執務室は、凪いだ海のように静まり返っていた。
他の議員─―イブキは授業、サツキとマコトは出張で校区の外だ。広い室内に残っているのは、イロハとチアキの二人だけだった。
二人は同じクラスなので、執務室に顔を出した時に二人きりになることは時々ある。しかし、やることは変わらない。お互い書類を整理したり、編集作業に没頭したり。会話をすることも多いが、そういう時は決まってチアキの方から話題を振るのが常だった。けれど今日、その均衡に小さなさざ波を立てたのは、意外な人物だった。
「あなた、何か変わりましたか?」
珍しく、イロハの方から会話を始めたのだ。チアキは取材メモを書き起こしていた手を止めて、不思議そうにイロハを見つめた。急にどうしたの?今にも口を開いてそう言いそうな顔をしている。チアキには、普段の自分から何かを変えた自覚がなかった。
「急にどうしたの?」
「いえ、実は今日の朝から思ってたんですけど、何か違う気がするんですよね。いつもよりどんよりしてます」
じっとこちらを見つめる瞳に、チアキは思わず目線を逸らした。すぐにイロハの方を向き直したが、気を抜けばまた逸らしてしまいそうだ。チアキは、目線を逸らすのは負けた気分になると思っていた。自分がどれだけじっと見つめても、イロハが目を逸らしたことなど一度もないからだ。
勝負に負けても、その過程を楽しめるならそれでいい。チアキはそう考えている。ボードゲームでもテレビゲームでも、一緒に遊んだ相手からは「リアクションだけは一流だ」と口を揃えて言われる。イロハにも似たようなことを言われたが、チアキは気にしていない。勝ち負けではなく、その過程を楽しんでいるからだ。
ただ、この見つめ合いだけは、なぜだか過程に集中すると変な気分になる。だからこそ、今は意地になって勝ち負けに意識を向けていた。
二人はしばらく見つめ合っていた。手の動きは完全に止まり、静かな空間には時計の針が秒を刻む音だけが流れている。イロハはチアキのあちらこちらに目を向けていたが、ふと声を漏らして立ち上がると、チアキが座っているソファの前まで近づいた。
「チアキ、ちょっとツノ触りますよ」
イロハはそう言うと、チアキの返事も聞かずに自身の帽子を取り、木製のポールハンガーに投げた。枝分かれした支柱の一つに引っかかると、何度か回転し、やがて勢いが弱まって停止する。帽子が掛かったのを見届けると、彼女はチアキの体に跨り、側頭部から生える黒く畝った角に触れ始めた。
肩に手を置き、そこに体重を預けているので、チアキは背もたれに深く沈み込んでいる。手を股の間に挟み込んでいるのは、こそばゆい感覚に慣れていないからだ。あるいは、唐突な接触に理解が追いついていないのかもしれない。
角を彼女に触らせたことがないわけではない。むしろ、週に一度、爪楊枝で角の溝に溜まったゴミや汚れを取る手入れを自室でイロハに頼んでいるくらいには信頼している。しかし、それも基本的にはチアキから誘うもので、イロハから触りに来たのはこれが初めてだった。
「最近、ツノ伸びました?」
「どうだろ、伸びた覚えはないけど」
根元を触っていた手が、次第に先端へと上っていく。校内の健診を受けている時と似た気分だ。事務的に自分の身体を調べられているあの独特な感覚を、チアキは思い出していた。
先端に触れていたイロハの手がいきなり止まり、間延びした声を出した。
「これ、伸びてるんじゃなくて、先端が若干太くなってますね。角の皮がそこだけ上手に剥がれず、溜まってる。あなたから見て左の方です」
本当だろうか。チアキも腕を伸ばして自分の角に触れた。根元から先端になぞると、本来なら細くなっていくはずの場所が、イロハの言う通り僅かに太くなっている。そこだけ他の箇所よりも硬くなっているのが分かった。
「ホントだ、よく気づいたねイロハちゃん」感心していると、イロハが身体を引き離した。
「まあ、毎週触っていれば気づくようにもなりますよ」
彼女はそう言うと帽子を外して、またポールハンガーに投げる。今度は引っかかりもせず、地面に落ちた。イロハはため息を吐いた。やっぱり、慣れないことはするもんじゃありませんね。帽子を掛け直し、彼女は自分のデスクからクッキー缶を取り出した。
「それ、放置していると肥大化して、折れたり膿んだりするかもしれません。せっかくですから、剥がすついでにお手入れしましょう」
「うん、じゃあお願い……しよっかな……」
少し言葉に詰まりながら、チアキはソファから背もたれのない四脚の椅子に座り直した。翼や角、尻尾といった特定の異種的部位の手入れを他人に任せるというのは、信頼の表れだ。本来なら、双方が落ち着けるプライベートな空間で行われるのが常識である。
公的な執務室でこれを行うのは、かなり常識外れな行動だ。チアキにはどうにも飲み込めなかった。どうせならイロハのサボり部屋でしてほしい、というのが彼女の本音だった。しかし、本殿から車庫にあるサボり部屋までは、不便というほどではないが近くもない絶妙な距離にある。イロハが面倒くさがってしまうため、なかなか叶わぬ願いであった。
イロハはそんな懸念を気にする様子もなく、クッキー缶の蓋を開けた。中から目の粗い金属ヤスリと目の細かいもの、ベビーオイル、爪楊枝といった見覚えのある用具を取り出していく。
「やっぱここでするの、緊張するよ……」
「まあ、仕事も残っていますし、このためだけにわざわざ移動するのも面倒くさい。他のみんなはまだ来ませんし、報告があるなら扉の前で言わせればいい。何も問題はありません」
「そうだけどさあ」
「言いたいことがあるなら終わってから言ってください。今から皮を剥がしていきますから、動かないでくださいよ」
「分かってるよ〜……んっ」
角に液体が掛かる感覚が伝わり、チアキは反射で膝の上の両手を強く握った。数滴のベビーオイルが角の表面に馴染むことで、古い皮が柔らかくなり、剥離しやすくなる。イロハの手のひらがオイルを広げるために角全体を撫でた。それは次の作業のための行為に過ぎないはずなのに、チアキはまるで自分の日頃の行いをイロハが褒めてくれているように感じてしまう。
そう思うと思考がぼやけて、まぶたが重くなる。脳髄の奥が何度か跳ねて、じんわりと生暖かい快感に変わっていっていった。
「はっ……っ……んくっ……」
ぬるりとした独特の感触が、左側の角の先端を包み込む。イロハの指先が、皮の厚くなった境界線を探るように、優しく、けれど事務的な手際で這い回る。指に押し出されて跳ねる小さな水の音が、角を、そして骨を伝って中まで揺らした。握りしめたスカートには、深い皺が食い込んでいた。
「いつも思っていたんですけど、あなた、もう少し声抑えられないんですか?」
「これでも、だいぶ抑えてる方だよ〜……」
「じゃあ、もっと頑張ってください」
「相変わらず無茶振りするね、イロハちゃん」
失礼します、イロハの囁きと共に、硬質な手応えが脳内に響いた。爪楊枝の先で、肥大化した層の端を慎重に浮かせているのだ。チアキは無意識に肩を震わせた。角そのものに神経は通っていないはずなのに、根元を通じて頭蓋骨に直接伝わる振動は、背筋を撫でられるようなむず痒さと、奥の方で疼くような鈍い刺激を伴う。
皮は円形に固まっており、イロハは数ミリずつ慎重に端を浮かせていく。剥がれていく隙間に風が入り込み、妙な感覚に襲われる。下唇を噛んでいた歯が、今にも離れて声が漏れそうだった。
「……っぁ……わっ!」
チアキの驚きの声は、すぐにくぐもった。イロハがチアキの頭を自分の腹部へと引き寄せ、固定したからだ。視界が暗くなり、イロハの制服──あるいは髪から香る甘い花の匂いが鼻腔をくすぐる。
その安心感に包まれた次の瞬間、ペリペリと小気味よい音が連続して響いた。古い角質の層が、イロハの手によって一枚の薄い殻となって剥がれ落ちる。長年詰まっていた何かが解消されたかのような、突き抜けるような開放感がチアキを襲った。
「ふぁぁ……なんかすっごい、頭が軽くなった気がする」
「結構大きいですね。触りますか?」
チアキは気を紛らわせるために小さく頷いた。手のひらに落とされた剥離皮は、黒い琥珀を薄く削り出したチップか、黒曜石の欠片のようだった。拾い上げるとまだ微かに体温が残っており、爪で弾くと硬く乾いた音を立てる。光にかざせば向こう側が透け、濃い茶色が浮かんだ。弓形に曲がっており、少し力を加えれば小気味よい音を立てて真っ二つに割れそうだ。
自分の身体の一部だったとは思えない、自然の産物のようなそれをチアキが覗き込んでいると、急に頭を掴んで引っ張られた。
「痛い痛い! なに、急に引っ張らないで!」
「そんな体勢じゃヤスリが使えないんですよ。あなたからは見えませんが、剥がれた跡がちょっとデコボコしています」
イロハに身を委ねているチアキは、そう言われると抵抗できない。しゅんとおとなしくなり、手の中で皮の欠片を転がした。
目の粗い金属ヤスリが角に当てられ、ゆっくりと動き始める。一回引くごとに粉が舞い、削られる振動が骨を揺さぶる。しばらくすると、規則正しい音がリズムを刻み始めた。どっしりと重みのある振動。イロハは細心の注意を払いながら、表面を平らにならすために力を込めていく。
チアキはされるがままに揺さぶられながら、自分の一部が削り取られていく背徳感と、イロハが手入れをしてくれているという安心感の狭間で、すっかり力が抜けてしまった。
「ふぅー……」
「ぴゃっ!?」
油断しきっていたところに、イロハが息を吹きかけた。生暖かい吐息が角を包み、首筋にまで垂れる。弛緩していた身体に電撃が走り、全身が固まった。イロハはチアキの反応がおかしくて、笑いをこらえきれずに謝罪を繰り返した。ごめんなさい、ふふっ……粉が付いていたので……はははっ。チアキは変な声が出たのが恥ずかしくて、顔を真っ赤にした。
「最後、……ふふっ、仕上げますね」
目の細かいヤスリに持ち替え、撫でるように表面を磨き上げる。ざらついていた感触は消え、新雪のように滑らかな質感へと変わっていく。優しく撫でるようなこの仕上げの感触は、手入れの中でもチアキが一番好んでいるものだった。
すっきりした気分に包まれ、この時間がもう少し続けばいいのに。そう願う瞬間を、チアキは幸せだと感じた。終わりましたよ、チアキ。イロハはパッと手を離した。
「ありがと、イロハちゃん」
感謝を伝えて、チアキは自分の左角に手を伸ばした。指先が触れても引っかかるものは何一つなく、滑らかで、それでいて芯の通った確かな硬質さがある。右側よりも少しだけ軽くなったような気さえした。チアキが満足そうに何度も撫でていると、イロハが釘を刺した。
「終わりと言いましたが、まだもう少しかかりますよ」
イロハは一度深呼吸をすると、クッキー缶から新しい爪楊枝を一本取り出した。チアキはすっかり忘れていて、一瞬不思議そうに見つめてから、合点がいったように声を上げた。
「あ、いつものやつ! それじゃあお願いね、イロハちゃん。溝に溜まってるのって自分じゃ絶対に見えないし、角度的に手が届かないから、やっぱ助かるよ〜!」
チアキは再び、されるがままの姿勢で椅子に座り直した。イロハはチアキの側頭部に顔を寄せ、角の溝をじっと見つめる。黒い角の中に、白い粒や埃、灰色の塊が見える。時間の掛かる作業なので、始まる前に一呼吸置くのがイロハの癖だった。
「じっとしていてくださいよ。……よし」
爪楊枝の先端が、角を一周する深い溝にそっと差し込まれた。角をほんの少し削るような、小さく乾いた音が頭蓋骨に響く。それは不快な音ではなく、耳かきをされている時のような、脳の痒いところに手が届く心地よさを伴っていた。
「あぁ……そこ、ちょうど気になってたかも」
「チアキ、何か木の削りカスみたいなのが取れるんですけど」
心当たりがあるようで、チアキはギクリと肩を震わせた。た……多分、木工の授業で……。苦しい言い訳を口にするも、言い切る前に看破される木工の授業は、先週終了しましたよ。
イロハは深いため息を吐いた。
「あなたまた木に角を擦りつけましたね」
「ごめんってば〜! どうしても角が痒くってさ!」
「だからといって、その辺の街路樹や柱を孫の手代わりにするのはやめなさいと言ったでしょう。野生動物じゃないんですから」
「でも、誰も見てないところでしてるし! それに、結局イロハちゃんがいつも綺麗にしてくれるから、つい甘えちゃって」
申し訳なさそうに身を縮めるチアキだったが、その言葉には隠しきれない親愛の情が混じっていた。まったく、私がいなくなったらどうするんですか、ブツブツと小さく毒づきながらも、イロハの手つきは先ほどよりもわずかに優しくなっている。
僅かに口端を上げたイロハの視線は、もはや執務室のどこにも向いていない。針の穴を通すような精密さで、角の窪みの一点にのみ集中している。爪楊枝の先は、まるで繊細な彫刻を施すかのように、溝に固着した砂埃や浮いた角質を、丁寧かつ時に大胆な手際で掻き出していく。
こびりついた汚れの端を捉え、テコの原理でゆっくりと持ち上げるたび、チアキの脳内には硬質な振動が直接響き渡る。長年そこに留まっていたかのような大きな塊が、快い抵抗感と共にポロリと取れるたび、チアキの肩は反射的に跳ね、指先がスカートの生地をきつく握りしめた。
「ふぁ……っ、ん、あ……。……ねえ、イロハちゃん。これさ、楽しい?」
「楽しいというよりは、心が静まる、ですかね。静かに物事に集中するのは好きですし。こうして綺麗になっていくのを見ると、私の心まで整理される気がします」
「イロハちゃんらしいや!それにしても、こうして二人でいると、なんだか」
なんだか。なんの気なしに言おうとした言葉が、ふいに喉に詰まった。今考え、伝えようとした言葉にはどんな意味があったのか。チアキはそれを自覚して、黙り込んだ。
いきなり黙ったチアキを、イロハは不思議がった。お喋りを中断するなんて珍しいこともあるもんだ、と考えながらも、手を動かし続ける。
「チアキ? どうしました」
「ん〜? なんでもないよ!」
「そうですか。はい、反対側向いて」
促されるままに頭を預け直すと、今度は右側の角に爪楊枝が触れた。チアキは少しだけ視線を上げ、真剣な眼差しで自分の角と格闘している友人の横顔を盗み見た。普段は面倒くさがりで、隙あらばサボろうとするイロハが、自分のためにここまで熱心に指先を動かしている。その事実が、ただただ嬉しくて胸の中に溜まっていく。
「イロハちゃんって、実は結構、お世話焼きだよね」
「誰に対してもというわけではありませんよ。チアキ、あなたは放っておくとすぐ取材に熱中して角を何かにぶつけたり、変な部活に顔を出しては汚れたりしていますから。見かねて手を貸しているだけです」
「イロハちゃんひっど〜い……まあ、事実だけど。あははっ。でも、こうしてイロハちゃんに触れられてると、すごく安心する」
爪楊枝を動かすイロハの手が、一瞬だけ止まった。至近距離にある彼女の耳が、光の加減か、それとも別の理由か、少しだけ赤くなったように見えた。
イロハは、以前チアキが貸してくれた本の内容を思い出していた。物語に出てくる鰐を飼う少女。少女は鰐の歯をドライバーで掃除するのが唯一のコミュニケーションなのだという。 今の私たちも、あの鰐と飼い主みたいですね。なんて少し揶揄ってやれば、このお喋りな口も拗ねて静かになるでしょうか)そんな意地悪な考えが頭をよぎり、イロハは少しだけ口元を綻ばせた。
けれど、今のチアキの穏やかな、どこか無防備な顔を見ていると、それを口にするのは少しだけ勿体ないような、可哀想な気もしてくる。結局、彼女は皮肉を飲み込み、目の前の作業に意識を戻した。
「静かにしてください。手元が狂って、角に傷がついたら大変です」
「はーい。……んっ、あ、そこ、ちょっと強めに……」
「注文が多いですね。ほら、これで最後です。……はい、取れました」
最後の一片を弾き出すと、イロハは満足げに息を吐き、爪楊枝を置いた。チアキもまた、大きな満足感に包まれていた。
「ありがとう、イロハちゃん! お礼に、週刊万魔殿で紹介したスイーツビュッフェ連れてってあげる!」
「それは期待できますね。さあ、満足したなら仕事に戻ってください」
いつもの調子のチアキに戻ったのを見て、イロハは密かに胸を撫で下ろした。チアキもまた、軽くなった頭と温かくなった心を抱え、取材メモの書き出しを再開する。
夕暮れ時の執務室に、再び書類を捲る音と、二人の穏やかな呼吸音が重なり始めた。