オンライン証券やアセットマネジメント、暗号資産取引所などの金融サービスを提供するマネックスグループ。同社取締役兼執行役の山田尚史さんは、業務のかたわら小説を執筆しており、宝島社主催の「第22回『このミステリーがすごい!』大賞」の大賞を受賞しました。山田さんはAI(人工知能)で知られる東京大学の松尾豊研究室を卒業した後、AIベンチャー、PKSHA Technology(パークシャテクノロジー)を起業しています。なぜAIの専門家が小説を執筆しているのか、聞きました。
AIベンチャー起業から小説執筆へ
私は2021年6月にマネックスグループに入社して社外取締役となり、現在は取締役兼執行役を務めています。もともとは2012年に東京大学でAIの開発・研究を行っている松尾豊研究室の先輩だった上野山勝也さんと一緒に、機械学習・深層学習技術を用いたアルゴリズムを提供するPKSHA Technologyを起業して活動していました。
PKSHAは設立5年目に上場、私も技術担当役員として働いていましたが、環境の固定化を避けたい、外の世界も見てみたい、と思い、2020年の年末に退職しました。ちょうど子どもが生まれる時期でもあり、育休を取りたいという思いもありました。
そして、せっかく時間ができたのだから、長年の夢だった作家を目指そう──と、小説を書き始めました。作家になるには「新人賞に応募する」「小説投稿サイトでスカウトされる」といったルートがあります。2021年の年明けから執筆を始め、今までに4作ほど投稿しました。そのうちの1作が宝島社主催の「第22回このミステリーがすごい!大賞」の大賞に選ばれ、「白川尚史」名義で2024年1月9日に『 ファラオの密室 』(宝島社)として発売されます。
また、PKSHAを退職してから、中学・高校の大先輩である松本大(おおき)さん(マネックスグループ代表執行役会長/マネックス創業者)とお話しする機会がありました。私の母校の開成中学・高校には、起業家が集まるOB会があります。そこで何度か松本さんにお目にかかっていたのですが、マネックスグループはジェネレーションダイバーシティを含む多様性を重視する会社で、私の技術系ベンチャーでの経営経験をご評価いただき、「社外取締役として参画しないか」とのお誘いをいただきました。現在は取締役兼執行役としてクリプト事業、AI戦略などを担当しています。
AIについては私自身も大学時代に研究していたのですが、「2040年ぐらいまでChatGPTのような生成AIは誕生しないだろう」と思っていたので、今の生成AIの進化は異常な速度だと感じています。一方で、技術が流行しだすといろいろな人が玉石混交の情報を発信し、時には自称専門家の人ばかりがメディアで目立つこともあります。私自身、一次情報である論文を読んできた経験を生かし、マネックスグループの経営に生かせるように努めています。
マネックス証券は2024年1月からNTTドコモと資本業務提携を行います。今までは証券口座というと、「生活圏内にあるもの」という意識が薄かったと思います。しかし、NTTドコモと資本業務提携を行うことによって、これからは「手のひらの中に証券口座がある」時代に。マネックスグループの企業理念でもある「個人の自己実現を可能にし、その生涯バランスシートを最良化することを目指す」がより実現できると考えています。
マネックスグループ取締役兼執行役
AIと小説はつながっている
ここまでの私の経歴を見ると、「なぜAI研究をしている人が作家に?」と不思議に思われるかもしれません。
でも、私の中ではAIと小説はつながっています。もともと父が時代小説、母が海外文学、姉が推理小説を読む家庭で、本に囲まれて育ちました。いつでも好きなときに本棚から本を取り出して読み、中学生時代にはライトノベル、その後はアイザック・アシモフ、マイクル・クライトン、ロビン・クックといった海外SFに夢中になりました。東大で松尾研に入ったのも、「SF小説のように本当の人間みたいに動くロボットを作ってみたい」と思ったからです。
大学卒業後には三津田信三先生をはじめとする伝奇色の強いミステリー作品を読むようになりました。ハードボイルド作品も当時の心に刺さるものが多く、マイ・ベストワンはローレンス・ブロックの『 八百万の死にざま 』(田口俊樹訳/早川書房)です。
その後、自分でも小説を書くようになったのですが、私の専門であるテクノロジーの見識は、今のところ直接作品には生かせていません。これは私の力量にもよるかもしれませんが、なまじ裏側を知っていると、厳密性を優先してしまい面白く書くのが難しいのです。例えば、天才的なハッカーが米国防総省のシステムをハッキングした──という場面を書こうとすると、「どうしても技術的に無理だし、仮に可能だったとしても、その理由を説明しなければアンフェアだ」と思ってしまいます。
そのことを微に入り細に入り、複数ページを費やして理屈づけしたとしても教科書やマニュアルのようになってしまい、読者にとっては退屈なだけです。もし、ものすごくキャラが立っているハッカーが技術的に不可能なこともやってのける──と書き切れれば、話は別かもしれませんが。
今回の受賞作『ファラオの密室』は古代エジプトが舞台なのですが、実は私はエジプトにまったく詳しくありませんでした。だからこそ空想を膨らませる余地があり、後から綿密な調査で裏打ちする、という手法が生きたのだと思います。ゼロから歴史を調べ、最初に難しいトリックを考え、「どうしたら解けるか」という読者目線でストーリーを考えていきました。いわば「ゴールから逆算した作品」です。どんなトリックかは、作品を読んでもらえたらうれしいです。
思考にはボトムアップ型とトップダウン型がありますが、起業する、作品を生み出すといった大きなことを成し遂げるときは、トップダウン型のほうがうまくいくように思います。仕事も「1年後のプレスリリースを考える」ように、1年後にはどんな業績を発表したいか、どこと業務提携をしていたいかなど、完成形から考えてみるといいかもしれません。
役員を務めながら小説執筆ができる環境
今は取締役兼執行役と作家の二足のわらじをはいていますが、実は三足目の子育てが一番大変かもしれません。小説の執筆時間は、子どもが寝た後の22時~0時、5時~7時をあてています。こうした生活を続けられるのは、まさにマネックスグループが「個人の自己実現を可能にする」会社だからです。
普通、取締役に業務以外の仕事が増えたら、他の経営陣は(表には出さないまでも)いい顔はしませんよね。その分、仕事に割けるマインドシェアが減るのですから。でも、松本大さんも社長の清明祐子さんも心から応援してくださり、私が受賞したときはマネックスグループからプレスリリースまで出してくださいました。そのときに、マネックスグループの企業理念はただ掲げられているのではなく、会社の隅々まで行き渡っているのだと実感しました。
取締役の経験が作品に直接影響することは少ないかもしれませんが、松本さんや清明さんのような魅力的な人を見ていると人物描写に深みが出ます。この環境で働けることが、私にとっては何よりの福利厚生ですね。
取材・文/三浦香代子 写真/品田裕美