現在、高市総理が意欲を示している国旗損壊罪の創設。
現行法にはすでに「外国国章損壊罪(刑法92条)」が存在し、他国の国旗を傷つければ罰せられるにもかかわらず、自国の象徴を辱めることだけが看過されてきた。
この戦後日本が放置してきた「尊厳の非対称性」を解消することは、独立国家として極めて合理的な帰結と言えるだろう。
これに対し、元文科次官の前川喜平氏が「自分で日の丸を描いて毎日破ってやる。捕まえてみろ」と挑発的な言動を繰り返し、物議を醸している。
この光景を前に、私は深い溜息を禁じ得ない。
彼が権力への抵抗と信じているその行為は、知性の欠片も感じられない、あまりに幼稚なカテゴリーエラーだからだ。
まず、論理的な整理を行おう。
確かに、白紙を破る行為は何ら罪には問われない。
だが、そこに意匠が宿り、公衆の面前で国の象徴としての損壊を宣言した瞬間に、それは単なる紙の処分から「共同体の尊厳に対する象徴的な破壊行為」へと変質する。
物質と記号を混同し、「自分で描いた紙を破って何が悪い」と居直るその姿は、まるで遺影を「ただの印画紙だ」と言い張る者に等しい。それは表現の自由などではなく、人間が文明において築き上げてきた「聖域という概念への甘え」に過ぎないのだ。
前川氏は「自分の所有物をどう扱おうと自由だ」という私有権の論理に逃げ込んでいるが、これは文明社会における「象徴(シンボル)の公共性」を無視した暴論である。
国旗とは単なる布や紙ではない。
それは、その土地で生きてきた先人たちの歴史、文化、そして共同体のアイデンティティを凝縮した「共有された聖域」である。
公共の象徴を物理的に損壊する行為は、文明社会を形作る相互尊重の根底を揺るがす破壊行為に他ならない。
自分の所有物だからといって、公衆の面前で共有の象徴を辱める行為は、表現の自由ではなく、社会の紐帯に対する一方的な攻撃である。
次に、彼の「抵抗」に透けて見える、その反抗の安っぽさについて言及せねばならない。
自らのルーツを傷つけることでしか自己確認できないのは、精神的な自傷行為に他ならない。
自国の旗を貶めることで「自分は進歩的だ」「権力に抗っている」と錯覚するのは、自らが立っている足場を自ら削り、その崩落の衝撃で自分の存在を実感しようとする病理と同じだ。
真の知性とは、自らの根源に対する敬意を持ちつつ、その運用(権力)を厳しく監視する双方向の視座を指す。
自らの根源そのものを否定することでしか自立を証明できない魂は、どこまで行っても孤独で、根無し草のように空虚だ。
真に高潔な生き方とは、外側の権威を否定することではなく、己という最も制御困難な内面を律する精神の自律にこそ宿る。
安易な破壊行為で一時的な熱狂を得ようとするのは、思慮を放棄した者の振る舞いだ。
本質を見抜く眼を持つ者が重んじるべきは、そのような騒音から一線を画し、個としての品格を保ち続ける静かなる意志である。
たとえ対象を鋭く批判する局面であっても、自らのルーツを汚すような卑劣な真似は、自身の矜持を自ら損なう行為でしかない。
自らのアイデンティティを切り刻んで悦に浸る者に、この国を語る資格も、未来を語る言葉も、残されてはいない。
自ら根を腐らせた木に、美しい花が咲くことは決してない。
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前川喜平氏が過激宣言「国旗損壊罪できたら紙に赤い丸を書いて毎日破ってやる。捕まえてみろ」
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