#4. 女子枠にモヤる理由を、ちゃんと考えてみた
女子枠をめぐる議論を見ていると、「怒っている人」「納得していない人」「当然だと思っている人」とさまざまな反応がある。
そこでまず、その感想のどれが正しいかを決めることはせずに、その感情がどこから生まれているのかを整理してみることにした。
①女子枠議論が炎上する割に、解決策が見えてこないワケ
「ずるい」「甘え」「不公平」といった強い言葉だけが先に立って、
議論が前に進んでいない気がするのは私だけではないと思っている。
女子枠をめぐる議論が噛み合いにくいのは、「競争のどこに立っているか」が混ざったまま語られているからだと思ったので、私なりに表に落とし込んでみた。
■すでに競争に勝って成功してる人
「自分のときには枠はなかったが、それでも勝ち抜いてきた」という誇りがある。
すでに競争の当事者ではないため、議論はどうしても「想像」や「過去の自身の経験」に基づいたものになりやすい。
■これから競争する人
自分が枠の対象でなければ、単純に「席が減る」可能性がある。
勝ち残る確率が下がるかもしれないという不安や不満がある。
同じ「女子枠」という制度を見ていても、すでに競争を終えた人と、これから競争に入る人とでは、不安の質、怒りの向き、納得感の基準はまったく違うと思う。
その違いが整理されないまま議論されると、それぞれが自分の立場から正しいことを言っているつもりでも、話はすれ違い、脱線し、飛び火して炎上だけが残ってしまうのではないか。
②女子枠を使う側から見た意味
私自身はこの図でいうと、左下の「これから競争する女性」の立場にいる。
つまり、女性枠を使える可能性がありつつも、同時に「周りから女性枠(笑)と評価されるのは嫌だ…」という不安もリアルに感じている。
その立場として、女子枠を「能力不足の救済(下駄履かせ)」だとは考えてはおらず、参入しにくい世界への“呼び水”に近いものだと思っている。
研究の世界に進んだとき、女子学生自体が珍しく、ロールモデルも少なく、私が博士進学した当時、ラボには先輩も同期もおらず、共同研究先のラボに留学生の同期(男性)が1人いるくらいだった。
(もはや男女というより、そもそも日本人がいない、という状況だったのかもしれない。)
相談先がいない不安自体は、性別に関係なく誰でも感じるものだと思う。
なのでここでは女という性別だったことに起因して困ったことのみ2点挙げてみる。
まず1点目、物理的な環境として、
男子トイレは全フロアにあるのに、女子トイレは2階おきにしかなく、移動は運動になるからいいとして、中には1つしかトイレがないので待ち時間が割と発生していた。
トイレに入る前の扉から電気が点いているのがわかると扉の前で待っていた(狭いトイレの中で待つのは気まずい)。待っていられないときはまた次の上の階のトイレを目指して2段飛ばしくらいの勢いで階段を駆け上っていった笑
小さなことのようで、日常的に積み重なると「想定されていない側」であることを意識させられた。
2点目は、妊娠したときのこと。
妊娠中の研究活動やキャリア継続を前提にした支援制度はなかった。
まあ元気だし、実験できるかなと特に休学せずに進めていたが、出産前後のどうしても行けない間は学費を免除してもらうため休学することにした。
出産予定日の1カ月前に大学事務に行くと、医師に妊娠証明書を作成してもらい、提出すれば良いとのことだったが、この証明書発行が6000円かかり、母子手帳じゃだめなん?(というか腹を見れば判るのでは?)と思った。
制度として証明が病気で休学する場合と同列だった。保険が利かないのは妊娠出産は病気じゃないからという理屈が国にはあるのに、国立の大学でそこは病気と同列なのか…と謎だった。
あとこれは余談だが、
大学構内に保育園があり、大学HP(しかも男女共同参画の部署)にて学内保育所✨と記載されてたので、てっきり「大学関係者は使いやすいのだろう」と勝手に思っていたが、実際には大学の人が優先されるわけでもなく、特別な支援があるわけでもない、一般の保育園だった。
じゃあなぜ大学構内にあるのだろう、と不思議に思ったが、そこにも「研究と子育てをどう両立するか」という視点は、制度としてはほとんど組み込まれていないことが表れているように感じた。
ちなみに、勘違いは私だけではないようで、
最近知り合った女性博士学生(この方も留学生で、子供あり)も同じ勘違いをしたらしく、私と同じく学内保育所を訪ねて、学生でも使えるのか聞きに行ったそうだ。
そして冷たくあしらわれた(先生方も忙しいから仕方ない…)話を聞いて涙が出そうなほど共感した(私はあの冷たい目が消化しきれずにいたので、同じ人がいて2年の時を経てようやく成仏した。)
こうした出来事は、個々に見れば小さな不便や手続きの話で、どれも決定的な不利益というほどではない。
けれど積み重なると、能力以前のところで、見えないハードルが存在していることを実感してきた。
だから私は、女子枠を「能力不足の救済」ではなく、そもそも足を踏み入れること自体がためらわれる世界へ1歩踏み入れるための最初の足場として捉えている。
もちろん、じゃあそんなハードルも超える覚悟がないなら来るな(行くな)という声ももっともだと思う。
ただ、ここで視点を少し変えてみたい。
女子枠をつくっている側は、何をしようとしているのか。
③評価制度から見た女子枠
現在、女子枠をつくっている側は、「多様化」を試している最中なのだと私は認識している。
これまで男性が中心だった世界に「女性の視点を入れてみるのはどうか」
「興味はあったけれど、参入をためらっていた女性を後押ししてみるのはどうか」といった取り組みを、まずは実験的に行っている段階なのではないか。
この多様化に対して、従来の評価制度は、どちらかといえば「最適化」だったのだと思う。
いわゆる標準モデル(結果的に、男性で、長時間働けて、家庭責任をあまり負わない人が当てはまりやすかった)が暗黙(だけど社会共通)の前提としてあり、そのモデルに近い人を評価・採用する方が、組織にとっては管理しやすく、成果もある程度予測できたのではないか。
ただし「こういう人を評価します」と明示するのは親切だけど、明示しすぎるとそれに合わせた人ばかりが集まってしまう。そうなると多様な人が集まることで起きる化学反応が期待できなくなるトレードオフがある。
逆に、評価軸をあえて非明示・解放的にした多様化型の評価では、型にとらわれない挑戦や、思いがけない可能性が拾われやすくなる。
ただしその分、努力が報われなかった理由が分かりにくく、納得感を得にくいという不安も避けられない。
ここで重要なのは、多様化がゴールではないという点だ。
多様化は、探索や実験のフェーズであり、異なるやり方や判断を並べることで、どの要因が成果につながったのかを見つけ出す。そして再び評価軸として言語化・構造化して最適化に移る。
評価制度は、多様化と最適化のサイクルを回し続けるものだと思っている。
私は、女子枠はこのサイクルにおける「多様化=実験フェーズ」に位置づく制度だと思っているので、ゴールではないと認識している。
④『努力が正当に扱われた』と納得するために最低限、何が見えていればいい?
女子枠をめぐる感情的な反発の多くは、自分の努力が正当に扱われなかったと感じる瞬間から生まれているように思う。限られた資源や機会の中で生きていれば、そう思うのはごく自然だと思う。
ただ「誰かだけがズルをしている」「自分は奪われている」という形で語り始めると、議論は一気に攻撃的になってしまう。
本当は誰かを叩きたいわけでも、相手を打ち負かしたいわけでもなく、自分が安心できる場所や、納得できる評価を求めているだけなのだと思う。
現時点では点数以外の能力(多様性、思考様式、視点など)は、客観的かつ公平に評価する方法が十分に確立されておらず、測定が難しい。
測れないものを評価に使えば、どうしても恣意性や不公平感が生まれる。
結果として、「結局あやふやではないか」「好き嫌いで決めているのではないか」という議論になりやすい。
だからこそ、女子枠の議論は賛成か反対かではなく、
「努力と評価の関係をどう設計するか」という問いとしてもう一段深く考えられる余地があると思っている。
測れない価値を、いかに可視化していくのか。
その設計こそが、これからの評価制度に問われているポイントなのではないか。
次回はさらに制度設計の視点から考えていきたい。


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