設計の精度と、その綻び──King Gnu『AIZO』批評
サカナクション『怪獣』、Mrs. GREEN APPLE『ライラック』に続いて、批評シリーズ第3弾で取り上げるのはKing Gnu『AIZO』だ。
今回は新たな試みとして、制作中のYouTube動画に先駆け、テキストによる批評を先行掲載する。
1. イントロの即時性と現代的適応
楽曲は雅楽を思わせる笙(しょう)の音色から、静かに、しかしどこか不穏に幕を開ける。だが、その静寂はわずか10秒程度で無惨に切り裂かれ、急転直下、「Love me Love me, Hate Me, Hate Me」という暴力的なチャントへと叩き落とされる。
BPMは190程度。ポップスの平均BPMが120〜140程度とされる中で、極めて高速な部類に入る。そこから息つく暇もなくサビへ突入するこの構成は、チャントとサビの二段構えでありながら、実質的には「頭サビ」の型といっても差し支えないだろう。
この間、わずか20秒。イントロの情緒に浸る暇すら与えず、本気でリスナーの関心を掴みにいくこの姿勢。これは、Mrs. GREEN APPLEなどの批評でも触れた「SNS適応」「アテンションスパンの短い若者への適応」「縦動画文化圏での離脱回避」といった、現代のトップアーティストに共通する、極めて戦略的で冷徹な創作姿勢の表れと言える。トップでい続けるためには、ある程度この種の編曲も必要になってくるということだ。
2. 定石の破壊と、過剰な情報量の演出
サビのビートに耳を傾けると、そこには高速なドラムンベース系のリズムが採用されている。BPM190という速さに加え、手数の多いリズムが聴き手を執拗に急き立てる。さらにそこに乗るメロディもまた、細かく動き回る多動的なものだ。
本来、アレンジの定石では「細かいリズムには間隔のあいた、間延びしたメロディ」を、逆に「細かいメロディにはゆったりとしたスペースのあるリズム」を合わせるのが、聴き心地を担保するための疎密のバランスだ。ビートと歌のリズムに補完関係を持たせることで、忙しなすぎもしなさすぎもしない「ちょうどいい」音楽が完成する。
柄物のシャツに柄物のパンツを合わせるのが一般的ではないのと同じ話で(ナシではないが)、たとえばJames Brownがファンク路線に突き進んでリズムが複雑化してからは、メロといったメロを排し、時折シャウトするだけの路線に向かった。
あるいは逆の例を挙げると、Queenの「We Will Rock You」。ドン・ドン・パ、というシンプルでスペースが十分にあるリズムには、「Buddy, you're a boy, make a big noise〜」と細かいリズムのメロディがあてられている。
この徹底的に忙しないリズムとメロディの選択は、愛憎の混沌や、制御不能な焦燥感を表現するための、明確な演出と捉えて間違いないだろう。
3. 飼い慣らされたアンセム──チャント構造の真実
ここで、冒頭から繰り返される「Love me, Love me, Hate me, Hate me」というチャントについて深掘りたい。
そもそも「チャント(Chant)」とは何か?
簡単に言えば、一定のリズムで繰り返される短い詠唱やシュプレヒコールのことだ。最も身近な例はサッカースタジアムでの「オーレ、オーレ」の大合唱だろう。あるいは、ここでも例として挙げるがQueenの「We Will Rock You」の掛け声。サザンオールスターズのライブにおける「勝手にシンドバッド」の大合唱もそれに近い。チャントの根源的な機能は「個を消し、集団を一つに束ねる」という宗教的・軍隊的な呪術性にある。
常田大希がここでチャントを用いたのは、ヌーの大群を煽動し、スタジアムを支配するような「アンセム感」や「スローガン感」を意図的に獲得したかったからだろう。
しかし、このチャントに私はどうしても熱狂できない。
叫ばれる「Love me(愛せ)」と「Hate me(憎め)」。「愛してくれ、さもなくば憎んでくれ」という、聴き手の反応に100%依存した承認欲求の円環に閉じこもっているように見える。(ポジティブとネガティブをチャントで並立させる構図は、「SO BAD」での「最悪で最高」にも登場する。お馴染みとなりつつあるアプローチだ)
ここはヌーの大群を率いる音頭取りとしての気概を感じたかったポイントなので、やや残念である。憎まれることに無自覚なくらいが、Alpha Male(アルファ・メール)としてはちょうどよいのではないか。「愛してくれ」と請う時点で、アンセムとしての威力は飼い慣らされてしまっている。
フレディ・マーキュリーは「We will rock you(俺たちがお前をロックする)」と、一方的に宣告した。そこには聴き手の反応など関係なく世界を揺さぶるという、圧倒的な傲慢さがある。それを常田から、バンドから感じたいものだ。
4. ワード・ペインティングと、N.C.による緻密な設計
ハーフテンポに落とされたセクション(便宜上のAメロと呼ぼう)には、緻密な仕掛けが施されている。
「不協和音」というリリックが出てくる瞬間に注目してほしい(00:57頃)。言葉に合わせてメロディのピッチがベンドされ、実際の音楽も不協和音的に響く。このとき、アンサンブルは一時的に完全な無音(N.C. / ノーコード)となる。
これは単なるブレイクとして機能するだけでなく、伴奏を消すことで、不協和音による致命的な和声的破綻を回避するという、一石二鳥の音楽的アイディアだ。歌詞世界がそのまま音楽構造に反映されるこの手法は、ワード・ペインティング(word painting)と呼ばれるアプローチに該当する。
The Beatlesの「Hey Jude」で「Bad」というネガティブな言葉に合わせてメロディが下降し、意味と音程を符合させている例があるが(ポール・マッカートニーがそこまで自覚的に設計したかは定かではないにせよ)、あれもワード・ペインティングの一種だ。本作のピッチベンドはそれと同系の手法である。
しかも本作の場合、メロディがありえない機械的な下がり方をしている箇所に「不協和音」と歌わせているのだから、かなり自覚的なワード・ペインティングと言えるだろう。これは非常にクレバーなアイディアだ。
5. ドローンが描く「恍惚」と「東京」のリアル
Bメロ、Cメロでは、再び笙のサウンドが「ドローン(持続音)」として機能する。
ドローンとは、ひとつの音や和音を長時間持続させる手法だ。インド古典音楽におけるタンブーラの持続音がその最も原型的な例であり(The Beatlesでもおなじみ)、西洋ではバグパイプが代表的なドローン楽器で、スコットランド民謡の荘厳さはこの持続低音によって支えられている。
ロックの文脈では、The Velvet Undergroundの「Heroin」が象徴的だ。ジョン・ケイルのヴィオラによるドローンが楽曲全体を覆い、ドラッグによる意識の拡張を音響的に体現している。The Beatlesも中期、とりわけ『Revolver』前後でドローンを多用した。ジョン・レノンは「Doctor Robert」において、オルガンによるドローンを用いることで、何でも気持ちよくなる薬を処方してくれる怪しい医者──ドラッグによる恍惚感が持続する様子を描写してみせた。
Well, well, well, you're feeling fine
まあまあまあ、調子は良さそうじゃないか
Well, well, well, he'll make you
まあまあまあ、あいつが君を元気にしてくれるさ
Doctor Robert
ドクター・ロバート
共通するのは、ドローンが「変わらない現実」や「間延びした時間感覚」、あるいは「意識の変容」を表現する装置として機能するという点だ。
King Gnuもまた、本作で「夢見心地で嘘みたいだろう」という、ある意味レノン的な示唆に富む歌詞を放っている。
しかし、「今の東京では正気じゃいられない」というラインで、このドローンは唐突に途切れる。それは恍惚から一瞬「我に返る」瞬間を音楽的に提示しているかのようだ。(奇しくも楽曲が発表された当時は衆議院選直前だった。そのピリついた世相を見事に射抜くような歌詞である。)
聴き手を揺さぶるこのブレイクもまた、先述の不協和音のセクションで和声的破綻をブレイクによって回避したのと同じ構造──歌詞が表現している内容と音楽的な着地がリンクして相乗効果を生む──が再現されている。一曲の中にこの水準のアレンジが複数仕込まれているのは、素直に見事と言うほかない。
6. 「ピンボケ」としてのエキゾチカと、その限界
続くCメロでは、笙のドローンを保持したまま、編曲は令和ポップス特有の多動性を見せていく。そしてCメロが明けた瞬間、三味線のインストが挿入される。
ここで注目すべきは、本来「雅楽」において三味線が使われることは絶対にないという点だ。飛鳥時代の雅楽と、数百年後の江戸時代の三味線。伝統音楽を引用しながらも、本来交わるはずのない要素が混ざり合っている。
重箱の隅をつつくようなツッコミに感じられるかもしれない(マツケンサンバが実は「サンバ」ではない、の類の)。だが、本作における笙や三味線の使用は、単なるBGM的な和風フレーバーの添加ではなく、楽曲のアイデンティティに関わる構造的な要素として配置されている。冒頭の笙は楽曲の幕開けそのものを規定し、三味線のインストはセクション間の転換を担う「柱」だ。楽曲の骨格にまで食い込んだ素材である以上、その選択に対しては相応の批評的視線が向けられるべきだろう。
「和」を記号的に用いるのであれば、なおさら──なぜその記号なのかが問われる。
この違和感は、まるで外国人がステレオタイプな日本像を描写する際に生じる「ピンボケ」のような感覚を想起させる。ここで思い出すべきは、YMOの戦略だ。
1978年、細野晴臣は坂本龍一と高橋幸宏を自宅に招き、「外人から見た、誤解された東洋イメージ」をコンセプトとして提示した。マーティン・デニーのエキゾチカ・サウンドを、ジョルジオ・モロダー風のエレクトリック・ディスコ的アレンジで再構築するという構想だ。
重要なのは、YMOが「誤解」を知った上で、その誤解を自覚的に「演じた」という点にある。US版1stアルバムのジャケットは、アメリカ人クリエイターによる旧来の「フジヤマ/ゲイシャ」と新時代の「ウォークマン/半導体」が合体したオリエンタリズム全開のデザインだったが、YMOはこれに抗議するのではなく、むしろカリカチュアライズされた日本のイメージを自分たちのパブリック・イメージに援用した。人民服風のコスチュームでステージに立ち、媚を売ることなく黙々と機械と向き合うその姿は、西洋が期待する「不気味な東洋のテクノロジスト」像を逆手に取った批評行為そのものだった。
(YMOとエキゾチカの関係については、過去の動画でも詳しく解説している)
翻って、King Gnuの本作における笙と三味線の混在はどうか。YMO的なエキゾチカ的ピンボケをした日本人像を描写してはいるのだが、その先のコンセプトを提示できていない。結局のところ、マーティン・デニーなどのエキゾチカ当事者が行ったような「誤解に基づくミクスチャー」を披露する結果に終わっており、YMOのように「誤解されていることを知っている」という二重構造が見えてこない。それは現代日本人の伝統への解像度の低さを描き出してしまっている──だが、逆にそれこそがリアルなのかもしれない。
「外交愛想振り撒いて」という歌詞を好意的に解釈すれば、バンドが自覚的だったと捉えることも可能かもしれないが、これはアクロバティックな感は否めないか。
個人的には、ここはもう一工夫ほしかったポイントである。
7. 設計の精度と、その先にあるもの
『AIZO』は、極めて高い設計精度を持つ楽曲だ。BPM190のドラムンベースに多動的なメロディを重ねる情報過多の演出、不協和音のピッチベンドとN.C.を連動させたワード・ペインティング、ドローンの持続と断絶で「恍惚」と「覚醒」を描き分ける構成力──個々のアイディアは、いずれもクレバーで緻密だ。
だが、その緻密さの総体から立ち上がってくるのは、スリルではなく安心感だった。
本稿で指摘してきた通り、チャントは承認欲求の円環に閉じ、エキゾチカの引用はYMO的な二重構造に届かず、記号的な「和」の再生産に留まった。ワード・ペインティングやドローンの断絶には計算の冴えが確かにあるだけに、楽曲の「顔」となるべきチャントとエキゾチカ──つまり最も多くのリスナーの耳に残る部分──の詰めの甘さが際立つ。
King Gnuは、設計の精度ゆえに評価されてきたバンドだ。だからこそ、設計の精度にムラが生じたとき、それは聴き手にはっきりと伝わってしまう。
『AIZO』は、その精度の揺らぎが表面化した一曲だった。


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