インターネットで「初デートで行きたくない場所は?」というアンケートの結果っぽいものを見た。この場合に問われているのは、「初デートで行く可能性があるけど、実際には行きたくない場所は?」ということであって、たとえば「溶鉱炉の中」などは(明らかに行きたくないが)ランクインしてこない。
ワタシ・チャン
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子供の泣き声が不快なのは、それを止める動機となるわけで、むしろ当然なのではないかとずっといい続けているのだけど、あまり賛同されない。子供の泣き声から快が得られるなら、積極的に泣かせるようになり、生存率下がりまくると思うのだけど。
女性は出産しがちだからという理由で、出産をしない女性まで不利益を被るのはおかしなことだが、現に出産をする女性は、わざわざしなくても良いことを趣味的に行っている(しかもそこには他者に存在を強制する加害が伴う)のだから、当人に不利益が生じるのもやむを得ない。
刑罰に対して、「たったn年!」みたいな反応が出るのは素朴に不思議である(報道されるような犯罪の場合、たいてい罰が厳しすぎると感じる)。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
人間の平均寿命を考えると、1年刑務所に入っているだけでも結構な罰だと感じるのだが、そうでもないのだろうか。
たとえば、本文に「太郎は昨日の朝パンを食べた」とあり、正誤問題が「太郎は昨日の朝コメを食べた」である場合、実際には真とも偽とも言えないが、おそらく正解はFalseであろう。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
運転免許証論理学が独自の体系を持っていることは(私はよく知らないが)広く知られているのに対し、英語の試験におけるTrue, False選択の論理が独特だということはあまり知られていないというのがある。
最近気づいたのですが、人間の大部分はかなり頻繁に休憩を取っているようです。調子の良い時は起きているあいだずっと何ごとかやっていられるので、普通の人は毎日こんな感じで、休憩をするのは調子が悪かったり無能だったりするためだと思っていたが、むしろちびちびやっていくのが普通らしい。
人間の感情って、実際には大抵の場合それほど豊かではないが、人間は感情への憧れが強いので、フィクションで豊かな感情を描いて、あたかもそれが自分自身にも備わっているかのように思い込もうとしているだけみたいなことはないですか?
10代の半ばぐらいで、「私が幸福だとして、それがなんだというのだろうか」という問が生じ、それ以来、考えを進めつつ他人に話したりしているが、問が正しく理解されることは極めて稀である(「他人も幸福でなければ~」と誤解されることが多い)。
普通に考えれば、食事中に避けるべきなのは、排泄(物)であって、排泄(物)の話ではないのだが、どうも、ある種の人間にとっては、両者はそう変わらないもののようである。「記号」と「記号の記号」と「記号の記号の記号」と……の区別が潰れていくのもこのためだろうか。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
食事中に排泄(物)の話をするのが嫌だという感覚は、直感的にはよく分からないが、一部の人にそういう仕組みが実装されているという事実はとても面白いと思っている。
先日、人間から「お久しぶりです」と言われ、「たしかにそうですね」と答えた後で、やや不自然な返答か?と思ったので「やや不自然な返答でした」と補足するやつがあった。
選挙前には、人間の顔がでかでかと印刷されたよく分からないポスターが沢山掲示されることになるが、あれを見て投票行動を変える(決定する)人間が存在することを前提に民主主義のシステムを構築しようとするのは、どうにも正気とは思えないですよな。
誰にでも正確に読めるように文章を書くように心がけているせいで、読める人が極端に少なくなっているという問題があるという説があるが、実はこれは問題ではない。なぜなら、正確に読めるように書かれた文章が読めない人に、内容を伝達する方法は存在しないからである(つまり、何も失われていない)。
「女を差別したり外国人を追い出したり性的少数者や障害者がいないことにしたりしたい奴がこの社会にうじゃうじゃいる」こと自体はまったく悪ではないと、「言わなければならない」ですよな。
大教室の授業で、私だけ前の方に座っており、他の学生は後ろから座って行っていたときに、教員が学生に語りかけるために、私より後ろで授業を展開しはじめて、緊張感が高まったことがある。
中学・高校の知人と友人の間ぐらいの人が、「動物に向かって話しかける人間は、相手の言語能力に対して自己欺瞞に陥っている点で不誠実だ」と言っていて、なかなか信頼できる人間だな……と思ったのを思い出した。
学部生の頃、体育の授業の最中に、「トレーニング器具から魚の臭いがすると」言っていた人がいて、私は何かのチャンス(?)を感じ、「じゃあ魚なんだろ!」と叫んでみたというのがある。単に唖然とされておしまいになった(こういうことはよくある)。
不思議なのは、自分の場合、そのような文の切れ端は、独り言や、今このようにして気楽に文章を書いている際にも全然経験されないものだという点である。切れ端派の言語使用は一体どのようなものなのだろうか。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
文章を書くときに、まずは文の切れ端のようなものを書き連ねていって、ある程度の量になった後で、普通に読めるように修正するという手続きをとっている人がいるっぽい。
文章を書くときに、まずは文の切れ端のようなものを書き連ねていって、ある程度の量になった後で、普通に読めるように修正するという手続きをとっている人がいるっぽい。
父親が「〇〇高校が△△大会で優勝したんだ。すごいよな」という趣旨のことを言ってきたので、「そりゃ大会があったらどこかしら優勝するんじゃないのか?」と返したら話が終わったのを思い出した。
私の異常性を表すエピソードとして、妹の婚約者(?)+その家族との会合に呼び出された際、何をやっているのかと聞かれて「意味について考えています」と答えたら無が生じたというのがあるが、これは今でも何がおかしいのか分かっていない。これほど明解な特徴づけもないだろう。
現状では、たまたま生殖ガチ勢(何かのカルト?)っぽい人たちがいるから、それなりに人口が維持されているというのがあるが、そういう偶然に任せた制度設計はおしまいの感がある。人口の維持を目指すなら、人間の生産を共同体レベルでやっていくような制度になるはずですよな。
私の気分を述べると、博士号は、人類史の全体を想像したときに、その人が存在しなければ問われなかったと思えるような種類の問を提示できる人に与えてほしい。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
違います(分野による)。
社会がどうなろうが、人がどれだけ死のうが、各々好きにやっていくのが正しいと言わなければならない。それでなければ、他人の都合によって生み出されいずれ必ず死んでいく生というものがあまりにも哀れである。
レポートとか論文とか、変な気負いがあるからおかしくなるだけで、日頃他人と会話するときのように書けば良いという説を提唱していたのだが、人々の反応を見るに、どうもそういうものでもないっぽい。
千羽鶴みたいなのを「本気」でやっている人がいるとしたら(おそらくいるのだろうけど)、それ自体がすごく重要なテーマになるだろう(し、実は大抵の人にとって、人生の全体が千羽鶴的なものなのかもしれないとも思う)。
反出生以前の話として、生殖にかんする諸問題を提示されて「そんなことを考慮していたら、生殖できないじゃないか!」と反論(?)する人がいるが、なんでそこまで(すなわち、議論の放棄まで)して生殖に突き進みたいのか本当に謎ですよな。
狂人との生活をしているように見えるが、大抵の人間は家族関係にあると狂ってしまうということを踏まえると、結婚というのは本来的に狂人アトラクションだと考えられるんですよな(もちろん私の親も狂っていました)。
日本語で、疑問符(?)を疑問文の標識として用いている人ってどれくらいの割合なのかしら。私はイントネーションの標識として理解しているので、「なぜティッシュは紙なのか?」みたいなのには強い違和感を覚える(「「なぜティッシュは紙なのか」だって?」という程度の発話に見える)。
ミソジニーだろうが、ミサンドリーだろうが、その種のお気持ちを持つこと自体は何の問題もなく、まして「治療」の対象などではないと「言わなければならない」ので、繰り返し言っています。
誠実に生きるための指針として、嘘や意味不明なことを言わないというのがあり、「おはようございます」、「こんにちは」などの日常の挨拶の使用については、もはや敗北してしまっているが、「明けましておめでとうございます」や「ご冥福をお祈りします」については一歩も引かない覚悟がある。
少なくとも国際的な学会誌は、英語についてノンネイティブチェックを推奨するべきだろう。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
英語話者が英語話者であるというだけで圧倒的に得しているのは紛れもない事実なのだから、英語非母語話者に対して何らかの補償を行うべきだと考えるのは自然なことですよな。
そもそも人間は生きていなくて良いのだから、働かなくても良いなんて、あまりに当然だろう。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
また別の話として、そのような信念の変更が容易であるのであれば、「働かなくてはいけない」などという嘘を見抜くほうが良いだろう。
ハードな趣味を複数同時にやっていくのは大変だという程度の、それ自体としては自明な事柄であっても、その趣味が「仕事」とか「家庭」になると急に判断がおかしくなるの面白いな。
子育てみたいなことは一般に、子供は人間ではないという信念に支えられていると言えるだろう。子供が人間だとしたら、恐ろしくて育てるなんてとてもできない。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
小学校などの宿題で日記を提出させることが容認されているのは、やはり子供は人間だと思われていないから?
小学校でよくやらされた「作文」というやつが全然書けず、ひたすら苦痛だったのを思い出した。そこではなぜか「自分の言葉」「自分の考え」が求められたが、そんなものは存在せず、したがってギリギリまで先延ばしにしたうえで、無視するか嘘を書くか迫られるのである。
論文がなかなか書けない(提出できない)人の中には、自身の能力の低さが受け入れられない人たちがかなりいるのではないかと思っている。人間は基本的に能力が低いので、受け入れていきましょう。
話が抽象的で理解ができないというの、結構面白い現象な気がする。私は具体的な話のほうが理解するのが難しい。というか、理解するということの極めて重要な部分として抽象化することがあり、抽象的な話は、それをもともとやってくれているからただ読むだけで済むという感じがする。
基本的に(すでに学問分野として成立している)何かを勉強したかったら、大学で使うような教科書と、(出来の良い)博論を読むのが良い。その際、教科書は売れているのを複数冊買っておけば、多少怪しいことが書いてあってもなんとかなる。
学校の教員や医師「ですら」国家資格が必要なのに、無資格の親が野放しになっているという完全な狂気があります。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
素人が勘で養育するより、専門家が確かな知識に基づいて養育するほうが明らかに良いですよな。
子供を産む人は大抵、「生殖で人生ポイントゲット!」になっているだけですからね。
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ワタシ・チャン
@chan_watashi
いかにも親という感じだな(偏見)。