屯田近辺スーパーマーケット今昔物語③ 80〜90年代栄枯盛衰編
【閉店】 生協(コープ)屯田店 (1980-2001)
屯田4-7、今は閉店しており建物も存在しない。今はパチンコ店が建っている。
この店舗の写真をネットで探してみたが全然見つからない。生協の社史も漁り、他の店舗の写真はあったが、屯田店の写真はなかった。携帯電話にカメラが付いたのは2001年頃だし、デジカメがフィルムカメラを逆転したのもその翌年なので無理もない。わざわざ24枚撮りのカメラで生活圏の写真を撮る人は希少だろう。
図書館に行って屯田の本を眺めていたら、かなり引きの画なら何枚かある。屯田西商店街の写真である。右端に生協のロゴが見える。南側から北側に撮ったもの。
1981年に撮られたものなので生協開店から1年後。今はここに写っている全ての建物が取り壊されている。真ん中のビルはミズキ薬局だろう。野崎ビルと書いているビルとミズキ薬局は、一体化しミズキ、野崎共同ビルになった。その右横には今は美容室がある。手前の和寿司は移転し、この写真だと奥の方になる。
それから8年後くらいの写真。手前の野崎ビルはミズキ、野崎共同ビルになった。ここの郵便局開局が1984年なので、おそらくこのビルは1984年に建てられた。一時期ブックオフが入っていたことがある。(身内の会社がここに事務所を借りていたこともあるので一時期よく行っていた)
同じような角度で撮るとこうなる。
1993年の別アングルの写真もあり、北から南向きに撮った写真で右側の奥に生協の看板が見える。山海園は既にあるが、千秋庵は選挙事務所になり、文房具店は写真館になって今は建て替えられている。見切れているが写真館の左横はレストランだった。右の建物の1990年に建てられた。1階はいまはリサイクルショップだが、その前はレンタルビデオ店(サンホームビデオだったかな?)で、その前の店舗名は覚えてないがブルーハウスのような雰囲気で雑貨が売っていた。このビルが建つ前の80年代後半にはここにプレハブの小屋があり、そこでリサイクルショップを行っていたが、突然閉店した(盗品を売っていたという噂が立っていたが真相は不明)。
生協はホクレンの向かいにあった。ホクレンの項にも書いたが、ホクレン開店から5年後の1980年に開店している。物心ついた時にはホクレン・生協共にあったのでほぼ同時期に建ったと思っていた。そして、ホクレン閉店の10年も前に閉店しており、たった20年ちょっとで営業を終えている。イトーヨーカドー屯田店が25年なのでそれより短かったとはなかなか信じ難い。
80年代中盤の小学生の頃、一番思い入れがあるのがこの生協だった。
おもちゃ売り場もあり、ファミコンのカセットも売っていたしジャイロのロボットもあった。キン消しもガンプラも売っていた。あまり見かけないようなガンプラ(アッグガイとかゾックとか)もここに売っていた。
本屋もあって立ち読みもできたのでDr.スランプを読んだ。
アニメソング大全集みたいなカセットテープがワゴンに入って売っていたりと子供にとってはホクレンよりも魅力的だった。
お盆の時期になると(おそらく)ホクレン、生協共同で夏祭りをやっていたのでよく行った記憶がある。
屯田の夏祭りと言えば江南神社の例大祭と、現在は屯田公園で行われている屯田夏祭り(その前は屯田南小学校の北側の空き地、さらにその前は当時からサンイチと呼ばれていた球場 - 今の屯田一番通り公園)が有名だが、その夏祭りとは別の、がホクレンと生協の間で行われていた祭りもあった。規模は小規模だが地元の小中学生がここに大集合していた。
しかし未来永劫あると思っていた生協屯田店は2001年に閉店。1999年のイトーヨーカドー屯田店の開店が影響したのだろう。個人的にもそのあたりからここから足が遠のいた。建物は取り壊され、2008年からはパチンコ店(プレイランドハッピー)となっている。80〜90年代にしのぎを削ったホクレンと生協はパチンコ店とその駐車場と化した。
生協はそれから10年後に少し北に行った所にモダンな店舗で新規開店した。
なお、コープの名前はこの頃からあったが、みんな「せいきょう」と呼んでいた。今の生協はみんな「コープ」と呼んでいて、「せいきょう」というと子どもたちにナニソレ?という顔をされてしまう。
生協が出来た頃には、屯田の代表的な商店街が4つあった。一つがこの店舗があった屯田西商店街。この屯田西商店街が一番賑わっていて、ヨーカドーができるまでは屯田のメインストリートだった。今は完全にピークアウトした感はあるが、まだその体をギリギリ保っている。この商店街は5条南側から、4条全部、3条北側まで続いていた。3条北側にはホビーハートという模型屋があり、閉店セールには大量の少年が押し寄せた。自分はセールという響きに惹かれて要らないものまで買ってしまった苦い思い出があり、この経験によって安価だからといって買ってはいけないと教訓を得た。この建物はレトロで味のある建物だったが、2010年代に取り壊され駐車場になっている。麻01のバスに乗っていたらちょうど解体工事をやっている場面に出くわし切ない気持ちになった。
その他3商店街は今やシャッター街、または店舗取り壊し後に住宅が建っていたりと、商店街の体をなしていない。
屯田中央町内商店会は屯田4-5あたりで屯田ストアーが中心。中央分離帯があるあたりに店があった。90年代で既にシャッター街化していたと思う。2010年頃まではまだ商店街の名残があったが、今はほぼ住宅になっていて、居酒屋だけが残っているようだ。角にあった重寿しの前に自販機があったがそこにメッコールが売っていたのを妙に覚えている。
屯田中央商店会は屯田3−3で、バス通りにある。屯田中央公園の並びにあった。中村商店は店頭にガチャガチャが置いてあったりプラモデルが売っていたりと子供にとっては有名な店だった。他にも理容院や個人商店もあったが、今は小売の商店はなくなり工務店が入っている。
屯田5丁目商店は屯田3−5あたりでこれもバス通りにある。バンビ公園の向かいにあった。小売店や自転車屋があったように思う。今は美容院・理容院だけが数件残っている。
具体的な店名についてはここでは細かく触れないが屯田九十年史(1978年)に詳しく書かれているので興味がある人は読んでみると面白いかもしれない。1978年に書かれたということは生協開店前であり、この頃はまだ活気があったということだ。だが80年代後半には陰りが見えていた。十数年ほど前から、イオン出店で地元の商店街がシャッター街になったと言われ批判されているが、屯田のこの時期はホクレンと生協がそれを助長した感はある。
【閉店】 大丸スーパー→フレッティ大丸 (1981-1987-2002)
新琴似9−2にあった。新琴似駅近くの新琴似五番通り沿い。
屯田と新琴似は分厚い防風林で隔てられているため、屯田から新琴似へ抜けられる道路は少ない。新琴似通の一つ東側の抜け道は屯田一条にある地味な道路だが、意外とこの道を通る人は多く交通量もまあまあある。
公設市場の項で書いたが、新琴似通りは70年代後半まで寸断されていたが、つよし幼稚園の角から新琴似まで斜め一直線に貫通させた。ここの抜け道はそのオプションはなかったのだろうか?二番通りから屯田一条までの道路(屯田一番通り公園横の道路)を新琴似通りのように繋げてしまえば、かなり通りやすい道路になるのだが今となってはもう無理である。
その抜け道、屯田一条から防風林を抜けて新琴似に入り、左手にあった勤医協を抜けたあと、地味な新琴似五番通りの角、新琴似第一公園の手前の交差点にこの店はあった。ただ、大丸スーパーの頃はよく知らないし、フレッティ大丸の頃には入ったことはなかった。
ここに北海市場が出来てからはよく行っていた。ただそれについては別の項で書くのでここでは割愛する。
なお古い住宅地図を見ているとここより北側の角にS&Sそうま、というスーパーもあったようだ。そうまについてはググってもほとんど情報がない。
【閉店】 フランクショップみどり (1981-1996)
新琴似12-11、閉店。屯田西商店街から防風林を超え、こうほく幼稚園を抜けて新琴似六番通りの角地にあった。現在はローソンの向かいにあるABUというダンス教室?になっている。写真は見つからない。そもそもフランクショップみどりでググっても全くひっかからない。
住宅地図に拠ると、1981年まではショッピングマルフク(忠海商店)、1982年〜1996年までがフランクショップみどり、1997年からは表記が消えたのでタイムラグを考慮すると、1981年から1996年まで存在していたと思われる。個人的にはまったく行ったことがないので何の思い入れもないが屯田からは近い場所だったので、名前は妙に覚えている。
新琴似連合町内会が出している新聞「新琴似」の縮刷版を見ていたらフランクショップの名前が出てきた。「みどり」は食料品・青果・鮮魚・精肉・惣菜・生花・靴・手芸・クリーニングとある。「しんこう」の方がそれに加えて衣料品も置いている。
ここからまっすぐ新川通り側へ抜けようとすると新川通りの手前に、姉妹店?のフランクショップしんこうがあるが、そちらは今も営業している。昭和感溢れる建物は味があって大変良い。
「みどり」というのは新琴似緑小の近くだからだろう。「しんこう」も新光小学校の近隣にある。新琴似緑小の「緑」はなんだろうと思って調べてみたら、屯田防風林の近くで緑が多いからだそうだ。
なお、新光は新川小と光陽小から派生したので、新光だそうだ。
「フランクショップみどり」は行ったことはないが、「しんこう」は大人になってから行った。今となってはかなり貴重な店舗であり、昭和レトロマニアの方は是非行って買ってもらいたい。店舗の角には段ボールなどが山積みになっていたりはするが、昔懐かしの精肉コーナーがあったり、入り口に衣料品コーナーがあったり、個人商店よりは少し大きいスーパータイプの店舗といった趣でものすごく懐かしさを感じる。
【閉店】 札幌フードセンター新琴似店(1983-2002)
新琴似11-6、既に閉店。新琴似通と新琴似六番通の交差する箇所にあった。今はセイコーマートがあるが当時と同じ店舗のままである。
セイコーマートは右半分だが、かつては左半分含めすべてフードセンターだった
新琴似通りを通って屯田に帰る際、フードセンターが見えると屯田まであとと少し、防風林を超えてつよし幼稚園の三角形の看板が見えると、屯田に入ったなぁと思ったのが、物心つくかつかないかの頃の記憶。
店舗自体はちょうどその頃に出来たばかりだったようだ。
住宅地図に拠ると1983年の地図ではフードセンター建設中と記載があった。翌年1984年にはフードセンターになっていた。タイムラグを考慮すると1983年には出来ていたと思われる。その後、2002年に新琴似駅近くにマックスバリュが出来て、移転扱いで閉店しその後セイコーマートになった。ただ、結構離れているので移転と言われてもピンとこない。
現在はセイコーマートの他に複数の店舗が入っているが、フードセンターの時代はフロア全体がフードセンターだった。確かにセコマでは旧店舗の規模だと広すぎる。
新琴似にあるので屯田民はあまり行かなかったかもしれないが、防風林近くの屯田に住んでいた人は結構近かったのではないか?
屯田を通るバス(麻01/麻03)も新琴似六番通りを通っていたのでこのフードセンターはよく見ていたはずである。
そういえば、2000年にJR新琴似駅が高架化されるまで、この道を通って麻生まで行く場合は踏み切りを超えなくてはならず、冬の朝ラッシュ時は屯田から麻生に行くまで1時間くらいかかったものだった(片側1車線なのでとんでもなく時間がかかる)。今は冬でも20分かからず麻生に着く。
この素晴らしく貴重な動画に新琴似六番通りの踏切が映っている(1999年頃)。高架化されてから、あまり踏切を通らなくなった。たまに通っても発寒のイオンに行くときに函館本線を跨ぐときか、篠路の横新道で学園都市線を跨ぐ時くらいだろうか。
それと、1985年頃、新琴似のイトマンスイミングスクールに通っていたがそのバスはこの通りを通っていたはず(その頃もイトマンは新琴似四番通り沿い、新琴似図書館の向かって右側にあった)。
なおここのセイコーマート自体は80年代から新琴似六番通り沿いにはあったようで古い新琴似新聞を眺めていたら広告が出てくる。フードセンター撤退後に居抜き移転したのだと思う。
【閉店】 MOT屯田店→MOT黒潮市場屯田店→スーパーエース屯田中央店 (1989-1998-2002)
MOT(モット)は屯田6-6にあった。北側には江南神社と屯田小学校、西側には広瀬商店があった。
今のブックオフは柱まで店舗が拡大している
既に閉店しているが建物自体は残り、今はブックオフが入っている。
以下の写真はスーパーエース時代だが、南側から撮られたもので、奥には屯田小学校の旧校舎が見える。
MOTはちょうど平成元年の6月に出来た。
通っていた中学校の近くでもあったが、あまり頻繁に行った記憶がない。
江南神社の例大祭の時はここで友達と集合した記憶はある。
ここから西側、広瀬商店の並びには道路を挟んで誠文堂という本屋があり(少し前はパチンココンコルド、今はやわらぎ斎場になっている)、学校帰りの寄り道ルートとしてはこの本屋にはよく寄っていたが、MOTに寄った記憶はほとんどない。
MOTは中央バスの小会社である中央バス商事が運営していたスーパーの屋号であり、今は事業から撤退している。なぜバス会社がスーパーをやっていたかというと、鉄道会社がデパートを持つのと同じだろう。バス停のあるところに小売店を置きたかったのだと思う。ちょうど屯田小学校前というバス停がある。かつて、鉄道会社の多くがプロ野球球団を持っていたが、それも球場に行くために鉄道を使ってほしいからである(阪神、阪急、近鉄、南海、国鉄、西鉄、西武、東急など)。
1998年に中央バスが撤退した後は、MOT黒潮市場屯田店という屋号となったようだが全然記憶にない。住宅地図に拠ると、1999年版はMOT黒潮市場屯田店と書いてあったが、2000〜2002年版は、スーパーエース屯田中央店と書いてあり、2003年版はブックオフ新屯田店と書いてあった。
ちなみに、以下はMOT琴似店の解体について書かれた記事である。
読者から寄せられた情報では、北海道中央バス商事の運営による「MOT」は1998年2月で終了し、黒潮市場が引き継いで、1998年5月から9月まで「MOT黒潮市場」となり、同年9月以降は、首都圏スーパーを展開していたフレックが「MOT」を運営、2004年頃まで続いたという。
黒潮市場を運営していた一藤水産のWikipediaがあった。
1996年に、丸井地域開発(丸井今井傘下)と共同で黒潮市場北海道を設立。1998年には北海道中央バスグループの中央バス観光商事が運営するMOT6店舗の内5店舗の無償譲渡を受けた。店名はMOT黒潮市場となり、従業員もそのまま移籍した。札幌周辺で7店舗を展開した。一藤水産本体の破綻から少し遅れ、黒潮市場北海道も9月14日に営業を停止し、屯田店はスーパー松下(スーパーエース)、残り4店舗はフレックが引き継いだ。
道新の縮刷版を追っていくと、1998年2月27日付けの記事で中央バス商事が黒潮市場北海道に経営権を無償譲渡するという記事が載った。しかし同年4月21日の道新では黒潮市場を経営する一藤水産が自己破産申請したという記事が掲載された。そして同年10月6日付けの記事で、経営難で閉店したMOT黒潮市場屯田店をスーパーエース屯田中央店として開店すると記事があった。
中央バス商事はあくまでも店舗などの資産は保有したままで経営を黒潮市場に任せる予定だったが、黒潮市場が早々に破産。それで次の営業譲渡先を探した結果、当時のスーパーエースの経営を行っていたスーパー松下に譲渡したということらしい。
黒潮市場だった時期はかなり短く半年ほどだったようだ。
なお、スーパー松下自体も2000年に経営難に陥り、りょーゆーの子会社となる。その後2006年に松下はHGCに売却されるが、今現在は全日本食品の兄弟会社となっているようだ。
本体である一藤水産と黒潮市場北海道は一応別の会社だが、1997年には拓銀破綻、丸井今井もかなり危なかったのでそれも関係しているのかもしれない。
以上、考慮した上で纏めると、1989〜1998年までMOT屯田店、1998年の数ヶ月間がMOT黒潮市場屯田店、1998年途中からスーパーエース屯田中央店となり、2002年からブックオフとなる。2002年頃に閉店したのは、ヨーカドーの影響だろう。同年に生協屯田店も閉店している。
1998年のスーパーエース屯田中央店
その頃屯田にスーパーエースが2店舗あったということになるが、全然気にもとめていなかった。
BookOff Plus+ 屯田店
今はブックオフだが、ブックオフになってから20年以上も経っているのでここが元スーパーマーケットだということを知る人は減っているだろう。なお、2002年の地図でブックオフ"新"屯田店と書いてあったのは、屯田のブックオフが4条7丁目の郵便局が入っているミズキビル内にあったからである。いま「くるみ」になっている箇所で、90年代後半から数年間はここにあった。その前はそうご電器だった。
向かいにあった広瀬商店はすでに閉店してアパートになっている。
以下は在りし日の広瀬商店(おそらく1978年ごろ)だが、これは移転前。屯田三番通の拡張前は広瀬商店は江南神社の西隣にあった。つまり今のACBの横である。向かいにはニューホームラン食堂と書いてあるが、この場所が移転した後の広瀬商店の場所である。ニューホームラン食堂は広瀬商店が経営していたとのこと。
以下は1980年で、手前に鳥居があるので江南神社と屯田三番通。鳥居の斜向かいにあるのがニューホームラン食堂だろう。
1980年撮影
移転後の広瀬商店
自分が知っている広瀬商店はこの外観だが、今はもう建物自体存在しない。閉店がいつ頃だったか覚えてないが、2012〜2014年くらいだったと思う。まもなく閉店だということを知らず、店に入ったが、もう商品はほとんどなく閉めるのかな?という雰囲気だったことは覚えている。80〜90年代ごろまで多くあった個人商店は廃業するか、コンビニに転換するなど形を変えていったが広瀬商店は120年近く生き延びていた。
昔の広瀬商店があった場所には、今は顕彰碑が集まる場所となっている。その西側にはACB(あしべ)という地元民にも大人気の銭湯がある。ここは1991年に出来たはずである。ACBは札幌市内にいくつかあった(伏古など)が今はここにしかない。人気YouTubeチャンネルの黙飯にも登場して話題になった。
なお、MOTというスーパーは今や誰も知らないスーパーになってしまったが、中央バスの関連会社の運営だったということもあり、中央バスの社史には結構出てくる。その本の中で琴似店の写真は発見した。琴似店の住所自体は二十四軒、旧5号線沿いのあったとのこと(坂ビスケットの近く)。
MOT琴似店の写真
スーパーエース屯田店 (1990-)
立体造作のある看板はスーパーエースとして建てられた建物の証
屯田5-3、屯田二番通りと新琴似通沿いの交差する角にあり、今も営業中。近隣には屯田南小がある。それ以前は何もない空き地(か、畑のどちらか)だった。
屯田の中でこれ以前にできたスーパーは全て閉店しており、今や最古参となったスーパーである。
かつてこの周辺に住んでいたにも関わらず、一体いつ出来たのかあまり記憶になかったが、当時の道新に載っていた開店情報に拠ると1990年の4月だった。そう言われてみると、開店直後にスーパーエースの横を通ったら工藤静香の当時の大ヒット曲「くちびるから媚薬」が流れていた気がする。個人的にもそういえばクレアラシルをここで初めて買った気がする。ニキビができ出した年頃である。
スーパーエースには別のスーパーが撤退した後に居抜きで入るイメージがなんとなくある。2024年現在、北海道にスーパーエースは7店舗ある。アレスパ美香保店(北18東8)は松下商店から始まり50年近く運営。30条店(北30東8)はもともとハッピーという店にスーパーエースが入った。花川店(花川南)はフレッシュマートからの転換。北18条店(北18西4)は空いているビルに居抜きで入った店舗。北34条店(北34西4)はスーパー丸正からの転換。大曲店はジョイフルAK内の店舗。
そして、このスーパーエース屯田店は初めからスーパーエースとして作られたスーパーエースの独立店舗であり、北海道にはただ唯一のスーパーエースとなる。要するにスーパーエースの中のスーパーエースなのである。
このスーパーエースが出来た頃の競合としては、一番近かったのがパルティなんまる、次に生協とコープ、太平のラルズだったと思う。4条と5条の2丁目と3丁目あたりの人は近くにスーパーがあまりなかったので、重宝されたと思う。個人的にも近くに住んでいたので、出来てからはほとんどここのお世話になっていたと思う。
2000年くらいまで、新琴似通りの屯田二番通(スーパーエース)から屯田三番通りまでの間は、セブン・イレブンとガソリンスタンドくらいしかなかった。今は回転寿司のなごやか亭、サンドリア、すき家などがある。屯田ファッションモールと称したシャンブルとアベイルも2003年に出来たが2023年に閉店し建物も取り壊された。跡地にはツルハとプロノが入る。いつの間にか屯田のメインストリートに面するスーパーマーケットに成り上がってしまった。
ちなみに新琴似通には、屯田のなごやか亭、新琴似にくら寿司と魚べいと、もうすぐはま寿司ができ、回転寿司通りになりつつある。昔は新川ACBの隣にとっぴーもあった。
スーパーエースから道路を挟んで西側には市議会議員で地主で屯田の歴史本では必ず名前の出てくる小谷(おたに)氏の自宅と畑が広大に広がっていた。この畑は小学校にも面しているので、低学年の頃は理科の現地学習で小谷さんの畑を借りてバッタを採った記憶がある。小谷氏が亡くなった後、畑の一部は札証物産の手に渡り宅地化されている。80年代の屯田は宅地の狭間にどかんと畑があったりしたが、年を経る毎に畑が減っている。ここの畑はそれでもずっと残るのかと思っていたがそうではなかったようだ。
敷地内に地蔵もあるが、昭和5年の疫病退散を願って作られたという。
交差点の角には名前は忘れたが会館があり地下鉄の屯田延伸を目指すスローガンが掲げられていたが、そのスローガンはいつの間にか外された上、その会館自体も取り壊され、屯田延伸も実現していない。
この辺りは新琴似側は西側への延伸、つまり新琴似西から石狩延伸を目論み、屯田側は北側への延伸を目論み運動していたが北区内で全然違うルートの延伸運動があるのは好ましくないということで区側から運動を潰されているという複雑な経緯がある(1985年頃)。そんなこともあり南北線の北側延伸は1978年以来止まったままだ。最近手稲が地下鉄誘致運動をしているが、それならJRもない屯田か清田が先では?と思う。
ただ、正直なところ、地下鉄が無くてもバスが潤沢にあったので殆ど困ることはなかったし、屯田は麻生からそんなに遠くはない。さらに屯田内でいろいろと事足りるようになったのでもう地下鉄来なくても良いかな、と思っていたが、コロナ禍以後はバスの本数が減便された上、最終便が前倒しになり、残業や飲みに行った帰りは非常に困る。大雪が降った日はバスが全く動かず3キロ近く麻生まで歩いたことがあるがこの時は結構大変だった。
話は変わり、大昔のこの辺りについて。
小学校低学年の頃は二番通り近くが行動範囲で、スーパーエースが出来る前は二番通り沿いにも空き地がたくさんあった。バッタとかキリギリスも沢山いたし、トノサマバッタもよく飛んでいた。雨が降るとアメンボが絶対に湧いていた。屯田は本当に田舎だった。忘れもしないのは、小1のある日の夕方、空き地で散々遊んでいたら薄暗くなり、もう帰らなくちゃな、と思った時に、小さいヘビが現れたことである。あまりにも驚いて焦って帰った。
屯田でヘビを見たのはそれが最初で最後だった。
昔の町内会記念誌を眺めていたら確かに昔はアオダイショウが屯田にいたらしい。明治の開拓時に遡るとクマや狐がワンサカいたらしい。クマはともかく、キツネは今でも住宅街でたまに見る。
【閉店】 ラパーク篠路→カウボーイ→トライアル (1991-2001-2008-2018)
篠路店と言っているが住所は太平12-1(ディズニーランドか?)、石狩街道沿いにあり、何度か店舗が入れ替わり今はメガドンキとして営業中。ハローズと石黒ホーマの間にある緑色の看板がラパーク篠路である。
1995年撮影を拡大したもの
開業当時の写真は見当たらないが新聞の一面広告に全景は載っていた。
こんなシンボルマークだった。
街=麻生という構図が揺らいだのは1991年3月にラパーク篠路が出来た時だろう。ラパークは長崎屋系列の屋号。長崎屋といえば大通りにあった長崎屋(ビッグオフ)だった。それが近くにくるということで浮足立った。
同時に、屯田になぜこういう施設が出来ないのか、とも思ったが・・・。
そんなラパーク篠路だが、ダイエー麻生店を凌ぐほどの要塞のような巨大施設が地元に誕生し、中学生は土日になるとこぞってここに集まるようになった。
スーパーマーケットが主だが、本屋、CDショップ、フードコート、巨大ゲームセンターもあり夢のような施設だった。
エスカレータも普通のエスカレータではなく、動く歩道形式のエスカレータでこういうのはこの頃見たことなかったので最先端だと思った(今はジョイフルAKにもある)。
ちょうど「JOY FIT」と書いてある箇所にゲームセンター(ナムコランド)があった。あの近くを通るとセガのUFOキャッチャーのBGMを思い出す。
しかしそんな夢のような場所だったのも束の間の夢で、3年程経つと当時の勢いが無くなっていた。
この栄枯盛衰っぷりは小樽築港に出来たマイカル小樽(現・ウイングベイ小樽)に近いものがある。施設の巨大さも彷彿とさせる。まあ、マイカル小樽の広さは別格ですが。
それにしてもラパーク時代の鮮明な写真が見つからない。時代を反映してかエメラルドグリーンが印象的(レイトンハウスみたい)なので是非その頃の写真が見てみたいのだが。
長崎屋本体は色々あって2000年2月に一度経営破綻したため、開店からわずか10年後の2001年にはカウボーイとなり、2008年にはトライアルに屋号が変わった。※どこかのニュースで1992年にカウボーイになったと書いてあったが間違い。
トライアルの末期(2015〜2017年頃)の頃は目も当てられないほどの惨状で、空きテナント多数、フードコートはやっているんだか分からない。過疎っているという言葉がピッタリだった。オープンした当時の賑わいを知っている身としてはかなり寂しい気持ちになった。
かろうじて2階のダイソーとジョイフィットは元気そうだったが・・・。
このままでは施設自体の取り壊し止むなしと思ったが、2019年にMEGAドン・キホーテが入り、施設としては救われた。
トライアルは2018年にこの施設からは撤退し、新たに屯田墓地の近くに屯田店オープンさせたが、そちらは賑わっているので、この施設があまりにも手広だったのだろう。
【閉店】 札幌フードセンター屯田店 (1996-2006)
季実の里分譲の広告
屯田6-12にあったが今は閉店している。建物はそのままでイオン北海道の研修センターとなっていた。
これは開店した時期も知らなければ閉店した時期も知らなかった。花川の方から屯田に入ると目に入るので、こんなところにフードセンターが出来たんだな、とは思ったがそれがいつだったのか記憶にはなかった。
フードセンター自体は結構好きなスーパーで、ロゴも店名も好きだった。高校の頃は新道東のフードセンター、北24条のフードセンターはよく行っていたし、大人になってからは円山のフードセンターも馴染みのスーパーだった。ただ、イオン系列になってから何となく個性がなくなった感じがして足が遠のいた。そして殆どがマックスバリュになってしまって悲しい。ただ、屯田店は場所が僻地だったこともあって殆ど行ってない。
この場所は自宅からもかなり遠かった。場所的にも屯田町と屯田の狭間であり、花川南からも近い。
この横断歩道から先は屯田町となり条丁目表記ではなくなる(まだ花川ではない)
屯田のバスターミナルの近くなので屯田のかなり端である。自宅が割と屯田の中心地に近かったので、バスの中で寝てしまって起きたらこの辺りに連れて行かれたことが偶にあって絶望感に苛まれた。
屯田行きバスの終点である屯田6-12、かつては屯田ターミナルと呼ばれていた
立地的にも安春川を隔てているので対向車線から店舗に入るのは難しく、Uターンして入る必要がある。
そんなこともあったのが関係あったのかどうか定かではないが、開店から僅か10年で閉店。フードセンターは軒並みマックスバリュに屋号を変えていったが、ここは閉店して社員用の研修センターとなったようだ。
個人的には1回か2回行ったかどうかといったところで、どんな店だったかまったく覚えてない。
ちなみに、屯田は南側は防風林を境に新琴似と隣接し、東側は石狩街道を境に太平と隣接しており、そのこと自体は結構知られている。
ただ、西側については、石狩市の花川と接しているのは分かっているが、どこが境界かあまり意識しない。これは屯田の最西側は未だ宅地化されておらず番地表記(屯田町〇〇番地)になっていて、原野を抜けたら花川の市街地が見えてくるからである。なんとなく新琴似5番通りから西が花川だと思いがちだが違う。では追分通りより西側かと思うがそれも違っていて、実は発寒川が境界のようだ。屯田墓地は発寒川より北にあるので、あの場所は実は花川である。とは言っても、屯田の北西側に発寒川があること自体も屯田民はあまり意識しないと思う。
なお、北側は茨戸と接しているが、この境界も分かりにくい。新琴似通りを北に行くと、屯田の北端にあるセイコーマート屯田11条店があるが、ここの一角が屯田の北端らしい。古くからの屯田の人は屯田が11条まであること自体を知らないと思う。さらに北東に行くと太陽グループの少年野球場があるが、ここは西茨戸になる。新琴似通をさらに北に行くと緑苑台のイオンがあるが、茨戸区間はかなり小さく、発寒川を超えると石狩市緑苑台となる。
東側は前述した通り創成川・石狩街道を境に太平、南側は防風林を境に新琴似となるが、防風林自体は屯田西公園の端で途切れる。では新琴似との境界はどうなるかというと、防風林がある体でそのまま延長した線と追分通りとの境界が境となるがそこに道路があるわけではないので分かりにくい。
なお、防風林はポプラ通りという名前も付いているが、地元民でそう呼んでいる人を見たことがない。一応、屯田の北側にも防風林がある(防風林沿橋と書いてあるのでこちらも防風林なのだろう)が、通常、防風林と言って通じるのは南側の防風林である。なお、北側の防風林は、境界にはなっておらず、防風林を超えて北側に行っても屯田である。
ちなみに、以下のような報道もあった。2024年5月末にイオン北海道がこの施設を売却したとのことで、今後なにか別の店舗が入るかもしれない。
新琴似サティ食品館→ラッキー新琴似店(1996-2001-)
新琴似8−10で今も営業中。
新琴似4番通り沿いにある。元々農地だったが、1996年11月にサティ食品館として開店した。当時免許取り立てで新琴似四番通りはよく通っていたが、なにか大きいスーパーができたな、というおぼろげな記憶はある。その後親会社のマイカル破綻などいろいろあり、2001年1月に閉店。4年強の短い営業だった。そういえばここに大学の友達がマネキンのバイトをしているところに出くわして驚いた記憶がある。在りし日のサティ食品館の写真を撮っていてくれた人がいた。
その後、北雄ラッキーが買収し2001年3月に開店し今に至る。ラッキーお得意の衣料品もあるが、ここで服を買ったことはない。新琴似に住んでいた頃はたまに行っていた。屯田からは遠くもないが近くもなく。
店内に喫茶店があり、なかなか良い雰囲気ではある。新琴似4番通りを挟んで斜向かいには老舗商店まるとみストアーがあり、レトロ好きにはたまらない外観をしている。
もともとこの場所は西友が出店予定だったようで、新琴似新聞には何度か西友出店予定の記事が掲載されている。新琴似新聞だと第一報は1990年の夏だったが、西友側は1987年には表明していたようだ。
大型店相次ぎ進出 新琴似に西友、ビバホーム 来年オープン
郊外への大型店進出が相次ぐ中、新琴似地区でも「西友」と「北海道ビバホーム」の出店が決まりました。
西友は八条一〇丁目、四番通り拓銀出張所を含む■■■■氏の用地八千九百十九平方X(二、六七六坪)で、鉄筋コンクリート二階建て延べ一万二千三百九十八平方メートル。売場面積は九千四百二十平方面積(二、八二六坪)です。売場は衣料品、家庭用品、食品のほかクリーニング、ペットなど関連サービス業も扱い、拓銀出張所もテナントとして入る予定。駐車場は五百台の収容が可能。
同店進出にあたっては長い間地元との話し合いが進められていましたが、このほど新琴似中央商店会、六番通商店街、三番商店街振興組合、西商工振興会などとの話し合いも終わり、西友としては今秋にも着工、来年夏か秋ころのオーブンをめざしています。(後略)
1991年5月、同時期に報じられたビバホームは無事オープンするが、資材高騰などの影響で出店は一端保留となる。
西友着工、今年は見送り 新琴似四番通 「建築費高騰で」 地元に延期を表明
新琴似八条一〇丁目に建設が予定されていた大型店舗「西友新琴似店」の着工が、今年は見送られることになりました。
四月十五日、西友・北海道開発担当部長の■■■■氏ら幹部が、周辺商店街組合の代表四人を招いて西友としての意思を正式に表明しました。
(中略)
西友側の説明によると、昨年秋から建築費が暴騰、当初坪四十万円の見込みが七、八十万円にまで上昇しているといいます。これでは店舗形態の上からもコスト高になるので、建築業界の価格安定化を待って着工したいというもの。建築費の暴騰に合わせて店舗規模の縮小を含めた合理化案を検討しましたが、さまざまな障害も予想されるため本年は着工しないことに決定したといいます。
(中略)
西友は昭和六十二年十二月にこの出店を表明、札幌商工会議所の商調協で審査の結果、昨年十一月二日になってほぼ申請通り認可され、出店に正式にGOサインが出されました。
地元中央商店街組合もさきに大型店店対策委員会を設置、同組合も法人化にして共存共栄策を模索してきただけに、計画ののびのびになってきていることと「今年は着工せず」というが来年建築費が安定するかどうかも霧の中だけに、とまどいをかくせず、四月二十二日開いた大型店対策委も後の方針を打ち出せないままでした。
地元住民たちは早期開店を待ち望んでいただけに、波紋を招きそうです。
西友・■■開発担当部長の話
いろいろ検討しましたが、コスト高が明確な事態になったので、今年の着工は困難と判断するに至りました。地域の皆様にはご理解をお願いします。
■■(※地主)さんの話
西友側からは一年延期と申し入れてきましたので了承し、今年も畑をつづけることにしました。
延期から2年後の報道。出店はする予定だという話だが、やるやる詐欺に近い。
「西友、必ず新琴似へ」担当幹部の話 市況、環境整備待ち
昭和六十二年十二月、新琴似8条10丁目に出店を表明した大型店舗「西友新琴似店」はその後地元への具体的な動きがないまま六年余を経過しましたが、同西友北海道販売部では、「必ず出店する − との方針に変わりはありません」と語っています。
(中略)
初め、「出店反対」を打ち出した地元および周辺商店街も、数度にわたる話し合いの結果、条件付きで共存共栄の道をさぐることを決めたものの、平成三年四月になって西友側から「計画練り直し」の意向が伝えられてきました。
それによると同二年ころから建築費が暴騰したため規模縮小を含めた合理化案も検討したが、さまざまな障害が予想されるので同年は見送る − というもの。さらに追い討ちをかけるようにバブルの崩壊で市況が悪化、大型店 − デパートの売上減少という事態に、新たな出店には黄信号となりました。出店表明時に出していた「第一種大規模小売店舗」の申請も今年一月末で期限切れとなり、現在正式には白紙状態。
一方西友には昭和六十三年に岩見沢、本年四月には西区西町店をオーブンすることにしています。
新琴似店の今後の出店問題について同北海道販売部の■■■開発部開発課長は次のように語っています。
「西町店は新琴似店とほぼ同時スタートで計画しましたが、西町店は用地や周辺条件が恵まれていたため市況などの不安材料をクリアしてスンナリ計画が進んだものです。新琴似店の場合、当初の出店表明時より市況も変化しているので、店の業態など中身を見直し、店の規模も逆にはるかに充実したものにするよう立案中で、本社からも早く計画書を出すよう催促されているほどです。以前よりむしろ前向きで出店を考えているといっていいでしょう。」
1995年の報道。3月に西友が出店を諦めたあと、即座にニチイが出店表明。
四番通りにニチイ 食品主体の店舗 「サティ食品館」」来春オープンめざす
新琴似四番通り(8条10丁目)の拓銀出張所横の地に「北海道ニチイ」(本社・札幌)が食品主体の新業態店「サティ新琴似食品館」を出店することになり、四月五日、道に大規模小売店舗法三条に基づく申請を行いました。この地は昭和六十二年十二月に西友が出店を申請した場所。その後の市況の変化などで構想を見直したりしていましたが結局、本年三月末に出店断念を表明しています。
「北海道ニチイ」の届け出によると、新琴似店は鉄骨造り平屋建て約四千三百平方Mで、店舗面積は三千三百三十七平万メートル。従来のサティは衣料品が主体でしたが、新琴似店は食品を七〜八割の比重にし、あとはテナントも含めた実用雑貨やファミリー衣料なども揃える予定。一般スーパーと異り、対面販売によるショップ形態の売り場の多いのが特徴。
対象商圏は半径二キロ、一万八千世帯前後、四万人を基準としており、駐車場は拓銀と共用で三百八十八台ぶんを確保。営業時間は午前十時から午後十時までで年間休日は十日以内。開店は来年四月以降の予定。
「サティ食品館」は北海道ニチイが札幌中心に三年間で十五店を開設する方針で新琴似店はその第1号。
最近の食生活の多様化、個性化、高感度化に対応し地域のコミュニティストアーとしての位置づけも計画。
ニチイグループは兵庫、福井、高知の各県に同じ業態の店を開設しています。
サティ食品館は1996年12月に開店。
新琴似サティ食品館 一日にオープン
新琴似8条10丁目に建築中だった「新琴似サティ食品館」が完成、十一月一日にオープン。
同食品館は株マイカル北海道(旧名・北海道ニチイ)=白石区=の経営。
鉄骨一階建てで店舗面積は三千三百三十七平方メートルでうち三百十一平方メートルがテナントぶん。食品館は食料品全般と一部生活用品、パンや豆腐は同店内での手づくり。テナントはクリーニング、お茶、生花、DP、ファーストフードほか。
駐車場は約四百台収容。
今やサティも西友も北海道から消えてしまった。
西友は2024年に北海道撤退したが、仮にここが西友だったら今はイオンになっていただろう。
マルイプラッサ→東急ストア→東光ストア麻生店 (1996-2001-2005-)
東急ストア時代の外観
北40西4で今も営業中。西5丁目樽川通(北大通)沿いにあるが、新琴似四番通りにも面している。これより北に行くと麻生名物の五差路がある。
麻生駅からも一応繋がっており、麻生駅構内に後付けで出来たエレベータに乗ると東光ストアの目の前に出てくる。
今は1Fに食品売場、本屋、ドラッグストアがあり、2Fに100円ショップダイソー他、病院も併設されており、店舗面積としては結構大きく、見た目より奥行きがあって意外と広いという印象。かつて、2Fは本屋と美容室があったと思うが、いつの間にか無くなっていた。
この店舗は1996年にマルイプラッサ(マルイマートと書かれたものもあり、どっちなのかよく分からない)として営業開始したそうだ。この頃、2Fにあった美容室に髪を切りに行ったことがあるはずなのだが、マルイストア、マルイプラッサだったという記憶がない。
2001年に丸井今井の経営不振の影響で東急に営業譲渡し東急ストアとなるが、2005年にアークス傘下となり東光ストアとなる。
ちなみに東光ストアは1972年設立当時の屋号を復活させたとのこと。
札幌市内の東急ストアが軒並み東光ストアに変わった直後、看板も変更されたが「急」を「光」に入れ替えただけなので、「光」だけ色が違う。今見ても違った。大分経つのに。
裏にうっすら残る影は「東急」だろうか?
屯田民の中でバス&地下鉄通勤者にとっては割と便利な立地であり、屯田行きのバス停からはイオン麻生店よりこちらの方が少しだけ近いのでよく行く店でもある。ただ、土日に車でわざわざここに来ることはほぼない。
1996年以前にここに何があったか記憶にないが、住宅地図に拠ると月極駐車場だったようだ。どうりで記憶にないわけだ(その頃車持ってない)。
麻生五叉路’90(1990年撮影)
なお出店にあたっては、(ダイエー出店から18年を経て)またもや地元商店街と一悶着あった。あさぶ商店街創立30周年記念誌にまたもや詳細に書かれていて興味深い。
2度目の黒船来航? 北区商店街も助っ人に
平成6年師走、(仮)丸井麻生ショッピングセンター出店計画が組合に持ち込まれた。道内老舗デパートの丸井今井グループがチェーン展開しているマルイストアを核店舗に、大手安売り店も参入する新業態のショッピングセンター20店舗を全道各地に開店する計画の第一号である。
待望の流雪溝設備や商店街環境警備事業が完成した商店街と共に、飛躍を目指す組合店や理事会の驚きは、ダイエー麻生店に次いで黒船来航2度目の出来事となった。翌年2月7日夜に行われた最初の説明会は緊迫した雰囲気で終始、マルイ側の概要説明と質疑に対する回答に対して到底納得できない参加者全員は悲壮な面持ちで委員会(委員長・■■理事長)設置を決議、今後対応を一任することになった。
選任された委員は(中略)翌週の初会合冒頭、■■副理事長が「理事会腹案は無く、委員会の協議を通じて出店を阻止したい」との決意を表明、委員会は交通や生活などの環境問題をテーマに組合員以外の商業者・地域住民に
も理解協力を求めるなどの方針を決定して精力的に行動を開始、北区商連参加の商店街や地域町内会などにも理解力を求める活動は次第に大きな波紋を広げていった。
現行法に挑戦! 各地の商業者も奮闘中
上磯町や小樽市、旭川市など第1種大規模小売店舗の申請は全道各地でも盛んであった。清田区羊ケ丘のニチイ店は計画取り下げ、深川市のジャスコ店
は申請通り結審、カウボーイが申請店の恵庭市は周辺町村と共同して反対運動展開中など、他地区経過や収集情報は委員会資料に供された。
規制緩和を盛り込んだ現行法の解釈から、委員会は「地元商業者の死活問題を主題にすることは、自由な商業活動や地域経済の活性化・消費者志向などの観点からも得策でない」と判断し、高齢化社会を見据えた生活環境や交通問題をテーマに4月までの3回に及ぶ説明会に臨んだ。しかし、営業時間や駐輪場・身障者仕様などに変更回答を引き出す場面もあったが、他商店街の応援も得て実施した車両渋滞実験に対してマルイ側も独自間査を行うなど交通環境議論は並行を続けるばかりであった。
5月19日、マルイ側開催による交通計画説明会を最後に地元説明会は期限を迎え、現行法ではこれ以上を望むこともできないことから、以後に予定される「大店審」の地元意見聴取などは理事会に引き継ぐことを了承して6月3日の第9回会議を最後に委員会は解散した。
翌年4月15日、マルイプラッサ麻生店はダイエー麻生店と並ぶ北40西4に予定を過ぎて開店したが、社長退陣などの騒動を起こした挙句の平成12年春、東急ストアに衣替えすることになるとは誰が予想したであろうか。
車両渋滞実験に力強い同業者
説明会では平行線を辿る交通計画論議に決着をと企画された実験行動は、北区の各商店街からの応援車両を加え73台が参加して実施された。
3月24日雪模様の午後1時、一般車両の交通量もピークになる時刻に赤と青の風船を着けた参加車両が予定のコースを2手に分かれ走行した。各ポイントに配置されたビデオ画面でも記録されたように、結果は委員会が指摘以上の渋滞混雑状況、見守った■■麻生連合町内会長や■■麻生連絡所長らからも同様の感想が聞かれた。
北区商店街連絡協議会の歴史にも稀有な協力行動に参加した商店街は以下の通りである。
(後略)
※個人名が記載されている箇所は伏字■にした
文面からは丸井への遺恨が残っていることが伺われる。
こういうのを読んでいると、新規店舗を出店するのは特に地元商店街が近くにあると大変なんだなと思う。居抜きで入った方が効率が良い。
その後店舗を引き継いだ東急ストアはこの本に麻生の感想として「団結力があって活気に満ちた街ですね」とコメントを残している(高みの見物風である)。マルイプラッサのままだったら、コメントすら載せてもらえなかったのではないだろうか。
東光ストアの向かって左には富士メガネとKFCがあるがこれは1990年くらいには既にあった。向かって右にはモスバーガーがある。
新琴似四番通り側にも隣接するビルがある。ここはかつてパボッツ麻生というビル?店名だったが、いつの間にか変わっていたが全く知らなかった。ずっとパボッツだと思っていたし、自分の周りも未だにパボッツと呼んでいる。2014年頃のストリートビューを見ると、バッテス麻生に変わっていた。2018年頃からASABU LANDになったらしい。ただ、その名前よりパボッツの方が通じるだろう。パボッツにはボウリング場、カラオケ、居酒屋などが入っていた。1階には中華料理店があったときは結構頻繁に行っていたがいつの間にか閉店してしまった。かなり入れ替わりが激しい施設で今何が入っているかよく分かってない。おそらくビッグエコーはまだ入っているが、近くに出来た「まねきねこ」に客を食われていそうな気がする。
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