屯田近辺スーパーマーケット今昔物語② 70年代黎明期編
【閉店】 ジョイあかしや店(ピックルあかしや店) (1974-1997)
屯田5-10にあった。今は閉店している。
閉店当時の建物は残っており、別の会社の事務所になっている。あかしやというのは屯田あかしや団地にあったからである。屯田店と付けなかったのは不思議だが、屯田の他の地域にも出店する予定だったのだろうか。
右に見えるのがジョイあかしや店
今は店舗跡だけ残って別の会社が入っている
いつ出来ていつ無くなったか調べても出てこなかったので、古い北海道新聞の広告を検索すると1974〜1994年までは存在していたことは確認できた。その後、住宅地図で調べてみると、1974年の地図にはないが、1975年から1981年の地図まで「JOYあかしや店」が存在する。
しかし、1982年〜1988年までは別の名前「ピックルあかしや店」となっている。
1989年の地図では旧店舗の西側に「ジョイあかしや店」が再登場する。
実際、空撮写真でも建物が変わっていることが分かる。以下は1984年〜1986年頃に撮られた写真だが、赤い屋根の小さめの店舗が道路に面して建っている。
以下は2020年代の最近の地図だが、駐車スペースを確保した上で既存店舗の2倍の大きさの店舗になっていることもあり、建て替えられたようだ。
住宅地図によると、1998年までジョイあかしや店が存在していたが、1999年に建物からジョイの名前が消えて、2000年から別の会社が入っている。住宅地図には反映されるまでタイムラグがあるので、
1974年〜1981年までジョイあかしや店(旧店舗)
1981年〜1988年までピックルあかしや店
1988年〜1997年までジョイあかしや店(新店舗)
だと思われる。
これが正しければホクレンに先駆けて出来た屯田地区では最も古いスーパーということになる。
屯田あかしや団地は屯田団地造成から5年後の1974年に太平洋興発株式会社主導で造成され、ここの町内会は屯田で11番目の町内会となる。
以下は道新に載っていた1973年の全面広告である。
この広告の写真だとまだ更地であり、何も建っていない。当然ジョイというワードも出てこない。1972年だとすでに公設市場は出来ているが、あかしや団地からだとかなり遠く、訴求力としては薄いので書いてないのだろう。
そして、9ヶ月後の1974年の屯田あかしやタウンの広告は以下である。
全32戸完成発売のごあいさつ
屯田あかしやミサワホームランドは北部札幌の広大なベッドタウン820戸の屯田団地(道住宅供給公社)を隣地に有した第一種住居専用地域として快適な住環境の整備化がすすめられている有望な宅地です。昭和51年には新琴似運動公園(全10万㎡)が完成する他、将来地下鉄南北線の延長路線の開通の見通しも強く、正に第一級の分譲住宅と引えます。交通の便も屯田団地まで出ると札幌のビジネス街へ一直線、通勤通学には仲々便利な土地柄です。騒然とした都心より8キロ。緑の微風につつまれる屯田あかしやからは、茨戸、石狩へもお気軽に出かけられます。
(中略)
文教・・・屯田保育所 屯田町322、屯田小学校 屯田町639、新琴似中学校 新琴似7−4、北陵高校(屯田小学校隣りに新築中)。
買物・・・あかしやタウン入口にはスーパー”ジョイあかしや”、がある他、20mメイン道路ぞいに商店街が誕生します。
病院・・・ふるや内科・小児科 屯田町4-3 入院もできます。他に赤峰歯科 屯田4-1。
その他・・・近くにはポプラゴルフ場、屯田団地まででますと郵便局、駐在所、福祉会館などがあります。
ハウスメーカーらしく美辞麗句が書かれている。特に南北線延伸あたり。それから半世紀経つが未だ延伸されていない。イトーヨーカドーが出来た時に、すわ延伸あるか?と思ったが、20年以上経っても来ない。ただ、ひょっとすると今計画されている石狩ロープウェイは通るかもしれない。
15年ほど前にグリンピア篠路にモデルルームを見に行った時にも、この辺りに地下鉄の駅が来るかも?と言われたことがあるが結局来てない。
なお、これは1974年の広告だが、地下鉄南北線の開通は1971年。ただこのときの北限は北24条駅。麻生延伸が議決されたのが1972年で、実際に延伸されたのは1977年。1971年の札幌市長期総合計画だと花畔まで延伸する案もあったようなので屯田まで来るかも?と思っても不思議ではないのかもしれない。とは言え花畔は石狩なので、札幌市営の範囲外となり、なぜこういう案が出てくるのかが不思議だ。
ただ札幌市が近隣の町村を編入していったという歴史はあるので(札幌村・琴似町・篠路村を編入したのが1955年、豊平町編入が1961年、手稲町編入が1967年)、隣接する花畔も?という構想はあったのかもしれないがよく分からない。
屯田団地まで出れば札幌ビジネス街へ一直線、と言われてもなかなか厳しい。あかしや団地から屯田団地までは同じ屯田とは言え結構遠い。それを言うなら新千歳空港まで出れば東京まで一直線だが・・・。
内科、郵便局、交番までは屯田団地中心部あたりまで出なくてはならず、あかしや団地から2キロ近くある。この頃はバスの終点からこの団地は遠かったので、マイカーが無ければ徒歩か自転車。冬はキツい。
バスについてはこのサイトに詳しいが当時の中央バスは屯田小学校か屯田団地(屯田4-7)が終点だった。それより北側、西側は歩いてくれ、ということだ。夏はともかく冬はつらい。
ただ4年後には屯田ターミナル(今の屯田6-12)と北陵高校まで延伸したので住民も一安心といったところだろう。
時代を感じるのは、屯田保育園、屯田小学校あたりはまだ条丁目表記ではなく番地表記になっているところだ場所的には現在の五条・六条なのだが、住居表示制度の対象外で、その場合、屯田〇条〇丁目ではなく、屯田町〇〇番地という表記となる。
あかしや団地を含んだ屯田5条全域、4条西側、6条東側が住所表記の対象になったのは1980年。
この話は中学生くらいにとっては結構センシティブで、自宅が番地表記だと「一体どこに住んでるんだよ」みたいなノリで捉えられていた。屯田7条に住んでいた友達が、中学の頃にやっと条丁目表記になったと喜んでいたのを思い出す。
さて、あかしや団地の一番の目玉はやはり「ジョイ」だろう。まだホクレンも生協もない時代にこの団地にはスーパーマーケットだけはあった。屯田団地は後付けで公設市場を少し離れた所に作ったが、あかしや団地は、団地の真ん中にスーパーマーケットを作った(あかしや団地は屯田5-7〜5-12に渡る大団地)。これは大きな訴求ポイントである。バス停はないけどスーパーがあればなんとかなる。1974年に32戸完成と同時にジョイを推しているあたり、あかしや団地造成時にジョイの誘致をしたのだろうと思われる。
ジョイについてはWikipediaに詳しく載っている。1972年に日本商事という会社がジョイチェーンを作ったとあるのでスーパーの歴史としても結構古い。
2004年にイオングループに入り、屋号としては2018年に消滅しているが、あかしや店はそれ以前(1997年頃)に閉店している。
極私的な話をすると、実家はもともと創成川近くだったので、この辺りはそもそも小学校の頃は学区外だし、かなり遠かったので存在すら知らなかった。もちろん建て替えがあったことも「ピックル」という名前だった時代も知らない。元号が平成になり、中学になった頃、行動範囲が広がったころにようやく存在を知って、この辺に住んでいた人に遊びに行く前の食料調達で来たのが最初だったと思う。建て替えがあってピックルからジョイに回帰した直後に行ったのだと思うが、そんなことは知らなかった。
その後、1997年頃に閉店しているが、その前年に札幌フードセンター屯田店がオープンしている。これの影響もあったのだろうか?ここが閉店した後だと、MOTか生協かホクレンあたりだろうか、すべてそこそこ遠い気がする。
なお近隣には屯田西公園がある。屯田公園ができるまでは屯田内では唯一無二メイン格の公園であり、幼児向けの滑り台付きプール、小学生以上向けのプール、陸上競技場兼サッカー場、ナイター付き野球場、テニスコート、遊具、ゲートボール場、山、ターザンロープ付き遊具もあり、盛りだくさんの公園である。特に小さい頃はターザンロープ目当てに行っていた。少し上の世代の人は「運動公園」と呼んでいたようだ。あかしやタウンの広告にも「新琴似運動公園」とある。
屯田西公園の年表上は1975年(1976年と書いてあるものもある)に開園したが、実は開園時は新琴似公園という名前だった。札幌市のFAQにも書いてある。
以下は広報さっぽろの昭和44年(1969年)に掲載された概略地図だが、新琴似公園の予定地が掲載されている。まだ計画段階だが、この段階では屯田団地が出来たばかりであり、街と言うにはまだ物足りない。あまり知名度のない農村地区屯田の名前を付けるよりも、住所は屯田であっても新琴似に隣接しているし、新琴似の名前を付けたのだろうと思う。
しかし、その後、住民の要望により屯田西公園と改称されたとある。
屯田九十年史(1978年発行)に拠ると、屯田地区にあるんだから新琴似公園じゃなくて屯田と名付けてほしい、という至極当然な要望を申し入れたが、当時の札幌市は公園開設に国費助成を受けているので改名は困難、と回答したとある(適当な理由を付けたとしか思えない回答だし、理屈としても意味が分からない)。看板作っちゃったから、みたいな話?
「わたしたちの屯田」という1981年3月に刊行された屯田小学校の90周年記念本には屯田西公園という名前で書かれている。また、新琴似公園という名前だったということにも言及されていた。少なくとも1978年〜1981年の間に名前が変わっているはずだが、インターネットで調べてもほとんど出てこない。道新の記事を検索してもヒットしなかったが、読者投稿欄でようやく見つけたのがこれである。
区役所の表示に誤り
(氏名住所など割愛)
札幌市北区役所の玄関を入ると畳二枚大の北区館内の航空写真があり、各所旧跡や学校などの位置を示している。写真の下には表示番号版と押しボタンがあり、それを押すと写真に豆ランプが付くが、表示板には「屯田西公園」を「新琴似公園」と書いている。札幌市は四年がかりで去る五十五年四月一日から「屯田西公園」と改めたので「新琴似公園」は誤りと思う。
この投稿欄が正しければ1980年(昭和55年)の4月に名前が変わった。ただ、おおっぴらにアナウンスしていなかったためなのか、区役所の展示もテキトーだったようだ。
また、以下のサイトによると、1981年の中央バスのバス停に新琴似公園前と記載があるが、1980年の時点ではすでに屯田西公園だったはずである。
住宅地図に拠ると、1982年の地図から屯田西公園という名前で、それ以前の1980、1981年版を見ると新琴似公園と書いてあるが、1980年の時点で名前が変わっているなら1981年版で屯田西公園となっていてほしいところだ。
地元ではずっと「屯田西公園」と呼ばれていたしそれが定着していた。初めてこっそり学区外を超えて西公園に行ったのは1983年頃だと思うが、その時に既に西公園と呼んでいたので、わずか3年で定着していたはずである。物心ついた時には屯田西公園だったので、5年間もの間「新琴似公園」だったなんて全く知らなかった。自分と同世代の人にこのことを聞いても誰も知らなかったので、この名前はあっという間に定着し、誰も昔の名前で呼んでいないというちょっと変わった例だと思う。
屯田百年史によると屯田西公園ができる前の昭和29年、米軍機が今の野球場に墜落したことがあるらしい。ググっても出てこないが、防風林の林が燃えたとのこと。
80年代中頃にはビートたけしのスポーツ大賞という番組のロケでカール君だったか小カール君(こかーるくん)だったかが来たことがあるが、自分は見たわけではなく、後から噂で聞いた。
屯田西公園の向かいには古田商店という個人商店があった(今はセイコーマートになっている)。ここにはコスモスの自販機があったり、モロッコヨーグル(クリーム、と呼んでいた)が売っていたりと魅力的な商店だったが、学区外だったので、見つからないようにこっそり行っていた。
黒ベースのセコマ
余談だが、2024年現在、屯田内にセイコーマートは6店舗あり、なにげに多い。セブンイレブンもつい最近になり屯田8条西店が増えて6店舗になり拮抗している。なお、ローソンは2店舗、ファミマは1店舗である。かつてはバス通りにローソンとセイコーマートが1件づつあったが今は跡形もない。まためんぞうの敷地にもセイコマートがあったが廃業し、店舗は空いたまま残っている。
【閉店】 ホクレン屯田店 (1975-2011)
1988年撮影
ホクレン屯田店は、屯田4-6にあったが、今は閉店しており建物も存在せず、パチンコ店の駐車場になっている。
1988年の写真と閉店間際の写真を比べると店名が変わっているのが分かる(ホクレンマーケット→ホクレンショップ)。昭和までの店舗はホクレンマーケット、ホクレンショップになったのは平成からなのでホクレンマーケット時代の最終期の写真だろう。
今や屯田のメインストリートと言えば旧イトーヨーカドーとジョイフルAKのある通り(新琴似通り)だが、この時代のその辺りはまだ何も無い。
屯田団地が出来た時に中心地だった屯田中央公園周辺(バス通りを挟んだ屯田3-3、4-3あたり)で、屯田団地を通るバスの終点は屯田4−7だった。つまりこのホクレンがあった辺りは終点だった。通常、終点は他の路線への接続先となる場所か、何もない場所である。もちろん後者だったはずだが、そこにホクレンと生協が出来た。1982年には終点が屯田ターミナルまで延伸しているが、これは中心部がここに移ったということだろう。生協が出来たことで中心地が完成したが、そのとっかかりを作ったのは生協の5年前に出来たホクレンだったと思われる。
この一帯にある屯田西商店街自体は1974年に結成されたが、翌年この通りに進出するホクレンに対抗して作られたのだろうか?対抗して作ったかどうかは分からないが、ホクレン&生協効果によりこの商店街は盛り上がり、当時屯田内に4つあった商店街のうち、結果として今でも残っているのはここだけである。
なお、当時のホクレンマーケット屯田店店長の寄稿を見つけた。これを読むと、住民からの要望があり出店したようだ。
屯田団地創設二十周年を祝して
このたび屯田団地が創設二十周年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。
屯田団地は昭和四十二年に創設され、当時住民の皆様や自治会の方々には計り知れないご苦労が秘められてきたものと拝察いたします。
当ホクレンマーケット屯田店は住民の皆様の要望を受け、昭和五十年に開店して以来十一年間皆様の暮しに役立つよう努力してまいりました。
願りみますと当時は商店も少なく買物にも不便をきたし、新琴似や札幌中心街まで行かなければならない状態でした。
それがここ四、五年前から商業ビルが建ち、商店街が形成され、現在では立派な街造りが出来ましたことは住民の皆様や自治会の方々のご努力のたまものと拝察されます。
今後は益々の発展と変りない協調の精神で、当ホクレンマーケット屯田店も地域住民の皆様と密着を計り真心のこもった店造りをしていきたいと思います。
屯田団地が末永く発展し、住み良い明るい団地となられることを御期待申し上げ記念誌発刊の御挨拶といたします。
80年代中盤の頃はリアルタイムだったが、屯田の中心部に住んでいた殆どの家庭はホクレンか生協に行っていたと思う。自分の家は80年代中盤までは創成川近くだったのでコンシューマーズマートにしむらの頻度が多かったが、たまにこの辺りにも来ていた。
昔からのバス路線(麻01、麻03)もここを通るし、有名焼肉店の山海園もこの通りにある。経年劣化により今(2024年)は、道路がボコボコなので舗装工事している。自転車でここを通ると走りづらくてしょうがなかったので助かる。
当時はホクレンと生協が向かい合わせにあり、親からはライバル店が近くにあると競争が起こって活性化する、と何度も聞かされた。が、実はホクレンは1975年出店で、生協は1980年出店なので5年ラグがある。1978〜1979年頃の空撮写真だと確かにホクレンしかない。
キャプションを付けたもの
ただ、向かいの生協と比べるとここのホクレンはどちらかというと食料品がメインの店舗で、子供にはあまりおもしろいところではなかった。
ホクレンから小さい道路を挟んで南側にはプルマンベーカリーというパン屋があり、我が家は割と常連だった。そのローカルなパン屋が突然TVチャンピオンで優勝した時には地元でかなり話題になった。プルマンベーカリーは今は宮の沢にあるようだが、一時期アリオ札幌に入っていた時期もあったと思う。プルマンベーカリーの店舗跡はまだ残っており、今は保険代理店が入っている。プルマンベーカリーの歴史には1986年札幌進出とは書いてあるが屯田の「と」の字もない(ひょっとして黒歴史なのだろうか?)。
向かって左隣に恵友エアリスというビルがあってここには北ゼミという塾があり友達がここに通っていた。90年代、屯田民は北ゼミか、麻生にあった北大学力増進会か英進学院という塾の3択だったように思う。
その隣には北洋銀行(建った当時は北洋相互銀行)があった。ただ拓銀破綻以前は、若干マイナーな銀行扱いだった。拓銀が圧倒的に知名度が高く、道銀がその次に有名で、北洋、札銀はその次くらい。銀行のランクも拓銀は都銀、道銀は地銀、北洋、札銀は第二地銀である。なお北洋は未だに第二地銀だが規模的に少しおかしい。
拓銀破綻後、たくぎんのキャッシュカードが北洋で使えるようになってからここによく来るようになった。しかし、その北洋銀行の建物も2019年に取り壊されジョイフルAK近くの屯田北支店内に移転。屯田北支店と屯田支店が同じ建物に同居するという謎状態だが、支店番号統廃合が手続き上面倒なのだろう。
移転した跡地は宅地となった。金融機関の跡が宅地になったということで、商店街から段々と遠ざかっていると実感する。
ホクレンは2007年に屯田8条にも店舗を構えたが、こちらの店舗もしばらく残っていた。屯田内2店舗体制が数年継続されたが、4年後の2011年に閉店。建物自体も跡形もなく、今は向かいの生協跡地に建ったプレイランドハッピーの屋外駐車場になっていて少々寂しい。
なお、生協はホクレン閉店の10年前、2001年に閉店している。その2年前にはイトーヨーカドーが出来たため煽りを受けたのだと思う。2011年にホクレンが無くなった後はかなり寂しい商店街になってしまった。屯田の人が集まる、といえばこの近辺だった時代が確かにあったのだが。
なお、屯田で起きた事件だと、ジョイフルAKでの爆破事件(2014年、札幌連続ボンベ爆発事件、日テレのザ!世界仰天ニュースでも特集された)や、グループホームでの火災(2010年)が有名だが、このホクレンの店舗でも2008年に強盗事件が起こっており従業員が手製の拳銃で打たれ重症となる事件があった。
ラッキー北49条店 (1975-)
ラッキー北49条店は、北49東7で今も営業中。
開店は産まれる前のことなのでよく知らない。屯田がジョイとホクレンという小規模スーパーしかない頃なので、かなり大規模な店舗だったと思う。これだけで屯田は田舎だったなぁという気がする。
いまだ営業しており、開店からほぼ半世紀経っているのは凄い。細かい改装はあったかもしれないが、昔から印象は変わっておらずおそらく、一度も建て替えてないはず。
北光線沿線(東8丁目通り)にある店で、屯田からは少し遠く、創成川を超えてさらに東に行く必要があるので頻繁に行っていたわけではないが、土日になるとたまに行っていた。公設市場が出来る前の屯田団地の人は新琴似に行くか、北42条東8あたりまで足を伸ばしていたそうなので、当然この辺りも行動範囲だろう。
個人的にもこの辺りに高校の友達が数人住んでいたし、高校の通学路は太平駅を超えてラッキーの前を通って通っていたので、個人的にも思い出のあるスーパーマーケットである。
開店当時の新聞記事を読むとラッキー太平店と書いてあるのもある。篠路にもラッキーがあるのでそちらの店のことかと思ったが、篠路店の住所は完全に篠路なのでそこのことではなさそう。どうやら、1982年頃までは北49条店と太平店という記載が混在していたようだ。80年代のどこかで北49条店と改称されたように思う。
最寄り駅が札沼線の太平駅なので太平店と名付けたと思ったが、そもそも太平駅が出来たのは1986年なのでそれは関係ない。ただ太平の近くではあるので、そう名付けた(呼ばれていた)のだろうと思う。ちなみにラパーク篠路も住所は太平だが、そこは篠路に奪われた。百合が原も元々太平だったが花と緑の博覧会以降、百合が原のプレセンスが向上し独立。受難の太平だが、しかしビッグハウス太平店と、スーパースポーツゼビオ太平店は紛れもなく太平にある。
なお、ラッキーのある辺りの住所は栄町ではないが、周辺に栄北小、栄緑小、栄中があるので一般的にはこのあたりも栄と呼ばれていると思うので、ラッキー栄店とか栄北店とかでも良かった気がする。ちなみに北は51条まであるので、北49条はギリギリである。51より北は太平とか百合が原になる。
さて、ラッキー北49条店だが、今となっては特に特徴のない普通のスーパーという印象だが、80年代当時のこの店は屯田にはないハイカラな店だった。
開店から3年後の記事。飛ぶ鳥を落とす勢いだったことが分かる。
ラッキーショッピングソーン(札幌市東区北四九東七)に新しく「ショッピングコア」(同)が仲間入りした。「ショッピングセンターラッキー」は三年前のオープンだが、道外大型ビッグストアの進出にもかかわらず利用客数は年々増加し、地域密着型地場ショッピングゾーンとして業界のなかでも注目されている。このほどラッキーショッピングセンタゾーン内の「ショッピングコア」では、利用者の要望にこたえて新たに美容室、歯科診療所、飲食店などを併設する方針でいま、入居希望者を募っている。
「ショッピングコア」は、一ヶ所ですべての買い物や要件が済ませることができる、ワンストップショッピングゾーンとして新しく開設されたもので、既に隣接する「ショッピングセンターラッキー」では、食品、衣料スーパーをはじめ、酒、薬局、文房具・書籍、軽食、化粧品、靴、クリーニングなどの各業種がそろっている。
なかでも四月十三日オープンしたばかりの「ショッピングコア」一階「石黒ホーマ」は、ワンフロア千三百平方メートルの木格的な日用雑貨店。カーコーナーや、Do it yourself をキャッチフレーズにした日曜大工コーナーは、主婦だけではなく亭主族にも人気。「おかげで主人が、たなでもなんでも気軽に作ってくれるようになりました」と、主婦たちにも感謝されている。
また、郊外型レストランとして知られている、はせ川チーン「さっぽろっこ」も家族連れでにきわっている。「コア」内には札幌信用金庫栄町支店も先に開設されて重宝がられている。地域住民のショッピングやレジャーゾーンとして人形劇、民謡大会、ゲーム大会などの各種催しも開いており、休日などは延べ一万五人の買い物客の足を集めている。
ここに美容室、歯科診療所、飲食店などを設けたい!というのも地域住民の要望から生まれたもので、「ショッピングコア」では二階に百六十五平方メートル(二区画予定)の店舗スベースを確保し、利用客に喜ばれる店づくりをしたいとしている。
周辺は、篠路、太平、栄町、屯田などの市郊外の新興団地として人口も増え続けており、将来性は十分。二百五十台収容の駐車場スベースも確保しており、足の便も良い。
このテナント募集によって、札幌でも数少ないショッピングレジャーゾーンができるものと期待されている。
(後略)
1972年に屯田公設小売市場ができてから僅か数年で、ワンストップ集中型ショッピングセンター複合体を作ったわけで、屯田に比べてかなり進んでいたと思う。
80年代当時、北光線(東8丁目通り)側の入口から入ると右手にフードコートがあり、左手側に衣料品、本屋コーナーがあった。何より驚いたのは入口近くには透明なブースに入ったデパートアナウンスの女性がいたこと。
主に迷子アナウンスをしていたのだと思うが、街中のデパートにいるような感覚に陥った。今考えると平屋のスーパーに迷子センター要らなかったのでは?と思うけど。
フードコートというのも新鮮だった。ここで焼きそばを頼んだら、ソース焼きそばを期待したのにあんかけ焼きそばが出てきたので拒絶した記憶がある。それがトラウマでしばらくあんかけ焼きそばが嫌いになった(今は大好物である)。
また、北光線側の入口にはたい焼き屋があって、ここに行く度に買って帰っていた。90年代の中頃まではあったのではないだろうか。
ただ、今現在の北49条店はどこにでもある普通のスーパーマーケットになってしまった印象だ。同じラッキーでも店舗の中に喫茶店がある新琴似店の方が魅力がある気がする。
新聞記事にもある通り、この敷地内には石黒ホーマがあった(現DCM、少し前までホーマック)。なんと札幌一号店だったようだ。この店舗は1999年に建て替えられているので、記事内で書かれているのはその前の店舗のこと。
ラッキーはよく覚えているが石黒ホーマについては店舗が併設されてたのは覚えてるがどんな外装だったかはあまり覚えてないが、新聞に掲載された荒い写真だとこんな感じである。
石黒ホーマの看板とさっぽろっこの看板は見える。
上空からみるとこんな感じ。今と比べると意外と石黒ホーマが小さい。左の濃い色の建物が札幌信金だと思う。
新聞記事によると、ショッピングコアに歯科診療所と書いてあるが、伝聞によるとこの周辺でまだ営業しているコア歯科はここにあったようだ。ショッピングコアにあったからコア歯科なのか、たまたま被っただけなのか定かではない。札幌信用金庫(現:北海道信用金庫)はおそらく、ホーマック建て替え時にラッキーの北側交差点近くに移転してそこにコア歯科も一緒に移転しているのだと思う。
自分のうっすらとした記憶ではつぼ八もあって、「飲食店」と書いてあるのはつぼ八なのかもしれない。ここに一度だけ家族で行った記憶がある。確か掘りごたつで、テンション上がった記憶があるようなないような・・・幼い頃過ぎてうっすらとしか覚えてない。
その後、ちょうどイトマン乗っ取り事件の頃、父親がその店舗を見ながら「つぼ八が乗っ取られて、創業者追い出されたんだぞ」と言っていたことを思い出す。
ラッキー裏の広大な駐車場から西に進んだ奥の方に、今は亡き市営バスの転回所があった気がする。今の中央バスは琴似栄町通の方を曲がるが、昔ははま寿司とラッキーの間の狭い交差点を通って石狩街道方面に終点があった。
ダイエー麻生店→イオン札幌麻生店 (1977-2015-)
ダイエー麻生店・全景 1991年
イオン札幌麻生店は北39西4にあり、2015年にダイエーからほぼそのままイオンに変わった。
地下鉄南北線はかつて北24条駅が終点だったが、1978年3月に麻生まで延伸された。ダイエー麻生店はそれを見越して9ヶ月も前の1977年6月に開店している。地下鉄の出口からは直結して地下1Fに繋がっているし、地上にもダイエーのすぐ横と向かいに入口があり、麻生駅とダイエーはかなり結合度が高い造りに思える。
ちなみにダイエー麻生店には厳密には麻生町にはない。斜め通りは麻生だが、ニトリとレストランとんでんは麻生ではなく、ニトリの斜向かいの寺は麻生である。しかしKFC、富士メガネ、東光ストアは麻生ではない。ただ、そんなことを気にしている北区民は誰もいない。自分の感覚だと、ニトリ、びっくりドンキー辺りから麻生自動車学校くらいまでの一帯が麻生という感覚である。
麻生まで地下鉄が延伸するまでは、北24条から麻生まで市電が通っていたが、市電とダイエーのコラボ写真があればかなりレア度が高い。が、それは見たことがない。ダイエー写真集にオープン直後の写真があるが、市電は写り込んでいない。
このダイエーほどの大店舗になると、流石に地元商店街と色々とあったようで、商店街の記念誌に闘争の経緯が詳細に載っている。
黒船の到来に分裂の危機 明日への歓喜がどん底に
地下鉄開通を心待ちにしながら、商店街近代化への指針ともなる商業診断報告会が開かれた昭和49年11月、高雄観光(株)■■社長が(株)ダイエー開発部長を伴って「北39西4に商業ビルを建設、キーテナントにダイエーが出店する」旨の挨拶に訪れた。
小売業売上げ日本一を2年前に達成し、全国展開を目指すダイエーの麻生店計画は桁外れの規模である。商圏は石狩市・当別町・厚田村にも及び、1日
1万人以上の来店客数と初年度売上げ40億円以上を見込んでいた。
売り場面積も全道一を誇るとあっては、創立1年にも満たない組合に与えた衝撃は黒船来航の如き、驚きと狼狽をもたらした。
日に数人の来店客にも互いを励まし、辛抱しながら商店街開拓の鍬をふるい、地域発展も願って呼び寄せた地下鉄延長の報に沸き立つ組合員に、与えた落胆と不安の悲鳴は切実である。緊急理事会でも全員一致で出店絶対反対を決議するが、大型店の進出に対する是非論は業種によっても異なることなどから、次第に理事会分裂・理事長リコールの禍根を残す残念な出来事にまで発展することになる。
翌年5月の定期総会席上、■■理事長が開店予定のダイエー麻生店にテナント参加すると表明をしたことから、背信と捉える一部理事者や組合員は臨時
総会の開催を要求、粉細の末に■■体制を発足させてダイエー生店の進出絶対反対を決議、必至の活動が始まった。
別表を参照しても、これ程までに必死で取り組んだ理事・組合員の行動を他に見ることができるだろうか。組合存亡と自らの死活を賭け、関係行政機関への陳情や上部団体に連携を求める激しい反対運動は揺るぐことなく長引くかに思われた。
しかし、近代化計画の共鳴者である町内会住民から聞こえ出した「大型店進出阻止は消費者利益を無視する行動・商業者のエゴ」との高まりが、反対通動転換の引き金となる。51年春に予定地のビル建築申請が受理され、琴似など他地区での大型店出店問題も承認解決される状況となったことから、7月の臨時総会を経て出店承諾に向けた条件闘争への変更を余儀なくされるに至った。
地域と一緒になって、夢を託した誘致運動の末に、実現となった地下鉄のコンコースと地下食品売り場を直結する、4階建て店舗面積11,220㎡を誇る道内屈指の第1種大規模小売店・ダイエー麻生店は52年6月に開店した。
法人組合の創立わずか4年にして、地下鉄開通後の地域発展や自店の将来設計を語り合った商業者達の夢や期待は無残にも蹴散らされてしまった。組合
分裂の危機に瀕し苦哀の日々を過ごしたであろう理事者達の無念が今でも聞こえそうである。
市内小売業販売額が1兆円を超えた昭和54年度の近代化特別推進委員会報告概況によると、麻生は「昭和54年を100とすると店舗数は3倍、販売額は678.6%の驚異的な数値となり大型店出店効果を如実に示している」とその経済的発展を指摘している。
しかし、その反面で組合店の閉店・脱退がわずか2年間で10件余にも及び、その後も犠牲の止むことが無かったことを忘れてはならない。
※個人名が記載されている箇所は伏字■にした
※別表は割愛した
建設反対闘争はやがて条件闘争に切り替わるが、最後の調印式ではダイエー総帥中内功に「敵ながらあっぱれだ」と言わしめたらしい。
屯田内ではここまで大きな店舗は旧イトーヨーカドーくらいだが、このような闘争はあったのだろうか。あの辺りにはそもそも店舗がなかったし、そういう話は聞いたことがない。ただ、記念誌には生協、ホクレンどころか公設市場の話も殆ど出てこないあたり、複雑な感情はあるに違いないと思う(公設には屯田以外の店も出店していた)。
結局のところダイエーとの闘争は地下鉄が麻生まで延伸されたことに発端があった。おそらく、麻生が終点ではなく、その先に終点があればダイエーは出来ていないし麻生はここまで発展していないだろう。大店舗ができれば街は発展するが個人店は打撃を受けるというのはどの地域でも繰り返されてきた。
そんな経緯など露知らず、屯田に住んでいた者からすると麻生のダイエーのような大店舗ショッピングセンターは大都市の象徴だった。80年代から90年代初頭にかけて、屯田の中学生が「街行こうか?」と言うと、それは札幌中心部ではなく、その手前にあった麻生のダイエーを意味する。麻生のランドマーク。麻生イコールダイエーであり、ダイエーイコール麻生。そんな存在だった。当時を知る人は未だに麻生のダイエーと言ってしまうのはそれだけ大きい存在だったということだろう。
屯田からだと、小学校の頃は当然学区外だったので、先生にみんなで見つからないように恐る恐る行っていたが中学に入り頻繁に行くようになった。
80年代の頃、この店舗は地下1階が食品売り場とレストラン(今と同じ)、1Fが衣料や日用品、2Fにレコードショップとおもちゃ屋、3Fに家電、4Fに本屋があった、はず。2Fのおもちゃ屋でスーパーマリオブラザーズを買ってもらった記憶がある。
なんといっても一番の記憶はここでドラクエ3を並んで買ったことである。1988年の2月10日が発売日だったが確かこの頃は麻生ダイエーが水曜定休だったので翌日販売になった。それで発売日から遅れること1日、周辺の子供達は朝の5時くらいからダイエー前に長蛇の列で並んだのである。10時開店だったはずだが、開店までの数時間、裏の非常階段の方で並ばされた。そして、いつものおもちゃ売り場ではなく特設の会場に誘導されたような記憶がある。
この店舗の並びにミュージックショップ国原があった。
屯田でレコードを買ったりCDを買ったり出来なかったので、そういう場合は麻生に行くしかないのだ。ダイエーのレコード店か国原のどちらかに行っていた。国原の横に玉光堂も出来て激戦区となった。
なお、高校出てからダイエーのCDショップのバイトの面接に行ったら、店長らしき人に圧迫面接されて腹が立って、以来ここで買うのをやめた(面接される人も客です)。
同じ敷地内にマクドナルドとサイゼリヤがある。昔はマクドナルドのところにドムドムバーガー、サイゼリヤのところにはヴィクトリアステーションがあった。ドムドムもヴィクトリアも安くて学生の味方だった。開店直後の写真はヴィクトリアですらなく見たこともない店だった。
つい最近(2019年)までは地下1階に有名パン屋のどんぐりも入って、常に大混雑していたが突然閉店となり、不穏な雰囲気を醸し出した。いつも繁盛していたのになぜ?と疑問を持つ人が多数。噂によるとイオン側に施設の改善を求めたが折り合いつかず契約満了に伴い撤退したとのこと。
個人的にもどんぐり閉店後はイオン麻生への足が遠のき、東光ストアの利用頻度の方が高くなった。
地下1階にはミスドもあるが、もともとミスドはダイエーの横、道路を挟んで五差路側に路面店があったが、そこは今はセイコーマートに変わっている。
東京五十番という有名な中華料理屋も地下フロアにある。この店は80年代からあったと思う。有名なのは醤油ラーメンで、380円くらいの格安で提供されていたが、さすがに今は550円となっているがそれでも十分安い。大通のYESそうご電器(後のドンキ)、要するにサンデパートの地下にも五十番があってランチをよく食べていたが、サンデパート取り壊しと同時に閉店。
ご存知の通りダイエーの屋号は今は外れて2015年からはイオンとなっている。理屈では分かるが心が受け入れられないのはダイエーだった時代が長かったからだろう。
なお、麻生はあさぶが正式名称だが、地元民はあざぶと呼ぶ人も多い。
あざぶ呼びの人はまず間違いなく地元の人間であると分かる。地元の人間があざぶと読んでいるのに、外野から「あさぶ」が正しいのに!などと居丈高に言うのはどうかと思っている(経験あり)。どっちも正しいということで良いのではないか?
かつて帝国製麻の工場があったから「麻」は「あさ」読みが正しいと言うのなら「生」が「ぶ」なのは何なのかといつも思う。あさなま?
そもそも北海道の地名自体、アイヌ語の音から日本語で発音しやすいように変えて当て字にしているわけで、麻生だけ読みに異常にこだわるのは意味が分からない。
この辺りは20代前半までのメインの行動範囲だったのでかなり思い入れがある。
北側には塾が集中していたので中学の頃は週2,3回は通っていた。この辺りで塾だと当時は北大学力増進会か札幌英進学院のどちらかで、一時期英進に行っていたことがあるが、学校よりも規則が厳しく嫌になって増進会に移った。増進会は一時期、ジップのビルだけだと手狭になり、北札幌病院の北側にあるビルに間借りしていたことがあり、冬期講習はそのビルで受けた。
増進会の向かいには常に閉店セールをやっているブルーハウスがあり、いつの間にか本当に閉店してしまった。しかし、このブルーハウスでは部屋のインテリアを沢山買ったのだ。今は100円ショップのシルクになっている。
ななめ通りには、今は無き麻生古書があったり、道銀の横には確かBooks1/2があったりと古本屋も多かった。バス停の近くにはよく喋る店主がやっていたCDショップがあった(2000年代)が、いつの間にか閉店していた。
五差路付近には長崎屋ビッグオフにもあったやきそば屋があり、よくここで食べていた(やきそば屋は今はアスティ45にあり、その前は新大通ビルにあった、昔は北24条にもあった)。
南側に北洋銀行がありここで何度もお金を下ろした。近くには中古CDのX-ONEがあった。さらに南下すると、ソニーのコンセプトショップコール麻生があり、店内にはソニー製品が並び、ソニー所属のアーティストの曲が流れ、ソニーの機材を長時間触って体験できる夢のような店だった。1990年か1991年くらいにあったはずでかなり頻繁に行っていたがいつの間にか無くなり、今は年金相談センターになっている。
大学生になってからは麻生自動車学校の並びにある独多日(ひとりたび)によく言っていた。その近くにあったスープカレー天竺には何度も行った。
麻生自動車学校はこの頃、今の倍の敷地があったが、その半分はプレイランドハッピーになっている。
向かいの通りにあった中華料理屋の和(かず)は人気店だったがいつの間にか閉店(その後時を経て八軒で復活している)。
さらに南に行くと北34条だが、ここにはジャンボシアターというレンタル店があり屯田からはちょっと遠いが遠征してレアなCDを借りたり、その向かいにあったベスト電器(からヤマダ電機になった)と1階にあった本屋にはよく行っていた。ここがベスト電器の前は生協で高校の頃はここで昼飯を調達し、北24条のサンプラザで受験勉強をしていた。生協の前はボウリング場だったが、その時期は知らない。ただ、入口にあった妙な段差が元ボウリング場を感じさせた。この建物も2024年4月から解体工事が始まり、その過程で「せいきょう」の文字が出てきて、ちょっと切なくなった。今は更地になっている。
皮が剥がれた
コンシューマーズマートにしむら→ラルズストア太平→ビッグハウス太平 (1979-1989-1994-)
ビッグハウス太平店は太平4-1で今も絶賛営業中の大人気スーパーである。
出来た当初はコンシューマーズマートにしむら(住宅地図には丸友ストアーも併記されていた)、途中からラルズとなり、1994年にビッグハウスの1号店となり今に至る。
裏側入口
いつの間にか立派な門のような入口になっている
ラルズ時代だが、横の看板にコンシューマーズマートにしむらの表記もある
※ ホンダクリオとかマツダオートラマもあり懐かしい
下の写真は今の店舗に貼られているもので、この表記から察すると1979年オープンだと思われるが、その頃はラルズはなかったので後から貼られたものだろう。
80年代中頃までは創成川のすぐ近く(1丁目)に住んでいた。
昭和56年洪水の頃、創成川のすぐ近くまで親に連れられて川の増水の様子を見に行った記憶がある。実際に浸水したのは屯田のもっと北側で、自分が住んでいた周辺(南側)にはあまり影響がなかった。
創成川近くに住んでいる場合、ホクレンや生協のような当時の屯田中心部からは結構遠い。そのためどちらかというと太平のコンシューマーズマートにしむらに行くことが多かったように思う。
ここにもおもちゃコーナーやちょっとしたゲームコーナーがあって、子供にはとても楽しい店だった。
祖父に連れられて行った時は必ずミニカーを買ってもらえるので、よく連れて行けとおねだりした記憶がある。
その後、80年代半ばに屯田団地の中心部に引っ越したのでこの店に行く頻度は減ってしまった。
平成になり、ラルズと屋号が変わり、1994年にビッグハウス1号店としてリニューアルし、今でも営業中。
ビッグハウスになった頃は高校生で開店直後くらいに行ったが、店の中にはいってアメリカナイズされているなあと思った記憶があるが、今となってはどこでそう思ったのか覚えてない。ただ、にしむらの時代にあったゲームコーナーとかおもちゃコーナーは無くなった。ラルズの頃に無くなったのかもしれないが覚えていない。
写真は1995年、陸橋の中腹辺りで北向きに撮影されたもの。右側にビッグハウス太平店の看板が見える。明正堂書店の「本」の看板やアルペンが懐かしい。奥にはラパーク篠路も見える。
新琴似跨線橋 石狩街道 1995年撮影
建物は基本的には昔のままで建て替えられてはいないが改修工事はしていると思う。2023年には石狩街道側の入口に車が突っ込み店舗が破壊された事故もあった。同年に麻生駅の入口(イオン横)に突っ込んだり、新琴似マックスバリュ横のドミノ・ピザに突っ込んだりと立て続けに近隣で事故があった。アクセルとブレーキ踏み間違え事故はよく聞くが、よく知っている場所でこういう事が起こるとは驚きだった。
体感では屯田近辺で最も安いスーパーなのでいつも大混雑している。特に土日の午後になるとレジに長蛇の列が出来ている。しかし店員も手慣れたもので大混雑していても回転が速くいつも感心しながら見ている。
個人的にもここで知り合いに会うことがかなりある。
10数年前に聞いた話だと、この周辺で最も人の入りが多い店だということで、おそらくそれは今も継続していると思う。
駐車場は石狩街道側とその裏にかなり広い駐車場があり、殆どの人は裏の大駐車場に停めている。
しかし、1989年頃に撮られた空撮写真だと裏側駐車場はまだかなり小さい。この頃は石狩街道側の駐車場がメインで、表が空いてなかったら店舗横の細い通路を通って裏に停めていた。今でもこの通路が存在していて、たまにそこを通るがその度に昔のことを思い出す。
付属の空撮地図
なお、この周辺によく行っていた個人商店(田中屋ストア?だったはず)があった。1980年頃までは石狩街道沿いにあったが、1981年頃に移転したようだ。ここにビール瓶を返すとお金が返ってくるので親とよく行っていた。そのついでに自分は当時流行っていたビックリマンチョコとかガムラツイストとかネクロスの要塞を買っていた。あと週刊少年ジャンプもここに買いに行っていた。
その商店もいつの間にか無くなり、跡地にはビルが建ち、1989年から30年間ほど、サッポロドラッグストアの本社だった。斜向かいには江口整形外科があり(今は創成川通り整形外科に改名された)、小学校の頃に骨折した時にリハビリに通っていたことがある。
近隣の南側の三角地は当時からは大分変わった。ここはかなり入れ替わりが激しい。今はラーメン屋の桃太郎とマツダオートザムになっているが、少し前はオートザムではなく、イエローハットと平禄寿司だった。イエローハット時代の特徴的な三角形の看板は、ここが80年代にはアルペンだったからである。その北側には「お察しください」系の本屋になってしまっているが、その建物はかつては明正堂書店とレンタル専門のTSUTAYAが同居していた。明正堂書店は小学生の頃からよく通っていた。田中屋ストアでジャンプを買うか、ここで買うかのどちらかだった。あと、ファミコン雑誌(ファミマガ or ファミ通)もここで買っていた。小学生の頃、明正堂書店で本を買いに行ったら、ほんの数分で自転車を盗まれたことがあり、ショックで数日間モヤモヤしていた。この頃の太平と新琴似は治安が悪かった。それから鍵は絶対かけるようになった。ここにTSUTAYAがあった時代もあった。T-BOLANとかピチカート・ファイヴを借りた覚えがあるので、おそらく1992年〜1995年くらいまではあったと思うが、いつ店舗が無くなったかは分からない。自分は知らないが明正堂書店の前はでんきのコーヨーという店だったが幼すぎて記憶にない。
三角地の道路を挟んで奥には、コンテナ型のカラオケボックスもあった時期があるが、いつの間にか無くなっていた(今は重機の駐車場になっているようだ)。おそらく1992年頃だと思う。
また、入ったことはないが、近くには理容ポプラというかなり目立つオレンジ色の外壁の床屋があった。しかしこれも今は閉店しているようだ。80年代初頭からこの外観だったと思うが、幼い頃から妙に印象に残っていた。
ポプラ
また、隣にあったヴィクトリアステーションは2021年に閉店してしまった。
住宅地図だと1980年の地図にはなく、1981年の地図で出てくる。てっきりにしむらと一緒に出来たと思ったがそうではないようだ。
この頃のヴィクトリアステーションのこの店舗は店内に模型の列車が走っており、これを見たくてこの店に行っていたと言っても過言ではない。
そういう人多かったんじゃないだろうか?
2020年に食べに行ったが、その時には既に模型の列車は無くなっていた。
この辺りで、ほぼ昔のまま残っているのはビッグハウスだけである。凄い。
屯田と太平は創成川を介して隣り合ってはいるが、石狩街道の構造上、屯田川に大店舗が作れない。石狩街道の西側が屯田だが、すぐ横に創成川があるためである。一方東側太平方面は大店舗が立ち並び、この点でもかなり長い期間、太平に商業施設では遅れを取っていた。
ただ、創成川沿いの長閑な風景は太平にはないので、そこは良いところではある。
創成川の話が出てきたので余談だが、屯田には屯田1−1(と、屯田2−1の南西部)という秘境があった。いや、正確に書くと、かつてその周辺は秘境だった、という書き方が正しいのかもしれない(住んでいた方すみません)。
屯田に住んでいた人も、ここにどうやって行くのか分からなかったのではないだろうか?
1999年に学園都市線(札沼線)のJR新琴似駅が高架化されるが、それまでは列車が太平駅から新琴似駅まで地上を走っていた。この線路は屯田の北東部を横断するが、とくに踏切などはなかった。つまり、線路により屯田が分断されるのである。分断されていたのは屯田1−1と屯田2−1の一部地域。札沼線は戦前からある路線なので、その頃から分断されていたが、当時は農地だったので特に問題はなかった。しかし、60年代以降はこのあたりも宅地化が進む。80年代にアンダーパスが出来るまで、この地域の人はこの線路を超えることが出来ず、同じ屯田でありながら生活基盤は新琴似にあったらしい。
車の場合、1996年までこのエリアに車で入るための入り口はたった一つで、新琴似側から防風林横の今の琴似栄町通りから入る脇道しかなかった。そして、このエリアに入ると同じ道を戻って出るしかない。最近はタクシーで麻生から屯田に行くと皆さんこの道を通るが、昔は袋小路だった。その後1996年に石狩街道からこのエリアに入る脇道ができた。これで出入り口が2箇所になる。ただ、まだこの段階でも屯田側から屯田1-1に車で入ることは出来ない。
1999年に防風林沿いポプラ通りが、鉄道高架化により開通し、これでようやく屯田側から屯田1-1に入ることが出来るようになったのだ。
歩行者の場合は一応線路を越える方法はあった。しかしそれも最初からあったわけではないようだ。
1980年頃、屯田中央中学校が出来る時、この地域も屯田中央中学校の学区になった。そこで困るのが線路を超えられないことである。一旦新琴似側に出て新琴似六番通りの踏切を渡り再度屯田側に入る必要が出てくるのでこれはかなりの遠回りになる。この辺りの人はそもそも住所が屯田ながら生活基盤が新琴似にあったようで、まさか屯田が学区になるとは思ってもいなかっただろう。それで、通学路に困るということで出来たのが線路下を通るアンダーパスだったようだ。このあたりの話は屯田中央中学校の記念誌に書かれていた。アンダーパスは昔からあったと思いこんでいたがそうではなかったようだ。
ということで、それまではこの場所に足を踏み入れるには、このアンダーパスを抜けて通るか、一旦新琴似に入って防風林の端から入るしかない。アンダーパスは車は通れる大きさではないのでその場合は新琴似側から入るしか選択肢がない。
このアンダーパスは学園都市線が高架化された今は跡形もないが、同じ場所が低い高架になっていて下を通れるようになっている。昔は通るのが怖い場所だったが今は広くなっていて怖くなくなった。
今では石狩街道からも直接屯田1−1に入れる道も作られたので、昔よりかなり行きやすくなり、もはや秘境ではなく、かつて秘境だった場所となった。
この超貴重な動画で、そのアンダーパスの一部が映っている(エンジ色の入口)。
80年代当時の小学生にとって、屯田1−1の線路の向こう側と、屯田墓地周辺は秘境だったのである。
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