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湖底の女王(泉界のアリア番外編)/Novel by misa

湖底の女王(泉界のアリア番外編)

11,662 character(s)23 mins

泉界のアリア 本編完結後の番外編です。いろいろあるので載せていきます。
おおむね平和な短編かほのぼのです。エロあり、エロなし混在します。
顔が一緒の親子で父×子です。

このお話……離宮の湖畔の黒睡蓮がいっせいに枯れてしまい、その原因を探ろうと父子は調査に乗り出す。

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(幻霧界の離宮での、小さな騒動)


***


 死の神ナシェルは、あるとき幻霧の森の湖に舟を浮かべていた。

 へさきの水乙女の彫像がランタンを掲げて水面を照らしている。
 冥王より賜った例のみやびな小舟である。

 億劫げに舟べりに左肘を預け、右手で持った何かを舟の外へ出して、ゆらゆらと揺らしている。
 眷族である死の精霊達が、ふわふわとあるじに近づいてきて問うた。――御子神あるじよ、その長い棒のようなものは何だ。一体ここで何時間も、そうして何を待っておられるのかと。

 王子は眠たそうな口調で答えた。

「これか。これはな、釣り竿というのだ。父上が『この湖で毒々しい赤鼠色をした、不気味な形の大魚が泳ぐのを見たから釣りあげよう』と仰って、そのくせ自分では竿を持たずに私にこんなつまらぬことをさせているのだ。
 試しに聞くがお前たち、――ここでそんな大魚を見た事があるか」

 精霊たちはいいえ、と首を振る。
 王子神は長く嘆息した。

「そうだろう。私もないのだ。この湖にいるのはせいぜい雑魚ざこと、水乙女の一族ぐらいであろう。
 私は、そんなものは父上の目の錯覚か、幻覚ではないかと思っている。…千年樹の葉っぱの吸いすぎだ。
 しかし父上は、『この湖の黒睡蓮がとつぜん枯れてしまった原因は、あの赤鼠色の大魚ではないかと思う』などと仰せられて一歩も譲られぬ」

 そう云われて死の精たちは湖の彼方此方あちこちを見廻した。確かに彼らの主神の云う通り、この湖の象徴ともいうべき存在であった黒睡蓮の大輪の花々は枯れ、今は茶枯れた茎と葉だけが残って、湖水の端々に無残に流れ漂っている。

 異なことであった。彼らの知る限り、黒睡蓮の枯れた事など一度としてなかったことだ。
 あの美しい白亜の離宮のテラスからのぞむには、それはあまりに興を醒まさせる光景だ。一体この湖に何が起こったというのだろう?
 本当にあるじの父神の云う通り、その大魚に原因があるのだろうか?

「だから私もこうして父上のお気が済むまで謎解きに付き合っているというわけだ。私も以前よりは随分、温順になったものさ」
 王子神は自賛し、また気だるげに舳に寄りかかって、安蘭樹かりんの枝で造られた細い釣り竿を揺らした。
「こんな竿でそんな大物が釣れるとは思えぬのだが、な」


 ところで死の精たちの主神あるじのそのまたあるじ、つまり冥王たる闇の神セダルはというと、舟の上でナシェルに釣り糸を垂らさせておいて、己は黒睡蓮の花の枯れた原因を直接探るべくローブを脱ぎ捨てて、湖の中へと潜っていた。

 湖底深く潜ってから水面を見上げると、ナシェルの垂らした釣り竿の浮が、魚を誘うようにふわふわと動いているのが見える。
 王は優雅に水を掻いて上へ泳ぎ、湖上へ顔を出した。舟の上から半身が痺れを切らしたように話しかけてきた。

「我がきみ……何か原因は掴めましたか」
「未だ分らぬ。しかし常になく水の中もひっそりと鎮まり返っているのだ。普段ならば賑やかな水女みずめたちも何故か姿を現さず、湖底の岩陰にひそんで何やら嘆いておる。悲しみが深いのか余の姿にも気付く素振りもない。ただよゝと泣く声が聞こえてくるのみだ。水の透明度も、心なしか損なわれておる」

 王は舟べりに手をかけ、もう片方の手で濡れた黒髪を後ろへ掻きやった。

「赤鼠色の大魚には出会いましたか」
「いや、そなたにそのことを話して以来見かけておらぬ。しかし目の錯覚などではないぞ。あの大魚が、手折った黒睡蓮をくわえて泳いでおるのを余は確かに見た」
「……魚が花なんか喰うものですか。しかしそれが事実だとするならば、餌が細蟹ささがにでは変でしょう」
「黒睡蓮を餌にせよというのか? とはいえあれはもう、すっかり枯れ尽くしてしまったしな。餌に問題があるというなら、そなたもただ糸を垂れるばかりでなく何か工夫を致せ」

 手伝ってやっているのにその云い草は何だとばかり、王子は一瞬面差しに険を差したが、すぐに表情を改めて云った。

「……それにしても水女たちの様子がおかしいのは気になります。そういえば普段なら舟べりに集まってくるものなのに、今日は一匹も姿を見ておりませぬ。父上、彼女らに問うてみてはいかがでしょう」
「簡単に申すが、吾子よ、湖底はかなり深いのだ。さしもの余でも最奥まで潜るには限度がある。もっと若ければ息も長う続こうが……」

 暗に交代を求められていることに気づき、王子は釣り竿を握り締め身を固く震わせた。

「都合の良い時だけ年寄ぶるのは止してください。得体の知れない大魚に喰われるかもしれない湖の底に、愛しい世継ぎを行かせようというおつもりですか。私になにかあったらどうします」
「そなたこそ、こういう時だけ蒲柳ほりゅうぶるのだから。まあ善い、云い出したのは余であるしな。もう少し長く潜ってみるとしよう」

 そういうと闇の神は胸郭に深く息を入れ、のように鋭く水中に潜って行った。ナシェルの知る限りにおいて、自分と同じ姿形をしていておまけに精力絶倫であるあの父王が、体の衰えを口にするなどそもそも笑止なのである。この時とて激しく情を交わした後朝のことであるのだから、ナシェルが疲れているのは無理ないことだし、冥王も重ねて“一緒に潜れ”などと無思慮なことは云わぬのであろう。

 ナシェルはほっと一安心し、云われた通り釣り餌を変えてみようかと思案しはじめた。
「魚が花を喰い尽くした、か」
 ほかに花など何処にある、と他人事のようにうそぶく王子に、精霊たちが指さす。
 御子神あるじよ、ほら見て、千年樹の枝先に白い花が咲いている。

「あれか……。幻花をこんな用途に用いるのはいささか気が引けるが――まあこの際だ、あれを餌にしてみることとしよう。お前たち、摘んできてくれるか。喰べてはならぬぞ、べろべろに酔って前後不覚に陥るからな」




 一方、闇の王は湖底を目指して垂直に泳いだ。そして岩場に辿りつくと、めそめそと泣いている水妖族の民たちに語りかけた。

水女みずめたちよ、何を憂う。水が濁り、黒睡蓮が枯れたことを嘆いておるのか。将又はたまた、毒々しい大魚に縄張りを荒らされておるがゆえか?』

 水妖たちは冥王の姿に気づくと、その優雅な裸身に縋りついて助けを乞うた。

 水妖族たちの申すところによれば、どこからかこの湖に迷い込んできた大魚が黒睡蓮の花を喰らい尽くしたがゆえに、彼女らの族長である“湖底の女王”は愉しみにしていた蜜の養分を得られず、塞ぎ込んで床についてしまったのだ、という。

 女王が本来の働きをしなくなったこの湖は、すでに水が濁りはじめ、長引けば他の生物へもますます影響を与えてしまうことになる、と。
 しかし大魚はあまりに獰猛で、とても水女みずめたちの適う相手ではなかった。黒睡蓮の養分を得てますます力をつけているようなのだ、という。

『何と……、そなたら一族には女王が居ると申すか』
 冥王がまず興味を示したのは湖底に住まうという高貴な女性の存在であった。
 水女たちは答えた。はい、冥王様のように歳ることのない悠久の命を持つ、見目麗しくあでやかなる女王様です、と。

 そこで冥王は早速、湖底の女王を救うために水女たちに己を水妖族の湖底城まで案内させることにした。
 道中、水女たちが冥王に次々に口づけすると、王は不思議と水中でも楽に息が吸えるようになるのだった。


 この湖の底に、かくも絢爛な宮殿が存在していたとは、王とて思いもよらぬことであった。
 水女みずめたちに聞けば、本来ならば水妖族のみしか見ることのできぬ隠れ城であるとか。これを視認できるのはひとえに冥王が絶大な神司をもつがゆえである。

 水妖とは、冥王ら神族にとっては、取るに足らぬ弱小の妖魔族の類。冥王が彼女らにへりくだる必要はないとはいえ、一つの妖魔族の長に会うのだから裸というわけにはゆかぬ。冥王は水女たちに着る物を用意させ、藻のような深緑色をした長衣に袖をとおした。

 そして色とりどりの円い石の嵌めこまれた、水女の城ならではの装飾に溢れた廊下を歩み、水妖族の女王の寝む間へと通されることとなった。



◇◇◇



 そのころナシェルは、父が潜ったままなかなか浮上して来ぬのをいぶかしみはじめていた。
「……おかしい。なかなか上がっておいでにならぬ。例の大魚の餌食になったか? ……まさかな」

 ナシェルは父王の神司を感知しようと水底へ向けて神経を砥ぎ澄ませた。微かに父の気配を感じる。あの光神と天冥の二界を分け合う闇神が、まさかこのような所で命を落とすとは思えぬので、無事だとは思うのだが。

「……まさか湖底の川藻に足でも取られているのじゃないだろうな……」
 川藻に足をとられて藻掻いている父王の姿を想像し一瞬笑いかけたが笑い事では済まぬ。
 急に不安になってきて、ナシェルは釣り竿を放り出して服を脱ぎ、王を捜すために水の中へ飛び込んだ。

 しかし捜せども捜せども、水の中に王の姿は無いのである。
「一体、どういうことだ」
 水面に顔を上げたナシェルは明らかに自分が狼狽していることを覚った。
「――父上は何処へ消えた?」


 ナシェルは、黒くぬめる湖水の中に不穏な気配を感じて一旦舟に上がった。
 あわてて服を着て、桟橋に舟をつけて離宮のテラスに戻った。もしものために剣を取りに行ったのである。
 テラスから寝室に駆け込み置いてあった二振りの神剣のうち己の剣を取ると、少し迷った末に父神の剣も脇に抱え、再び舟に戻った。

「お前のあるじは一体何処へ行ったのだろうな?」
 父神の剣に嵌った紅玉を撫でるが、特に感じ取れる変化はない。
 異変を察知して緊張しているナシェルに気づいてか、死の精だけでなく闇の精も湖の周囲に集まりはじめていた。

 ――王子神よ、我が主は何処へ赴かれたか?

 ナシェルは唇に指を当てて闇の精たちを黙らせた。
「それを聞きたいのは私の方だ。しかし案ずるな、父上の気配は消滅してはおらぬ――と、思う」

 あるじが消えて不安そうな精霊たちを宥めながら、彼自身とていつにない不安を覚えていた。
 剣をいつでも抜けるように傍らにして、水面を注意深く観察する。
 すると舟の下を驚くほど大きな黒い物体が、泳ぎ掠めていくのが見て取れた。
 一見してもナシェルが両手を拡げたぐらいの大きさはある。鯉のような形だがひれえらも鋭くとがっている。色は確かに父の見たとおり赤鼠色であった。

「! あれが父上の仰っていた大魚か、確かに見間違いでは済まぬ。……というより途轍もない大物ではないか……!」
 思わずごくりと唾を呑みこむ。こんな舟戯び用の細い竿を持ちだしたのは端から間違いであった、と、ナシェルは舳にたてかけてある釣り竿に目をやった。
 と思うや、突然その釣り竿がガタンと倒れた。尖端が引っ張られて舟縁にひっかかった。ぴいんと釣糸が張っている。

「驚いたな、エサの幻花に本当に喰いつくとは……、!」
 針を食んだ大魚が暴れ、船べりに引っ掛かった釣り竿のせいで小舟は大きく右に左に揺れた。ナシェルは抜き身の剣を手に舟の上で蹈鞴たたらを踏む。
 大魚は餌の幻花を喰らったせいなのか、盲滅法に暴れはじめていた。
 小舟が壊れるのではないかと思うほど激しく体当たりされ、ナシェルは舟の上から放り出されて湖水の中へ落ちた。

 この大魚は美しいものを好むのである。この湖の黒睡蓮を喰い尽くしたのも、大魚のふるさとである腐樹界の濁り池には咲いておらぬ美花だったからだ。
 ――そして大魚は今、花などよりももっと美しい獲物を見つけて狂喜していた。

 ナシェルはぶくぶくとした水泡の世界の中で、剣を水平に構え、大口を開けてこちらへ迫ってくる大魚を待ち構えた。そして、鋭い一撃を口から喉の奥へと浴びせてやった。


 大魚は<蒼眸の慈悲>を喉元に突き刺されてもまだ暴れていた。頭上で、下賜の小舟はとうとう見るも無残に破壊され、木屑がバラバラと水中に降ってきた。

 舳の水乙女も真っ二つに割れて沈んでゆく。その像の眼から離れた、二つの蒼い宝玉が(これはナシェルの薬指に嵌っている指輪と同じ貴重な石だ)、きらきらと輝きながら湖底に落ちてゆくのをナシェルは視界の端に捉えた。しかし手を伸ばして宝玉をすくうほどの余裕はない。

 丸腰となった彼の鋭い双眸は、血飛沫を撒き散らしながら暴れている大魚に未だ注がれていた。

 ……大魚は濁った血で湖水を汚染しながらなおもナシェルの方へ突進してきた。口には、ナシェルの神剣エイルニルが突き刺さったままだ。

 得物をなくしたナシェルはやむなく両手を拡げて大魚の口を掴んだ。喉元深く差したので、目の前の剣をなかなか抜くことができない。

 格闘しているうちに運よく、父王の剣が舟の残骸から離れて水中に落ちてきた。ナシェルは大魚の腹を蹴って反動で離れると、水中でふわりと一回転して父の剣をとり、大魚の腹にようやく、とどめをさした。



「はあ、はあ……、なんだあの怪物は。私は釣りをしていよと頼まれただけなのに……。明らかに超過労働だぞ」

 泳いで桟橋まで辿り着いたナシェルは木枠にしがみつき息を弾ませた。とんだ災難である。大魚から抜き取った二本の剣を桟橋の上に置くと、酸欠で朦朧とする頭を振って声を張り上げてみた。

「父上!」
 王子の声が水面の上を響き渡る。
「なんだかよく分かりませんが魚は退治しておきました! いい加減隠れんぼは止めて出てきてください!」
 ……しかし湖底からの反応はない。
「父上! ……一体、何処へ行ってしまわれたのです?!」
 半身が湖の底に消えてしまった。その時のナシェルの焦りたるや、かの愛娘を「天上界へ、預けた」と冥王に聞かされた時以来の、近年まれにみる動揺ぶりであったかもしれぬ。


◇◇◇


 ――そのほんの少し前、冥王は湖底の宮殿で水妖族の女王を見舞っていた。

 真綿のかわりに川藻の敷き詰められた象牙色の寝台の上で、湖底の女王は息絶え絶えに寝込んでいた。
 しかし女王の姿は驚くことに、ほかの水女たちの姿とは異なり、まるで水滴の玉が集まって人型をとっているが如くブヨブヨと、蒼く透き通るばかり。実体がはっきりせぬのである。もはや普段の姿を取ることすら難しくなっているのだろうか。

 美貌と聞いて少し楽しみにしていた冥王は、落胆を隠して湖底の女王に近づいた。彼は強大な闇の司の一部を、彼女に分け与えることとした。本来ならばそれを受け取ることができるのは王の愛する半身のみであるのだが、女王は見ての通り実体を失うほど瀕死の様態であるので王は特別にはからったのである。

 冥王が身をかがめて冷たい唇で女王に口付けを与えると、大いなる闇神の司が彼女の水のような体の中にぐんぐんと吸い込まれていった。
 冥王の神司という、至高の糧を得た湖底の女王は、たちまち実体を取り戻しながら目を覚ました。
 図らずもちょうどそれは、湖上でナシェル神が格闘を演じた末にかの大魚を屠ったのとほぼ同時刻のできごとであった。


 湖底の女王は瞬時に、自分たちの一族に害を成す食花魚を、冥王が退治してくれたのだと悟った。
 実際には大魚を屠ったのは湖上にいた彼の息子なのであるが、元来この双神の神司はほぼ同一の性質のものなのである。目覚めたばかりの湖底の女王がそれを冥王の仕業と判ずるのも無理はない。
 湖底の女王は瞬間、ひと目で、この常闇の国の大いなる支配者に恋した。そして自分の姿を、冥王の心の奥に棲むとあるひとりの女性の姿に置き換えた。

 王は驚いて湖底の女王を見つめた。実体を取り戻した彼女は、王の、懐かしく愛しい最初の妻の姿をしていたからである。
 金の豊かな髪、群青色の双眸。
 うるわしの女神の姿をとった湖底の女王は、恥じらいと期待に目をうるませつつ先ずは礼を述べた。

「闇のきみよ。わたくし達に害をなすあの怪物を退治してくださったこと、どんな花蜜にも勝るあなたさまの力の糧をわたくしに与えてくださったことを、心から感謝いたします」

 ん?……怪物を退治した? 余が? 

 ――身に覚えのないことで感謝されているなと冥王は感じたが、そんな大仕事を成し得るのは彼の半身のみであるから(吾子がうまく仕留めたのだな、)とすぐに理解した。
 湖底の女王は彼の愛しい妻の姿を取りながらほほ笑んだ。
「あなたさまはわたくしのうろこの肌を、きっと抱くには冷たすぎるとお感じになられることでしょう。ですからわたくしは、あなたさまの思い描く妃君ひめぎみの姿を取ることに致したのです。ご無礼をどうかお許しください」

 無礼を許すというよりも、このことは王を逆に喜ばせた。肖像画を眺めては懐かしむよりほかなかった天の女神が、まるで『現実のようにその場にいた』からである。
 セダル神がこの泉界の王となり得たのも、唯一無二の半身ナシェルを得ることができたのも、彼女の身を捨てた献身があったからこそなのだ。
 王は湖底の女王の存在を忘れ、思わず懐かしき女神の名を呼んでいた。
「ティアーナ……」
 それは遠い昔に死別したナシェルの生母の御名である。


 ――こうして冥王は湖底の民からの熱烈な歓待を受けることとなった。

 ここで今一度強調しておきたいのは、この湖の水はそもそもかの三途の河の支流の<忘却の河レテ河>から流れてここへ辿り着いた水だということである。
 死者から生前の記憶を全て奪いさるのだと伝えられるその水は、しんば王がそれを飲んだとしても記憶の全てを失わせるほどの効果はないが、少なくとも王の直近の記憶と判断力・・・を薄らがせるだけの効果はあった。
「わたくしの愛しい御方……」
 化けた湖底の女王は女神になりきり、懐かしき声で冥王を呼びその胸に頬を埋めた。

 王の得た充足感は、しかし一瞬のこと。
 湖底の女王は素晴らしい闇の力を欲するがゆえに冥王をずっとこの湖底世界に留め置きたかったのであるが、冥王は三界の一つを治る絶大な力を持つ闇神であるから、むろんいっとき自分の立場を忘れて享楽に耽ったとしても、骨の髄まで湖底の女王に籠絡されるということはないのである。
 湖底の女王がどれほど完璧にティアーナに化けたとしても、ティアーナの心までは複製することはかなわぬのだ。

 冥王はティアーナの姿をした者を組み伏せはしたもののついに最後まで完全に燃え上がることはできぬままであった。心に空虚感を覚え、すぐにでも元の世界に戻り熱い肉体を抱擁せんと欲した。
 ――このときから冥王の脳裏には、己が与えた吾子への名、それしか存在しなくなった。

 湖底の女王はなおも、数々の贅を凝らした趣向で冥王を引き止めようとしたが無駄であった。王はついに誘惑の全てを振り切って湖上へと泳ぎ上がった。

 愛しい吾子の名を一刻も早く呼び、この胸に抱擁するために。


◇◇◇


 途方に暮れたナシェルが桟橋の上から水面を見つめていると、ちょうど桟橋のたもとに、冥王の全身がふわりと浮かんできた。
 湖面に浮かび上がった王はひどく懐かしげにこちらを見上げ、微笑んだ。

「――おお、ナシェル……」

 ナシェルはその瞬間、王が生きていると判りたいそう安堵したのであるが、目に浮かぶ涙を悟られまいと目を閉じ、深く嘆息した。

「長いこと浮かんでおいでにならないので、よもや湖底の藻にでも足を取られて転位なさったのかと心配しておりましたよ…」
「…そんな恰好悪い死に方をしたら創世界でそなたの母に合わす顔がないよ…」

 冥王は水から上がってナシェルの差し出した長衣に袖を通しながら、事の仔細を説明した。


「……と、いうわけだ。で結局、余はどのぐらいの時間潜っておったのかな」
「ざっと2時間ぐらいでしょうか……」
「なに? 2時間しか経っておらぬとな。すると湖底城むこうでの一日はこちらの1時間に相当するというわけだな。それにしても不思議な体験であった……」

 冥王は湖底での出来事をしみじみと振り返った。するとナシェルは突然目くじらを立てて怒りだしたのである。

「はあ? 何ですって!?」
「……ん?」
「今の、聞き捨てなりませんね陛下! では私の心配をよそに貴方は『二日間も』、水女の国で呑気に歓待を受けておられたということでしょう!」
「む、」
 冥王は墓穴を掘ったことを悟ったが、時すでに遅しである。
「……二日間も女ばかりの国で何をしておられたか、白状しなさい!」
「女ばかりと云っても、水女みずめどもはあの通りフナ顔の異形ゆえそなたが疑うようなことは何もないよ」
「湖底の女王だけは凄い美貌だったんでしょう!」
「いや、女王はブヨブヨの水のかたまりのようで、じつは実体がなくてだな……」
 冥王は、湖底の女王が、こちらが希む姿をとって現れることができるのだということを話して聞かせた。
「余は、そなたの母の姿を自然と思い浮かべていたのだよ。だから女王はその姿で余をもてなしてくれた。ただそれだけだ」
「もてなした……母上ティアーナの姿で? 単に酌をしただけではありますまい」
「それは……その、」

 ナシェルは白状しろと云いながらも、返答に窮しまごつく王のようすを見るや否や、胸倉を掴んで首筋を締め上げにかかった。
「どうせ口に出して話せないようなことをなさっていたんでしょう! 私が心配しているのをよそによくもそんなふしだらなッ!!」
「お……落ち着きなさい。馳走は振る舞われたが誓って何もしておらぬ。遠い昔に死に別れたそなたの母に思いがけず再会したようだった、と話しただけなのに何故余がふしだらなのだ」
「……いやいや私の母じゃないでしょうそれは! 水妖族の女王が化けたのだったんでしょうが! 千年樹の粉ばかり吸っているからそんな目くらましにあっさり引っかかるんです!」

 ナシェルは王の胸倉から手を離すと、こんどは桟橋の上で服を脱ぎ始めた。
「? そなた何をしておるのだ」
「だいたいあの怪物魚を退治したのは私なんですよ。私の方にこそ歓待を受ける権利がある! 今までの経緯を女王に説明してキスで目覚める所からやり直してもらいます」
「待て待て、そんなことをして一体、何が望みだ?」
「だって水底の女王はこちらの望む姿で現れてくれるのでしょう。だったら私もセファニアの姿をした女王と楽しいことしてくるッ」
「待て待て、待てというに」
 冥王は水に飛び込もうとしたナシェルの腕を掴んで辛うじて引き止めた。嫉妬してくれているのは分かるのだが、発散の仕方がいつもながらおかしい。
「そんなことをしても空しさばかりが残るだけだよ。余がここに今抱いている空虚感を、そなたにまで味わわせたくない」
「また、そんな調子の良いことばかり云って……」

 冥王は構わず、吾子の体を掻き抱いた。
「湖底の女王は所詮は水女の族長だ、そなたの母にもセフィにも、むろんルゥにとてなり得ぬ。吐息は氷のようにつめたいのだ。女王は口付けで余を前後不覚にせしめんとしたが、口付けされればされるほどに余は我に返って、そなたの母を喪った時の悲しみを思い出しただけだ。判るであろう」
「……」
 ナシェルは諦めたように体の力を抜いて王にしたがった。
「……案じていたのです、たとえ二時間といえど私には永劫に感じられた」
「赦しておくれ」
「貴方が居ないと気づいて、私がどれだけ取り乱したか分かりますか」
 怒った口調の奥底に、己への恭愛が籠っているのを覚り、冥王は眼を細める。

 取り乱し、余を呼んでいたのだね。
 ――優越感と吾子への慈愛が、胸に満ちてくる。

 双神は桟橋からテラスへ、そして開け放たれた掃出し窓から寝室にとって返した。
 融け合わさった二つの影が、幾重にも重なった紗幕カーテンの奥処でしっとりと動きはじめる頃、湖面ではさっそく水女たちが女王の命を受けて、あたらしい黒睡蓮の種を湖岸の土に撒き始めた。

 新しい花が愉しめるまでには数月ほども掛かるであろうが、それは冥王らにとって、さしたる時間ではないのだ。


<追補>


 ……双神がそのように離宮の寝室で、ふたたび甘く安らかな刻を過ごした後のこと。

 離宮に突然の訪問者があった。精霊たちにそれを告げられた冥王は、隣ですやすやと、疲れ切った(だが満足げな)表情で寝入っているナシェルを起こさぬようにして寝室を出、戸口に立ってみずから客人に応対した。

「陛下。御休みのところご宸襟を騒がせ奉り、申し訳ありませぬ」
「なんだ、公爵か……」
 客人といってもそれは王の部下の9人の魔族、頼りになる冥界公爵のひとり、一番年若のヴァルトリス公爵ファルクであった。かの者は腐樹界の領主にして毒薬・劇薬類製造の、専門家である。

 ここは私的な離宮ゆえ側近たちとて寄り付けぬように、普段人払いしている。公爵とてそれは承知の上であろうのにわざわざ訪ねてきたのは、何が重大事が起こった証か。
「陛下のお耳に入れたき火急の仕儀がございまして、このように罷り越した次第、」
「明日には冥府へ戻ろうと思っていたのだがな。明日まで待てぬのか。話ならば王宮でじっくり聞いてやろうものを」
 言外に「王子との甘い時間を割きたくない」と滲ませるのだが、公爵は真剣な面持ちで食い下がった。

「いえ陛下。今この離宮においてこそ聞いて頂かねばなければなりませぬ。というのも――」
 冥王はその時になってようやく気づいた。公爵は2名の家僕らしき者を連れていて、それらの者の手にそれぞれ、大きな釣り竿と魚網が握られているのを見て取ったのである。
 ヴァルトリス公ファルクが、冥王の疑問を解くように奏上した。
「実は我が領地で飼っておりました巨大魚が一匹、逃げ出しまして、疏水を通ってこの湖に逃げ込んだやもしれぬのです」
「……巨大魚……」

「わたくしがありとあらゆる成長薬を用いて手塩をかけて育てた、世にも珍しい雑食魚なのですが、せきを越えて川へ出て行ってしまったのです。非常に体格が大きく性格が獰猛で、もしこの湖に迷い込んでいれば陛下と殿下に危害が及ぶやもしれませぬ。どうか捜索のご許可を賜りたく――」
「赤鼠色の、花を喰らう魚であろう? それならば、王子が既に退治してしまったよ」
「えっ殿下が……お怪我はありませんでしたか」
「……大丈夫だったが、色々と騒動になった……(首を絞められたり……)」
「それは重ねてお詫び申し上げます、お許しください」
 公爵は魚が死んだと聞いて少し安堵の表情を浮かべた。
「実は巨大化しすぎて正直手を焼いていたのです。殿下が始末してくださったのでしたら、一言お礼を申し上げてからおいとましたいと存じますが……」

 冥王は少し考え、首を振った。
「――いや、よしておけ。そなたの愛玩魚ペットだったなどとナシェルが知ったら、そなた恐らく今度こそ生きて帰れはすまい」

 王はそのようにしてファルクを追い返した。
 寝室に戻るとナシェルが起きていて、
「誰か来たのですか。人の声がしましたが――」
と、長い睫毛に縁取られた白いまぶたを擦っている。
「否。気のせいだ……」

 冥王は笑いを噛み殺し、後朝の愛撫を施すためにナシェルの手をとって寝台の上に横たえた。


 番外編「湖底の女王」 了

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