強引に私に結び付けて、揶揄・愚弄を書いてきた。そして必ず、「私であれば~」と述べてきた。
数年間、高校や専門学校で(情報処理の)講師をした経験を“自画自賛”することで、教育や教師を批判して、その延長で必ず、知りもしない、見たこともない私の授業や日々の教育実践を「~と思われる」と“臆測”して批難してきた。私は彼によって「ダメ教師」のレッテルを貼られてしまった。
その牧師と似たような批判(批難)をする人間は多い。大概の場合、聞き知った内容、誰かの論評を並べるだけで、自らの“実践”も“主張”も「具体的な内容」を根拠にして述べてはいない。具体的な実践と結果を語れない人間が、教育現場を安易に批判することは高慢だと私は思う。
よく聞くのが、塾や予備校の教師が学校現場の経験もないにもかかわらず、それこそネットの記事や書籍から聞き知った現状や問題を推測(臆測)して、知ったかぶりの批判をすることだ。
全国に私立・公立あわせてどれほどの小・中学校、高等学校があるか、さらにどれだけの教師がいるか。私は長年、公立中学校で教師をしてきて、実体験上で言えるのは、教師の数だけ教育実践があるということだ。塾や予備校と通常の普通学校との根本的な違いは、担当する生徒数もだが、“目的”である。
塾や予備校、家庭教師などは、高校や大学に“入学させる”ための“学力を向上させる”ことを“目的”とする。そのための“学力向上”である。もちろん、それだけではないし、個人の自由裁量も大きい。さまざまな工夫や技能も必要であろう。結果が収入に直結する厳しさもある。
“目的”に合わせて“教育内容”が異なる以上、比較できるものではない。それを強引に比較して、あれこれと自画自賛したり批判したりするのは的外れだと思う。
少なくとも、私が関わってきた多くの教師で、生徒に“自業自得”と言い放って、手立てを講じなかった教師はいない。若い教師もベテランの教師も、専門教科の指導ではプロである自覚を持って教材研究をしていたし、ベテランだといって毎年使い古したノートを持ち出して授業をすることはなかった。常に最新の知識を得ることを心がけ、専門教科の勉強だけでなく、教育に関して貪欲に学んでいた。
さらに、教科授業だけでなく、道徳も学活、校外学習、人権学習、海洋学習など、さまざまな学習活動を通して、生徒を育成しているのが通常の普通学校である。
どちらが優れているとか、単純に比較できないことを取り上げて、安易に批判することの愚かさを私は思う。人を批判する前に、自らの“知識”と“認識”を問い直すべきである。
最近耳にする心理学用語に「自己正当化デバイス」がある。GoogleのAIさんは、次のように説明する。
自己正当化バイアスとは、自分の言動や判断を正しいと信じたい欲求から、都合の悪い情報を無視し、自身の正当性を無理に証明しようとする認知の偏り。失敗は環境のせい、成功は実力と捉える「自己奉仕バイアス」とも関連し、ミスを認めない、他人の意見を聞かないなどの弊害を招く。
自己正当化バイアスの主な特徴と具体例
・「悪いのは他者・環境」:失敗した際に「運が悪かった」「上司が悪い」など外部に原因を求める。
・「成功は自分のおかげ」:成功した時は、自分の能力や努力によるものと強調する。・
・都合のいい情報収集:自分の主張を裏付ける情報だけを集め、反対意見を無視・軽視する(確証バイアスの要素)。
・責任転嫁:ミスを指摘されても謝罪せず、被害者は自分だと主張する。
発生するリスクと弊害
・意思決定の誤り:自分の思い込みが強まり、合理的な判断ができなくなる。
・成長の停止:失敗から学ばず、同じミスを繰り返す。
・人間関係の悪化:周囲との対立や信頼の低下を招く。
「自己正当化デバイス」に陥っている人間がネット上には割と多い。承認欲求が強く、自分の優位性を誇りたがり、自意識過剰で、感情的な言動に走りやすい。
なぜなら、自分の言動を第三者に確認してもらうことがないからだ。背景には、人間関係の希薄さ、孤立化がある。現実生活において、親しい友人や職場の同僚などがいて、何でも話し合えて、相互に助言と承認を交わせる関係があれば、愚かな発信を繰り返すこともないだろう。
見ず知らずの人間を“盲信”することも、仮想の自分を“演出”する必要もない。そして、「自己正当化デバイス」に陥ることもない。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


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一時の感情に流されてしまうと、前後の判断ができず、その場だけの思いつきに終始する。結果、八つ当たり的な“暴言”を吐いて、溜飲を下げようとする。感情をコントロールできない。その背景には「自己正当化デバイス」が働いている。「自分は悪くない、悪いのは相手だ」の思い込みこそが「自己正当化…