本当にヤバいのは安楽死の強制ではなく出しゃばり医者による殺人
医者というのは我々一般人が思っているより頭が悪いらしい。単に専門バカなのではなく、専門分野においてすら。この記事を書いている少し前に高市早苗首相がバレバレの仮病で党首討論から逃げたが、多くの医者がその仮病に乗っかって批判者を攻撃する始末だった。(その実例については以下の記事を見てほしい)
なぜバレバレだったかというと、都内のテレビ局に顔を出せないほどの痛みだったはずなのに、その日の午後には愛知や岐阜の演説会場にいたからだ。しかも、痛むとされている右手を元気に振り回して。これで仮病と思わないのは度を越したバカか、日本の政治がどうなっても関係がない人だけだ。
挙句、様々なマスコミへの高市側の説明は二転三転した。痛む箇所も手首になったり指になったり、たこ焼きの上の鰹節くらい活きのいいリウマチのようだ。にもかかわらず、一部の医者は未だに高市の仮病を信じて「病人を叩くリベラル」という藁人形を叩いて悦んでいる。
まともな医者の名誉のために書いておくと、高市の主張にきちんと疑念を呈す者もいる。高市のリウマチへの疑念については以下の記事を参考にしてほしい。
だが、最近とある本を読んで、一部の医者は単に馬鹿なのではなく、極めて出しゃばりで邪悪なのではないかと思うようになった。選挙後、いつものように「リベラルは傲慢ダカラー」という鳴き声が聞こえるが、本書に登場する医者の傲慢さはそんなリベラルが裸足で逃げ出すほどだ。
どれくらい傲慢か? 彼らは、自分の判断で人を殺していいと思っている。そして実際に殺し、裁かれてすらいない。
書誌情報
児玉真美 (2023). 安楽死が合法の国で起こっていること 筑摩書房
医者に殺される
「無益な治療」論
本書の前半は、安楽死が合法化されたアメリカの一部の州やオランダ、ベルギー、カナダなどの現状を紹介している。安楽死は元々、終末期、つまりこれ以上回復の見込みもなくあとは死を待つことしかできない人を対象としていた。しかし、安楽死を合法化した国では対象がどんどん広がってしまい、認知症患者や精神障害者にも適応されている。本書で表現されているように、まさに「すべり坂」だが、全体的に「でしょうね」という印象もある。
だが、安楽死制度の周囲だけを見ているだけでは、安楽死を取り巻く現状を理解するには不足であると著者は指摘する。そして、著者が詳細にその問題点を論じ、私も衝撃を受けたのが、様々な国や地域で蔓延する「無益な治療」論だった。
「無益な治療」は医学的無益性という概念が根底にある。元々、生命倫理学においては、医者には不適切あるいは無益な治療を提供する倫理的義務がないことがコンセンサスになっているようだ。
これ自体は特段違和感のない議論だ。極端な例を挙げれば、医者が患者に「俺は自分の指がキモいんだ。全部切り取ってくれ」と求められてもそれに従う義務はない。何ら病気を持たない指を切除することは無益だったり不適切だったりするからだ。
問題は、この無益性が学問的に明確に定義されているわけではないことだ。社会で我々が直面する事例は、先の例ほどわかりやすいものばかりではない。
これまで試みられてきた無益性の定義としては以下がある。
・生理学的無益:ウイルス感染症に抗生剤を投与するなど生理学的効果が生じないといった無益
・質的無益:患者が治療から利益を手、かつその利益を喜びとできない無益
・量的無益:100回に1回しか成功しないなど治療に蓋然性がない無益
だが、いまなお合意された定義はない。
にもかかわらず、一部の地域では、病院が無益な治療を打ち切って患者を死なせてしまうことを認める法律があるうえ、法律の中に何をもって無益とするかの定義がない。本書が挙げる例としてテキサス州のTADA (Txsas Advance Directive Act) があり、治療の中止を個々の医者が各々で勝手に決めれてしまうと批判されている。
無益とされ、殺されていく患者たち
患者の家族が治療の継続を望んでいるのに、治療を中止しようとして訴訟になった事例は数多くあり、本書にも紹介しきれないほど書かれている。
例えば、生まれながらにしてリー脳症を抱え重篤な状態に陥っていたエミリオ・ゴンザレス (1歳) の、人工呼吸器を含む治療を中止しようとして訴訟になった通称ゴンザレス事件 (2007年、テキサス州) がある。
また、脳挫傷のため障害を持っていたゴラサム・ゴラブチャック (84歳) が肺炎にかかり、人工呼吸器と経管栄養依存となったところ病院が生命維持を無益として停止を決めたが、正統派ユダヤ教徒の家族が抵抗して訴訟を起こした通称ゴラブチャック訴訟もある (カナダ、2008年)。
こうして並べてみて恐ろしいのは、子供から老人まで、地域を越えて殺されそうになっているということだ。本書には無数に事例があるが、それらの事例もあくまで家族が抵抗した結果として知られるようになったものであり、疲弊と医者の権威によって抗えず治療の中断を受け入れざるを得なかった人たちはもっと多いだろうと予想できる。
昨今の政治状況と選挙において、高齢者へのセーフティネットを削ろうという策動が露骨に行われている。チームみらいのように、それが先進的で賢くクールであるかのようにすら取り繕われている。だが、現実の事例を見る限り、「無益な治療」論の潮流が高齢者だけを飲み込んでくれると考えるのはあまりにも楽観的といえる。
とはいえ、こう考える人もいるかもしれない。彼らはあくまで末期状態であり、治療が無益なのは事実である、私ならそんな状態で生かしてもらいたくないと。このような議論は自身の決断と社会のありようを混同する詭弁だが、一方、ゴンザレスもゴラブチャックもその後、判決を待たず死亡しているのは事実だ。
しかし、「無益な治療」の停止が、本当に無益な (と少なくとも自分が考える) 人にもたらされると考えるのも、また根拠のない楽観に過ぎない。そのことを、カナダはオンタリオ州の事例が教えてくれる。
2010年、イランからの合法移民ハッサン・ラスーリは脳の良性腫瘍の手術後、細菌性髄膜炎を起こして意識不明となった。植物状態と診断され、病院は生命維持を無益として治療の中止を決めるが、これに異を唱えたのが妻だった。妻は夫と同じイラン人であり、イランにいたときは医師を務めていた。
妻は、夫はあくまで最小意識状態 (植物状態とは違い、自身や周囲への認識が部分的・不規則に認められる状態) であり、植物状態という診断は誤診であると主張した。そして、宗教的信条の面からも治療継続を求めて提訴し、裁判所も治療の中止には家族の同意がいると判断した。
興味深く、そして恐ろしくもあることに、ハッサンは上告審が行われるかの判断の最中、はっきりと最小意識状態であると分かるところまで回復した。周囲の呼びかけに目を開き、ピースサインをするまでに至ったのだ。治療が本当に中止されていたと思うとぞっとする。
……ところで、ハッサンの回復が「上告審が行われるかの判断の最中」という点に引っかかった人は鋭い。この事例の本当に恐ろしいところは、「実は回復する患者を死なせるところだった」ことではない。それについては後述しよう (有料部分で。あるいは本書を買ってほしい)。
勝手に人生の価値を決める医者ども
なぜ、定義も曖昧な無益性が幅を利かせてしまうのか。その背景には、無益性の裏返しとしての有益性がありそうだ。
まず、著者は安楽死の判断基準が救命可能性からQOLに移り変わっていると指摘する。詳細は本書にあたってほしいが、安楽死議論が「これ以上やっても助けられないから」という視点から「これ以上生きていても辛いから」にスライドし、安楽死を自殺する権利だと言い換える人々まで目に留まる昨今にあっては頷かざるを得ない指摘だろう。
そして、著者は、「無益な治療」論においてもこのスライドが起きていると指摘する。
このスライドを象徴する議論として、本書では医療経済学におけるQOLの数値化が取り上げられている。これはゲイツ財団の資金によってワシントン大学に誕生したIHME (Institute for Health Metrics and Evaluation: 保険指標評価研究所) において所長を務めた医療経済学者クリストファ・マレイによって主導された。マレイは治療の費用対効果を測る基準としてDALY (Disabilty-Adjusted Life Year: 障害調整生存年) を推奨した。
このDALYは、治療によって引き延ばされた寿命から、障害による不健康状態を割引することを試みる指標だ。従来、医療経済学では治療の効果はそれによって引き延ばされる寿命で測られていたが、実際には治療をしても後遺症や傷害が残る場合がある。そのため、完全な健康状態を取り戻せていないなら、その分のQOLを割り引いて計算すべきだというのがDALYのコンセプトとなっている。
この指標によれば、眼が見えない人の寿命は見える人の40%減で計算される。移動機能に障害がある人は15%減だ。眼が見えなければ見える人の6割しかQOLがなく、移動に障害があれば85%しかQOLがないということだろう。
なんとまぁ、傲慢な発想だろうか。私は以前、ヘルニアを患って移動に困難を抱えたことがある。DALYが想定する移動機能の障害がどの程度かはわからないが、彼らによれば私のQOLは健康なときの8.5割しかなかったらしい。
確かに、足腰が痛いのは大変だ。痛くないに越したことはない。だが、ヘルニアで困っているとしても、そのときの私の人生の価値を他人に勝手に決められる筋合いはない。実際、私の当時のQOLが15%も低下していたとは到底思えない。そんなものは住んでいる場所や元々のライフスタイルによるだろう。私は根っこがインドア派なので、足腰が痛くとも大した不便はない。逆に、スポーツを熱心に取り組んでいた人のQOL低下は15%減では済まない、ということも起こりそうだ。
「障害」という言葉には「障碍」という記法もある。前者がそれを悪しきものとする価値判断を含む一方、後者は単にそういう困難があるという事実関係のみを表現するものだ。こうした記法の使い分けは無意味だという主張もある。だが、医者が勝手にこちらの価値を決めつけてくる時代にあっては、価値判断を含まない表現の重要性も見直さなければならないかもしれない。
なお、DALYは当然のように批判された。しかし、全く同じコンセプトで作られたQALY (Quality-Adjusted Life Year: 質調整生存年) が登場し、WHOそして日本でも使われている。医者は病気の患者の価値を勝手に決めて治療を打ち切るが、カスの指標はあの手この手で救命するらしい。
なぜ医者はここまで傲慢なのか
本書の内容はどれも重要で紹介しきれない。本当は、無益な治療と絡め、安楽死する患者からその患者が死ぬ前に移植用の臓器を抜き取るといったおぞましい実態なども紹介したかったが、流石にキリがないのであとは本書にあたってほしい。障碍を持つ子供のいる著者の経験を踏まえた内容もあり、現代医療を論じる上で知っておかなければいけない論点が多い。
ここからは、本書の内容を踏まえて、医者の傲慢さについて論じていく。
意識はあるけど無益だから殺すわ
さて、先に植物状態と誤診され治療を打ち切られるところだったハッサン・ラスーリの事例を紹介した。そこで、彼が最小意識状態だとはっきりわかるところまで回復したのが、上告審を開くか判断している最中だったと書いた。
上告審とはつまり、一度判決が下った裁判に対する二度目以降の裁判だ。一度目の裁判では、ハッサンへの治療を継続するよう命令が下った。では、二度目の裁判を求めたのは誰か?
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