暴走・軍官僚にも責任 政治に介入、国策ゆがめる 第七章「昭和戦争」責任検証最終報告

昭和戦争の重い責任は、トップクラスの政治・軍事指導者だけにあるわけではない。トップを支えていた数多くの参謀や官僚らの「暴走」や「誤断」は、日本の針路に重大な影響を及ぼした。

写真:建国から2年後、帝政となった満州国の皇帝に執政溥儀が即位(1934年3月1日)
写真:建国から2年後、帝政となった満州国の皇帝に執政溥儀が即位(1934年3月1日)

「石原モデル」

昭和戦争の重い責任は、トップクラスの政治・軍事指導者だけにあるわけではない。トップを支えていた数多くの参謀や官僚らの「暴走」や「誤断」は、日本の針路に重大な影響を及ぼした。

参謀は本来、起案はするが命令権を持たない。にもかかわらず、指揮官を思いのままに動かし、作戦を展開した参謀独走の始祖といえば、石原莞爾(いしはらかんじ)(関東軍参謀)である。一九三一年(昭和六年)の満州事変当時、石原は中佐にすぎなかったが、関東軍司令官の本庄繁も、石原らの言いなりとなった。

中国権益が転がり込む既成事実を前に、若槻礼次郎内閣は軍隊派遣を追認した。石原は、対外侵略の大きな足がかりを作っただけでなく、幕僚が国家権力を掌握して政策の実現を目指す「石原モデル」をつくった。このモデルは、関東軍参謀の武藤章(むとうあきら)田中新一(たなかしんいち)らが踏襲していった。

板垣征四郎(いたがきせいしろう)関東軍参謀は、石原のパートナーだった。土肥原賢二(どひはらけんじ)奉天特務機関長とも密接に連携し、満州国の建国にまで突き進んでしまう。石原、板垣、土肥原らは、反乱者にもかかわらず「英雄」ともてはやされた。板垣と土肥原は、華北分離工作を進めて謀略活動を展開していった。板垣はさらに平沼内閣の陸相として日独伊三国同盟も推進した。

暗躍

陸軍省軍務局にいた鈴木貞一(すずきていいち)中佐は、石原莞爾、東条英機ら幕僚たちの集まりである「木曜会」で中心的役割を果たしていた。鈴木は、陸軍から内閣調査官に転じた後は、興亜院政務部長を経て企画院総裁に就いた。軍人の枠に収まらず、政治経済など国策全般に関与し続けた。大本営政府連絡会議で鈴木は、戦争運営の見通しにかかわる物的国力判断で数字合わせをして、開戦決定へと議論を導いた。

国家改造を目指す一部の革新的な将校は「桜会」を結成した。リーダーの橋本欣五郎(はしもときんごろう)中佐は、国家主義者の大川周明(しゅうめい)らと共謀して、三月事件、十月事件などクーデターを仕掛けた。橋本の暴走は日中戦争でも続き、野戦重砲兵第十三連隊長として、英艦レディバード号を砲撃する事件を起こした。

国運を賭ける日米開戦を前にして、陸軍省の軍務局長は武藤章、海軍省の軍務局長は岡敬純(おかたかずみ)だった。軍務局長は、国策作りの中枢をなすと同時に、首相や閣僚の人選に関与した。武藤は、畑俊六陸相を辞任させて海軍出身の米内内閣を倒すなど、手練手管の政治工作を展開した。ポスト米内の第二次近衛内閣では、大東亜新秩序建設と国防国家体制確立を明記した「基本国策要綱」を決定させた。

武藤の後任の佐藤賢了(さとうけんりょう)は、東条の側近で、木村兵太郎陸軍次官、真田穣一郎参謀本部作戦課長など東条体制を支えたメンバーの中心的存在だった。ガダルカナル作戦の際、東条と対立した田中新一作戦部長と殴り合い、レイテ決戦では「連合艦隊の最期、その死に花を戦争指導の上に必ず生かそう」と、成算のない作戦を後押しした。

事実を隠蔽

海軍内で日独伊三国同盟の推進論者だった岡が四〇年十月、軍務局長に就くと、海軍の対米強硬論に拍車がかかった。岡は、陸軍にまさる政策指導体制を作るため、軍務局第二課を新設し、その重要ポストには「政治好き」の石川信吾(いしかわしんご)大佐を抜擢(ばってき)した。

石川は、高田利種軍務局第一課長、富岡定俊作戦課長らとともに南部仏印進駐をためらう上層部を突き上げ、日米開戦を強く主張した。当時、中将の井上成美(いのうえしげよし)は「大佐が海軍を引っ張っているようなものだ」と言い、開戦後、石川は「日本を戦争に持って行ったのは俺だよ」と語った。

日米開戦前、軍令部は、東南アジアの資源を確保して長期戦に備えるオーソドックスな戦略を唱えていたが、山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾の奇襲にこだわった。連合艦隊参謀の黒島亀人(くろしまかめと)大佐が、軍令部を説き伏せて進めた真珠湾攻撃は、米国の容赦ない総攻撃を招いた。山本の死後、黒島は軍令部第二部長になると、ここでも正攻法では勝てないとして、特攻兵器を開発していった。

ミッドウェーで敗北した海軍の福留繁(ふくとめしげる)作戦部長は、「損害が重大」として事実を隠蔽(いんぺい)した。連合艦隊参謀長になっても独断ぶりは変わらず、作戦や戦況を知らされない古賀峯一(みねいち)連合艦隊司令長官は、「近ごろ、いくさはどうなっているのか」と若手に尋ねていた。四四年三月のパラオ空襲で福留は、現地ゲリラを通じて米軍に機密書類をとられている。

中沢佑(なかざわたすく)が福留の後任の作戦部長に就任して以降、戦場では玉砕が続いた。中沢は、マリアナ沖、レイテ沖など海戦で敗北が重なり、ついに「特攻」を承認し、大西滝治郎・第一航空艦隊司令長官が第一陣を送った。

田中新一大佐は、陸軍省軍事課長として日中戦争を拡大させた。作戦部長に就任後、四一年六月に独ソ戦が起きると、対ソ戦の準備を進め、七十万人の兵力を動員した関東軍特種演習を実施した。これと並行して、南部仏印進駐も推進した。危機を前にすると、声高に積極論を唱える幕僚の存在は、陸軍における一つの典型で、田中もその一人だった。

無謀な強硬論を唱え続けた軍人として、牟田口廉也(むたぐちれんや)第十五軍司令官がいる。東条子飼いの一人であり、インパール作戦を指揮し、部下七万二千五百人を死傷させた。

「親独」落とし穴

一方、大島浩(おおしまひろし)は陸軍出身の駐ドイツ大使で、親独ぶりは度を越していた。大使館付武官だった三六年、外務省に無断でリッベントロップと日独防共協定の交渉を開始し、締結に持ち込んでしまった。日米開戦前後には、独ソ戦の見通しを誤っただけでなく、ドイツの勝利を妄信する情報を送り続けた。

駐イタリア大使の白鳥敏夫(しらとりとしお)は、外務省革新派のリーダーで若手官僚に影響力をふるった。「日独伊ソの四大国が、直ちに結束して現状維持国と対等の地位に立つのが本来」などと、日独伊三国同盟を積極的に提唱した。