天竜人化するアニメキャラ達
2026年2月8日、私は友人から百合界隈で話題沸騰だという「超かぐや姫」を見せられた。映像は綺麗だった、ネットミームを沢山使う小ネタは面白かった…しかしキャラクターとシナリオが致命的に合わない。何故ならそこで描かれてるモノは1言でいえば「有閑階級の自分探し」だからだ。
まずキャラが美人なのは仕方ない。しかし、それはそれとして趣味にバイトにと日々を忙しく過ごし、ゲームの腕もプロ級で学業超優秀。だがそんな完璧超人が「ママとの衝突」により、自分の気持ちを殺して周囲の空気を読む人間になってしまって超辛い!さぁどうする?と物語は進む。私の捻くれたルサンチマンは「それほど恵まれてるなら周囲の期待に応えるのは当然やろ!」となってしまい、全く乗れない。
これに共感出来るとは1体どういう人間なのか?自認美少女で、趣味に熱心になれて、その気になれば難関大学入れて、食いっぱぐれの心配は全くなくて、それでいながら周囲に過剰に気を遣って辛い…となる人間は、そんなにゴロゴロいるのだろうか?
結論から言えば、メッチャいる。というか女性の殆どの自認や環境はコレに当てはまるのだ。
まず女性の大体は自分の事を美少女だと自認している。例えば「Almost every woman thinks she's "hotter" than the average」というタイトルが内容を表してる研究は、440名の男女を集め、自身の身体的魅力を10段階で評価させた。すると以下の事実が判明した。
・普遍的な過大評価:
男女ともに理論的な平均値(5.5点)よりも有意に高い自己評価を行っていた。自己評価の分布は正規分布から大きく右(高得点側)にシフトしており、自己を「4点以下(平均以下)」と評価した層は極めて少数であった。
・女性における効果の増大:
女性の自己評価平均(7.18点)は、男性の自己評価平均(6.43点)よりも統計的に有意に高かった。標準偏差を考慮した効果量においても、女性の自己高揚傾向は男性を遥かに上回っている。
・94%の自信:
この研究の最も驚くべき発見は、女性の94%が自分を「平均的な同性」よりも魅力的だと評価しているという点だ。統計的に「平均以上」の人間は50%しか存在し得ないため、この数値は集団的な認知の歪みが極限に達していることを示している。
また女性は男性に比して、実際にそうでなくても「私は他者に気を遣う共感力の高い人間だ」と自認する傾向が確認されている。
例えばASDの男女における研究では自己申告においては女性当事者は常に男性当事者より際立ったコミュ力や共感性を見せるが、客観的研究では男女差が見られない或いは男性優位の傾向が見られる。例えば5〜10歳のASD児童の男女を調査して自閉症傾向をはかるテストをさせた結果、性差として男性はジェスチャーが苦手な1方、女性は表情が読めない傾向があったがコミュ力総体は差があるか微妙だった。また更に男性は加齢に従ってコミュ力が女性より上昇したり、症状が軽減する傾向まで確認された。
また健常者においても「コミュ力があると自認する傾向がある人間ほどコミュ力が低い傾向にある」ことが明らかになっている。被験者の感情知性…他者の感情を読み取ったり行動を予測する能力等をテストで測定した研究では、テストのスコアが最も低い層(下位25%)の人間は自分の能力を「平均以上」あるいは「上位」にあると著しく過大評価していた。更に能力が低い人ほど、批判的なフィードバックを受け入れず、改善しようとしない傾向まで確認された。
https://psycnet.apa.org/record/2013-29217-001
また近年、女性がその気になれば「女子枠」という形で難関大学に入れるようになっているのは説明する間でもない。更に言えば、女性なら家賃補助や食費補助も得られて男子学生より優雅な生活を送れるだろう。こう言うと「女子学生は防犯上の観点から高い住宅に住む事を強いられてるんだ!」という方が出るかもしれないが、セコムの警察庁資料分析によれば男性の方が住居侵入されやすい事が明らかになっている。またそもそも論として犯罪被害者になりやすいのも男性だ。
そして女性は現在社会において食いっぱぐれない…経済的に貧窮する事は殆どない。各種支援や施設の充実、公私におけるケアのされやすさ…それらにより、令和6年においては経済的困窮を理由とする男性の自殺者は4459人に対し女性は633人であり男女比は7:1に達している。
https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/R07/R6jisatsunojoukyou.pdf
何より決定的なのは女性…特に若年層においては女性ほど趣味に熱心に金や時間を費やす/費やすことが出来る傾向が加速していることだ。2024年のSMBCの若年層を対象とした調査はハッキリ可処分所得は「男性=貧乏」「女性=金持ち」という図式が現われている。例えば未婚男女における自由に使えるお金の平均金額は未婚男性35900円だが女性は41300円だ。
https://www.smbc-cf.com/news/data/2024/01/news_20240129.pdf
そして何より致命的なのが労働時間の差だ。例えば正社員において男性は週に45時間以上労働してる者が66%だが、女性は35%である。要するに現在日本は金も時間もない男性と、金も時間もある女性の2極化が進んでいる。また男性の時間は往々にして(仕事等で)裁量権がなく裕通がきかないが、女性の時間は往々にして(家事等で)裁量権があり融通が効く。端的に言えば、仕事場でアニメや配信を見れるわけはないが、家にいる時間の長い女性はアニメや配信を「ながら見」という形で「生活を彩るBGM(環境映像)」として消費する余裕があるのだ。
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/000673335.pdf
まとめれば、食いっぱぐれの心配がなく趣味に熱中出来てその気になれば難関大学に入れ、尚且つ(自認の上では)美少女で周囲に気を遣って自分を抑えている…というキャラクター像は日本女性のマス層に突き刺さる造形をしている。
そしてコンテンツ制作者側もまた、この構造を極めて冷静に分析していると言わざるを得ない。先述のあらゆるデータが示してる通り、「金と時間」を持っているのは今や若年女性(+乳幼児期育児を終えた中年女性)である。推し活市場を牽引し、グッズを買い、SNSでバズらせてくれるのは、生存競争に追われる男性ではなく、自己実現の物語を消費する女性達だ。
ならば商業アニメが誰に向けて作られるべきかは自明の理だ。「食いっぱぐれの心配がなく、ハイスペックで、周囲に気を使いすぎる私」を描くことは脚本の破綻でもなんでもない。それは最大の購買層である「現代の天竜人たち」に向けた、極めて精度の高いマーケティングの結果なのである。
要するに、もう男性に刺さるような物語は商業上の都合から金をかけたコンテンツとして展開するのは難しくなるだろう。金も時間もない人間達の為に娯楽コンテンツを大金かけて作る人間は、その信念がどうであれマーケーターとしては無能の極みだ。幸い、金をかけたコンテンツは「豪華声優」「豪華演出」「豪華歌」等で作品としてではなく、シーン単体で見る分には申し分ない。というより「あるシーンを切り抜いて映えるか?」はショート動画や切り抜きまとめが、これほど盛り上がってる現在において意識されはないわけがない。
またこうした作品は美少女動物園と同じく「難しい事や現実の辛さを忘れて見る事が出来る」癒しコンテンツとして見る事が可能だ。むしろその観点からすれば、リアリティは無い方がいいし、登場人物の悩みも共感出来ない方が良い。
良い悪いは別にこれからの男性のアニメ鑑賞は「場面を切り取って画の美しさを楽しむ」が主流になるだろう。と予測して記事を終える事とする。以下は余談。
余談:Ave Mujicaが失敗した原因
の5割は言う間でもなく若葉睦・モーティスのグダグダが原因だ。これに異論を持つ方は少ないだろう。多分「なんでモーティスは突然ギターを弾けるようになったのか?」「結局若葉睦・モーティスはどうなったのか?」「若葉睦に主人格がないとしてだからなんなのか?」辺りを明確に説明出来る方は製作スタッフの中にもいないと思われる。散々尺とった末に「ライブ中に唐突に若葉睦・モーティスは1体化っぽくなってギター弾けるようになりました」という結末は不完全燃焼…というか意味不明にもほどがある。
しかし、それはそれとして「Ave Mujica」はこれまでのバンドアニメにはない画期的なテーマを内封していた。それは「社会に磨り潰される恐怖」である。そしてAve Mujicaはだからこそ失敗した。
「非合理が生んだ中国のガールズバンド人気」という記事では、中国の若者が如何に格差に苦しんでいて、その苦悩を投影出来るガールズバンドアニメが人気なのか?が分析されている。中国の若者が日本の若者のソレに非常に似ている事には同意する。しかしながら、その若者がガールズバンドアニメに自分達を投影している…とする分析には疑問符がつく。何故なら、ガールズバンドクライは見てないので言及を控えるが「ぼっち・ざ・ろっく!」「It's MyGO!!!!!」は基本的に有閑階級の話だからだ。
ぼっち・ざ・ろっく!の後藤ひとりはコミュ障で学業成績も良くないが、家庭円満で金には困らず、悩みは将来の食い扶持や受験ではなく「承認されたい」である。彼女の中に「食いっぱぐれるかもしれない」「将来どうなるか分からない」といった不安はない。ただこのキャラクター造形自体は将来の夢が高校中退して音楽で食ってく、そうじゃなきゃニート…と合わせて「有閑階級でありながら承認欲求が満たされない事を持って自身が不遇であると自認している」典型的なバンドマンのソレだ。それ故にリアリティの無さは全くなく、リアルのバンドマンの皮を美少女にしただけならではの生々しさを出すことに成功している。ただそれは格差や貧困に苦しむ若者が自己投影する対象では明らかにない。
It's MyGO!!!!!の高松燈も同様だ。彼女の社会への馴染めなさはASD的な気質としてぼっち・ざ・ろっく以上の生々しさを持って描かれる。しかし高松燈の悩みは「社会に磨り潰される恐怖」より卑近な周囲の人間関係以上のモノではない。彼女の苦悩は「また人間関係が(CRYCHICのように)駄目になるかもしれない」「周囲にどう自分の気持ちを伝えればいいのか分からない」という恐怖に集約される。切実ではあるが、そこに「生存や生活そのものが脅かされる」恐怖はない。そしてコレは製作陣も意識してそうしたものだろう。何故なら続編となるAve Mujicaは、そこに足を踏み入れた作品だからだ。
Ave Mujicaには社会に実存以上に生存や生活や将来を脅かされる登場人物が3人もメインキャラとして登場する。パパの事業失敗で家庭崩壊した豊川祥子、上京したはいいが周囲の才能に押し潰されそうな祐天寺にゃむ、自立の為に水面下では(話が進むにつれて水上でも)なりふり構わない八幡海鈴。Ave Mujicaはこれらの登場人物が(1名を除き)互いに互いを嫌いながら、それぞれの事情の為に(1名を除き)嫌々バンドをやる羽目になる事を描いた作品だ。
特に個人的におお!と思ったキャラが祐天寺にゃむだ。彼女は序盤で豊川祥子とAve Mujicaの方針を巡って争う。それは表面上は「作り込んだ世界観を大事にするか?」vs「観客の期待に応えるか?」だが、もっと根源的なところで豊川祥子と祐天寺にゃむは相容れない価値観を有している。それは「世界に愛されてる感覚」だ。
豊川祥子は世界に愛されてる事を確信しているキャラクターだ。自分は世界を変えられると思っているので、パパが事業失敗して家庭崩壊してもいじける事なく這い上がる努力をし、ライブでは斬新な演出と世界観を提示して観客を引きずり込んでいく。豊川祥子は道が無くても自分で切り開いていける人間だ。だからこそパパにとってはあまりに眩しくて「お前といると自分が惨めになる」と拒絶され、三角初華に保護されても彼女にそれ以上頼ったり甘えることなく道を切り開き続け、1緒にいるにも関わらず三角初華に孤独感を与えてしまう。
1方で祐天寺にゃむは世界に愛されてる確信が得られないキャラだ。多方面に手を出し、視聴者や観客の望みをリサーチし、それに合わせて自分を作っていく。彼女にとってユーザーに自分を合わせる事は前提だ。そしてそれに対して「本当の私とは…」みたいに悩む事はない。彼女は自分探し以前に「何であれ愛されなければ生きてはいけない」という次元で生きてるのだ。本当の私云々で悩む余裕はない。だからこそ祐天寺にゃむは「お嬢様という外面を捨ててなりふり構わなくなったっぽい貴方にシンパシーを感じてた」と豊川祥子に告げる。
しかしユーザーの需要に応え続けるということは、反面で新たなプレゼンスを提示して需要を切り開く事が出来ない事を意味し、芸能においては必然的に行き詰まる事になる。これは作中でも豊川祥子が度々祐天寺にゃむに対して指摘してる。そして豊川祥子の(長崎そよに「これ音楽じゃねえだろ」と言われるほど)新たなプレゼンスであるAve Mujicaは実際に需要を切り開いていく。しかしその成功を当事者でありながら、祐天寺にゃむは信じる事が出来ない。愛されてる確信が持てないのだ。祐天寺にゃむが仮面を外すことに拘る理由だ。
そんな祐天寺にゃむに直接的な脅威として襲い掛かるのが、芸能人のサラブレッドであり、観客の期待を自在に引き出したり、期待に期待以上に応えたり、またただいるだけで愛される(注目を浴びる)若葉睦だ。自分がどんなに努力しても…いや、ユーザーに合わせる努力をしてる(=ユーザーの期待するもの以上にはなれない)からこそ辿り着けない境地に祐天寺にゃむは嫉妬し脅威を覚え、「努力しても意味がない気がする」「持って生まれた者の持つモノに潰されそう」と弱音を吐く。格差に押し潰されそうな人間には刺さる造形だ。
そして祐天寺にゃむと対比する若葉睦は真逆のベクトル「有閑階級の自分探し」の極致にいる。彼女は芸能界のサラブレッドであり、基本的に美少女揃いのメンバーの中でも特に言及されるほど容姿端麗、ギターの腕も確か(公式設定)。黙っていても周囲が放っておかない。食い扶持の心配など皆無だ。そんな彼女の悩みは端的にまとめれば「思いを上手く伝えられず周囲を傷付けてしまう」だろう。そんな若葉睦の自分探しの直接的犠牲者になるのがモーティスだ。若葉睦とモーティス関連はグダグダしてるが、雑にまとめれば以下のようになる。
若葉睦「思いを上手く伝えられず周囲を傷付けてしまうけど、周囲の期待に応えるのも黙ってるのも辛いんや」
モーティス「ほならワイが変わってやるわ。周囲と上手くやってくでー。若葉睦を守るのがワイの存在意義や」
若葉睦「なに豊川祥子を傷付けてんのや?そんなこと頼んでないやろ」
モーティス「いやいや豊川祥子が苦しみの原因やないか」
若葉睦「もういいからさよならや。お前なんからいらへん」
モーティス「お前が死ぬんやで。あっ本当に死んでもうた。ワイの存在意義がなくなるやん」
最終的にどうなったのか?は間違いなく製作者ですら納得いく説明出来ないだろうが若葉睦・モーティスは「有閑階級の自分探しで人が死ぬ」をやりたかったキャラクターなのは間違いない。それ故に若葉ママの「睦もモーティスも数ある役の1つでしかないんや。あの子は最初から全部が演技なんや」が種明かしというかどんでん返しになるのだろう…多分(まぁ製作者の意図はそうだろう)。
そして、それこそがAve Mujicaが失敗した次点の原因だと思ってる。つまり「キャラの悩みの規模を広げすぎると最早女子高生が各々個人的に頑張ってどうこう出来る話ではなくなり、カタルシスや結論が変な形になったりリアリティがなくなる」のだ。Ave Mujicaの各メインキャラのラストは若葉睦・モーティスに限らず、その全員が歪だ。
・豊川祥子→神になる
上記した通り、豊川祥子は世界に愛されてる者であり、また道を切り開ける者である。それ故に仲間と共に悩んだり沈んだりは出来ない。隣人として駄目な人間に寄り添う事が出来ないのだ。豊川祥子の物語は「世界に愛されてる者として皆を引っ張り傷つける」⇔「隣人として寄り添おうとする」の反復横跳びとして描かれる。そして豊川祥子は様々な経験を通じてダメ人間の駄目さに「いい加減うんざりですわーーー!!」と絶叫して、「私は私を捨てられない」と結論し、「運命なんて拒否して全てを導く神になればええんや!」と答えを出す。そのロジック自体は不自然ではないが「神になる」は不自然というか、感動より先に戸惑いというかネタ臭が漂ってしまう。(彼女が忘却に逃げようするのは、世界を変えられる=問題を解決出来てしまうが故に、問題を無かった事にする忘却以外に逃げ道が存在しないからだ)
・祐天寺にゃむ→コンプレックスから逃げない
自分が追い付けない境地(本物)があることを認め、その羨望を受け入れて逃げないことを決意する。それ自体は妥当だけどカタルシスは全くない。ここで女優のオーディションに受かったり演技力向上描写でもあればカタルシスはあるだろうが、話の流れからは不自然だし、本物になれなくても逃げないというテーマはぶれる。
・三角初華→啖呵を切る
避妊失敗したパパに対して啖呵を切って自分は豊川家なんて気にせず生きる事を宣言する。カタルシスはあるけど、あんだけ散々「豊川家は恐ろしいんやで?」とやった後で、啖呵を切るだけで解決するのはリアリティラインが落ちる。というか、そもそも「豊川家は恐ろしいんやで?」自体にリアリティがない。
・八幡海鈴→表でもなりふり構わなくなる
デビューがかかったオーディションでメンバー全員にボイコットされるというトラウマから、リスクヘッジで多数のバンドを掛け持ちしビジネスライクな付き合いに留めていたが、それだといつまで経っても居場所を得られない事に気付き、信用を得るためになりふり構わなくなる。彼女の物語は「恐怖を隠して恐怖を誤魔化す」から「恐怖を誤魔化さず表に出す」事にあり、その意味では「練習勝手にすっぽかすのやめて!トラウマなの!」がカタルシスになると思われる。
結局のところ「Ave Mujica」の脚本が瓦解したのは、「生存(エコノミー)」の問題を「実存(アイデンティティ)」の文法で強引に解決しようとした点に尽きる。豊川祥子の家の借金や崩壊は「金と権力」の問題だ。祐天寺にゃむの行き詰まりは「市場原理と消費」の問題だ。これらは本来、精神論や演劇的な「神になる」宣言、あるいは「仮面を壊す」といった抽象的な儀式では1ミリも解決しない。借金は神になっても減らないし、市場は素顔の自分を優遇してはくれない。
そして更にキツイのは本編は完全に開き直りせず、こうした残酷さやリアリティをも描写した点だ。この「問題は結局解決しないけど、それでええんやで」というのは前作「MyGO!!!!!」のアプローチでもある。しかしそれには明白なカタルシスがあった。何故なら彼女達の問題はあくまで「実存」に留められ、まぁこれからも迷子になって色々苦労するだろうけど、それでも前に進められるだろうで納得出来たからだ。
しかしAve Mujicaは「迷子になって色々苦労する」が実存を超えて社会的・物理的な意味を帯びてしまうし、なんなら人が死ぬ(死んだ)。迷子になったら観客数万人単位で影響するし、どのくらいの金が影響するかもちょっと想像つかないし、その結果素人がどうこう出来る次元を超えた精神疾患じみた挙動まで起きる。そしてソレは女子高生にどうこう出来る領域を超えている。彼女達はこれからも苦労するけど、それでも前に進めるやろなぁ…となることが出来ないのだ。
要は「どうにもならない社会に磨り潰される恐怖」をリアルに描写しても当然に「どうにもなりません」以外の答えは出ないのだ。思えば鉄血のオルフェンズも同じようなジレンマを抱えていた。勿論、それをどうにかする物語もある。しかし、それをやるとしたら、規模的にそれが主体になってしまいキャラに焦点を当てる事が出来なくなってしまうだろう(その意味でキャラに焦点をあてつつ、どうにもならない社会を描く手法がセカイ系だろう)。
キャラをIPとして売り出す事を前提としたコンテンツ展開で、これは致命的だろう。こんな面倒くさい事をやったあげく、コケてしまい、そのあげく私みたいな面倒くさいオタクに変な事を言われるのは明らかにコストパフォーマンスが悪過ぎる。
結論としてはこれからの商業アニメは、中途半端に「社会の厳しさ」や「生存競争」を取り入れるべきではない、ということだ。
天竜人たちは画面の向こうでキャラクターが本気で金に困ったり、社会システムに殺されかけたりする姿を見たいわけではない。彼女達が見たいのは「衣食住が保証された温かい世界で、人間関係のみに悩み、最後は互いに肯定しあってエモくなる美少女たち」なのだ。そこに男の理屈や、冷徹な経済合理性が入り込む余地はない。
我々男性視聴者に残された道は、冒頭で述べた通りだ。
脚本の整合性やキャラクターの行動原理に「なぜ?」と問うのは諦めよう。それは天に向かって唾を吐くようなものだ。
ただ黙ってYouTubeに流れてくる「切り抜き動画」で、神作画のライブシーンと、文脈から切り離された「尊い」やり取りだけを摂取する。SNSでエモいポストや画像の切り抜きを見つけてRPする。それが持たざる者となった我々に許された、唯1にして最適なアニメとの付き合い方なのだから。



じゃあマーケティングとか抜きにして天竜人向けじゃない話を21世紀に生きる現代日本人のクリエイターが描けるかと言われればほとんどの人は無理だと私は思います。 なぜなら彼らは創作活動に興じることが出来た側の人間でありこの記事でいうところの天竜人だからです。 彼らがただ生きることだけに苦…
余 談 が 本 編
元々随分前からアニメは現実逃避の美少女動物園になってましたから、今更さほど驚くことではないかと。 むしろ旧エヴァ〜2000年代中盤頃までの鬱アニメ/鬱ゲー全盛期は、今からすればいったい何だったんだろう…とインターネット老人は回顧するのです。
おもしろい。 AveMujicaがコケた・失敗した、というのが商業的な意味なら、前半みたいに何かデータ的な根拠があったりしないかな…。実際には迷子よりムジカ放送からの方がコンテンツ的には盛り上がっている印象だった。