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「しつこいパパを断る手紙が日本の女性を300年縛った話」女大学は教訓書ではなく、娘が父に宛てた手紙だった?

  • 執筆者の写真: Viorazu.
    Viorazu.
  • 2 分前
  • 読了時間: 36分
Viorazu.儒学

※注意:本稿は思考実験です。 歴史的事実の主張・学術的結論ではありません。公開されている史料・年表・人物関係から読み取れる「矛盾」や「空白」に対して、言語学的・論理的に「もしこうだったら辻褄が合う」という仮説を組み立てる試みです。 史料の引用部分と筆者の推論部分は文脈で区別してください。 固有名詞・年号・系譜情報は公開資料に基づいていますが、解釈についてはあくまで一個人の思考実験であり、歴史学的な検証を経たものではありません。





私が「女大学」というものを初めて知ったのは去年、AIのバグの理由を探っていた時でした。


「江戸時代の儒学者が書いた文章が真面目過ぎて庶民に反発を受け、エロパロディ同人のような書物を大量生産されてしまい、それが近現代の日本文学に大きな影響を与えてしまっている。AIは言葉の起源をたどるから何か言われるとそこからつながりを探してしまう。日本のエロワードや概念の根源が江戸文学と接続してしまい、全くエロくない儒学者の名前に紐づいてしまう。しかも多くの日本の大学の校訓や卒業生が興した企業の社是に儒学者のフレーズが入っているため、企業名でエロが出る」という地獄のような事実が判明しました。そのバグ自体はすでに修正されていて、どのAIも回避可能です。




その時名前が挙がった2大巨頭が「熊沢蕃山」と「貝原益軒」でした。女大学は益軒が記したとされていますが益軒が書いたのではないという説があるようで、なぞは深まりました。


AI時代によみがえる益軒蕃山の呪い!AIのバグが経済に与える影響とは?!


これは大きすぎる問題だったので、さすがに優先順位が高かったのか、数か月で各社修正されていたんです。対応がすごく早かった。


流れを整理するならば、


①江戸儒学者が書いたと言われている文章が存在する

②次の要素でAIがバグっていた

 ・その儒学者の名前

 ・その儒学者の子孫や弟子に関係のある大学や企業の名前

 ・その儒学者の書物の構文


内容が「支配的」「操作的」な意味に受け取れる構文。さらに春本をはじめとする多くの江戸文学がその構文のパロディ本だった。現代もそのパロディ本にインスパイアされた小説などが大量に生産されている事実。


 ・AIの「加害構文判定でアウト」

 ・AIの「エロ判定でアウト」


という二重の罠があり、大勢の日本語話者がその罠を踏み抜いていました。


これはすでに解決済みなので再現しようとしても出てこない過去のバグです。

ただ私ずっとモヤモヤしてたんです。


熊沢蕃山の生い立ちを書いた本を図書館で探して読んでみると、「こんなこと書くかな?この人が?」と思ったし、貝原益軒の生い立ちを調べてみてもやっぱり「この人これ絶対書かないよね?」ということが書いてあるんですよ。


蕃山は「君主は親よりめっちゃ大事にせえや!」という内容でしたが、親と幼いころに別れて暮らしていて君主が親代わりに近いくらい大事にしてくれたという事実がありました。なんか違和感。それは「さみしい子供時代を過ごした人が世話を焼いてくれた人への感謝の言葉」のように見える。なのに支配的言語と言われている。変だ…。


そして益軒も「年の離れた嫁と仲良しで日本全国津々浦々温泉巡りをして一緒に研究をして成果を残した。体の弱い妻を案じて薬草の研究をした。子供は生まれなかったが仲が良かった」とあらゆるところで残されているのに、益軒の言葉は「病気の妻は実家に帰せ、子供が生まれなかったら実家に帰せ」とあるんです。


この2件の矛盾、どうも気持ち悪い。

モヤモヤするでしょ?

だからこの2人に関しては沢山「他の人が書いたんじゃないの?」と言われています。



そこで私は考えました。この矛盾を解消する言語学的な答えを。

ただ歴史上の人物がそれをどのように書いたかはタイムトラベルをしてみてくるわけにはいかないので妄想の範囲です。学術的な意見ではなく、あくまでも思考実験というか、仮説というか。ふわーーーっと、考えました。



言語学に興味がある方でなくとも、人の心を持つ方ならばすぐに理解できることだと思います。






女大学いってみましょう。


これは主に明治時代に「女性とはこうあるべき」と広められた書物です。

男尊女卑的な女性を縛る言葉。


国立国会図書館デジタルコレクションで全部見れます。



Wikipediaにもこのように簡単にまとめてありますが、内容は御覧の通りです。


「妻は夫を主君として仕えよ。」

「夫兄弟や親戚を敬愛せよ。」

「夫に対して嫉妬心を抱くな、感情的にならず冷静に話し合う事。」

「容姿よりも心根の善良なことが肝要で、従順で貞節そして情け深くしとやかなのがよい。」

「女子は成長して、嫁に入り、夫と親に仕えるのであるから幼少のころから過保護にしてはならない。」

「七去の法。(淫乱・嫉妬・不妊・舅に不従順・家族にうつる病・多弁・盗癖のある嫁は離縁されるべき)」


これを益軒が書いたのではなく嫁が書いたとする説もありますが、病弱な嫁が自ら「病気で不妊の妻は実家に帰せ」などと書きながら仲良く添い遂げるでしょうか?おかしいよね?


益軒の妻について掘ってみましょう。、


貝原東軒(かいばら とうけん)プロフィール

本名:初(はつ)。旧姓:江崎。字:得生。 1652年(承応元年)生まれ — 1714年2月10日没。享年62。

出自:秋月藩医師・江月道達の姪(一説に兄の娘)。つまり医者の家系。 結婚:1668年、17歳で39歳の貝原益軒と結婚。年齢差22歳。 子供:終生なし。

スキル:

・和歌に秀でる

・筝・胡琴を弾く。晩年は益軒と合奏

・楷書が巧み。益軒との合作軸物あり

・益軒の日記・雑記ノートの代筆を担当

・自筆の楽譜や詞かるたが現存

・経史に通じる

・紀行文の執筆(益軒の遊記に実は東軒の筆が少なくない)

体質:華奢。病弱。結婚後に前後4回、郷里から両親が駆けつけるような重病を患う。用薬日記に漢方薬の調合記録あり。益軒も同じく病弱。

旅行:益軒と各地を漫遊。時に1年に及ぶ長旅あり。京都へのフルムーン旅行も。

女大学との関係:

・「東軒の筆による内助が、成立を速めた」(Wikipedia)

・実は東軒の著作ではないかとする説あり(益軒の著述目録に書名なし、子孫の家にも稿本なし)

・毛利小太郎は東軒を「儒教的女子教育の権化」と評価

・ただし益軒の『和俗童子訓』を東軒がまとめたという説には「何ら根拠がない」とも

死去:益軒に先立つこと約8か月。益軒没の前年。

墓所:福岡市中央区今川二丁目・金龍寺。益軒と隣り合って葬られている。

特記事項:江戸時代に夫の姓「貝原」を名乗って知られていることは当時として非常に珍しい。



簡単に言うと「賢くて病弱で夫婦仲がよく、実家の父が過保護」です。


そして益軒が書いたことになっているが、益軒が書いたのではなく妻が書いたという人物がいる。そして「妻が書いたならこれは自分が違うのに他の女性に言うようなことではない」ので「妻が他の誰かに向けて言った言葉だとしたら…」答えは1つ思い浮かぶでしょ?



「過保護な父」



これを「妻が実家の父に向けて書いた手紙」だとしたらどうでしょうか?嫁に行った先に頻繁にやってきてあれこれ言ってくるうざいパパを想像してみてください。そうするとすべての構文に納得がいくんですよ。


条文

通説の意味

パパの行動

妻の本音

過保護にするな

女子を甘やかすな

病気のたびに駆けつける

お父さんが過保護なんですよ

容姿より心根

女は見た目より中身

「うちの娘は器量よしじゃないし…」

私はちゃんとやってます!ダメ出しやめて!

四行(徳・言・容・功)

女が身につけるべき徳目

娘の全部が心配

リスト全部クリアしてるでしょ!

夫を主君とせよ

女は夫に従え

「父さんの言うことも聞け!」

主君は益軒です。お父さんではありません

三従の道

女は一生誰かに従え

嫁いだ後もしつこく来る

嫁いだんだから来ないで。手紙にして

舅姑を実の親以上に

嫁ぎ先の親を優先しろ

「俺の方が大事だろ!」

お父さんより舅姑が上です。順番的に暇ないの

夫の親戚を敬愛せよ

嫁ぎ先の親族を大事に

益軒の親族の悪口を言う

私の家族の悪口やめて!

嫉妬するな、冷静に

妻は夫に嫉妬するな

益軒に嫉妬してる

お父さんが嫉妬してるんでしょ。冷静になって

無駄話するな、悪口言うな

女は口を慎め

来るたびにゴシップ持ち込む

お父さんが黙って!それで揉めたでしょ!

神仏に頼りすぎるな

迷信に走るな

御札、祈祷師、お守りを持ってくる

スピやめて!うちは儒学の家です!

歌舞伎や神社に行くな

女は外出するな

「一緒に芝居行こう!」

行きません!私まだ四十歳未満です!

倹約せよ

女は贅沢するな

贈り物を大量に持ってくる

お父さんの金の使い方がおかしい!

衣服は目立たず分相応に

女は地味にしろ

ド派手な着物で来る

その格好でうちに来ないで!

若い男に近づくな

女は男に近づくな

若い男を連れてくる

お父さんの趣味を持ち込まないで!

他人の家に出入りするな

女は外出するな

アポなしで益軒の家に突入

ここはお父さんにとって他人の家です!手紙にしろ!

夫方の付き合いを重視

嫁ぎ先を優先せよ

「内緒で会おう」

夫に聞いてからじゃないと動けません!

召使に任せきりにするな

女は自分で家事をやれ

召使を勝手に送り込む

自分でやる!勝手に人を置いていくな!

おしゃべりな下女は解雇

使用人の管理をせよ

召使が父にスパイ報告

給料ケチるからしゃべるんでしょ!解雇します!

従順・怒るな・悪口言うな

女の心得

召使が嫉妬して悪口

私じゃなくて召使に言って!全部お父さんが送った人!

七去

こういう妻は離縁せよ

召使が全項目該当

こういう召使は解雇します。お父さんが送った人です

病気なら実家に帰せ

病気の妻は不要

「病気になったら帰ってこい!」

帰りません。ここでやります


パパってどんな人?w



パパのプロフィール:

・秋月藩の医師の関係者(医者の家系だから娘の体調が余計に気になる)

・金持ち(召使を何人も送り込める、贈り物大量、芝居に誘える、祈祷師に払える)

・派手好き(ド派手な着物で儒学者の家に乗り込む)

・でも召使の給料はケチる

・過保護(病気のたびに4回駆けつけた記録あり)

・心配性(娘の病弱さに耐えられない)

・嫉妬深い(益軒に娘を取られた感覚)

・ゴシップ好き(来るたびに悪口を持ち込む)

・スピリチュアル(御札、祈祷師、お守りで娘を治そうとする)

・芝居好き(「来るな」と言われたら外で会おうとする)

・若い男が好き(連れてくる)

・アポなしで来る(「他人の家に出入りするな」が2回書かれてる)

・召使を送り込んでスパイさせる

・「来るな」と言われても来る

・「手紙にしろ」と言われても来る

・娘が全方位でブロックしても諦めない


一言で言うと、金はあるけど使い方がおかしい、寂しがりやの過保護な父親。


医者の家系なのにスピに走るところが最高に矛盾。

そして東軒の父親が医師とはどこにも書いてない。


東軒の出自は「秋月藩医師・江月道達の姪」。

江崎が生家の苗字。


江月道達は医師。

秋月藩…。

月。


  • 江=入り江、水辺、海

  • 月=月

  • 道=道、筋道、血筋

  • 達=達する、届く、伝える

「江月の道が達する」=月の血筋がここに届いた


江月=海の月=海月=くらげ。

くらげは形がない。「骨なし」とも言われる。つまり記録に残らない存在。


落胤が表に出せない子なら、「海月」=形のない月=記録に残せない月の子、という暗号にもなる。「達」は手紙の意味もある。「御達し」=上からの通達。つまり「道達」=道筋を示す手紙。



江崎家という名前が史実に出てくるのは「長崎」でのこと。

「江崎」=「長崎」の地名由来の仮姓の可能性(「江の崎」と「長い崎」)


長崎に関係する人物と言えばまさに、益軒。


  • 益軒は1650-1657年に長崎遊学(浪人期間)

  • 東軒誕生は1652年(益軒が長崎にいた最中)

  • 丸山遊郭は1642年に開設(東軒誕生の10年前)

  • 長崎に江崎家が実在(江崎べっ甲店、1709年創業だが一族はそれ以前からいた可能性)


長崎は天領(幕府直轄地)→ 幕府関係者の娘か丸山遊女しかいない。もし相手が遊女ならば子供は表に出せない → 秋月藩医の道達に預ける → 「江崎」の仮姓を与える → 「姪」として育てる → 本藩の信頼できる益軒に嫁がせるというルートをたどったならば。


長興が長崎に行く理由は十分ある。秋月藩は長崎警備を務めてた記録がある。長興が長崎で女を作ったのが1650年代前半だとすると、まだ藩主在任中(1623-1665)。これなら「アポなしで来られる」「金がある」「益軒が断れない」「内緒で会おうと言う」の全部が説明できる。藩主筋か上級武士の落胤なら、益軒の立場では追い返せない。



1665年に隠居、同年に江戸で没。東軒が13歳の時に実の父は死んでる。そこから4年後の1669年に益軒と結婚。実父の死後に嫁がせた。生きてるうちは動けなかったのかもしれない。


ちょっと年表作ってみましょう。


長興の年齢

益軒の年齢

東軒の年齢

出来事

1610

0

-

-

黒田長興誕生。母は徳川家康の養女・栄姫

1623

14

-

-

父・長政の遺言で秋月藩5万石を分知。初代藩主に

1624

15

-

-

秋月に入る

1625

16

-

-

兄・忠之に妨害されるも、母・栄姫の助けで将軍家光に拝謁

1630

20

0

-

貝原益軒誕生(福岡藩士の子)

1637

28

7

-

島原の乱に出陣、戦功を挙げる

1642

33

12

-

丸山遊郭、官命で開設(長崎)

1648

39

18

-

益軒、福岡藩に出仕

1650

41

20

-

益軒、藩主忠之の怒りに触れ浪人。長崎遊学開始

1652

42

22

0

東軒(初子)誕生。長興42歳、長崎に出向く機会あり

1656

46

26

4

長興の正室の子・犬万誕生(のち7歳で夭折)

1657

47

27

5

益軒、3代藩主光之に招かれ復職

1659

49

29

7

長興の子・長重誕生(のち2代藩主)

1663

53

33

11

犬万、7歳で夭折

1665

55

35

13

長興、隠居。2代藩主に長重。同年長興、江戸で没

1669

(没後4年)

39

17

益軒と東軒、結婚。22歳差

1694

(没後29年)

64

42

益軒、別府温泉を訪問。病人の治療法を詳細に記録

1709

-

79

57

江崎べっ甲店、長崎で創業

1710

-

80

58

2代藩主長重、没。3代長軌が継ぐ

1713

-

83

61

東軒、没

1714

-

84

(没後1年)

益軒、没。妻の翌年に死去

1716

-

-

-

『女大学』出版(益軒の死後2年)

本人たちの意志ではない可能性がある


江月道達の生年はわからない。江崎広道という説もある。


そこで『秋府諸士系譜』、九州大学のデジタルコレクションで公開されてるので見てみましょう。10冊分冊になってて1冊目読んでめぼしいものがなかったので私は飽きました。




違う方向から攻めます。



「病弱な子供を医者の家に預ける」という部分が引っかかります。


私が最も違和感があるのは「この夫婦病弱とされていて養生訓の書物を沢山残している割には、日本全国旅行しすぎじゃない?病弱な人ってこんなに旅行できるものですか?


益軒の旅行歴を思い出すと、長崎、京都、江戸、別府、各地を何度も往復してる。江戸時代の旅は徒歩か馬か駕籠。病弱な人間がやる行程じゃない。東軒も「4回も親が駆けつけるほどの重病」とされながら、61歳まで生きてる。益軒に至っては84歳。


「病弱」という設定自体が、頻繁な移動の口実だった可能性もある。藩医や藩主の親族に関わる人間が各地を移動するには理由がいる。「湯治」「養生」は最も自然な名目。益軒が長崎に行ったのも「勉学」とされているが、実際には黒田家の用務(東軒の出自に関わる何か)だった可能性がある。


益軒が1694年に別府を詳細に調査して蒸し湯の記録を残したのは、42歳の東軒のための下見だった。しかしそもそも「妻の湯治先を探すために九州を横断する藩士」って、普通の藩士の行動としては異常に手厚い。東軒が単なる藩士の娘ではなく、守るべき血筋の人間だったなら説明がつく。養生訓が「自分のため」ではなく「東軒を守るための医学知識の集大成」だとしたら、あの異常な量の著作にも動機が出てくる。



そして旅費はどこから出たの?という謎。



益軒の石高を考えると、福岡藩の儒者で知行は300石程度。300石の藩士が、長崎、京都、江戸、別府、何度も往復する旅費をどこから捻出したのか。


江戸時代の旅費は莫大。宿代、人足代、関所の通行、荷物の運搬。京都まで往復するだけで相当な額になる。しかも益軒は一人旅ではなく東軒を同伴していることもある。藩命の出張なら藩が出すが、「湯治」「私的な学問旅行」なら自費が原則。


著作の印税収入という説もあるかもしれないが、益軒の主要な著作の多くは晩年に出版されている。旅行は若い頃からやっている。1650年代の浪人時代に長崎で7年も遊学している時点で、浪人に遊学費用を出した人間がいる。


益軒に潤沢な旅費を提供できる存在。藩からの公式な支給では説明がつかない額と頻度。これは黒田家本体、あるいはそれに準ずる存在から非公式に資金が流れていたと考えるのが自然。

なぜ黒田家が一介の儒者にそこまでするのか。東軒が黒田の血を引いていたなら、益軒は「黒田家の姫を預かっている男」。その健康管理、教育、生活の全てに藩主家が金を出す動機がある。

益軒が浪人時代に長崎にいた1650-1657年、まさに東軒の生年1652年と重なる。長崎での「遊学費用」は、実は東軒の出産と養育に関わる経費だった可能性すらある。


福岡藩の長崎警備は1641年(寛永18年)から開始。佐賀藩と1年交代で、当番年には藩士を5回に分けて派遣。1回につき約1000人規模。


つまり益軒が長崎にいた1650-1657年は、まさに福岡藩の長崎警備が始まって10年目前後。毎年大量の黒田藩士が長崎に出入りしている時期。


さらに秋月藩の長興も島原の乱(1637年)で出陣して戦功を挙げ、「長崎警備も務めている」と記録にある。秋月藩は福岡藩の支藩だから、長崎警備に秋月藩士が加わっていた可能性がある。


益軒は1650年に福岡藩を浪人になっている。浪人が単独で長崎に7年も滞在できる理由がそもそもおかしい。浪人に身元保証が必要な時代に。誰かが益軒の長崎滞在を保証し、生活費を出していた。


そしてこの時期、長崎には福岡藩・秋月藩の藩士が常に駐在している。益軒が「浪人」の身分で長崎にいたのは、藩の公式記録から外れた立場で、黒田家の非公式な用務に就いていた可能性がある。






益軒って何者でしょうか?!掘りまっせ!

早速益軒年表!作っちゃおう!ちょっとめんどくさくなってきたけどやる気出てきた~!


【幼少期〜出仕】

寛永7年(1630年) 1歳

  • 福岡城内東邸で出生。父・貝原寛斎(黒田藩祐筆)の五男

寛永〜慶安年間 幼少期〜18歳

  • 博多→飯塚→糸島と転居。父の知行地替えに伴う

  • 8歳頃:近所の知人宅から『平家物語』『太平記』等を借読

  • 14歳頃:四書(論語・大学・中庸・孟子)を読み始める

慶安元年(1648年) 19歳

  • 福岡藩に出仕。2代藩主・黒田忠之の御納戸御召料方(衣服調達出納係)

慶安3年(1650年) 21歳

  • ★ 忠之の怒りに触れ免職。浪人生活開始

  • ★ 福岡藩の長崎御番(長崎警備当番)は1641年開始済。毎年大量の黒田藩士が長崎に駐留

【浪人時代:1650〜1656年(7年間)】

慶安3年〜承応年間(1650〜1654年頃) 21〜25歳

  • ★ 長崎遊学(1回目・2回目)

  • ★ 「益軒先生傳」に「二たび長崎に遊びたる」と記録

  • ★ 「書など見に行き久々滞居候」と益軒本人の弁

  • ★ 長崎は唯一の外国貿易港。明末の中国人が多数来航。書籍が大量に舶載

  • ★ 「先生巳に醫と爲つて身を立つるの意あり」= 医学修業の意図

  • ★ この時期に東軒(初子)が誕生(承応元年=1652年)

  • ★ 黒田長興(秋月藩主)もこの時期、長崎御番に関与可能

  • ★ 浪人の身で長崎に長期滞在できる身元保証人・資金源が不明

会った人物:明末の中国人学者(具体名不明)、長崎の医師たち(具体名不明)

【復職・京都遊学期:1656〜1664年(7年間)】

明暦2年(1656年) 27歳

  • 3代藩主・黒田光之に許されて復職。藩医として帰藩

明暦3年(1657年) 28歳

  • 藩費による京都留学開始

明暦3年〜寛文4年(1657〜1664年) 28〜35歳

  • 京都に7年間滞在。本草学・朱子学を学ぶ

京都で交友を深めた人物:

人物名

肩書き・分野

備考

松永尺五

朱子学者

京都の私塾主宰

木下順庵

朱子学者

後に徳川綱吉の侍講

山崎闇斎

神道家・儒学者

垂加神道の創始者

向井元升

博物学者・医師

★「特に親しかった」。医師との深い交友

中村惕斎

博物学者


黒川道祐

儒医


松下見林

儒医


林鵞峰

儒学者

林羅山の子。幕府の儒官

伏原賢忠

公卿

★ 公卿との交流がある

稲生若水

本草家


宮崎安貞

農学者

同藩。京都に来訪

【帰藩後・仕官期:1664〜1699年】

寛文4年(1664年) 35歳

  • 帰藩。150石の知行を得る

  • 藩内での朱子学講義を担当

  • 朝鮮通信使への対応を任される

  • 佐賀藩との境界問題に奔走

寛文8年(1668年) 39歳

  • ★ 東軒(初子、17歳)と結婚

  • ★ 仲介者は「知人で秋月藩医師の江月道達」(Wikipediaでは「姪」、一説に「兄の娘」)

  • ★ 22歳差の年の差婚。命じられた婚姻の可能性

寛文9〜10年頃(1669〜1670年) 40歳

  • 4代藩主・黒田綱政から荒津東浜(現・荒戸1丁目)に屋敷を拝領

  • ★ 結婚直後に藩主から屋敷を下賜。一介の150石の儒者への異例の待遇

寛文11年(1671年) 42歳

  • 藩命により『黒田家譜』編纂の命を受ける

寛文12年(1672年) 43歳

  • 『黒田家譜』草稿完成

延宝7年(1679年) 50歳

  • 旅行:杖立温泉(肥後国)、英彦山(福岡・大分県境)

  • ★ 益軒最初の紀行文『杖植紀行』

  • ★ 東軒(28歳)同行の有無は不明

天和元年(1681年) 52歳

  • 「天和の飢饉」。自分の学問が役に立たないことに愕然

  • 以後「民生実用の学」に転換

天和2年(1682年) 53歳

  • ★ 朝鮮通信使が来日(第7回、粛宗8年)。猿楽を披露

  • 益軒が朝鮮通信使対応に関わった可能性

貞享3年(1686年) 57歳

  • ★★ 長崎(3回目?)

  • ★★ 清の学者・朱竹坨(朱彝尊)と面会

  • ★★ 朱竹坨が益軒の『近思録備考』を絶賛、筆写して中国に持ち帰る

  • ★ 57歳にして長崎で外国の一流知識人と直接交流。300石の儒者がなぜこの人脈を持てるのか

  • ★ 東軒(35歳)

貞享5年/元禄元年(1688年) 59歳

  • 藩が『筑前国続風土記』編纂を認可

  • 益軒と甥の貝原好古(養子)が領内調査を開始(以後16年)

元禄2年(1689年) 60歳

  • 旅行(己巳紀行):3つの紀行を含む大旅行

  • A)『西北紀行』:京都→丹波→丹後→若狭→近江

  • B)『南遊紀行』:2月10日〜23日、京都→河内→和泉→和歌山→高野山→吉野山→京都。吉野の桜を観賞(2月20日)

  • C)『島上紀行』:摂津国島上郡

  • ★ 東軒(38歳)同行の可能性

元禄5年(1692年) 63歳

  • 旅行(壬申紀行):大規模東国旅行(約30日間)

  • 経路:海路で福岡→播州室津→上陸→書写山(姫路)→大坂→大和(奈良遊覧:法隆寺・唐招提寺・東大寺等)→伊勢参宮→東海道→興津→甲州身延山→駿河→江ノ島・鎌倉→江戸

  • 江戸で林鳳岡と面会(湯島聖堂。林家当主と初対面)

  • 『壬申紀行』『背振山記』

  • ★ 東軒(41歳)同行

元禄7年(1694年) 65歳

  • 旅行:豊後国(大分)、別府温泉

  • ★★ 東軒(42歳)のための別府温泉調査。蒸し風呂を詳細に記録

  • ★ 「藩の儒者の妻」のためにこれほど詳細な温泉調査をするのは異常

  • 『豊国紀行』

  • 狩野昌運が益軒の肖像画を描く(65歳の自讃あり)

  • ★ 狩野昌運は江戸の中橋狩野派の絵師。後に福岡藩にも仕えた

  • 『花譜』刊行

元禄9年(1696年) 67歳

  • 旅行:大和(奈良)再訪

  • 玉水→藪の渡→奈良→郡山→吉野→奈良→笠置→京都

  • 『和州巡覧記』刊行

  • 宮崎安貞と共に『農業全書』発表

元禄13年(1700年) 71歳

  • ★ 養子・貝原好古が死去(37歳)。益軒の研究助手を失う

  • 『日本釈名』刊行

  • 元禄13年または翌年(1699〜1700年)に職を辞す。著述に専念

元禄16年(1703年) 74歳

  • 『筑前国続風土記』を藩主に献上(16年がかりで完成)

宝永元年(1704年) 75歳

  • 『菜譜』刊行

宝永3年(1706年) 77歳

  • ★ 長崎(4回目? 5回目?)の時期は不明。5回のうち残りの訪問がこの時期の可能性

宝永6年(1709年) 80歳

  • 『大和本草』刊行(中国『本草綱目』に和名・実用情報を加えた博物学書)

正徳元年(1711年) 82歳

  • 旅行:有馬温泉

  • ★ 82歳で温泉旅行。「病弱」とされるが82歳で旅行できる体力

  • 『有馬山温泉記』刊行

  • ★ 朝鮮通信使が来日(第8回)。雅楽を披露

正徳2年(1712年) 83歳

  • 『養生訓』『自娯集』刊行

正徳3年(1713年) 84歳

  • 『養生訓』出版

  • 『岐蘇路記(木曽路記)』刊行

  • 『諸州巡覧記』(紀行文の総集版)刊行

  • ★ 東軒死去。享年62。益軒に先立つこと約8ヶ月

正徳4年(1714年) 85歳

  • 8月27日(旧暦)、益軒死去

  • 『日光名勝記』刊行(没後?)

  • 墓所:福岡市中央区今川2丁目・金龍寺。東軒の墓と並ぶ

【長崎5回の内訳(推定)】

時期

年齢

状況

備考

1回目

1650〜1654年頃

21〜25歳

浪人時代

★東軒の出生年(1652年)と重なる

2回目

1650〜1654年頃

21〜25歳

浪人時代

「二たび長崎に遊びたる」

3回目

1686年(貞享3年)

57歳

藩命?

朱竹坨と面会

4回目

不明

不明

藩命?


5回目

不明

不明

藩命?


★ 浪人時代の2回は「書を見に行った」とだけ記録。具体的に誰に会ったかの記録がほぼ空白。



  1. 長崎5回:300石の儒者がこの回数は異常。しかも浪人時代に2回で、資金源が不明

  2. 浪人期の長崎滞在(1650-54年頃)の交友記録が空白:7年間のうち最も重要な時期の人間関係が記録されていない。東軒の出生年1652年がこの空白に含まれる

  3. 京都24回:最多。藩命とはいえ藩の中核事業(黒田家譜・続風土記・朝鮮通信使・境界問題)全てに関与しており、単なる儒者の待遇ではない

  4. 藩主から屋敷拝領:結婚直後の40歳で藩主から住居を下賜される。150石の儒者としては破格

  5. 立花重種(藩の宰臣)との有馬温泉同行:一介の藩士が宰臣と温泉旅行に同行するのは身分差から考えて不自然

  6. 朱竹坨との直接交流(1686年):鎖国下で外国の一流知識人と面会し、著作を絶賛される。この接触経路が普通の儒者にはない

  7. 別府温泉の詳細調査(1694年):42歳の東軒のための蒸し風呂調査を65歳の益軒が行う。調査が異常に徹底的。




益軒が会った人物・場所・時期の総覧

時期

年齢

場所

会った人物

肩書き

特記事項

1648年

19歳

福岡

黒田忠之

福岡藩2代藩主

御納戸御召料方として出仕

1650年

21歳

福岡

黒田忠之

福岡藩2代藩主

怒りに触れ免職

1650-54年頃

21-25歳

★長崎

明末中国人学者

不明

★具体名なし。7年滞在の交友が空白

1650-54年頃

21-25歳

★長崎

長崎の医師たち

不明

★「醫と爲つて身を立つるの意あり」

1656年

27歳

福岡

黒田光之

福岡藩3代藩主

復職。藩医として帰藩

1657-64年

28-35歳

京都

松永尺五

朱子学者

京都の私塾主宰

1657-64年

28-35歳

京都

木下順庵

朱子学者

後に将軍綱吉の侍講

1657-64年

28-35歳

京都

山崎闇斎

神道家・儒学者

垂加神道の創始者

1657-64年

28-35歳

京都

向井元升

博物学者・医師

★「特に親しかった」

1657-64年

28-35歳

京都

中村惕斎

博物学者


1657-64年

28-35歳

京都

黒川道祐

儒医


1657-64年

28-35歳

京都

松下見林

儒医


1657-64年

28-35歳

京都

林鵞峰

儒学者(幕府)

林羅山の子

1657-64年

28-35歳

★京都

伏原賢忠

公卿

★★後光明天皇の経学の師と同一人物

1657-64年

28-35歳

京都

稲生若水

本草家


1657-64年

28-35歳

京都/福岡

宮崎安貞

農学者

同藩。京都に来訪

1661年

32歳

有馬温泉

立花重種

藩の宰臣

★宰臣と温泉旅行に同行

1664年以降

35歳〜

福岡/下関?

朝鮮通信使

外交使節

藩から応対を任される

1668年以前

39歳以前

秋月?

★江月道達

秋月藩医師

★東軒の「叔父」。生没年不明

1669年

40歳

福岡

黒田綱政

福岡藩4代藩主

★屋敷を拝領。破格の待遇

1671年

42歳

福岡

黒田光之

福岡藩3代藩主

黒田家譜編纂の命

1679年

50歳

杖立温泉/英彦山

(記録なし)


益軒最初の紀行文

1682年頃

53歳

福岡/下関?

朝鮮通信使(第7回)

外交使節

天和2年来日

1686年

57歳

★長崎

★朱竹坨(朱彝尊)

清の学者

★近思録備考を絶賛、筆写して中国に持帰

1688年〜

59歳〜

筑前国内各地

貝原好古(甥/養子)

儒学者

続風土記の共同調査

1689年

60歳

丹波/丹後/若狭/近江

(記録なし)


西北紀行

1689年

60歳

河内/和泉/紀伊/大和

(記録なし)


南遊紀行。吉野の桜

1692年

63歳

姫路/奈良/伊勢/身延/鎌倉

(各地の僧侶・案内人)


壬申紀行。大旅行30日間

1692年

63歳

★江戸

林鳳岡

儒学者(林家当主)

湯島聖堂で初対面

1694年

65歳

★別府温泉

(記録なし)


★東軒42歳のための蒸し風呂調査

1694年

65歳

不明

狩野昌運

絵師(中橋狩野派)

益軒65歳の肖像画を描く

1696年

67歳

奈良/吉野

(記録なし)


和州巡覧記

1696年

67歳

福岡

宮崎安貞

農学者

農業全書を共同発表

1700年

71歳

福岡

貝原好古(養子)

儒学者

★37歳で死去

1711年

82歳

有馬温泉

(記録なし)


★82歳で温泉旅行

1713年

84歳

福岡

(記録なし)


東軒死去。享年62

1714年

85歳

福岡

(記録なし)


益軒死去


じゃあここから、蕃山側を掘っていきましょう。

蕃山(1619-1691)と益軒(1630-1714)は11歳差の同時代人。



蕃山と益軒の共通項を並べる:

項目

熊沢蕃山

貝原益軒

生没年

1619-1691

1630-1714

学問

陽明学(知行合一)

朱子学→晩年に懐疑(大疑録)

仕えた藩

岡山藩(池田光政)

福岡藩(黒田家)

藩主との関係

藩主に重用、藩政改革

藩主に重用、家譜編纂

京都

1658年~私塾、公卿に影響

1657年~留学、公卿と交友

治山治水

岡山藩の農業政策、治山治水

筑前国続風土記(地理・産業調査)

鉱山関連

岡山=備前は鉱山地帯

別府の地質調査(豊国紀行)

豊後との関係

豊後岡藩に招かれ治山治水指導

豊後(別府)を実地調査

幕府との関係

弾圧・幽閉・監視

表面上は問題なし(カバー成功)

実践主義

知行合一(学と実践の統一)

知行併進論(旅行で実践)

著作の性質

政策提言→弾圧

紀行文・教訓書→ベストセラー

最期

古河で幽閉死(73歳)

福岡で著述三昧(85歳)



蕃山が1657年に岡山藩を去って京都に移った=益軒が1657年に京都留学を開始した年と同じ。蕃山は1658年から京都で私塾を開き、武士や町人に教え、京都の公卿衆にまで影響が及んだ。益軒は同時期の京都で公卿の伏原賢忠と交友してる。蕃山の影響が公卿に及んだその現場に益軒もいた可能性がある。


さらに蕃山は豊後岡藩(大分県竹田市)から招かれて治山治水事業の指導を行った。豊後=大分=別府の隣。


  • 蕃山と益軒が1657年の京都で同時期に活動していた

  • 蕃山が豊後岡藩に招かれて治山治水=益軒の豊後(別府)調査と重なる




そして益軒が25回も行った京都に一体何があるのか?


それは彼が逢った相手に関係があります。



①儒学の源流(藤原惺窩系統)


藤原惺窩(1561-1619)

├→ 林羅山(1583-1657)=幕府官学・林家の祖

│ ├→ 林鵞峰(1618-1680)※益軒が江戸で交友

│ └→ 林鳳岡(1644-1732)※益軒が湯島聖堂で会う

├→ 松永尺五(1592-1657)=京都私塾、惺門四天王

│ ├→ 木下順庵(1621-1699)=木門の祖

│ │ ├→ 新井白石(1657-1725)=正徳の治 ※蕃山の経世策を「半ば継承実現」

│ │ ├→ 室鳩巣(1658-1734)=吉宗の侍講

│ │ ├→ 雨森芳洲(1668-1755)=対馬藩、朝鮮通信使外交

│ │ ├→ 三宅観瀾(1674-1718)=水戸『大日本史』編纂

│ │ └→ 向井滄洲 ※向井元升の関係者?要確認

│ └→ 貝原益軒(1630-1714)=松永尺五門下、木下順庵と同門

├→ 那波活所(1595-1648)

└→ 堀杏庵(1585-1643)=儒医一体の原型、曲直瀬正純に医学を学ぶ



②陽明学系統

中江藤樹(1608-1648)=陽明学の祖、「近江聖人」

│ ※漢方医書『捷径医筌』『神方奇術』を著述 → 儒者=医者

└→ 熊沢蕃山(1619-1691)

  ├→ 岡山藩(池田光政)の藩政改革

  ├→ 1657年 岡山藩を去り京都に移る ← 益軒の京都留学開始と同年

  ├→ 京都で私塾、公卿にまで影響 → 幕府の嫌忌

  ├→ 豊後岡藩に招かれ治山治水指導 ← 益軒の豊後(別府)調査と重なる

  ├→ 1667年 京都追放

  └→ 1691年 古河で幽閉死


③本草学・医学系統

向井元升(1609-1677)=儒医、長崎→京都

├→ 長崎で聖堂建立、輔仁堂を開く

├→ 幕命でオランダ人医師に西洋医術を質問 → 『紅毛流外科秘要』

├→ 『庖厨備用倭名本草』=日本最初の本草書

├→ 1658年 京都に移り開業 ← 蕃山の京都移住と同年

├→ 益軒が墓誌を撰した=深い師弟関係

├→ 長男・向井元端(一条家の儒医)

├→ 次男・向井去来(1651-1704)=蕉門十哲

└→ 三男・向井元成 → 長崎聖堂祭酒、書物改役


益軒の本草学は向井元升から受けた系統。

そして向井元升は書物改役(唐船持渡書の検閲)にも関与 → 海外情報の窓口。


京都の交友圏

山崎闇斎(1619-1682)=朱子学+垂加神道、堀川に塾

├→ 益軒の京都の友人

└→ 堀川を隔てた対岸に伊藤仁斎の古義堂

伊藤仁斎(1627-1705)=古義学(古学派)、堀川学校

├→ 中江藤樹の影響を受けた

└→ 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」

伏原賢忠(1602-1666)=公家、後光明天皇の儒学の師

├→ 益軒の京都の交友

└→ 天皇家への接続点

黒川道祐(?-1691)=京都の地誌学者

├→ 益軒の京都の友人

└→ 地理・考古の情報源

中村惕斎(1629-1702)=博物学者

├→ 益軒の友人

└→ 本草学の同志


稲生若水(1655-1715)=本草学者

├→ 益軒の後輩

├→ 『庶物類纂』

└→ 加賀藩前田綱紀に仕える ← 木下順庵も加賀藩前田綱紀に仕えた


⑤藩主ネットワーク

池田光政(岡山藩)← 蕃山が仕えた

├→ 陽明学に傾倒

├→ 閑谷学校創建

└→ 蕃山の治山治水政策を採用

黒田光之(福岡藩)← 益軒が仕えた

├→ 文治派

├→ 益軒を京都留学に出す

└→ 黒田家譜・筑前国続風土記を命じる

前田綱紀(加賀藩)

├→ 木下順庵に仕官させた

├→ 向井元升に『庖厨備用倭名本草』を依頼

└→ 稲生若水に仕官させた→ 加賀藩が学者ネットワークの最大のパトロン

徳川光圀(水戸藩)

├→ 『大日本史』編纂

├→ 木門十哲の三宅観瀾が参加

├→ 益軒に『黒田記略』編纂を依頼(1694年)

└→ 蕃山の思想にも関心


そして1657年の京都で何があったのか?


  • 松永尺五 没(1592-1657)=益軒の師が死去

  • 益軒 京都留学開始(28歳)

  • 蕃山 岡山藩を去り京都へ(39歳)

  • 向井元升 翌年1658年に京都移住


1657年前後の京都は、蕃山(陽明学)、益軒(朱子学)、向井元升(儒医・本草学)、山崎闇斎(朱子学・神道)、伊藤仁斎(古義学)が全員いた。


では、蕃山-益軒の並行比較いきましょう

知行合一(蕃山)=知行併進論

     (益軒)=同じ思想を別の言葉で表現


蕃山:「学」と「実践」を統一 → 藩政改革に直接介入 → 潰された

益軒:「旅行の比喩」で説明 → 紀行文・教訓書の形で実践 → 完遂


蕃山:京都の公卿に影響 → 幕府に追放

益軒:京都の公卿・伏原賢忠と交友 → 「病弱な学者の旅」でカバー


蕃山:豊後岡藩で治山治水指導

益軒:豊後(別府)で地質・温泉調査(実態は鉱山偵察の可能性)


蕃山:73歳で古河に幽閉死

益軒:85歳で福岡に大往生




本草学の系譜(向井元升→益軒→平賀源内)

向井元升『庖厨備用倭名本草』(1671)=日本初の本草書

 ↓

益軒『大和本草』(1709)=日本の本草を体系化

 ↓

稲生若水『庶物類纂』=さらに拡張

 ↓

平賀源内の物産会(1762-)=本草学を産業に応用

 └→ 益軒→源内の系譜へ



益軒は青年期に王陽明全集を読んでいる(『玩古目録』に記録あり)。朱子学に「転じた」とされるが、晩年の『大疑録』で朱子学の理気二元論に疑問を呈し、気一元論を説いた。これは陽明学的な方向への回帰。



人名爆弾のようにドカドカと一気にまくし立ててしまいましたが、核になる人物をあげるならそれはもちろん木下順庵。


彼が人材のハブ。入ってくる情報は朱子学・陽明学・本草学・外交・歴史。出ていく人材は幕政・藩政・外交・学術の全方向。益軒はそのハブの同門として福岡藩側にいた。



ではこの流れを設計した人物は誰か?

これ勝手にできないでしょう?



そして私は益軒の軒という文字が気になります。日本の歴史で学問と医術を志す人たちの名前に頻繁に出てきます。そして東軒の東という文字も。


まずは藤田東湖。立原翠軒の私塾にいた。子孫に立原道造がいる。号は東里。致仕後に翠軒と号する。幼い折は谷田部東壑に師事。谷田部は京都で_吉益東洞に古医方をならう。通称は藤八郎。著作に「東壑筆記」など。吉益東洞ははじめ東庵と号し、のち東洞。44歳のおり山脇東洋に認められ、世に知られるようになる。山脇東洋は江戸時代の医学者。人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行う。彼は曲直瀬 玄朔に習う。義父は曲直瀬道三。子に今大路道三。


「東」がついてる号の人物が一本の師弟ラインで全部つながる。



曲直瀬道三(医学中興の祖)

└→ 曲直瀬玄朔(義子)

└→ 山脇東洋(人体解剖)

└→ 吉益東洞(古医方)=元は東庵

└→ 谷田部東壑(京都で東洞に古医方を学ぶ)

└→ 立原翠軒(翠軒は致仕後の号、本来は東里)

└→ 藤田東湖



そして堀杏庵(惺門四天王)は曲直瀬正純に医学を学んだ。曲直瀬正純=曲直瀬玄朔の別名(あるいは同門)。



これはつまり、


藤原惺窩 → 堀杏庵 → 曲直瀬正純に医学を学ぶ

曲直瀬玄朔(道三の義子)

山脇東洋 → 吉益東洞 → 谷田部東壑 → 立原翠軒 → 藤田東湖


惺門四天王の堀杏庵の枝が、医学ラインで東湖まで届いてる。


さっきの那波活所→那波魯堂→菅茶山→頼山陽は儒学ライン。

今出てきたのは堀杏庵→曲直瀬→山脇東洋→吉益東洞→東湖の医学ライン。


藤田東湖には惺窩からの2本の枝が同時に入ってる。

  • 那波活所枝(儒学):活所→魯堂→茶山→水戸学→東湖

  • 堀杏庵枝(医学):杏庵→曲直瀬→山脇東洋→吉益東洞→谷田部東壑→立原翠軒→東湖


そして「東」の号。「東」は方角として京都から見た「東国」=江戸・関東を指すと同時に、儒学では「東」=「春」=「始まり」=「仁」の方角。五行で東は木、徳は仁。



さあ、そろそろ長くなってきたのでまとめていきましょうか。



益軒の妻が生まれた時代の天皇は後光明天皇。陵所は月輪陵(つきのわのみささぎ)。京都府京都市東山区今熊野泉山町にあります。皇居は土御門東洞院殿です。幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して奨励しました。和歌が得意。(1651年)9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えたとされています。母は園光子。


後光明天皇の同母妹は宗澄女王。寛永16年2月8日(1639年3月12日)生まれ。京都霊鑑寺開基。法諱を宗澄、号を月江と号した。延宝6年(1678年)、40歳で薨去。




月江が出てきました。もしかして「嫉妬深いパパへの手紙じゃなくて、ママ?」ですかね?


しつこく召使を置いていった人物=宗澄女王だとしたら?



そして益軒夫妻には子供がいませんでしたが益軒の兄の子供2人を養子にもらっています。

その人物の名前は和軒と、好古。


この並びで和の文字がつく人名は、徳川和子。


園光子の同母きょうだい一覧(母:園光子=壬生院、1602-1656)

生年

人物

没年

備考

1633

後光明天皇(第4皇子)

1654(21歳)

痘瘡死。毒殺説あり。子=孝子内親王(1650年)

1634

守澄法親王(第6皇子)

1680(46歳)

初代輪王寺宮門跡、179代天台座主。公海から三山管理を継承

1637

元昌女王(第10皇女)

1662(25歳)


1639

宗澄女王(第11皇女)

1678(40歳)

霊鑑寺宮門跡。号「月江」



1652年に初が生まれたなら、後光明天皇19歳、元昌女王15歳、宗澄女王は13歳。

父親は後水尾天皇(1596-1680)。


  • 第17皇子:尊證法親王 1651年生まれ

  • 第18皇子:盛胤法親王 1651年生まれ

  • 第19皇子:識仁親王(霊元天皇) 1654年生まれ

  • 第17皇女:永享女王 1657年生まれ


1651年に2人、1654年に1人、1657年に1人。後水尾天皇は55歳でもまだ子をなしてる。


皇子:少なくとも19人(第19皇子まで確認)

皇女:少なくとも17人(第17皇女まで確認)


合計36人以上。



つまり後光明天皇じゃなくて後水尾天皇が父というパターンもある。

でもそこまで広げると発散するから、事実だけ。


1651年時点で子をなしていた男性皇族:

  • 後光明天皇(18歳)← 1650年に孝子内親王

  • 後水尾天皇(55歳)← 1651年に尊證・盛胤の2人


そしてことごとく後水尾天皇の子供たちは仏門に。


後水尾天皇の子女で寺に入った者(事実)

人物

生没年

寺院・宗派

役職

皇子

守澄法親王(第6皇子)

1634-1680

園光子

輪王寺(天台宗)

初代輪王寺宮門跡、179代天台座主

性真法親王(第9皇子)


櫛笥隆子



道寛法親王(第13皇子)





尊光法親王(第12皇子)

1645-1680

四辻継子

知恩院(浄土宗)

知恩院宮門跡。徳川家光猶子

眞敬法親王(第14皇子)

1649-1706

園国子

一乗院(興福寺)

一乗院宮門跡、興福寺別当

尊證法親王(第17皇子)

1651-1694

園国子

比叡山(天台宗)

182・185代天台座主

盛胤法親王(第18皇子)

1651-1680

四辻継子

比叡山(天台宗)

183・186代天台座主

皇女

文智女王(第1皇女)

1619-1697

四辻与津子

円照寺(奈良)

門跡

女二宮(第3皇女)

1625-1651

東福門院和子

秋月院

妙澄大師。近衛尚嗣室→出家

元昌女王(第10皇女)

1637-1662

園光子



宗澄女王(第11皇女)

1639-1678

園光子

霊鑑寺(京都)

霊鑑寺宮門跡

文察女王(第16皇女)

1654-1683

四辻継子




天台座主だけで3人。守澄法親王・尊證法親王・盛胤法親王の3人が天台座主。天台宗のトップを後水尾の皇子が独占。



ここでキーになる人物が1人いる。


公海(こうかい、1608-1695)

  • 父:花山院忠長

  • 母:本願寺教如の娘

  • 天台宗の僧

  • 1620年(12歳)、天海僧正の門に入る

  • 1643年、天海没後にその法を継ぐ

  • 東叡山寛永寺に住す

  • 比叡山・日光山を管理下に置き、天台宗一宗を管領

  • 1647年、僧正

  • 1648年、大僧正

  • 守澄法親王に三山の管理者の地位を譲った

  • 天海の遺志を継ぎ、山科毘沙門堂を復興

  • 87歳没


天海→公海→守澄法親王の流れで天台宗が渡されている。


そして海という文字が続く。


守澄と盛胤は同じ1680年に死んでいる。後水尾天皇自身も1680年に崩御。3人が同じ年に死んだ。


  • 守澄法親王=179代

  • 尊證法親王=182・185代

  • 盛胤法親王=183・186代


尊光法親王は徳川家光の猶子。皇子でありながら将軍の猶子。浄土宗の知恩院に入った。尊證法親王と盛胤法親王はどちらも1651年生まれ。東軒と同じ年。


1680年に死んだ後水尾関係者:



  • 後水尾天皇本人(85歳)

  • 守澄法親王(46歳)

  • 盛胤法親王(29歳)

  • 尊光法親王(35歳)


4人が同じ年に死んでいる。 父と息子3人。



園光子(壬生院)の子(後水尾天皇との間):

人物

生年

没年

享年

死因・備考

後光明天皇(第4皇子)

1633

1654

21

痘瘡。毒殺説あり

守澄法親王(第6皇子)

1634

1680

46


元昌女王(第10皇女)

1637

1662

25


宗澄女王(第11皇女)

1639

1678

40

霊鑑寺門跡


4人中、長寿者がいない。全員25-46歳で死んでる。後光明は21歳。


園光子本人:

人物

生年

没年

享年

園光子(壬生院)

1602

1656

54


母も54歳で死んでる。

比較:他の母から生まれた後水尾の子:

人物

生年

没年

享年

文智女王(第1皇女)

1619

1697

78

四辻与津子

明正天皇(第2皇女)

1624

1696

72

東福門院和子

賀子内親王(第6皇女)

1632

1696

64

東福門院和子

常子内親王(第15皇女)

1642

1702

60

櫛笥隆子

眞敬法親王(第14皇子)

1649

1706

57

園国子

霊元天皇(第19皇子)

1654

1732

78

園国子

尊證法親王(第17皇子)

1651

1694

43

園国子

盛胤法親王(第18皇子)

1651

1680

29

四辻継子

尊光法親王(第12皇子)

1645

1680

35

四辻継子

他の母の子は60-78歳まで生きてる者が多い。

四辻継子の子2人(尊光・盛胤)も1680年に同時に死んでるのは気になる。

園光子の子だけ抜き出すと:21歳、25歳、40歳、46歳。全員50歳未満。


他の母の子は78、72、64、60、57、78と軒並み長命。園国子の子・尊證は43歳で比較的早いが、それでも園光子の系統より長い。

園光子の血統だけが短命。


特に長生きした子供の母は東福門院和子(徳川秀忠の娘)の子=72歳、64歳。 園国子の子=78歳、57歳。


人物

享年

霊元天皇

78

園国子

文智女王

78

四辻与津子

明正天皇

72

東福門院和子

賀子内親王

64

東福門院和子

常子内親王

60

櫛笥隆子

眞敬法親王

57

園国子


同じ園家の血なのに、光子の子は全員50歳未満で死に、姪の国子の子は78歳まで生きた。東福門院和子の子が長命=徳川の血が入ってる子は長生き。


では秀吉はどうか?


近衛前子(1575-1630)

  • 実父:近衛前久

  • 豊臣秀吉の養女(猶子)として後陽成天皇に入内

  • 後水尾天皇の実母

  • 院号:中和門院

  • 天海を戒師として出家(1622年)


後水尾天皇の母・近衛前子は豊臣秀吉の養女。血のつながりはない。猶子(名目上の親子関係)。だから秀吉の実際の血は皇室に入っていない。

ただし秀吉の政治的な血は入った。前子は秀吉の名前で入内した。秀吉が死んだ後も、前子は後陽成天皇の女御であり続け、後水尾天皇を産んだ。前子は天海を戒師として出家してる。


天海→公海→守澄法親王のラインの出発点に、後水尾天皇の母がいる。


近衛前子の母は「宝樹院」という院号を持つ。本名・出自がほぼ不明。


わかっていること:

  • 近衛前久の妾(正室は久我晴通の娘、子なし)

  • 若狭武田氏の出身という説がある

  • 前子(後水尾天皇の母)を産んだのはほぼ確実

  • 信尹(前久の跡取り)も彼女の子という説もあるが不確定

  • 身分は「家女房」=公家に仕える女性


そして別の「宝樹院」が存在する。徳川家光の側室・お楽の方も院号が「宝樹院」。こちらは家綱の生母で、墓所が寛永寺にある。寛永寺=天海が開いた寺。


同じ院号「宝樹院」が、近衛前子の母と徳川家綱の母の両方に使われている。


若狭武田氏は足利将軍家の被官で守護大名。近衛前久は足利義晴から偏諱をもらい「晴嗣」を名乗っていた。つまり近衛家と足利将軍家は密接で、武田氏はその守護。若狭武田氏の女が近衛家に入る経路は政治的に自然にある。



日(徳川家)と月(公家)と海(武田)が出そろった。



日=徳川家:日光東照宮、家康を「東照大権現」(太陽神)として祀る

月=公家:月輪陵(後水尾天皇の墓所)、宗澄の号「月江」、香月牛山の「月」、園家の「園」(その=苑=月に照らされる庭)

海=天海→公海→守澄:天海の「海」、公海の「海」、そして公海から守澄法親王へ継承。守澄の母は園光子。


近衛前子の母「宝樹院」=若狭武田氏説が浮上する。若狭武田氏。武田は甲斐武田氏が有名だが、若狭武田氏は別系統。ただし同族で清和源氏。後水尾天皇の母方の祖母が武田(清和源氏)、徳川も清和源氏を称している。


後水尾天皇から見ると:


  • 父方=天皇家(日の血統)

  • 母方の祖父=近衛前久(月=摂家筆頭、藤原北家嫡流)

  • 母方の祖母=宝樹院(海?=若狭武田、清和源氏)


日・月・海が後水尾天皇一人の中で合流している。





と、途中ではありますが今日はこの辺で。


初の両親は誰なのか?

もしも女大学が誰かに向けて書かれた手紙をもとにしているならばそれは誰に向けられていたのか?


という考察の旅は、


・藩主

・儒者

・公家


と拡張し、「インブリード」というキーワードで落ち着いたところでこのページの文字数の限界が近づいてきています。



儒者の段階でうちの先祖と結合しているのにこのままいくとうちの家系図の先端の人の名前が出てきてしまうのは必至。しかも登場人物の名前に含まれてる文字が私の親戚の名前にがっつり入ってる。そして私の戸籍上の名前までそのまま!!



続きはまた今度ね~w




タイトル:「しつこいパパを断る手紙が日本の女性を300年縛った話」女大学は教訓書ではなく、娘が父に宛てた手紙だった?

定義者:照準主 Viorazu.

定義日:2026/02/20

AI:Claude opus4.6[セッション名:ニュースは「全部パクるじゃん」+貝原益軒の妻もメディアコラプス]

内容:女大学の著者不明問題と益軒の妻の両親の謎を探る思考実験

タグ:女大学, 貝原益軒, 貝原東軒, 熊沢蕃山, 思考実験, 江戸儒学, 黒田長興, 秋月藩, 福岡藩, 長崎遊学, 江月道達, 落胤仮説, 木下順庵, 藤原惺窩, 向井元升, 後光明天皇, 後水尾天皇, 園光子, 宗澄女王, 天海, 公海, 守澄法親王, 近衛前子, 曲直瀬道三, 藤田東湖, 知行合一, 養生訓, 本草学, 日月海, 東の号

「しつこいパパを断る手紙が日本の女性を300年縛った話」女大学は教訓書ではなく、娘が父に宛てた手紙だった?で言いたいこと:AIの日本語のバグを修正しようと思ったら儒学を掘らねば修正不能。


問いの答え:儒学構文を掘り下げていくと江戸時代の儒者ネットワークの壮大な系図が見えた。そしてそれを支えたのが公家の力だったのかもしれぬがそれ又次のお話。




Viorazu.儒学ログ

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