米護衛空母にまさに体当たりせんとする特攻機
米護衛空母にまさに体当たりせんとする特攻機

大西の遺書

玉音放送後の8月16日未明、渋谷南平台の次長官舎で割腹。大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、徹底抗戦を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。

〈特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす

次に一般青壮年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自 重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ

諸子は國の寶(宝)なり 平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為 最善を盡せよ

海軍中将大西瀧治郎〉

そして、遺書の欄外には、軍令部第一部長・富岡定俊少将宛に、

〈八月十六日

富岡海軍少将閣下

大西中将

御補佐に対し深謝す 総長閣下にお詫び申し上げられたし 別紙遺書青年将兵指導上の一助とならばご利用ありたし

以上〉

との添え書きが細い字で書き加えられている。淑惠に宛てた遺書は、

〈瀧治郎より

淑惠殿へ

吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し

一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す 淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す

二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ

三、大西本家との親睦を保続せよ

但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし

以上

之でよし百萬年の仮寝かな〉

と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。

大西の自刃は、8月17日午後4時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。富岡は大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。

大西自刃の記事と遺書は、8月18日の新聞に掲載された。

昭和20年8月16日、自刃した大西中将の遺書。現在は表装され、靖国神社遊就館にある
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門司親徳さんが、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。

軍令部作戦部長として特攻を採択した中沢佑少将(のち中将)、第二部長として特攻兵器の開発を強力に推し進めた黒島亀人少将――海軍の「特攻」の責任はこの二人にほぼ帰結するのだが――は、大西中将のように自決することもなく、天寿を全うした。

中沢少将は昭和20年2月、台湾海軍航空隊司令となり特攻隊を直接指揮する立場になり、台湾警備府参謀長として終戦を迎えるが、大西中将の自決が報じられた際、中沢少将も責任を感じて自決するのではとそれとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、

「俺は死ぬ係じゃないから」

と言い放ったのを、門司さんはじかに聞いている。

黒島少将は戦後、宇垣纒中将の日記「戦藻録」の一部を勝手に処分したり、海軍の機密文書を無断で焼却したり、なんらかの証拠隠滅ととられる行動をとった。

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