「ねえチアキ、買ってきてもらってなんですが、このアップルパイ冷めてません?」
執務室に備え付けられた質の良い革のソファに尻を深く沈み込ませたイロハはそう言って、湯気立つブラックコーヒーを啜った。この時間、イロハとチアキ以外のメンバーは各々の仕事や授業がある為に全員執務室から出払っていた。
2人は時々訪れるこのイベントをひっそりと楽しみにしている。それはやかましく騒ぐとか、一緒にゲーム機やトランプを使った遊びをする訳ではなく、ただ静かに会話を交わすだけである。イロハは落ち着いた時間を好み、チアキはイロハと話せる時間が好きだ。基本話をするのはチアキからで、彼女持ち前の広い人間関係や強い行動力で集めたネタは底を知らず、イロハを笑わせたり、呆れさせたりもする、もちろんイロハは彼女のする話を不快とは思っていない。
そしてそういった話に華を添えるようにチアキは最近、取材帰りにお土産を買ってくるようになった。先ほどイロハが口にしたアップルパイもそうだ。店主はそれなりの規模のリンゴ農園を持っていて、看板メニューのアップルパイはそこで育った品種をたっぷり使用しているのだ。ヒノム火山の影響で栄養豊富な土壌からもたらされるリンゴは酸味と甘味のバランスが取れていて生でもめっぽう美味しい。
「え〜?そうかな」
チアキは怪訝に思いながら買ってきたアップルパイを紙袋から取り出す。個別に包装がされていて、白い包装紙に伝わる熱は微弱で、全く冷めているものだ。だがパイ生地の匂いや塗られたバターにシナモンも香りも食欲をくすぐる。
包装紙を剥いてケーキカットされたアップルパイが姿を現す。とんがった先端に齧り付いてすり潰すように咀嚼した。先ほど挙げた匂いにカスタードクリームの甘さや層が重なった生地のクリスピーな食感もあり、そして主役の具となるりんごの甘酸っぱさもしっかりと伝わる。確かに冷たいが、それでも美味しいと思った。
「冷めてても美味しいけどな〜」
口を動かしながらチアキがそう言うと、それを見ていたイロハはまるで要領を得ないといったふうにため息を吐き。パイは焼き立てがいいんですけど私は、と頭を項垂れてコーヒーを注いだコップを皿の上に戻す。そして本を開き、背もたれに体を預けて読書を再開した。アップルパイは小さな一口を齧った程度でコーヒーカップの近くに置かれている。
「美味しくなかった?」
気に召さなかったのかと心配しているとイロハは首を横に振って彼女の不安を否定する。目は冷たいままでチアキの方に見やり、不意に距離を詰めて来た。手の甲にイロハの手のひらがかぶさり、囁くように言葉を発した。取材から帰ってきたばかりのチアキの手は冷えていて、温いイロハの手が被さるとその輪郭がはっきりと浮かび上がる。
チアキは一寸吃驚したが、すぐに細やかに笑った。
「いえ、美味しくなかったとは言ってませんよ、ただ。冷めてるなと思っただけです」
顔がいじけて睨みつけるような目つきは、チアキの知らないものだ。まさか、彼女が食べ物でそんなこだわりを持っているとは露にも思わなかった。
執務室は寒さが厳しくなっているということもあって強めに暖房が吹いている。暖房の位置的に風が吹くと私の方の彼女の匂いが流れてくる。甘い花の匂いが生暖かい風と一緒の流れて肺に捩じ込まれていく。
その香りはどんな状況だろうといつも心を落ち着かせてくれると感じていた。なんと言えばいいのか、適当な表現はチアキにはわからないが、掘り返した土に細やかな雨が染み込んでいくのと、安心感が身体に染み込んでいくのが似ていると思った。
「ごめんね、イロハちゃん。熱々のは多分直接行かないと食べれないからさ〜……そうだ!」
手が被さっていない方で、ゆったりとウェーブのかかったラズベリーピンクの髪を撫でながらイロハを眺めているとチアキはハッと何かを思い出し、嬉々として声を上機嫌に跳ねさせた。イロハは何も知らないから少し懐疑的な眼を面倒くさそうに細めている。
「来週は休刊日だから1日暇なんだよね、だからさ一緒に食べに行こ!出来立てのアップルパイ!」
魅力的な笑みを作ってイロハの方にさらに接近する。互いの鼻先が触れ合いそうなほどの距離でいつものように唐突な提案を投げかけた。イロハの冷静な目が貫いても、人懐っこい笑顔を臆することなく曝け出して返事を待っていた。イロハは何か溜息とかを漏らす事もなく、顔を逸らして食べかけのアップルパイをもう一度齧った。
目を閉じて丁寧に咀嚼して、飲み込む。チアキはその動作をじっくりと眺めていたいたが、やがて、じゃあ決まりだね。一言告げてはにかんだ。
集合場所になった駅前の広場は、閑散としているわけではなかったが人混みができるほど多いわけでもなかった。雨が疎に降っていて傘をさす人とささぬ人の両方がそれなりに居た。イロハは出かける際から雨が降っていたにも関わらず傘を持って来なかったので、駅構内で雨宿りをしつつチアキを待っていた。装いは普段の制服ではなく私服だ。長袖の白いカフスニットにベージュのカーディガンを重ね、マフラーを巻き。下はタータンチェック柄のロングスカートで可愛らしいスニーカーを履いている。
改札口を抜けてすぐの脇に設置された自動販売機で飲料水を買うと、隣のベンチに腰掛けて、約束した日に読んでいたのとはまた別の本をバッグから取り出した。数ページ読んだところで流れていく人混みの中から飛び出してこちらに歩いてくる人物がいた。
「イロハちゃん発見!早いね〜!楽しみにしてくれてたのかな?」
近づいてきたのはチアキだ。ベンチの目の前に立つと下から上に目線を動かし、座っているイロハの服装をしげしげと見やってから親指を立て同時にイロハちゃんカワイイね、と満面の笑みで褒めた。イロハはその言葉を飛ばして、一つ前の言葉を拾った。
「そっちこそ早いじゃないですか、集合時間の30分前」
「そりゃあ私楽しみだったからね!今週は今日のために生きてたよ!」
腕時計を見つめてそう言うとチアキは自信満々に鼻を鳴らす。イロハの視線がチアキを凝視めた。
彼女は燻んだ赤いベレー帽を被り、茶色のボアコートをいつもしているように肩掛けにしている。開けたコートから見えるタートルネックのトップスまではチアキらしいと感じていた。しかし下の格好は膝が見える丈のスカートではなく、珍しくゆったりとしたシルエットのデニムを履いていたので少し驚いた。
普段の活発な印象の強い印象から一転して、大人っぽい落ち着いた雰囲気と彼女の妖しげに光る目がふとした時に胸を跳ねさせてしまいそうな……詰まるところ、イロハの目には全く新しい魅力を纏うチアキが映っているのだ。
「それで、どうイロハちゃん?いつもと雰囲気変えてみました〜!な〜んてねっ」
チアキがポーズを決めて得意げにそう訊く。学校内でも学校外でも彼女の騒がしさは変わらないことに、安心感を感じながら言葉を無視した。返事をするのが恥ずかしかった為である。ただ、じっとチアキを見つめてから目線を腕時計に落とす。
時計をもう一度見つめてベンチから立ち上がった、彼女がハイカットのブーツを履いているからかいつもよりチアキの顔の距離が遠退いているのを感じて、表情には出していないが微かに眉を顰めたくなった。チアキが覗き込むようにイロハに顔を近づけた。
「もしかして言葉も出ないほど見惚れちゃってる?」
その言葉にイロハは呆れた顔でため息を吐いて、脇を通り抜ける。
「何バカな事言ってんですか。ほら、行きましょう」
「照れてる〜!可愛い〜!」
チアキは彼女を追い抜かないようにゆっくりとした足取りで後を追う。逸れた人混みに合流して駅構内から出る丁度その時、イロハが傘を取り出す素振りも見せないので、傘を持っていないということに気がついた。チアキは立ち止まりかけたが、背中を押されたのでイロハを連れて入り口の端に寄った。端には小屋のようなシュークリーム屋があって、店員は屈んで作業をしていたので声は掛けられなかった。
雨の勢いが一寸強まっていて、コンクリートの濡れた臭いがする。人が歩くたびにどこかで甲高い、靴と床が擦れた音がする。固いタイル全面が水で濡れていて、照明のせいでよく光っている。入り口で少し立ち止まって傘を開き、また動き出す流れをイロハは見ていた。
「イロハちゃん傘忘れちゃったの?」
「出るとき降ってなかったもので」
ふうん、じゃあ、相合傘だね。イロハの顔を見ずにそう言うと、雨の当たる境目に立って黒い傘を開いた。チアキが小さく手招きしている、その姿に黒い招き猫を思い出す。耳の赤い招き猫、丁度彼女の角の内側に似た配色をしている縁起物、けれどアレと違って瞳は黄色くない。
チアキが不思議そうに名前を呼んだ。どうしたのイロハちゃん、恥ずかしいなら傘買ってこよっか。イロハは首を振って傘の中に入った。チアキの表情が明るくなって、分かりやすく上機嫌だと伝えるように鼻歌を始めた。頭の中でレコードが回る。この曲は私の知らない曲だとイロハは思う。知らない円盤を台に載せて楽しそうにその曲や、作ったバンドや、歌詞について説明する横で腰を据えて本を読んでいる。古っぽい木の匂いと円盤から鳴る音楽と視界に映る文章で思考が埋め尽くされる、その瞬間、肩に何かがぶつかる衝撃で現実に引き戻される。
イロハの肩に何かが当たっている。柔らかな感覚の細い物。2人は広場を抜け、バスのロータリーを横切ろうとしていた。銀色の支柱に尻を乗せて座る人や、時刻表をカメラに収める人がいて、歪みなく綺麗な一列を作っている。湾曲したした透明なアクリルボードの屋根に発疹のような雨粒が浮き上がる。イロハは自分の肩に触れているのはチアキの二の腕だと理解した。
「人多いね〜」
のんびりした口調でチアキが呟いた。ロータリーを抜けた先は、目の前に大きな十字路があって四方をビルが囲んでいる。縦の信号が青色で、目の前から人の群れが白線を渡ってこちらに近づいてくる。チアキを見上げる、ボアコートの肌触りが心地いい。角と傘の黒地が重なって。傘が頭上を浮いている気がした。赤い目が、真っ直ぐ人混みを見つめている。
イロハの指にすらりとした冷たいものが絡まった。彼女は表情を崩さぬまま、真っ直ぐ歩いてくる群衆を視る。
「そうですか?」
「そうですよ?」
数秒して、2人はついに群衆の中に飲まれる。子供たちの喋り声、老人の咳、憂鬱なため息、男性の呻き声、女性の舌打ち。アスファルトと傘に打ち付ける雨の音。ピチャリと音を鳴らす靴。チアキはこの瞬間を上空から見た時の景色を思い浮かべた。多角形が所狭しと詰められた、カラフルなタイルを思い浮かべた。流れに逆らって川を上ってくる鮭にでもなった気分だ、誰も2人を見ていなかった。信号を渡り切った時、指は絡み合ったまま離れなかった。
チアキが上機嫌にイロハを見下ろした。普段帽子に隠れて見えないつむじが見えたので、珍しくてカメラを取り出そうとしたが両手が塞がってしまっているのを思い出す。右手には傘を持っていた。カメラで記録できないなら仕方がない、注意深くイロハの頭を凝視して頭で記録する。流れる髪からはいつもの甘い花の匂いではなく、石鹸の匂いがした。
「変わらないねえ」
「…………」
「ねえイロハちゃん、変わらないねえ?」
「主語が無いんですけど」
「言わなきゃダメ?」
「私と会話したいなら、どうぞ」
傘を雨に打たれる音は愉しく無いなとイロハは思う。
雨という天候は嫌いだ、建物を打つ、地面を打つ、人を打つ、その音をじっと坐って聴くことが我慢ならなかった。水滴は何万時間と掛けて石を穿つが、それは人の精神でも同じだ。長い時間をかけて、雨は心を削っていく。そういう時は普段嫌がっている騒がしさに縋りたくなる。今、隣で頭を左右に揺らすやかましい彼女が、縋るには丁度よかった。身体を私の方に寄せて、そこにいるのだと無意識に教えてくれるから、心は削れる事なく、安らいでいる。
それはね、とチアキが勿体ぶったように一拍置く。イロハはチアキがこれから話そうとしていることにあまり興味が湧かなかった。アップルパイを食べる店のことを考えている。その外装はきっと、緑色の塗料を使っている。クリーム色のレンガが建材の主役だ。内装は、ダークブラウンの木目調を軸にして、白い花が花瓶に生けている。空気に混ざって流れてくるうんざりするほどのバターの匂い。照らされて艶を輝かせる焼けたパイ生地の、小麦色の表面。切り分けて口に運ぶ始終を眺めているチアキは、静かなテーブルに肘を突いて、目を細めて笑っている。
「それはね、手の温度!暖かいけど、熱くはない、手の温度、分かる?」
「ええ、全然分かりません」
「うわ〜!興味ないやつだ〜!」
「よく理解してるじゃないですか。それで?まさか、手の温度が変わらないからって、寂しいとか言うつもりじゃないでしょうね。だとしたらあなた、贅沢者ですよ」
「イロハちゃんがそういうこと言ったって、甘くなるわけじゃないってのはよ〜く理解してるから言わないよ!いやまあ、本音はちょっと寂しい気もするけどさ」
「じゃあなんだっていうんです」
「悪くないな〜って、イロハちゃんが側にいるな〜って、安心する」
チアキの居る方と逆の方向から音がした。歩行器を押していた老人が濡れたところを踏んで滑ってしまったようだ。傘が歩道に転がり、ビニール袋から食品や雑貨が飛び出している。老人は、雨に打たれている。チアキが絡めていた指を解いて肩を掴んで後ろに引いた。足取りが乱れてバランスを崩しそうだったがチアキが背中に手を当てていたので転けることはなかった。イロハはチアキを見上げて睨む、何ですかいきなり。チアキは親指と人差し指でほんの少し、とジェスチャーして、人差し指を老人の方に向けた。
「これ持ってて!」
イロハに傘を押し付けて老人の方に駆け寄る。落ちた傘を拾い老人に渡す、大丈夫ですかと何度も声をかけて、自分が雨に濡れてるのも気にせず、老人が落とした物を拾い集める。老人は何度も頭を下げ、チアキにお礼を言っている。数十秒で集め終わり、チアキは老人を立たせた。濡れた膝を曲げた老人はまた何度も礼を言いっている。
イロハはゆっくりと近づいて、横倒しになっていた歩行器を落としてバッグの中に入れていたタオルで濡れた部分を拭いた。老人がこちらにも頭を下げた、見せた顔は歯が殆ど残っていない。
「怪我とかないですか?歩けます?」
「ありがとう、ありがとう、家そこなの、大丈夫だからね」
老人はその言葉を壊れたカセットテープのように繰り返して、歩行器を押す。イロハは曲がった背中を見つめていたが、背を屈めたチアキが強引に傘の中に押し入ってきた。チアキが窮屈にならないように腕を伸ばす。私にもタオル貸して、濡れちゃって冷たい。何も言わずにタオルを貸すと、チアキは髪と上半身をサッと拭いてタオルを返した。
「もうちょっと拭いても構いませんけど」
「あとは勝手に乾くよ。それよりあの人見送ってもいい?私心配でさ」
「傘一つしかありませんし付き合いますよ」
「やった!ありがとイロハちゃん!」
イロハはチアキに傘を渡して老人の後を追った。老人の言う通りほんの5分もすればドアを開けて家の中に入っていくのが見えたので、2人は安堵の息をした。
「ふぅ〜無事帰れてよかった〜。そうだ手、繋ご?私すっごい冷えてる今、イロハちゃんの暖かい手が欲しいよ〜」
期待で目を輝かせながら、指先が赤くなっている手のひらを差し出す。いつもは勝手にするくせに、イロハは溜息を吐いて、同時にそう悪態も吐いた。チアキは照れくさそうに笑って早く、早くと騒いでいる。手に触れると冷えた芯を熱を持ったカバーが覆うイメージができた。指と指の隙間に自分の指を挟んでいく。じっとチアキの目線に合わせると、彼女は分かりやすく逸らした。
「私の手の温度が安心するって話でしたっけ」
「変わらないのも悪くないんだなって話。そういうイロハちゃんは私と一緒で安心できてる?」
「さあ、どうでしょう。少なくとも、退屈はできませんよ」
「それ褒め言葉かな〜」
「それも、どうでしょう」
肩をすくめて微笑を浮かべた。困った顔のチアキの手が、静かに熱を帯びてくる。今まで意識していなかったが、チアキの言いたかった事がなんとなく、理解できた。
「しかし、早めに集合できたとはいえ時間は大丈夫なんですか?」
「それは大丈夫!確か今日はそこ曲がった道に居るはずだから」
「居るはず?店じゃないんですか?」
「あれっ車で移動販売してるって言わなかったっけ」
チアキの返事を聴いてイロハは、自身がイメージしていた店が崩れてしまい、思わず声を漏らしてしまう。角を曲がると赤とピンクで塗装されたキッチンカーが道路脇に停まっていた。のぼりとメニュー表を立て、雨だというのに客が行列を作っている。車内で店員が忙しく動いているのが見え、ショーケースに入っているアップルパイの残り数は行列の人間より少し多いくらいだ。
「うっそ〜……先週こんなに並んでなかったのに!?」
目を見開いてチアキが狼狽える。その様子を横目で流しながらいつもとなんら変わらないなと諦観気味にイロハは思った。一緒に出かけると大体ハプニングやトラブルに巻き込まれるのを、理解していた。そんなに焦らず、一回並びましょう。チアキの手を引いて列の最後尾に並ぶ。チアキは急に余裕を無くし、しきりに列から顔をはみ出させてアップルパイを買えるかを気にしている。
その行動もイロハからすればいつものことであった。予想外の出来事でチアキが慌てている時は、全く使い物にならなくなる。ただじっと待てばいいのに、なぜそれが出来ないのか不思議で仕方ない。だが、今日はあいにくの雨だったので、チアキが騒がしいのはむしろ救われた。列が捌かれるまで時間が掛かった。先ほどよりも落ち着いたチアキが、ソワソワと両足の踵を浮かせたりしている。
「行儀悪いですよ、そんなに焦らなくても、私たちの分は絶対残りますから」
「そうじゃなくて、私が気にしてるのは皆んなの分が残るかどうかだよ!5個買いたいの、前は2つしか買ってこなかったから。みんなにも食べて貰いたいし」
「……優しいですね」
列はどんどんなくなり、やがて2人の順番が来た。後ろには、もう誰も並んではいない。残っているアップルパイは先週買ってきたケーキカットのものではなく、中華料理の春巻きに似た細長いスティック状のアップルパイである。それが4本、チアキが望んでいた本数には1本足りないが、彼女はそれを気にすることなく、アップルパイを4つ、そう注文した。
「よかったんですか?」
撤収作業を始めたキッチンカーを背に、イロハが訊いた。どうやらチアキは食べないらしい。イロハは紙袋から1本取り出すと、白い包み紙の上から手で何度も触れて温度を確認する。全く、熱は死んでいた。溜息を漏らすと、チアキの肩が罪悪感からか震えた。
「ごめんね、冷めてるのしか残ってなくて」
チアキの頭が申し訳なさと落胆でがっくりと落ちた。イロハは貰ったスティック状のアップルパイを、大きな一口で頬張った。長さの半分あたりで噛みちぎって、気怠げに顎を動かす。チアキの目がとても驚いた様子でイロハを凝視していた。
「イ…イロハちゃん…?」
「まあ、冷めてるアップルパイでも、意外と悪くありませんね。ちゃんと美味しいです、ホラ」
噛み口が潰れたアップルパイの断面をチアキに向ける。両手の塞がったチアキは少し迷ったが、腰を曲げ、勢いよく差し出されたアップルパイに噛みついた。勢いついた雨は、傘を強く打ち付けている。