がん患者はアルツハイマー病にならない? 15年の研究が出した答え
「がんを患った人は、アルツハイマー病にほとんどならない」
臨床医の間では、以前からそう囁かれてきました。2020年の大規模解析でも、がん患者はアルツハイマー病の発症リスクが11%低いと報告されている。960万人以上のデータです。
ただし、この数字は慎重に見る必要があります。がん患者はアルツハイマー病を発症する前に亡くなるかもしれない。抗がん剤による認知機能への影響で、診断が見逃されているかもしれない。交絡因子は多い。それでも、何かがある。そう考えた研究者がいました。
2026年1月、Cell誌に一つの答えが示されました。華中科技大学のYouming Lu教授らによる、15年がかりの研究です。
シスタチンCという鍵
研究チームは、肺がん・前立腺がん・大腸がんをアルツハイマー病モデルマウスに移植しました。すると、がんを持つマウスの脳にはアミロイドプラークができない。
なぜか。
がん細胞の分泌物を6年以上かけて調べた結果、一つのタンパク質に行き着きます。「シスタチンC」。臨床医には腎機能マーカーとして馴染みのある検査値です。このタンパク質が血液脳関門を越えて脳に届き、アミロイドβの蓄積を防いでいた。
シスタチンCの働きは、アミロイドβに直接くっつくだけではありません。脳内のマクロファージである「ミクログリア」の表面に、TREM2という受容体があります。シスタチンCはここに結合し、ミクログリアを活性化させる。活性化したミクログリアはアミロイドβを貪食し、プラークの形成を抑え込む。TREM2を欠損させたマウスでは、シスタチンCの効果は完全に消えました。
TREM2という受容体の重み
TREM2がアルツハイマー病研究で注目されたのは、2012年のことです。TREM2のR47H変異を持つ人は、アルツハイマー病の発症リスクが約3倍になる。NEJMに報告されたこの発見は、APOE4に次ぐ強力な遺伝的リスク因子として衝撃を与えました。
TREM2が正常に働かないと認知症になりやすい。逆に言えば、TREM2を活性化できれば予防や治療につながる。そこまでは分かっていた。では、生体内で何がTREM2を動かしているのか。その上流が、今回ようやく見えた。
シスタチンC自体の神経保護作用は2007年のNature Genetics誌で報告されていました。アルツハイマー病患者の髄液ではシスタチンC濃度が低いことも知られていた。今回の発見の核心は、がん細胞由来のシスタチンCが末梢から脳へ届き、TREM2を介してミクログリアを動かすという流れを証明した点にあります。
薬になるのか
マウスでは、シスタチンCの投与で認知機能が改善しています。では人間に使えるか。
ここに厄介な問題があります。シスタチンCは一部のがんモデルで腫瘍の増殖を促すという報告がある。乳がんモデルでは、シスタチンCを欠損させたマウスの方が腫瘍が小さかった。「がん細胞が分泌するタンパク質」という出自を考えれば、発がんリスクの検証は避けられません。
高齢のアルツハイマー病患者は、同時にがんのハイリスク層でもある。日本では2025年時点で認知症患者が約700万人、高齢者の5人に1人という推計があります。その多くにシスタチンCを投与するとなれば、潜在的な微小がんへの影響は無視できない。「がんがない人には使える」という考え方もできる。ただ、現実的なハードルは高い。
シスタチンC自体を薬にする必要はないのかもしれません。TREM2はすでにアルツハイマー病の創薬ターゲットとして複数の候補が臨床試験に入っています。Alector社のAL002、Muna Therapeutics社の経口TREM2アゴニストMNA-001。2025年には低分子TREM2アゴニストの開発も報告されました。ただし、すべてが順調ではない。Vigil Neuroscience社のTREM2抗体は2025年に第2相試験で失敗しています。
それでも、シスタチンCとTREM2の結合様式が分かれば、がん促進リスクのない化合物を設計できる可能性はある。
「がん患者はアルツハイマー病にならない」という臨床の観察から始まった15年。その終着点は、新しい治療への入り口でした。
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乳癌についての解説の、本文への反映、ありがとうございました。これについて触れられていない情報も散見されますので、AIによる不正確な医療情報の拡散防止につながってくれればと思います。
胃癌や乳癌などについてはどうなのでしょうか? まだ検証途中でしょうか?それとも、理由があって当初から検証には含まれていなかったのでしょうか? 外科医様にとってはご専門分野ではないかもしれませんが、アフェリエイターのような無責任な方ではないと拝察し、不躾ながらお尋ねいたしています。
コメントありがとうございます。 今回のCell論文で検証されたのは肺がん・前立腺がん・大腸がんの3種類で、胃がんや乳がんは含まれていません。明確な除外理由があったというより、マウスモデルとして確立されたこの3種で検証を進めた結果と思われます。 ただ、乳がんについては少し事情が複雑で…