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【試し読み】小川哲「君のクイズ」文庫 4/25 刊行記念!

小川哲さんの小説『君のクイズ』は、2022年10月の刊行以来、増刷を続けるロングセラーです。ジャンルの壁を越えて多くの方に激賞いただき、日本推理作家協会賞[長編および連作短編集部門]を受賞、舞台化&漫画化もされる作品です。
4月25日(金)、ついに本作の文庫版が刊行されます! 文庫版は、スピンオフ短編小説「僕のクイズ」と、哲学研究者でクイズプレイヤーの田村正資さんによる解説を新たに収録しています。この発売を記念し、試し読みとして冒頭から約1/4たっぷりと無料公開いたします。
一段落目からすぐに面白い! 読み進めるほど面白い! 本作の世界をぜひ体験してみて下さい。

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『君のクイズ』朝日文庫 4月25日(金)発売

『君のクイズ』特設サイト 


君のクイズ  小川 哲・著

 白い光の中にいた。下半身の感覚がなくて、宙に浮いているような気分だった。きっと長時間の生放送で緊張と緩和を繰り返してきたからだろう。緊張と緩和。お笑い芸人の間で「笑いの基本」として挙げられる、「緊張の緩和」という落語理論を提唱した、上方落語界を代表する落語家は――僕は脳内で早押しボタンを押して、「桂枝雀」と答える。僕はよく、思考がクイズに向かってしまう。真剣に考えごとをしていたはずなのに、いつの間にかクイズを解いていた、そんな経験もよくある。
 顔をあげて周囲を見渡す。テレビ用の照明が眩しくて、スタジオにいた百人の観覧者の顔は見えなかった。隣に立っている対戦相手の本庄絆(ほんじょうきずな)の横顔を見る。まっすぐ伸びた鼻筋に汗の粒が浮かんでいる。僕は目を閉じる。本庄絆の気配が消えてなくなる。番組のMCを務めるお笑い芸人と女優も、観覧席にいるはずの両親と兄も、生放送のテレビを見ている数多くの友人も、世界のどこにもいない。僕はただ真っ白な光の中にいて、目の前にはクイズだけが存在している。何年かに一度、こういう状態になることがある。スポーツ選手における「ゾーン」みたいなものなのかもしれない。「打撃の神様」の異名を持ち、「ボールが止まって見える」の名言でもお馴染みの、読売巨人軍の選手、監督だった人物は――川上哲治。
 クイズが止まって見える。そんな言葉を口にしたくなるくらい、頭が回っていた。
 僕は右手を伸ばした。手のひらの中で、クイズは霧のように溶けていった。新しいクイズが浮かびあがり、そしてまた消えた。これまで僕が出会ってきたクイズと、これから僕が出会うはずのクイズが、僕の体のまわりに漂っていた。

 僕は第一回『Q―1グランプリ』のファイナリストとして、六本木のスタジオの解答席に立っていた。次は第十五問目が出題されるところだ。七問先取の短文早押しクイズで、僕はすでに六問正解していた。対戦相手の本庄絆は今のところ五問正解で、つまり次の問題に僕が正解すれば、僕は第一回『Q―1グランプリ』の覇者となる。賞金は一千万円――手にしたことのない大金で、おそらくそれなりに人生が変わる額だ。
 その日の僕は、クイズ人生でも最高に調子が良かった。押すべきポイントで押せていたし、苦手なジャンルの問題でもいくつかポイントを拾えていた。そして何より、大舞台なのに緊張もせず、クイズを楽しんでいた。こんなにクイズが楽しかった記憶はなかなか思い出せない。
 僕は自分が勝つと思っていた。もちろん、本庄絆の強さもよく知っていた。というか、決勝の場で対戦する中で、彼の強さを知ってしまった。正直に言えば、今日まで彼のことを見くびっていた。彼は広辞苑を丸暗記したような頭でっかちのテレビタレントで、クイズなんて全然できないと思っていた。でも実際には違っていた。隣で早押しを競ってきたからよくわかる。彼はクイズという競技の勉強をしていた。この短期間でどれだけ努力したのか想像もできないほどに。
 それでも僕は、どんな問題が来ても本庄絆より先に正解にたどり着くと確信していた。僕は十年以上、毎日のようにクイズをしてきた。付け焼き刃の努力には負けない。クイズという競技の中だったら、かならず勝つことができる。かならず勝つ。自分に言い聞かせるように繰り返す。かならず勝つ。
 スタジオは静まりかえっている。耳をすますと自分の心臓の鼓動が聞こえる気がする。おそらく錯覚だろう。テレビや映画の演出とは違い、人体は自分の心臓音が聞こえるようにできてはいない。本当に聞こえていたらそれはきっと耳の病気で、「拍動性耳鳴」という。「拍動性耳鳴」が答えのクイズには出会ったことがない。専門性が高くてクイズには向いていないからだろう。でも僕は、クイズとは無関係にこの言葉を知っている。二年前、僕の母が罹患したからだ。
 いいぞ、悪くない。僕の頭はよく回転している。ノビのある直球を「火の玉ストレート」とも評される、元阪神タイガースの野球選手は――藤川球児。僕の頭は藤川球児のストレートくらい回転している。

 CMが明ける。番組のMCが「さあ、決勝の舞台も終盤です」と言う。「はたして次の問題で王者が決定するのか。それとも本庄絆が粘りを見せるのか」
 僕は目をゆっくりと開き、息を吸って吐いた。手元の早押しボタンの感触を指先で確かめた。
 ディレクターが合図をする。問い読みのアナウンサーが息を吸う。
「問題――」という声が聞こえる。それと一緒に、観覧席から「あと一問」という誰かの声も聞こえる。あと一問で、僕は優勝する。
 僕は集中する。クイズに対して、百パーセント集中する。
「仏教において極楽浄土に住むとされ、その美しいこ――」
 僕も反応したが、解答権を示すランプが点いたのは対戦相手の本庄絆だった。
 押し負けたのは、油断したからではなかった。本庄絆の押しが完璧すぎたのだ。
 僕は考える。「美しいこ――」は「美しい声」しかない。極楽浄土に住んでいる美しい声の持ち主――答えは一つに確定している。知識さえあれば正解できる問題だ。そして、本庄絆は誰よりも知識を持っている。
 カメラマンの足元には大きなモニターがあって、そこにはテレビで放映されている僕たちの姿が映しだされている。
 解答権を得た本庄絆は一点を見つめたまま記憶の引きだしを引っ掻きまわし、必死に答えを探している。彼はナイフリッジを歩く登山家だ。両側は切り立った崖で、一歩間違えれば奈落に落ちる。答えが見つからなくても、誤った答えを口にしても彼は失格になる。
 僕は彼がプレッシャーを感じるよう、可能な限り「おいおい、まさかそんな答えも出てこないのかよ」という表情を作って彼を見る。
 僕の小細工は効果を発揮せず、本庄絆が「あった」という顔をする。
 息を整えてから本庄絆が「迦陵頻伽(かりょうびんが)」と答える。自信のある大きな声で。
 正解を示す「ピンポン」という音がする。観覧席から「おお」という声と、続いて拍手が聞こえる。
 6―6。
 これで僕たちはポイントで並んだ。次が優勝者を決めるクイズになる。観客席の拍手がどよめきに変わる。
 僕はゆっくり瞬きをする。白い光がぼんやりと溶けていく。手前のモニターには、先程の問題の全文と、真剣な表情で一点を見つめる本庄絆が映っている。
「Q.仏教において極楽浄土に住むとされ、その美しい声から仏の声を喩える場合にも用いられる、上半身が人で下半身が鳥の生物は何でしょう? A.迦陵頻伽」

 空気が張り詰めている。それまで、一問終えるごとにコメントを聞いていたMCも、その空気を感じとったようだ。
「ついに大詰めです。次の問題で優勝者が決定します。さあ、初代『Q―1グランプリ』王座は三島玲央、本庄絆、どちらの手に渡るのか」
 MCが小さくうなずき、「次に行きましょう」という合図を送る。モニターに映るアナウンサーが再び息を吸う。スタジオ全体が静寂に包まれる。
「問題――」
 ついに来た。一千万円。次のクイズに一千万円の価値があることを、僕はぼんやりと意識する。緊張で、ボタンに置いた右手が少し痙攣(けいれん)している。
 問い読みが息を吸い、口を閉じる。
 その瞬間だった。
 パァン、という早押しボタンが点灯した音が聞こえた。自分が間違えてボタンを押してしまったのではないかと思い、慌てて手元のランプを確認したが、明かりは点いていなかった。僕はすぐに隣の本庄絆を見た。彼のランプが赤く光っていた。
 僕は真っ先に「ああ、やっちまったな」と思った。本庄絆に同情した。まだ問題は一文字も読まれていない。一文字も読まれていないということは、この世界を構成するすべての事物の中から――つまり無限通りの選択肢から――答えをつまみあげないといけないということだ。優勝を決める大事な問題で、本庄絆は誤ってボタンを押してしまった。『Q―1グランプリ』は生放送だ。この瞬間を何百万人という人が目撃してしまっている。最終問題を撮り直して、本庄絆のミスをなかったことにはできない。
 本庄絆はすでに二回誤答している。もう一度誤答すれば失格になる。そういうルールだった。
 勝ちは勝ちだ、と僕は考える。望んだような終わり方ではなかったが、どちらにせよ一千万円は僕のものだ。残念だったな、本庄絆。
 観覧者もMCもスタッフも、みんな本庄絆のミスに気づいていた。舞台袖のディレクターが慌てた様子で、インカムに向かって何かを喋っていた。想定外のトラブルに、困惑のどよめきが広がっていた。
「ママ.クリーニング小野寺よ」
 本庄絆はそう口にした。
「え?」
 思わず僕は声を出していた。極度の緊張で、本庄絆の頭がおかしくなってしまったのではないかと疑った。横を向いて本庄絆を見た。無表情のまま、まっすぐ前を見つめていた。テレビのクイズ番組で何度も見たことのある表情だ。やるべきことをやって、あとは世界が自分に追いつくのを待っている表情。
 もしかして――と僕の心臓が高鳴る。解答に自信があるとでもいうのだろうか。しかし、いったいどういう基準で、一文字も読まれていないクイズの答えを出したのだろうか。
 僕はMCの顔を見て、それからステージの傍にいる問い読みをしていたアナウンサーの顔を見た。MCは怪訝そうな顔をしていて、アナウンサーは大きく目を見開いて驚いていた。
 会場は妙に静まりかえっている。舞台袖のスタッフが小さく「どうする?」と口にしたのが聞こえた。「いいのか?」という声も聞こえた。
「ママ.クリーニング小野寺よ」
 もう一度、本庄絆が口にした。
 それから十秒ほどの間があって、正解を示す「ピンポン」という音が鳴った。舞台の両脇から白い煙が勢いよく噴射され、頭上から紙吹雪が舞い落ちてきた。そのときになっても、僕には何が起こったのかわからなかった。ディレクターがカンペを出す。MCが半信半疑のままそれを読みあげる。
「なんということでしょう! この時点で、勝者が決定しました。第一回『Q―1グランプリ』、栄えある初代王者は本庄絆です!」
 MCのその言葉で僕はようやく事態を把握した。本庄絆が勝ったのだ。彼は問題が読まれる前に押して、正解したのだ。スポンサーが小切手を抱えて舞台袖からやってきた。
 僕は呆気にとられてステージの上手側で棒立ちしていた。
 ステージ上は紙吹雪とスモークでほとんど何も見えなかった。何度も目をこすって、目の前で起こっていることが現実かどうか確かめた。天を仰ぐと、紙吹雪が口の中に入った。僕は紙吹雪を右手でつまみだし、どういうわけかポケットに入れた。そのあたりから頭が真っ白で、番組が終わって控室に戻るまで記憶がない。
   ●
 放送後の控室に本庄絆の姿はなかった。代わりに決勝へ進出できなかった六人の出演者が、用意されたパイプ椅子にも座らず一列に床に座りこんで、入口のドアを睨んでいた。まるで公民権運動に参加する人々のようだった――マーティン・ルーサー・キング牧師、ジム・クロウ法、モンゴメリー・バス・ボイコット。クイズの試合はもう終わったというのに、脳内で勝手にアメリカの公民権運動に関するキーワードが連想される。公民権法が制定されたのは一九六四年で合っていただろうか。ケネディ暗殺が一九六三年で、その翌年だった気がする。僕はスマホで「公民権法」と検索して確認する。一九六四年。合っていた。合っていたが、意味のない正解だ。僕は優勝できなかった。
 スマホから顔をあげる。重苦しい空気だった。真剣勝負を終えた解放感はなく、「クイズを汚された」という不満と怒りに満ちていた。僕は少し迷ってから、彼らの列の前に座りこんで、なるべく不満そうな顔をした。そうするのが正しいと思った。後ろを見ると入口を睨む顔が六つ並んでいて、ラシュモア山の国立記念碑みたいだった。サウスダコタ州ブラックヒルズにあるラシュモア山国立記念公園の露頭に彫られた、アメリカ合衆国の大統領をすべて答えよ――ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン。
 準決勝の出場者は全員顔見知りだった。日頃オープン大会でよく見る人。高校生クイズのときに同じ宿に泊まっていた人。僕が以前出演したテレビのクイズ番組で対戦した人。大学のクイズ研究会の先輩……。僕以外の六人のクイズプレイヤーたちは、口々に「大変なことになるぞ」と言っていた。立ちあがろうとする人は一人もいなかった。具体的に言葉を交わしたわけではなかったけれど、このまま本庄絆の優勝が認められるようなことはありえないという点だけは共有していた。もし不正が明らかになったとき、賞金の一千万円はどのように分配されるのだろうか。立ちあがった人は受け取る権利を失う――みたいな雰囲気がどことなく存在していて、誰一人その場から動こうとはしなかった。
 しばらくして若い男性スタッフが控室にやってきた。帰宅用のタクシーを手配するらしく、出演者たちに家の場所を聞こうとした。
 一人の出演者が「どういうことなんですか?」と彼に聞いた。「本庄は問題を聞く前に正解していましたが」
「クイズのことはわかりません」と彼は答えた。「タクシーチケットをお渡しするので、帰宅場所を教えていただけると助かります」
「こんな状況で?」と別の出演者が聞いた。
「このあと清掃が入るので、スタジオから撤収しないといけません」
 微妙に話が噛み合っていないようだった。
「なんの説明もなく、このまま帰れっていうんですか?」
「私は何も知りません」と彼が言う。彼は事態がよくわかっていないようだった。きっと誰かに「タクシーチケットを配ってこい」と言われ、その命令に従っているだけなのだ。
「じゃあ、ここに坂田さんを呼んでください。坂田さんの口から直接、どういうことなのか説明してもらいます。こんなこと、あってはならない」
 坂田さん、とは坂田泰彦のことで、この番組の総合演出だった。
「坂田はスポンサー対応中でして、本日中は時間がないと聞いています」
「時間がない? こんなことをしておいて、スポンサーを優先するんですか?」
 出演者の一人が言う。男性スタッフが「すみません」と謝る。
「すみません、じゃねえんだよ。説明しろよ」
「すみません。後日説明させていただきますので、今日のところはどうかお帰りください」
 男性スタッフはまだ二十代前半だろう。彼の目にうっすらと涙が浮かんでいる。
 出演者の中で一番年配だった片桐さん――ジョージ・ワシントンの位置に座っていた三十五歳の男性――が「まあ、いくら下っ端に言っても仕方がないでしょう」と皮肉たっぷりに言って立ちあがった。「彼も困ってるみたいですし。後日ちゃんとした説明があるってことですよね?」
 番組に対する不満と、男性スタッフに対する憐憫(れんびん)が半分ずつ混じったような言い方だった。
「だと思います」と男性スタッフが力なくうなずいた。
「ちゃんとした説明がなかった場合、出るところに出ますよ」
 片桐さんが念を押して、男性スタッフが「はい」と頭を下げた。
 なんだか自分たちが寄って集って彼をいじめているみたいで居心地が悪く、「わかりましたよ」と片桐さんが言って、他のプレイヤーも順に立ちあがった。
 控室を出るとき、男性スタッフと目が合った。彼はとっさに僕から目を逸らした。僕は「睨みつける」と「見つめる」の中間くらいの感じで、彼のことをじっと見た。彼は決してこちらを見なかった。僕は彼がなぜ泣いたのか、その理由を見つけようとした。彼はこの結末に不満を持っていたのだろうか。それとも、年上の出演者たちに囲まれ、質問攻めにあい、怖くなっただけなのだろうか。
 片桐さんが「行こう」と言うまで、僕は控室のドアの前に立っていた。結局、涙の理由はわからなかった。

 僕たちは渋々帰宅することにした。家の方向が同じだったので、僕は準決勝で戦った富塚さんと同じタクシーに乗った。富塚さんは僕より八つ年上だった。たしか大学からクイズを始めたはずだ。日本史が得意で、『abc』のペーパーで一位を取ったこともあるし、数多くのオープン大会でも優勝している。「最近強い人を五人教えて」と聞かれたら、ほとんどのクイズプレイヤーが候補に挙げるだろう。準決勝では調子の良かった僕が序盤で三問先行し、そのまま押しきってなんとか勝利することができたが、一回戦突破後に組み合わせを決めたときには、正直言って本庄絆よりも富塚さんの方が強敵だと思っていた。
 家路に向かうタクシーの中で、富塚さんは「で、実際どう思った?」と聞いてきた。
「最後の問題のことですか?」
「それもそうだけど、それ以外の問題も」
 さすが歴戦のクイズプレイヤーなだけあって、富塚さんは決勝の舞台で行われた不可解な現象のすべてを把握していた。たしかに最終問題で本庄絆は問い読みが行われる前に正答したが、実はそれだけではなかった。それまでにも不可解な早押しがいくつか存在していた。
「逆に聞きたいんですけど、富塚さんはどう思いました?」
「やってると思ったよ。たとえば三島との試合で、4―3のときに『野島断層』のクイズがあったでしょ? あれなんかもありえないタイミングの押しだったし。でもまあ、相手がやってるかどうかって、実際に戦ってる人が一番わかるじゃん。俺は今日、本庄と直接戦ってないからさ。三島の感想が聞きたいわけ」
「正直に言っていいですか?」
「うん、正直に言って」
「最終問題まではやってるとは思いませんでした」と僕は答えた。富塚さんが、そして何より僕自身が求めている答えでないことを自覚しながら、それでも正直に答えた。
 やってるとは、「ヤラセをやっている」という意味だ。富塚さんは――いや、富塚さんだけでなく、他の出演者とかなりの数の視聴者は――今日の試合が本庄絆を勝たせるためのヤラセだったのではないかと疑っているはずだ。たしかに、そう見られて当然だと思う。読まれていない問題に正解するためには、あらかじめどんな問題が出題されるか知っていなければならない。
 視聴者の多くは知名度と人気のある本庄絆を応援していたと思うが、クイズプレイヤーの間で彼が優勝すると思っていた人はいないだろう。本庄絆はクイズプレイヤーではないし、彼はクイズができないと思われていた。
「『野島断層』は?」
「たしかにめちゃくちゃ早いと思いましたが、本庄絆はたまにああいう無茶な押しをします。彼なりに自信があったのかもしれませんし、他の選択肢を知らなかっただけかもしれません。可能性としては薄いですが、過去に同じようなクイズを作問したことがあったのかもしれないですし。とにかく断定はできません。彼は普通のクイズプレイヤーではありませんから」
 決勝の舞台で僕が感じたことをそのまま伝えた。本庄絆はクイズプレイヤーとしての経験が浅い。無茶な押しをするだけでなく、普通だったら押すポイントでまったく反応しなかったりもする。それは彼がヤラセをしている証拠ではなく、彼が熟練したクイズプレイヤーではないという証拠だ。少なくとも、最終問題まで、僕は「ヤラセ」の「ヤ」の字も疑っていなかった。
「たしかに、あいつの押し方を俺たちの尺度で考えても意味はないな」
「ええ」と僕はうなずく。
 本庄絆は「世界を頭の中に保存した男」とか、「万物を記憶した男」とか、「クイズの魔法使い」などと呼ばれている。もちろん彼は世界を頭の中に保存したわけではないし、万物を記憶しているわけではないし、魔法なんて使えるはずがないと思っているが、彼が人智を超えた暗記力の持ち主であることは間違いない。
 本庄絆は東大医学部の四年生で、二十二歳だった。歴代アメリカ大統領だけでなく、歴代ノーベル賞受賞者、国連加盟国のすべての国旗とすべての首都、国内有名寺院の山号、百人一首の完全暗記など、圧倒的なデータベースから正確な答えを出してくる。クイズプレイヤーとして珍しいのは、彼がクイズ研究部などに所属した経験のない人物であることだ。彼は『超人丸』というテレビ番組の「知能超人」というコーナーに出演し、日本国憲法の条文をすべて暗記しているということで有名になった。『超人丸』のプロデューサーだった坂田泰彦は本庄絆のスター性に気づき、番組内で「知能超人決定戦」という新コーナーを始めた。本庄絆はそのコーナーで数々の伝説を作った。多答問題でノーベル文学賞受賞者を全員、世界自然遺産を二百件以上、Jリーグに加盟するすべてのクラブ、日本の夏季オリンピック金メダリストのすべてを書きだした。QRコードを読みとったり、バーコードを見ただけで商品名を当てたりした。
 しかし、それらはクイズとは関係がない。クイズとは覚えた知識の量を競うものではなく、クイズに正解する能力を競うものだからだ。本庄絆は暗記が得意なテレビタレントであり、クイズプレイヤーではない。僕たちクイズプレイヤーはそう考えていた。
「まあ、他の押しはひとまず措いておこう。最終問題は合理的な説明がつくと思う?」
 富塚さんはヤラセを疑いつつ、同時に今日の大会がヤラセではなかった可能性も考慮しているようだった。その気持ちもよくわかる。昔はどうだったのか知らないけれど、少なくとも最近のテレビのクイズ番組でヤラセがあったという話は聞かない。かなりグレーに近いことはあるらしいが、グレーと黒は大きく違う。僕が知っている限りでは、少なくとも参加者たちはみんな同じ条件で戦っている。クイズプレイヤーは芸能人ではなくただのクイズオタクだ。脚本が存在しているクイズの勝負には向いていない。もしヤラセをしようとすれば、どうしてもその空気を隠しきれなくなるはずだ。あらかじめ知っていた答えで正解しても、喜びの感情は白々しくなってしまう。
 僕の思いは少しだけ複雑だった。自分でも、どう決着するのが望ましいのかわからずにいる。本庄絆には腹が立っている。彼は正当な罰を受けるべきだ。真剣勝負を汚されたと思っているし、もし本庄絆のヤラセが明らかになって自分が繰りあげ優勝になるのなら、一千万円がもらえるのかもしれないという欲目もある。
 でも、それと同時に、ヤラセが存在してはならないとも思っている。一般人には理解のできない(が、クイズプレイヤーにとっては合理的な)早押しのせいで、「クイズなんてどうせヤラセでしょ」という声を、何度も聞いてうんざりしてきた。ヤラセが明らかになれば、過去の自分のトロフィーにも泥をかけられた気分になるだろう。
「僕にはわかりません」
「わかりません、ってことは、ヤラセじゃない可能性もあるってこと?」
「それも含めてわかりません」
「っていうかさ、お前、『ママ.クリーニング小野寺よ』って知ってたか?」
「知りませんでした」と僕は正直に答えた。一度も聞いたことがなかったので、さっきスマホを使って調べた。山形県を中心に、東北や北陸に店舗を構えるクリーニングチェーンらしい。妙な問題だと思った。その他の問題とも微妙に傾向が違っていたし、「新作問題」という感じでもない。
「そもそもあんまりクイズに出される問題じゃない。というか、俺は一度も聞いたことのない問題だ」
「はい」
「じゃあ、どうして本庄は答えることができたんだ? あいつ、東京出身だったよな?」
「はい」
「俺はヤラセだと思う」と富塚さんは言った。「そうじゃなきゃ魔法だ。万物の、無限の選択肢の中から、魔法を使って正解を導きだしたんだ」

 僕はタクシーを降りてからもずっと考えていた。どうして本庄絆は押せたのか。
 ヤラセなのか。それとも魔法なのか。
 どっちも嫌だ。クイズにはヤラセなどあってはならないし、同様に魔法もあってはならない。クイズとは、知識をもとにして、相手より早く、そして正確に、論理的な思考を使って正解にたどり着く競技だ。手にした情報から世界を狭め、可能性の枝を削り落としていく。そうやって、世界の可能性をひとつにまで絞る。クイズは大会の主催者に気に入られた人間が勝つ競技ではないし、ファンタジー能力を競うものでもない。

 帰宅してから、僕はSNSにアップされていた本庄絆の優勝シーンを見た。
「問題――」と聞こえた瞬間、ボタンを押した本庄絆が「ママ.クリーニング小野寺よ」と口にする。
 画面には映っていないが、舞台袖ではスタッフが慌てているし、問い読みのアナウンサーの顔は青ざめている。画面の右にいる僕は、きょろきょろと周囲を見回してから、困惑した表情で下を向いている。
 もう一度、本庄絆が「ママ.クリーニング小野寺よ」と答える。しばらく間があって、「ピンポン」と音が鳴る。
 真新しいことは何ひとつ見つからない。僕がステージで見たことがすべてだった。ただステージ上の僕が知らなかった唯一の情報として、テレビの放送画面には本来読まれるはずだった問題が表示されていた。
「Q.『ビューティフル、ビューティフル、ビューティフルライフ』の歌でお馴染み、天気予報番組『ぷちウェザー』の提供やユニークなローカルCMでも知られる、山形県を中心に四県に店舗を構えるクリーニングチェーンは何でしょう? A.『ママ.クリーニング小野寺よ』」
 本庄絆が押さなかったとしても、どちらにせよ僕が押せる問題ではなかった。というか、千葉出身の僕には答えようのない問題だ。東京出身の本庄絆がなぜ「ママ.クリーニング小野寺よ」を知っていたのだろうか。彼は全国の回転寿司チェーンやクリーニングチェーンの丸暗記でもしていたのだろうか。
 どちらにせよ、彼はあんなリスクのある早押しをする必要はなかった。問題をゆっくり聞いてからでも彼は勝っていたし、そうしていればヤラセの疑いをかけられることもなかった。
 そうだ――と僕は気づく。本庄絆はあんなタイミングで押す必要がなかった。あらかじめ答えを知っていたのだとしても、せめて問題冒頭の「ビューティフル」を聞いてから押せばよかった。「ビューティフルライフ」かもしれないし、「ビューティフル・マインド」かもしれない。パッと思いつく限りでも、嵐やGReeeeNが「ビューティフル・デイズ」という曲を歌っている。「ビューティフル」だけで「ママ.クリーニング小野寺よ」と答えられるクイズプレイヤーがこの世に存在しないことくらい、本庄絆はわかっていたはずだ。少し待つだけで、バレバレのヤラセを全国に知らしめなくてすんだ。
 どうして本庄絆はあんな押し方をしたのだろうか。
 わからない。あの押し方が合理的とは思えない――ということ以外は、まったくわからない。
 僕は一千万円のことを考える。一千万円は僕のものになるのだろうか。スタッフは「後日説明させていただきます」と言っていた。すべては彼らの「説明」とやらを待ってからだ。
 まだ『Q―1グランプリ』は終わっていない。
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 総合演出の坂田泰彦によれば、『Q―1グランプリ』は「将棋でいうところの名人戦、野球でいうところの日本シリーズみたいなものを、クイズでもできるんじゃないかと思った」ことが企画のスタートだったという。番組への意気込みを語った彼のインタビューが、テレビ雑誌に掲載されている。「クイズというスポーツの試合で、一流のアスリートたちが最高のプレーを見せる。賞金は一千万円。それだけで番組として成立するという確信があった」
 インタビュアーの「クイズ番組の生放送ということに恐れはないのですか?」という質問に対して、坂田泰彦は「クイズはスポーツです」と答えている。「ワールドカップの試合を録画で編集して放送しますか?」
 クイズにはさまざまな形式がある。早押しクイズ、ペーパークイズ、ボードクイズ……。同じ早押しクイズでも、誤答罰や勝ち抜けに必要な正答数が違うし、問題の形式やジャンル、難易度もバラバラだ。クイズ大会は数多く存在しているが、大会ごとに異なる形式を組み合わせており、統一のルールなどは存在しない。
『Q―1グランプリ』のルールは異質だ。とにかくストイックなのだ。準決勝も決勝も7○3×のトーナメント戦を行う。7○3×とは「先に七問正解した方が勝者となり、三回誤答した場合は失格となる」という、早押しクイズの基本的な形式である。出題される問題はノンジャンルで、頻出問題と新作問題がバランスよく出題される。熱心なクイズ研究会の大学生だって開催しようと思わないくらい、ストイックなルールだった。
 番組の公式サイトによると、公募された『Q―1グランプリ』の参加希望者は七千人近くで、一次予選の筆記テストで五十一人まで絞られている。そこに、番組から直接招待された十三人のクイズプレイヤーが加わり、六十四人が二次予選へ進んでいる。僕と本庄絆を含む、準決勝に残った八人のうち五人は、招待枠で二次予選から参加していた。
 二次予選は四人一組の5○3×(五問正解で勝ち抜け、三問誤答で敗退)で、六十四人のプレイヤーが十六人に絞られた。三次予選はセコンド付きのジャンル選択式7〇3×で、これは決勝のステージとほとんど同じルールだ(セコンド付きになっているのは、一千万円という賞金を実現するため、民放連の賞金限度額規制を回避するためらしい)。こうして7〇3×を制した八人が準決勝の舞台へと進んだ。
 そして、本庄絆が優勝した。

 放送終了後、『Q―1グランプリ』の公式Xアカウントには三千件を超えるリプライがついた。意外だったのは、「ヤラセだ」と怒るコメントと同じくらい、本庄絆の実力を讃えるコメントがあったことだ。僕は知らなかったが、本庄絆が「異様な早押し」をしたのは今回が初めてではないようだった。クイズ番組『Qのすべて』の最終回における最終問題でも、彼は人智を超えた早押しをして正解していたらしく、「一文字押し」として有名な伝説になっているそうだ。
 次に本庄絆のXアカウントを見る。番組出演を告知するポストには千件以上のリプライがあったが、放送終了後も本庄絆は沈黙を続けていた。リプライの多くは「優勝おめでとうございます」や「伝説を作りましたね!」といった、彼のファンによるものだった。
『Q―1グランプリ』の出演者たちはそんな状況に困惑していた。
 富塚さんは「あれをヤラセじゃなくて実力だと考える人がいるのか……。絶望だ」というポストをした。本庄絆のファンから「絆くんに勝てなかった人が負け惜しみを言ってる」と言われ、「あなたみたいな素人にはわからないんでしょうね」と返している。
 片桐さんは「ヤラセではないというのなら、どういう根拠で問い読みの前に押したのか、本人の口から説明が必要だ」とポストして、やはり本庄絆のファンから反論をされていた。リプライには短い動画が貼ってあった。決勝戦の第二問目、僕が「幸福なか――」という問い読みでボタンを押して、正解した場面だ。
「見たところ、三島玲央(れお)選手もたった六文字でボタンを押して正解しています。この解答がヤラセではないなら、最終問題もヤラセではありません」
 片桐さんは「その二問は根本的に違う。どうして違うかわからないなら、一からクイズの勉強をしなさい」と返信してちょっとした炎上状態になっていた。
 本庄絆以外の出演者たちはLINEのグループを作って、番組に説明を要求するメールの文面を考えていた。
 僕はLINEグループが活発に動くのを眺めながら、世間の人々とクイズプレイヤーの温度差を感じていた。おそらく、多くの視聴者にとって、そもそも僕たちの早押しそのものが人智を超えているのだろう。
 翌日には「ヤラセ? それとも魔法? Q―1決勝の早押しに賛否両論」というネットニュースが出た。本庄絆の「ゼロ文字押し」にヤラセの声も出ているが、彼は人智を超えた記憶力を使って、クイズ番組で何度も奇跡を見せてきた。はたしてどっちだろうか――という内容の記事だった。
 いくつかのワイドショーから出演依頼があったが、僕はすべて断った。急にフォロワーが十倍以上に増えた自分のXに「番組の説明を待ちます」とだけ書いて、それ以外のことは公には何も口にしなかった。世間のものの見方と自分のものの見方が違いすぎて、何をポストするべきかわからなかった。
 僕が「番組の説明」に求めることはシンプルだ。ヤラセがあったなら認めるべきだし、ヤラセがなかったというのなら、本庄絆がどうやってゼロ文字で正答したのか説明するべきだ。ゼロ文字の解答を、「魔法」として処理することは許されない。世間が許そうとも、クイズプレイヤーは許さない。
 番組からメッセージが出たのは放送から三日後だった。

 第一回『Q―1グランプリ』の視聴者さま、参加者さま、関係者さま、そしてすべてのクイズプレイヤーのみなさまへ。
 第一回『Q―1グランプリ』放送後より、みなさまから数多くのご意見をいただいております。競技クイズの大会で、このような事態になったことをたいへん遺憾に思っております。
 外部スタッフによる調査の結果、演出面でいくつか不適切な部分があったことがわかりました。この結果は直ちに不正を認めるものではありませんが、競技クイズの普及、振興を目指した本大会が、結果として混乱を招くことになってしまった原因は、ひとえに我々の実力不足にあります。我々がクイズを愛する気持ちに嘘偽りはありませんが、ご期待を裏切られたように感じる方もおられ、誠に申し訳ございません。
 本大会は競技クイズの頂点として今後も年に一度開催を続けていく予定でしたが、このままではすべての視聴者のご理解はいただけないものであることから、今回のような形での次回開催は中止とさせていただくことになりました。
 なお、優勝者の本庄絆さんからは辞退の申し出があり、すでに優勝賞金全額とトロフィーを返還していただいております。
 この度はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。

 以上のメッセージが、総合演出の坂田泰彦と番組スタッフ一同の名前で発表された。
 僕はパソコンでその文章を読んだ。気がつくとPCデスクを殴っていた。自分で思っている以上に怒っていたのだと思う。納得できるわけがないし、筋が通っていない。「演出面で不適切な部分」があっただけで、不正はなかったという。不正がなかったと主張しているのに、本庄絆がどうやって正解したのか説明もしないし、本庄絆のコメントもない。彼らは一見謝罪しているように見えて、実は何も謝っていない。混乱を招いた? 期待を裏切った? そういうことじゃない。
 僕はそのメッセージを何度も読んだ。何度読み返しても、最終問題がヤラセだったのか魔法だったのか、それともクイズだったのかわからなかった。これが「説明」だというのなら、すべてのクイズプレイヤーを舐めている。
 僕はXを開いた。怒りにまかせて何かをポストしたくなるのを必死にこらえて、もう一度PCデスクを殴った。それから少しだけ冷静になって、番組の公式ポストを無言でリポストした。富塚さんは「参加者と視聴者を舐めている」と引用リポストしていて、片桐さんは「もう二度とテレビのクイズ番組には出ません」と宣言している。
 番組アカウントへのリプライを見る限り、納得していない人も多かった。それはそうだろう。僕だって納得していない。読まれてもいない問題に正解して優勝した人物がいるのに、不正がなかったというのはおかしい。もし不正がないと主張するのなら、どういう経緯で本庄絆が正解したのか、誰でも納得ができるように説明しなければならない。
 一方で、相変わらず「本庄絆レベルのプレイヤーになれば、問題文が読まれていなくても答えがわかるはずだ」と彼の実力を信じている人や、「誰よりも真面目で、クイズに真剣に取り組んできた絆くんが不正をするわけがない」と擁護する、知ったようなファンも多数見受けられた。そして一定数、「クイズ番組なんてどうせ全部ヤラセでしょ」と言っている人もいた。それらの意見は無知だから仕方ない、となんとか我慢することができたが、中には許せない意見もあった。「三島が負けを認められずにゴネてるだけでしょ?」とか「賞金がもらえなくて悔しかったのかな」とか、そういったものだ。さらには僕がヤラセに加担していたという見方もあった。
「番組関係者に聞いた話だけど、すべては演出で、本庄絆というクイズ王を生みだすための駒として、三島玲央も金をもらって一枚噛んでたんだよ」
 さすがにその投稿を見たときは頭に血がのぼった。
 僕は引用リポストで「どうしてそんな意地悪な見方ができるのでしょうか?」とつぶやき、翌朝には冷静になってポストを消した。『Q―1グランプリ』と本庄絆という巨悪を前にして、僕は正当な権利を奪われた聖人でなければならない。少なくとも今のところは。

 僕は坂田泰彦にメールを送った。丁寧なメールだ。「不正がなかった」と判断した根拠を教えてください。不正がなかったのなら、本庄絆がどうして最終問題に正解できたのか教えてください。坂田さんが希望するなら、メールの内容は他言しないと約束します。
 数日待っても坂田泰彦からメールが返ってくることはなかったし、番組から追加の発表もなかった。しびれを切らした僕は、本庄絆本人に連絡を取ろうと試みた。連絡先を知らなかったので、彼の大学の友人に聞いた。仲介してくれた友人は「無駄だと思う」と言った。「放送終了後から、本庄は誰にも連絡を返していないらしい」

 突然のご連絡失礼いたします。『Q―1グランプリ』の決勝で対戦した三島玲央です。先日は対戦ありがとうございました。決勝戦における押しと解答について、いくつか聞きたいことがあって連絡した次第です。連絡先は東大医学部の川辺さんから聞きました。率直にいって、僕は同じ決勝の舞台に立った者として、少なくとも途中までは不正があったとは思いませんでした。しかしながら、僕の知識では本庄さんの押し方に理解が追いついていないところもあります。不安に思われるかもしれませんが、僕は一人のクイズプレイヤーとして自分なりに納得したいだけです。本庄さんから聞いた話も口外しません。ご返信お待ちしています。

 僕は慎重に何度も推敲してから、本庄絆のメールアドレスにそう送った。口外しないと約束したが、場合によっては口外するつもりだった。どちらにせよ場合による。まずは返信をもらわなければ話が進まない。僕は何よりも真実が知りたかった。真実を知るために、どのように書けば本庄絆が返信をしてくれるか考えた。
 本庄絆から返信が来る前に、坂田泰彦から返信が来た。
「ご心配おかけして申し訳ありません。番組として判明したことはすべて公式サイトから発表します。そちらをお待ちください」
 ふざけた返信だった。僕は視聴者じゃなく、当事者だ。あんたの目の前で、不可解な正答によって敗北者にさせられた人間だ。
 僕は「一千万円を返してください」と送りかけてから冷静になって、「次の発表はいつですか?」と返信した。

 坂田泰彦はそれ以降、何も送ってこなかったし、本庄絆からの返信もなかった。僕に返信がなかっただけではなく、僕以外のすべての人と連絡を絶っているという。
 本庄絆は沈黙していた。大学はちょうど夏休みの期間で、彼がどこにいるのかもわからなかった。
 その間にも世界の時間は進んでいた。アイドルが未成年飲酒をして、俳優が不倫をした。別の番組でヤラセが発覚して、有名ユーチューバーが不適切な発言をした。政治家が不正をして、凄惨な殺人事件があった。そんなことが起こっている間に、世間は『Q―1グランプリ』のことをすっかり忘れ去ろうとしていた。本庄絆の復帰を待つファンだけが、「彼が不正をするはずがない。彼は実力で優勝した」と言い続けていた。
 富塚さんや片桐さんみたいな準決勝の参加者たちだって、『Q―1グランプリ』のことも、本庄絆のことも忘れかけていた。『Q―1グランプリ』のことは存在しなかった大会だと捉え、切り替えて別のオープン大会への準備を進めていた。僕たちはテレビが舞台を用意してくれなくたって、集まってクイズの実力を競っている。
 ときおり僕にオープン大会の会場で『Q―1グランプリ』のことを聞いてくる人もいたが、みんな「テレビのクイズ番組の寵児(ちょうじ)だった本庄絆が調子に乗って愚かな押しをした」というような認識を持っているだけだった。
 僕はどうするべきかわからずにいた。
 どこに訴えればいい? 警察? 弁護士?
 僕は世界のどこかにクイズ界の悪に裁きを下す神様クイズストスがいることを想像した。お願いします。クイズを使って悪さをする人間がいます。彼らを正当に裁いてください――そんなことを考えてから、馬鹿らしくなってやめた。
 もう、誰も頼りにならないのだ。番組や坂田泰彦を頼りにするわけにはいかないし、クイズファンやクイズプレイヤーもあてにできない。所詮、彼らにとっては他人事にすぎない。ひとごと。他人事を「たにんごと」と読むのは誤読だ。僕は誤読三兄弟のことを思い出す。長男の「乳離れ」は「ちばなれ」で、「ちちばなれ」が誤読。次男の「続柄」は「つづきがら」で、「ぞくがら」が誤読。三男の「一段落」は「いちだんらく」で、「ひとだんらく」が誤読。誤読三兄弟という名前は高校生のとき、僕がつけた――ダメだ。今はクイズのことを考えている場合ではない。
 僕は状況を整理する。整理した結果、「自分で調べるしかない」という結論を出す。
『Q―1グランプリ』で何があったのか自分で調べてから、裁判所に訴えるなりなんなり、他の可能性を考えよう。本庄絆がヤラセをしたのか。それとも魔法を使ったのか。あるいは――あまり考えたくはないけれど――何か正当な根拠があってクイズに正解したのか。
 僕は誰よりも真実に近い位置にいる。僕はあの場にいた。あの場にいて、本庄絆と戦っていた。決勝の舞台で何があったのか、その空気を知っている。
 僕はこれからクイズを解く。
「Q.なぜ本庄絆は第一回『Q―1グランプリ』の最終問題において、一文字も読まれていないクイズに正答できたのか?」
   ●
 感情が乱れたとき、僕はデスクの引き出しから早押しボタンを取りだす。大学のクイ研で使っていたもので、早稲田式に買い換えるとき、旧型のボタンを一つもらってきた。僕はボタンの上に指を這わせて、表面をゆっくり撫でた。僕の心が落ち着きを取り戻す。頭の中で「目黒駅はし――」とクイズを再生して、その瞬間にボタンを押す。本体につながれていない早押しボタンが光ることはないが、僕の目には解答ランプの明かりが見えている。僕は「港区」と声に出す。「目黒駅は品川区にありますが、品川駅は何区にあるでしょう?」というベタ問だ。僕は脳内でクイズに正解する。だが、依然として僕は『Q―1グランプリ』が出したクイズの正解はわからずにいる。
 僕はその答えを一人で探し続けていた。一千万円がかかっていた。いや、僕はもう、一千万円のことはそれほど真剣に考えていなかった。クイズを汚された。その不正に、僕が加担したと考えている人もいた。僕は真実を知りたい。真実を知って、胸を張ってクイズがしたい。
 僕は本庄絆の高校時代の友人を探して話を聞いた。その縁がつながって、いま高校生の本庄絆の弟にも話を聞くことができた。本庄絆の弟はクイズとは無縁だったし、兄が出演しているテレビもほとんど見ていなかったが、いくつか興味深い話を教えてもらった。本庄絆と対戦したことのある何人かのクイズプレイヤーに話を聞いた。坂田泰彦には会えなかったが、彼の番組で作問をしていた人の話を聞くことができた。
 僕は本庄絆が出演していたクイズ番組の映像を可能な限り集めた。その中には、本庄絆が普通では考えられないような早押しをしている場面もあった。
 たとえば『Qのすべて』第十六回の放送だ。この回は『Qのすべて』の最終回で、決勝の最終問題において本庄絆は問題が「しゃ――」と聞こえた段階で押した。
「『終わりよければすべてよし』」
 少し考えてから、本庄絆はそう答えた。
 それが正解で、彼は優勝した。出演者たちはみな驚きとともに賞賛した。「一文字押し」として伝説になっていた解答だ。本庄絆が『Q―1グランプリ』で魔法を使ったと考えている人の多くが、このときの伝説を根拠としている。
 僕は実にさまざまな映像を見た。そして、最後にもう一度『Q―1グランプリ』決勝戦の映像を見てみることにした。本庄絆のことを考えながら。そして、僕自身のことを思い出しながら。
   ●
 会場であれほど眩しかった照明も、テレビ画面越しに見るとまったく違和感がない。
 決勝戦の開始前に、番組が用意した僕のVTRが流れた。僕が過去に出演したことのあるクイズ番組の映像と、準決勝で富塚さんを破ったときの様子が編集され、「アマチュアクイズ界の王様」という煽(あお)り文句で紹介された。その煽り文句が嫌で、僕は打ち合わせのとき、番組スタッフに「変えてほしい」とお願いしていた。クイズにプロが存在しない以上、アマチュアも存在しない。そう主張した。無精髭(ひげ)の生えたスタッフは「新しいのを考えます」と言ったきり、そのまま本番を迎え、煽り文句は変わらなかった。
 VTRが流れている間、僕と本庄絆は入場ゲートの前で並んで待っていた。僕の胸にマイクをセットしていたADが「解答席へ向かってください」と背中を叩いた。ステージの両側から炭酸ガスが噴射されている。僕はその中央を通って、セットの真ん中に置かれた真っ赤な階段を降りていく。白煙で周囲は見えなかった。
 解答席に立つと、僕は小さくお辞儀をした。そういう癖を持っているクイズプレイヤーを知っているが、僕は普段そんなことはしない。どうしてお辞儀をしたのか自分でも覚えていなかった。広いステージの真ん中に一人きりで立っていることへの照れ隠しのようなものなのかもしれない。
 次に本庄絆のVTRが流れた。『超人丸』の多答クイズで世界自然遺産をすべて答えたときの映像と、準決勝の映像が流れた。「万物を記憶した絶対的王者」というのが、本庄絆の煽り文句だった。白い煙の中を、本庄絆が悠然と降りてくる。さすがにテレビ慣れしているだけあって、緊張して小走りだった僕とは大違いだった。
 MCが僕に意気込みを聞く。僕は「最善を尽くします」と面白みのないコメントをする。「対戦相手の本庄さんについてはどういう印象ですか?」と聞かれ、僕は「とても強いと思います」と、やはり面白みのない答えを口にする。
 次に、本庄絆が意気込みを聞かれる。
「今、必死に探してます」
 彼はそう答え、目を瞑ってこめかみに指を当てる。
 MCが「何を探しているんですか?」と聞く。
 本庄絆は「私が負ける可能性です」と答える。
 会場が沸く。
 今となってはよくわかるが、本庄絆はテレビというものを深い部分で理解している。ただ単にクイズのオタクが早押しをしても、視聴者が見て面白いものにはならない。きわめてストイックなルールの『Q―1グランプリ』が、かろうじてテレビ番組として成立していたのは本庄絆のおかげだ。その事実は認めなくてはならない。彼が見所を作ってくれていた。
 MCが「負ける可能性は見つかりましたか?」と聞く。
 本庄絆は目を開け、カメラをじっと見つめて首を振った。
「世界中を探しまわったのですが、残念ながら見つけることができませんでした」
 カメラが僕を映す。僕は苦笑いをしている。改めて見ていると、気の利いた一言も口にできない自分が情けない。
 MCが本庄絆に僕の印象を聞く。
 本庄絆は「現在、日本で一番クイズの理に近づいている人物だと思います」と答えてから、「ですが」と続ける。「私の頭には世界が入っています」
 会場が沸く。
「さて、クイズ対世界、どちらが勝つのでしょうか」とMCが言って、番組はCMの時間に入る。
 CMの間に、セットが移動してクイズの準備が整えられていった。ADがやってきて、僕の胸元についていたマイクを調整した。僕たちは「CM明けですぐ始まります」という説明を受けた。本庄絆はラベルの剝がされたペットボトルの水を飲みながらうなずいた。
 準備ができて、ディレクターが「五、四、三」とカウントダウンを始める。
 CMが明ける。
「それでは第一回『Q―1グランプリ』決勝戦、三島玲央vs.本庄絆、開始します」とMCが告げる。
 会場が静まりかえる。
「問題――」というアナウンサーの声が聞こえる。
「今週気づいたこと――」
 そこで僕がボタンを押す。悪くない押しだ。本庄絆はピンとこなかったのか、一切反応していない。
 ボタンを押した瞬間、僕はまだ答えにたどり着いていない。ただ「わかりそう」という直感だけが心の中にある。僕は必死に頭を回転させる。全人類が、次に僕が何を口にするか注目しているような気分になる。
 僕は思い出す。夜の声。兄との秘密。夜の海に沈む太陽。
 とりとめのない思い出が記憶の海を漂う。僕はその中に腕を入れ、答えがないか探しまわる。
 あった!
 僕は答えの欠片に触れる。指先にあった答えを手繰りよせ、しっかりとつかみとる。
「『深夜の馬鹿力』」
 自信を持って僕はそう答える。
 ピンポン、と音が鳴る。会場から「おお」という驚きの声が聞こえ、拍手に変わる。
 正解だ。1―0。僕はリードする。テレビの画面に、問題の全文が表示される。

「Q.『今週気づいたこと』というフリートークで始まるのがお決まりになっている、『ラジオの帝王』こと伊集院光の冠番組は何でしょう? A.『深夜の馬鹿力』」
   ●
 僕は思い出す。記憶の深い部分に潜る。
 小学一年生か二年生のころだ。僕は小便が我慢できなくなって夜中に目が覚めた。
 二段ベッドの上から、誰かの話し声が聞こえることに気がついた。「気のせいだ」と思うことにして、トイレから戻ってきて布団に潜っても、その声は聞こえ続けていた。二段ベッドの上には八歳年上の兄が寝ていたが、聞こえてきた声は兄のものではなかった。お化けだと思うと怖くなって、なかなか寝つけなかった。
 何分か経ってから、兄の笑い声が聞こえた。兄がおかしくなってしまったのかと心配になった。勇気を出して二段ベッドの横についていた梯子を上った。蛍光灯からまっすぐ下がっていた紐を引っ張り、部屋の明かりを点けた。兄は片耳にイヤホンをつけたまま僕を見て驚いていた。
「何してるの?」と僕は聞いた。
「ラジオを聴いてる」と兄は答えた。「音、漏れてた?」
 僕はうなずいた。
「音量小さくするから、夜更かししてることは母さんに内緒にしてくれない?」
「わかった。内緒にする」と言って、僕は電気を消した。
 翌日、兄がこっそり『しんやのばかぢから』というラジオ番組の名前を教えてくれた。僕はずっと「しんや」は人の名前だと勘違いしていた。真弥くんという同級生がいたのもあるが、勘違いの直接的な理由は当時の僕が「深夜」という言葉を知らなかったことにある。
 その後、「深夜」という言葉を初めて知ったとき、僕はしばらく納得がいかなかった。日本語には時間帯を表す言葉がいくつかある。朝、昼、夜。夕方、真夜中。明け方、夜明け、未明。
 時間帯を表現する言葉は、どれも太陽の動きを基準にしている。だが、「深夜」という言葉だけが、夜の「浅さ」と「深さ」を含んでいて、言葉としては異質だ。当時の僕は「夜が深いとはどういうことだろうか」と真剣に悩み、結局そのときは納得することができなかった。

 数年後、図書館で朝と夜の語源を調べた。クイズを始めたばかりのころで、例会のために自作の問題を用意する必要があった。朝の語源は「アケシダ(明け時)」にあって、昼の語源は「日」にあり、夜の語源は「ヨ」という「他の」とか「停止」を表す語にあったという(これらの語源については諸説があって、クイズには出せなかった)。
 そのころには、むしろ「深夜」という言葉の詩的な含意が気に入るようになっていた。
 太陽が夜の海に溶けてゆっくりと沈んでいく。やがて太陽は夜の海の深い底へ潜ってしまう。人類で初めて「深夜」という言葉を発した人の心と僕の心が、長い時を経てつながる。
 その後、大学でクイズ研究会に在籍していたころ、「深夜」を題材にしたクイズばかりを集めて出したことがある。『深夜の馬鹿力』が真弥くんの馬鹿力でないことを知ったのもそのときだ。『深夜プラス1』『深夜特急』『深夜食堂』……。「深夜」と名のつく作品は、僕が好きなものばかりだった。
 それから僕は『深夜の馬鹿力』の放送を初めて聴いた。何度もお腹を抱えて笑った。
 妙な興奮状態のまま、放送終了後すぐに兄へLINEを送った。兄からすぐに「お前も聴いてたのか」と返信があった。「『今週気づいたこと』、最高だったな」
 兄は十年以上前のあの日、僕が深夜に二段ベッドを上がったときからもずっと、『深夜の馬鹿力』を聴いていたらしい。
 僕と兄は世界が寝静まった深夜に、別々の場所で同じラジオを聴いていた。月並みな言葉だが、何だか奇跡みたいに感じた。そんなことを思い出す。
   ●
 僕は当たり前の前提に気がつく。
 クイズに正解できたときは、正解することができた理由がある。何かの経験があって、その経験のおかげで答えを口にすることができる。経験がなければ正解できない。当たり前だ。
 クイズに答えているとき、自分という金網を使って、世界をすくいあげているような気分になることがある。僕たちが生きるということは、金網を大きく、目を細かくしていくことだ。今まで気づかなかった世界の豊かさに気がつくようになり、僕たちは戦慄(せんりつ)する。戦慄の数が、クイズの強さになる。

『深夜の馬鹿力』の問題に正解したあと、MCは僕に「幸先の良いスタートですが、どうしてわかったんですか?」と聞いた。
 生放送で時間をかけてはいけないと思い、僕は「以前、似たような問題を出題したことがあったんです」と口にした。その映像を見ながら僕は少しだけ後悔する。たしかに事実ではあるが、面白みのない答えだ。生放送だったせいで、僕の面白みのない答えは全国に放送されてしまっていたが、収録番組だったらカットされていただろう。
 今にして思えば、いろんな答え方があったはずだ。「兄が好きな番組だった」も悪くはない。多少大げさな表現をするなら「僕も好きなラジオ番組なので」でもいい。
 もちろん、テレビの尺の中で、僕と『深夜の馬鹿力』にまつわる話をすべてするわけにはいかない。
 ベッドの上から聞こえる夜の声。二段ベッドの梯子の金属の手触り。兄との秘密。夜の海に沈む太陽――それらはクイズに出ることはないが、今も僕の心の中にあって、深い部分で早押しクイズと結びついている。僕は世界という海に金網をくぐらせる。

 MCが「それでは二問目、行きましょう」と言う。
「問題――」と問い読みのアナウンサーが口にする。
「幸福なか――」


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