ミッドウェー海戦、空母四隻失う 第三章太平洋戦争

日本の連合艦隊は、米空母三隻に対し、六隻の空母を擁していた。しかし、ミッドウェーとアリューシャン攻略に各四、二隻と戦力を二分する過ちをおかしていたばかりか、「敵空母は現れない」との先入観にとらわれていた。公刊戦史である『戦史叢書』(朝雲新聞社)は、「敵空母出現といった緊急事態の発生に対応する計画がなかったのは、敵を侮った驕慢の心が原因」と結んでいる。

写真:ミッドウェー海戦で日本機動部隊の攻撃を受ける米空母
写真:ミッドウェー海戦で日本機動部隊の攻撃を受ける米空母

開戦以来の日本軍の破竹の進撃は、日本の政治・軍事指導者を酔わせ、議会もメディアも国民も、これを称賛した。「米艦隊主力を撃破し、南方作戦の実行を確保する」という第一段作戦は、予想を一か月も上回る早さで達成されてしまったのである。

だが、次のステップに入ると、海軍軍令部と連合艦隊司令部の作戦は、早くも齟齬(そご)をきたした。軍令部は、米と豪州との連携を遮断するため、ハワイから豪州に至る要衝のフィジー、サモアの攻略を志向した。連合艦隊司令部は、ミッドウェー島を攻略して米空母部隊を誘い出し、捕捉撃滅することを主張した。

連合艦隊首席参謀の黒島亀人(くろしまかめと)らは、福留繁(ふくとめしげる)軍令部作戦部長らの反対を抑えるため、軍令部が追加要求してきたアリューシャン列島攻略も受け入れた。

黒島の下で渡辺安次(わたなべやすじ)参謀が作戦研究を担い、計画はすべて連合艦隊が独断でまとめあげた。四二年(昭和十七年)四月二十八日、旗艦「大和」で第一段作戦戦訓研究会が開かれたが、三和義勇(みわよしたけ)参謀は日記にこう記した。「勝ち戦の研究会は愉快なれども、余り実はなし。皆勇者にして皆智者のごとし」。おごりがみえていた。

五月一日からの図上演習で、統裁官を務めた宇垣纒(うがきまとめ)連合艦隊参謀長は、ミッドウェー攻略の最中に米空母が出現し、空母対空母の戦闘で作戦が継続できなくなると、独断で演習をやり直させた。空母「赤城」に命中した爆弾九発は三発に減らされ、沈没した「赤城」は小破に変わった。

五月五日、永野修身軍令部総長は、ミッドウェーとアリューシャン攻略という二方面作戦を発令した。

「赤城」「加賀」など空母四隻・艦載機二百八十五機を基幹とする第一機動部隊(司令長官・南雲忠一(なぐもちゅういち)中将)が五月二十七日、広島・柱島を抜錨(ばつびょう)、ミッドウェー攻略作戦に出撃した。戦艦「大和」以下、山本司令長官率いる主力部隊も二十九日、機動部隊の約五〇〇キロ後方に続いた。

しかしこの大艦隊の敵情判断は、「敵空母出現の可能性なし」との認識で一致していた。出撃前に軍令部の富岡定俊(とみおかさだとし)作戦課長は、「この作戦で最も恐れることは、敵がわが艦隊を避けて出撃しないことである」とさえ述べていた。

さらに、米空母の出現に備えて、偵察任務につくはずの十一隻の潜水艦のうち、予定通り配置についたのは一隻だけだった。数日前、米艦隊はここを通過し、機動部隊を待ち伏せていた。米軍は、日本海軍の暗号を解読し、作戦を察知していた。日本はこれに気づいていなかった。

ミッドウェー作戦は、運命の六月五日を迎える。

午前一時三十分、ミッドウェー島攻撃に向かう攻撃機と同時に、米艦隊を探す七機の偵察機が発進するはずだった。だが、定時に飛び立ったのは三機のみだった。結局、三十分遅れで発進した利根四号機から「敵らしきもの十隻見ゆ」との一報が届いたのは、午前四時二十八分。米軍は午前三時、機動部隊を発見していた。

敵艦隊発見の情報が届いた時、機動部隊では、ミッドウェー島への第二次攻撃のため、米空母攻撃用の魚雷を陸上用爆弾に転換している最中だった。南雲は敵艦隊への攻撃を決意し、四隻の空母で、爆装を元の魚雷に戻すための作業が始まった。

直後、空母「飛龍(ひりゅう)」に座乗する第二航空戦隊の山口多聞(やまぐちたもん)司令官は、南雲長官に対して「直ちに攻撃隊発進の要あり」と意見具申した。空母戦では、先制攻撃による飛行甲板の破壊が決定的に重要だからだ。

ところが、敵機来襲まで時間があると誤判断した南雲と源田実(げんだみのる)参謀は、この意見を無視し、ミッドウェー島の攻撃から戻ってくる第一次攻撃隊の収容を優先した。その約一時間後、「赤城」「加賀」「蒼龍(そうりゅう)」の三空母は、米急降下爆撃機の攻撃によって大火災を起こし、航行不能に陥った。

日本に勝機はあった。海戦前日の四日夜、「大和」は、ミッドウェー海域で発せられた敵空母とみられる呼び出し符号を傍受した。連合艦隊は、作戦行動を秘匿するため、無線を封止していたが、山本司令長官は、「第一機動部隊に知らせてはどうか」と提案した。だが、参謀の佐々木彰や黒島亀人は、その必要はないとし、山本も強く言わなかった。宇垣参謀長の日記『戦藻録(せんそうろく)』(原書房)には、「当司令部としても至らざる処あり、相済まず」と書かれている。

機動部隊で唯一生き残った「飛龍」も奮戦むなしく、五日午後二時過ぎ、敵機の攻撃を受け航行不能となった。海戦は米空母一隻を沈めただけで、開始からわずか半日で終わった。

米太平洋艦隊のニミッツ司令長官は、日本の敗因について、「アリューシャン列島に派遣された二隻の空母を中部太平洋に使用したならば、決定的な要素と充分なり得たであろう。ミッドウェー作戦が成功したならば、日本はゆうゆうとアリューシャン列島を占領できたであろう」と、著書で指摘している。

日本の連合艦隊は、米空母三隻に対し、六隻の空母を擁していた。しかし、ミッドウェーとアリューシャン攻略に各四、二隻と戦力を二分する過ちをおかしていたばかりか、「敵空母は現れない」との先入観にとらわれていた。公刊戦史である『戦史叢書』(朝雲新聞社)は、「敵空母出現といった緊急事態の発生に対応する計画がなかったのは、敵を侮った驕慢(きょうまん)の心が原因」と結んでいる。