令和8年1月1日現時点での所存と対応
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前提として、以下の「相手」とは同一人物を指します。
謝罪
本件に関し、私が謝罪すべき事実は存在しないと判断しました。
これまで私は、相手方の反応が結果的に過剰であったことによる影響について、「その可能性を予測できなかった点」を自らの過失と捉えていました。しかし改めて検討した結果、それは本来、私が負うべき責任ではないとの結論に至りました。
今後の方針
今後、相手方からの言及や反応が確認されない限り、私から相手方に言及することは一切ありません。
その理由は、相手方が主観的感情と、公平で客観的な社会的判断基準とを混同しており、対話を試みても建設的な議論が成立しないと判断したためです。ただし、相手方による言及が継続する場合には、事実誤認や私の心情に関する誤った解釈が流布され、周囲に私への反発感情を植え付ける結果となるため、その都度、訂正のために言及せざるを得ません。
顛末、私の立場
(令和5年~)相手のAIへの反発
絵柄そのものはアイデアの域にとどまり、著作物としては保護されないという点は、文化庁の見解としても周知の事実であると理解しています。不満があったとしても、現行の法解釈はそうなっています。手描きによる類似した絵柄の作品が既に多数存在している状況において、AIによる生成物に対してのみ強く権利主張を行い、さらには訴訟まで示唆する姿勢に対し、AIを利用する立場として警戒心を抱いたのは事実です。同様の警戒を抱いているAI利用者は私だけではありません。
令和7年8月10日の投稿
既に対面のサークルにブロックされてるから、「AIのポスターをつるして怖がらせましょう」することなる
これはC106直前の投稿であり、
「家でもパーティーでも、エッチな服を着て友達や家族を怖がらせましょう!」という既存のミームを下敷きにした表現です。「することになる」という表現を用いたのは、「怖がらせてやろう」という能動的な意図ではなく、「そのつもりはなくても、結果的にそう受け取られてしまう不可避性」を示したかったためです。
私は、サークル活動を通常通り行うことで、意図せず相手を怖がらせてしまうかもしれないという無念さを表現したつもりでした。しかし実際には、「怖がらせましょうと言った」という単純化されたストーリーのみが拡散されました。これは文脈を切り取って印象操作を行う、いわゆるオールドメディア的手法と変わらないものであり、この点に強い憤りを感じています。
問題はジョークとして成立しているか否かではなく、本来の意図が切り落とされ、歪められた形で拡散されたことです。その拡散に関与した者すべてに責任があると考えます。
令和7年11月7日の投稿
待って
対面があの〇〇氏なんだけど
でかいAIポスターを飾ります!
当時私は、相手方が私の作品や展示に対して何らかの反応や批判を向けてくるのではないかという恐怖を感じていました。この投稿の意図は、
「対面が〇〇氏であっても、私はコミケ参加者として許される通常の宣伝行為として、いつも通り大きなAIポスターを掲示する」
という事実の表明にすぎません。挑発や嫌がらせの意図は一切ありません。むしろ恐怖心から出た発言です。
にもかかわらず、「私に悪意があった」という前提で語られる論調が多数見られましたが、少なくとも私自身の内心には嫌がらせの意図は存在しません。他者がどう感じるかという問題と、「嫌がらせを目的としていた」という事実認定は別です。
後者を前提とする議論は成り立たないと考えます。名指しそのものは価値中立であり、評価されるべきは内容です。
仮に同じ名指しで称賛や挨拶のみを行っていた場合、問題視されなかったことは明らかです。「不快に感じた」という感情を、「攻撃されたに違いない」「相手は悪意を持っている」という想像にすり替え、過去の投稿と恣意的に結び付けて評価を増幅させる行為に、強い憤りを覚えました。また、私は相手方が過去に「首吊り画像を作られた」といったAIによる深刻な被害を受けていた事実を当時知りませんでした。それにもかかわらず、「その事情を知った上で攻撃した」といった想像が事実のように語られることにも納得できません。知らなかったこと自体について、当初は謝罪の余地を検討しました。しかし、その過去が私を非難するための材料として用いられた結果、謝罪の必要性はないと判断しました。
一連の経緯について、「自爆した」と形容されていますが、私は「爆弾にされて火をつけられた」と思っています。それで「周りに迷惑でしょ」と言われることに苦痛を感じています。
とある方の名前をアカウント名に利用した件
私は、誹謗中傷による悲劇から社会が学ぶべきだったのは、「誰がどれほど傷ついたか」という情緒的評価ではなく、人を追い詰める構造そのものを冷静に検討し、再発を防ぐことだったと考えています。しかし実際には、社会は象徴を聖域化し、行為の意図や文脈を検討することなく、「不謹慎」「冒涜」という道徳的ラベルで断罪しました。その結果、私は援助要請としての行為であったにもかかわらず、人格を否定され、明確な侮辱を受けました。これを「冒涜と受け取られるものだ」と片づけることは、意図を消し、被害を不可視化する不当な正当化です。誹謗中傷を防ぐという名目で、新たな誹謗中傷を生み出す言説こそ、本来最も厳しく検討されるべきだと考えます。
そもそも遺族でもない第三者が、遺族の心情を代弁する形で「冒涜だ」と断じる行為自体が、果たして冒涜ではないのか、私は疑問に思います。
結論・余談
「私が逆走していたのかな」と思ったけど、逆走していたのはやはり周りってことで。数が多くて集団で来られたから自分を疑ったけど、やはり所詮SNSですね。
一度発言を撤回したこと自体を問題視する意見もあります。しかし、誹謗中傷や脅迫を受ける状況下で事実上強いられた発言は、正当な意思に基づくものとは言えません。そのような形で行われた「私刑的」な要求には、正当性はないと考えます。実際、警察や検察の取り調べにおいても、脅迫や威圧を伴って得られた供述は無効とされます。本件における発言撤回も、同様に評価されるべきものです。
再度注意です。当記事の転載を禁止します。

