【独自取材】「SaaS is Dead」の次の話をしよう
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Anthropicの「Claude Cowork」への注目をきっかけに、SaaS企業の時価総額が急落した。しかし、百家争鳴の「SaaS is Dead」議論が進むにつれ、市場は徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようにも見える。
これまで議論の中心には、「内製」「エージェンティックAI」「シート課金から成果課金へ」といった論点が並び、SaaSの崩壊が語られてきた。
一方で、「Anthropicは人事管理にWorkdayを使っている」といった指摘も出ており、既存SaaSの置き換えが想像以上に難しいこと、あるいは行き過ぎた論調への疑義を示す立場も強まっている。過渡期ならではの論点が交錯している状況だ。
こうした中、国内最大規模の未上場SaaS企業であるSmartHRは昨日、メディア向けに「SaaS×AI」の現状を示す報告会を実施した。会場には大手経済誌を含む約20名の記者が詰めかけ、関心の高さがうかがえた。
Next SaaS Media Primaryでは、代表取締役CEOの芹澤氏に独自取材を行い、一般的な説明にとどまらない、AIの実態を深掘りした。
2016年、SmartHR⼊社。2017年にVPoEに就任、開発業務のほか、エンジニア チームのビルディングとマネジメントを担当する。2019年以降、CTOとしてプロ ダクト開発‧運⽤に関わるチーム全体の最適化やビジネスサイドとの要望調整も 担う。2020年取締役に就任。2022年1⽉より現職。
*なお、記者向け説明会の内容は、現在論じられている「SaaS is Dead」論の論点整理と、それに対するSmartHRの見解が中心となった。本記事では説明会の詳細には踏み込まず、ここでは芹澤氏への独自インタビューをお届けする(他社記事がリリースされ次第、本稿にリンクURLを追記していく予定だ)
「SaaS is Dead」論争へのスタンス
――― こちらのブログや今回の発表も含め「SaaS is Dead」議論に対して積極的に発信されています。背景に何かネガティブな影響はあったのでしょうか。
芹澤氏:いえ、特段そのようなことはなく、シンプルに、事実を正確に伝えるべきだという考えからです。採用やステークホルダー含め直接にネガティブなことは起きていません。
――― 会場には多くのメディアが来ていました。SNSでの注目の高さも含め、なぜこれほどまでに「SaaS is Dead」への関心が高いとお考えですか。
芹澤氏:非常に分かりやすい「分断構造」だからではないでしょうか。典型的なジャイアントキリングの物語といいますか、新しい技術革新によってディスラプトされるかも知れない構造は、非常に興味を惹くものだと思います。
これまでSaaSは相対的に勢いがあり、注目されてきました。それに対して「いよいよ脅威が現れた」という対立構造を作れることが、面白がられる理由でしょう。
私たちもAIは非常に興味深い技術だと捉えています。「SaaS is Dead」という側面が取り上げられがちですが、そうではない側面もあるということを、正確に伝えておく必要があると考えています。
SaaS企業株価の急落はどの程度実態を反映しているのか
――― 空中戦の議論が多い時こそ、「具体」でお聞きしたいと思います。SaaS企業のファンダメンタルを見ると、米国を含め、足元でチャーンレートが急上昇したといった事例は「まだ」出ていないように見受けています。
芹澤氏:おそらく、まだそのような事例はないはずです。
――― 一方で株価に関してはボラティリティが高まっています。 これまでのSaaSのビジネスモデルは「ID数 × 単価向上」という両軸で成長してきました。この構造が崩れることと株価の下落が同義であると捉えられている節がありますが、実態としてどの程度織り込まれているとお考えですか。
芹澤氏:投資家の方々とも頻繁にコミュニケーションをとっていますが、彼ら自身も「何かが起こったから評価を下げた」という確固たる根拠を持っているわけではないようです。結局のところ、センチメントに左右されている部分が大きいといえます。
ただ一つ言えるのは、SaaSが高いバリュエーションを得ていた前提には、高い成長率と、それが中長期的に持続するという見立てがあったことです。大企業であっても年間20〜30%の成長を継続している実績があり、そこに投資すれば安定的に利益が得られるという期待がハイバリュエーションを支えていました。
しかし現在、AIの有無に関わらず、市場の飽和などによって成長率が鈍化しているのではないかという見方が、まず米国で出始めています。「中長期的に急成長を維持するのは難しいのではないか」という懸念です。
そこにAIが登場したことで、中長期的なビジネスモデルの持続性が揺らいだと見られています。足元の業績というよりも、将来的な展望において「かつてのような高い評価はつけられない」と判断されているのが、現在の総論ではないでしょうか。
――― SmartHRとしては、自社のバリュエーションの正当性を説明するロジックに大きな変更はありましたか。
芹澤氏:基本的には変わりません。ただ、AI以前からSaaSにも利益重視の姿勢が求められるようになっています。そのため「利益を確実に出している」というエクイティ・ストーリーは強調するようになりましたが、それ以外は同様です。何より、高い成長を継続しているという実績で示すことが最も重要だと考えています。
実績と利益を両立させつつ、中長期的にAIを活用してさらなる高成長を目指す。このセットで投資家の方々には訴求しています。
単価向上、課金形態をいかに考えていくか
――― AIが統合されることでユーザー価値が飛躍的に高まるのであれば、自然と付加価値に見合った単価向上の余地があると思います。
芹澤氏:おっしゃる通りです。実際、私たちが提供しているAIアシスタント機能などはオプションとして別料金を設定することで、事業成長に寄与しています。
――― AIエージェントの文脈では、かえって単価向上が難しくなるという議論(AIエージェントがSaaSを操作することでSaaSの付加機能余地が少なくなるという指摘)も一部にありますが、どのようにお考えですか。
芹澤氏:それは事業形態やサービス内容に依存するでしょう。弊社のサービスにおいては、価値を感じていただけるオプション機能を提供することで、単価は確実に向上しています。具体的な数字は公表していませんが、非常に良好なトラクションを得られています。
――― AI時代には「ID課金(シート課金)」から「成果課金」や「従量課金」へ移行する見方がありますが、どのようにお考えでしょうか。
芹澤氏:実態を見ながら段階的に変遷していくものだと考えています。課金モデルを検討する上で重要なのは、ビジネスモデルと生成AIの用途、そして「原価」の考え方です。
生成AIは従来のウェブ技術と異なり、原価(API利用料金など)が相応にかかります。文章作成やOCR(光学文字認識)程度であればそれほどではありませんが、画像や動画の生成、音声分析などを行うと、APIコストがそのまま跳ね返ってきます。
SaaS側が定額制のまま、AI機能が際限なく使われると、赤字になるリスクがあります。そのため「使った分だけ支払う」あるいは「アウトカム(成果)ベースの課金」という議論が出てきているのです。この原価構造の話は、一般的にはあまり語られていませんね。
――― AIをソフトウェアとして組み込んでいく場合、ベース料金にプラスして、AI機能の価値に応じた従量課金となるのが自然だということですね。
芹澤氏:そうなると思います。現在、多くのSaaSベンダーは自らモデルを開発しているわけではなく、OpenAIやGoogle、AnthropicなどのモデルをAPI経由で利用しています。そのため、モデル使用料という変動費が発生します。
一方、自社でモデルを開発している企業であればマージンを抑えられ、より安価で高品質なサービスを提供できる可能性があります。こうした構造はプロダクト戦略にも反映させています。「他社がより高性能・低価格なモデルを出してきたらどう対抗するか」といった点は、戦略上の重要な論点です。
生成AIによる開発環境の変化と差別化の困難さ
――― 「成果課金」については、請求書処理のように「1枚いくら」と明確なものは良いですが、「人事評価をAIが支援する」といった場合の成果を数値化する難しさがありそうです。
芹澤氏:非常に難しい問題です。外部コンサルティングやBPOへ外注する場合であれば市場価格がありますが、エージェンティックAI(自律型AI)にはまだ適正な市場価格が存在しません。
コンサルティングに出すよりは安くなるでしょうが、品質や、誤りがあった際の責任の所在といったリスク面を加味すると、「本当に安くなるのか」という点はまだ見極めが必要だと思います。
――― AIによってSaaSの開発コストが劇的に下がり、競合が過多になって利益率が下がるという指摘については、どのようにお考えですか。
芹澤氏:世の中には「生成AIでSaaSを作れば、従来の数分の1の価格で提供できる」という論調もありますが、実態としてはそれほど単純ではありません。
PLを精査しても、研究開発費を多少削ったところで、製品価格を5分の1、10分の1にすることは不可能です。この点は、より会計的・財務的な視点で冷静に見ていただく必要があります。
――― 開発コストが下がったとしても、既存のシステムからのリプレイスコストやマーケティングコストを考慮すれば、新興勢力が必ずしも有利とは限らないということですね。
芹澤氏:生成AIでコストを下げられるのであれば、既存のプレイヤーである私たちも同様に下げることが可能です。
機械学習の時代は、技術を持つ会社と持たない会社で明確なスタートラインの差がありました。しかし、生成AIは良くも悪くも、誰もが同じモデルを利用できるため、技術的なスタートラインに大きな差がありません。モデル開発会社を除けば、各社は等しく進化していくことになります。
――― 実際に「フルAI開発で超低価格」を謳うようなスタートアップは、まだ目立った動きを見せていません。
芹澤氏:学生起業家などとも話をしますが、LLM(大規模言語モデル)を軸に起業した方々は、差別化ができないことに非常に悩んでいます。自社ができることは他社もできてしまう。
「ラストワンマイルの品質保証」ができないという課題もよく耳にします。AIチャットボットが誤った回答をした際、なぜその回答に至ったのかを説明し、精度を100%保証することが現段階では非常に難しいため、顧客への責任を果たしきれないというジレンマがあります。
SmartHRは大企業向けにいかにAI価値を届けるのか
――― 米国ではPE(プライベート・エクイティ)ファンドのSaaSスタートアップ投資リスクがささやかれるなど、未上場市場でも投資家の心理が悪化したりしています。こうした影響は日本にも波及するでしょうか。
芹澤氏:投資家の意見も三者三様です。ソフトウェア投資において未曾有の事態が起きているため、誰もが独自の視点を探っています。
個人的に信頼できる投資家からは「短期的なトレンドに振り回されすぎてはいけない」と意見をもらっています。株価にはサイクルがあります。現在AIが注目されていますが、だからといって既存の強みを捨ててAIに全振りすることが正解とは限りません。
結局のところ、ユーザーの価値を第一に考え、喜ばれるものを提供し続ければ、価値は後からついてくる。長期的な視点を持つことが重要だ、という感覚で見ています。
――― そうした時こそ、ユーザーに向き合うことが大切ですね。以前伺った「基幹システム化」という目標に対し、現在のエンタープライズの顧客のAI活用に対する意識に変化はありましたか。
芹澤氏:実を言うと、大企業のバックオフィス領域においては、AI活用の要望はかなり少ないのが現状です。世間で懸念されているようなリスクも、実際のビジネス現場ではまだ顕在化していません。
――― 今後、どのように大企業へAIが浸透していくとお考えですか。
芹澤氏:私たちは「AIであることを強調しない」ことが重要だと考えています。実は裏側でAIが動いている、という形で自然に組み込んでいくのが最適手法だと思います。
例えばOCR機能も、裏側でLLMが動いていると言わなければ誰も気づきません。問い合わせ対応ボットも、検索の延長として自然に利用されています。「AIを使うぞ」と意識させずに利便性を提供することが重要です。
――― 新興企業であればSmartHRのようなクラウドSaaSをフル活用して効率化できますが、従来型のシステムやSIerによる個別開発システムが残る大企業の場合は、どのようになっていくのでしょうか。
芹澤氏:SIerが「AIer」に進化して対応するのか、あるいは別の形になるのかは、まだ見極めが必要です。ただ、AIの登場に関わらず「オンプレミスからクラウドへ」という流れは依然として強固です。現時点では、まずクラウド化が次のステップであることに変わりはありません。
SIerのAI化とSaaSの優位性
――― 最近では、富士通がシステム開発をAIに置き換えるといった報道があるなど、大手SIerの全面AI化を打ち出す動きも出始めています。
芹澤氏:その動きは注目に値します。ただ、大手のSIerが大企業のシステムを構築・運用する場合、莫大な運用費が彼らのビジネスモデルの核になっています。AIを活用して開発コストを10分の1に下げたとしても、彼らが進んで受注価格を下げる動機は薄いでしょう。
その場合、価格は据え置きで機能がリッチになる方向へ進むかもしれませんが、ユーザーが本当にそれを求めているかは別問題です。それならば、より安価で汎用的なSaaSの方が良いという判断も十分にあり得ます。SIerが自らのビジネスモデルを破壊してまで低価格戦略に踏み切るかは、懐疑的な部分もあります。
彼らのビジネスは大企業からの安定的な運用費に支えられていますから、その構造がどう変化していくかが鍵となるでしょう。
――― この1〜2年、SaaSベンダーの間でも大手志向が強まり、SIerやコンサルティングに近い、プロフェッショナルな導入支援サービスを強化する動きが目立ちます。SmartHRでもこのあたりの動きは強化されているのでしょうか。
芹澤氏:はい、強化しています。コンサルティングや導入支援をセットで提供する体制は、実は以前から構築していました。エンタープライズ部門にはプリセールスや導入後のサポート専門チームがあり、最近はその人員もさらに増やしています。
「既存のシステムが限界を迎えている」「保守期限が切れる」「コストを削減したい」といった、足元の切実な課題は引き続き残存しています。タレントマネジメントについても、人的資本経営というお題目で始まっても、実態としては「評価業務のDX」であることがほとんどです。
私がVCならAI全振りのスタートアップには投資しない
――― 最後に思考実験として伺いたいのですが。もし芹澤さんがVCの投資家としてソフトウェア企業に投資するなら、どのような会社を選びますか。
芹澤氏:そうですね、法規制に深く根差している、あるいは構造化データの入力が大量に発生する領域を扱っている会社を選びます。「このサービスを利用し続けることで、独自の貴重なデータが蓄積されていく」という確信が持てるサービスです。AIを導入しているかどうかは、投資判断の優先事項にはしません。
――― それは日本市場特有の文脈においても重要ですね。
芹澤氏:欧米でも同様でしょう。法規制やコンプライアンス、ガバナンスに密着したサービスは簡単に代替できません。
逆に「AIに全振り」している会社には投資しません。数年以内に、世界的にAI規制が導入される可能性はゼロではないと考えているからです。電力消費や水資源の問題など、AIの持続可能性に対する懸念は高まっています
何らかの限界や規制が訪れたとき、AI一本足打法の企業の価値は大きく揺らぎます。
リスクヘッジの観点からは、現在のトラクションがしっかりしており、かつ容易に代替されない強みを持つソフトウェア企業、すなわち先ほど挙げたような条件を満たす企業を注視すると思います。
(企画・取材・執筆 Primary 運営責任者 早船 明夫)
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