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2017/3/22 16:50

2回答

三国志の張遼について。 もと呂布軍で并州人ということで、騎兵を率いて突撃してそうなイメージのある張遼ですが…。 ①なぜ騎兵を率いた記録が無いのか? 曹仁伝と比較すると明らかで、張遼伝には「騎兵を率いて」といった記述が無いです。 合肥の決死隊800人も、曹丕曰く歩兵…。 降伏して取り込まれたはずの呂布軍の并州騎兵はどこにいったんだ。 ②やたら山に登ってるのは何なのか? よく馬謖なんかが登山家とネタで言われますが…。 張遼の登山歴は泰山の昌豨に始まり、縁山の諸賊に黒山の孫軽、そして灊山の袁術残党と、ハンパじゃありません。 灊山討伐の功で仮節されているし、山狩りマスターと呼びたい。鄧艾よりも山に詳しいかもしれないw 逆に城を攻めたり守ったりを張遼が任せられることは案外少なく、そっちはむしろ楽進が得意分野としていた感じですが。 将軍ごとに役割分担がされていたということなんでしょうかね?

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質問者2017/3/23 1:21

張遼って若くして郡吏となり、丁原に評価されて州従事になってますけど、割と良い家の出身だったんですかね? 武力を評価されてなのが気になりますが。 28歳で魯国相というのも中々凄いように思えます。遙任?

ThanksImg質問者からのお礼コメント

お二人とも御回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/3/28 21:47

その他の回答(1件)

理由は二つあるかと思います。 一つ目は曹操もちょうどその頃、別方面に進軍中で主力部隊として騎兵を取られてしまった。もともと、降将である張遼があまり信用されていなかったため、并州騎兵を取り上げられていたとしても不思議ではない。 2つ目は合肥という土地の特性。長江流域の前線拠点であり、孫権軍は水軍で兵を移動させた、橋を飛び越えたなどの記述が多く残っており、おそらく、長江の支流が張り巡らされた湿原地だったと思われる。それゆえ、米の生産が盛んなこの地は両国が譲れない土地であったと考えられる。 このような地では騎兵は威力を失い、小舟での移動も考えると歩兵の方が有効であったと考えられる。10万の兵に対し800人で包囲されながらも勝つというのはいくら精鋭でも無理がある。長江の支流が呉軍の連携を難しくしており、呉軍は河で区切られた狭い土地に兵を分散させていたため、土地勘のある魏軍は孫権のいる本陣がどこかを探り当て川を伝って奇襲し勝利したと考えるのが妥当。低地の中の丘は戦況を見る上では貴重であり、そのような場所に孫権はいるのではないかと推察するのも可能だったと考えられる。

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質問者2017/3/22 17:53

合肥で騎兵を率いてない理由は仰る通り分かりますが、合肥に来る前から騎兵を率いていないっぽいんですよねぇ…。