カヨコ『先生...何してるの?』 先生「.....え?」
前作の続きです。novel/21536066
カヨコちゃん可愛いですよね。ASMR最高でした。
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答えは分かりきっていた。
荒れた手首。
手に持ったカッター。
そして、赤い液体。
誰が見てもわかる、リストカット。
それでも聞かずにはいられなかった。目の前の光景が現実だと思いたくなかったから。先生ならきっと違う答えをくれるって信じたかったから。
私のそんな自己満足な質問に、先生は黙ってしまった。
鬼でも見たような、どこか怯えた顔で。
全てが凍りついたような長い沈黙が流れる。先生は俯き、紅く染まった手首を見つめている。
焦燥感が私を取り巻き、沈黙が私を責め立てる。呼吸が早くなる。雨の音が煩い。今にも逃げ出してしまいたい。後悔するには十分すぎる時間が過ぎ、やがて先生が口を開いた。
「ごめん」
流れる血とは違う、色のない言葉だった。
希望が打ち砕かれ、信じたくなかった答えだけが肯定された。今に泣いてしまうような先生の顔を見て、罪悪感が体を満たす。こんなこと聞かなきゃ良かった。
雨音だけが響く部屋で沈黙が二人を閉ざす。
『・・・いつから?』
「え?」
『それ、いつからやってるの?』
「・・・今日が初めてだよ」
『・・・そっか』
嘘なのは、すぐに分かった。
先生は優しいから、いつだって私に逃げ道をくれる。だから、私はその優しさに甘える。頼ってくれないのは、寂しい。
けど、先生が隠そうとしていることに深入りはできなかった。私だって先生に知られたくないこともある。
お互いが傷つかないように、お互いの秘密に蓋をする。
私達はそういう関係だ。
今までも、きっとこれからも。
先生に近づき、ハンカチで血を拭き取る。先生の腕はどこを見てもボロボロで、いつもよりずっと細く見えた。
拭いている間はお互い無言だった。
冷たかった沈黙は少しだけ温かくなっていた。
『はい、綺麗になったよ。包帯はまた明日変えるから、そのままにしておいて』
「ありがとうカヨコ。こんなとこ見せちゃってごめんね」
先生は申し訳無さそうに言う。どうしてそんな顔が出来るのだろう。辛いのは先生の方だと云うのに。
『・・・何でも相談してね』
「・・・うん」
きっと先生は相談してくれない。相談できないからこそ、この方法でしか発散できなかったのだろう。
私は生徒で、先生は先生で。
先生にとって、私はただの1人の子供にすぎない。
長い間、先生と私は沈黙の中で共にいた。何も言葉を交わすことなく、ただ静かにそばにいることで支え合っていた。先生の手首の包帯が私たちの間にある壁のように感じられた。それは過去の出来事を隠すだけでなく、私たちの関係性を守るためのものでもあった。
やがて時間が経ち、重々しい沈黙が引き裂かれた。
「ありがとう、カヨコ。驚かせちゃってごめんね。もうこんなことしないから」
先生は少し元気を取り戻したのか、微かな笑顔を見せる。
しかし、その笑顔の奥にはまだ苦しみや不安が見え隠れしていた。私もまた、先生の笑顔に応えるように微笑む。暗い影が心に残る。
降り続く雨が私の代弁者のように思えた。
次の日、包帯を変えるためにシャーレへ向かった。先生は自分でやると帰り際に言っていたが、どうにも不安だったので私がやると言って押し通した。
シャーレに着くと先生はいつもの笑顔で迎えてくれた。変わらない笑顔が、触れてはいけない仮面のように見えた。昨日のことはお互い話さなかった。それが、お互いにできる最大限の気遣いだった。
私は先生の腕を優しく支えながら、包帯を取り替えた。
先生の肌は嫌な冷たさを帯びていた。
包帯が外れるたびに、先生の手首には新しい傷跡が現れる。その傷が今までの痛みや苦しみを物語っているように思えた。
包帯を巻き終え、私は先生の目を見た。そこには深い悲しみが宿っていた。触れば消えてしまいそうな脆さと儚さを孕んだ目。
私は、逃げるようにその場を去った。
あれから随分と時間が経った。先生とは何もなかったかの様に、今までの関係のままだ。時々当番に呼ばれたり、便利屋の仕事を手伝ってもらったり、一緒にライブに行ったり、雨の日に猫の様子を見に行ったり.....本当に今までの通りだ。
先生のことは心配だったけど、何も言えなかった。
言う権利なんて私には無いと思っていたし、先生が今までのままで居たいなら、私の方から壊すことなんて出来なかった。
あの日のことはもう忘れよう。そう決意して数日経った深夜のことだった。
先生から、モモトークが届いた。先生の方から珍しい、なんて思っていた私はその内容にぎょっとした。
「ごめん」
あの日と同じ言葉だった。
居ても立っても居られず、私はシャーレへ向かった。
あの日とは違う静かな夜だった。
力いっぱいにシャーレの扉を開ける。
血塗れたカッターと紅く染まった腕を携え、今にも死んでしまいそうな先生がそこに居た。
私に気づいてないのか、今にも新しい傷を作ろうと刃を手首に押し当てていた。
『先生!!!』
走ってきた疲れすら感じず、私は猛スピードで先生に近づき、先生の手からカッターを奪った。
抵抗はされたが、先生に奪い返すほどの気力はなかったようで、今はカッターを持っていた腕を力なくだらんとさせている。
私の姿を確認した先生は虚空を見つめ、うわ言のように謝罪を繰り返している。
普段の姿からは想像もつかない程荒れている先生を見て、私は辛くなった。あの日から、何も変わっていなかったのだ。先生は深い絶望の中に居て、それを救ってくれる人は終ぞ現れなかった。
私は、私を恨んだ。
何が変わらない関係だ。何が私に権利なんか無いだ。私は救うことができたかもしれないのに。先生の苦しみを分け合うことが出来たかもしれないのに。
結局、私は怖かっただけだ。わかったフリをして逃げて、先生なら大丈夫だと思いこんでいただけだ。
私は先生を抱きしめた。
『ごめんね、先生』
「......カヨ、コ?」
『うん、私だよ。先生。ごめんね、最初からこうしてあげられなくて』
腕の力を強める。もう離したりしない。
私が、先生を助ける。
『私、怖かったの。先生がリストカットしてるって知って、先生が何処かに消えちゃいそうな気がして。わかってるはずの先生がわからなくなっちゃって、どうすれば良いか分からなかったの』
『でも、単純な話だった。先生は苦しんでて、私は先生を救う。それだけだったのに、こんなに遅くなっちゃった。全部私のせいなの。つらい思いさせちゃってごめん、先生』
腕の力を更に強める。先生の乱れた呼吸は安定し、涙が肩に落ちてきているのが分かった。
「.....違う。違うよ。カヨコせいじゃ無い。これは、私が弱いから。全部、私が弱いせいで......」
『先生は、弱くなんてないよ。どんなに強い人でも辛い時はあるし、それは先生も同じ。だから、隠さないでいいんだよ.....もう、私は逃げないから』
「・・・うん」
それからどれくらい抱き合っていただろうか。
先生はボロボロと泣きながら、辛かったこと、限界が来ていたこと、リストカットを始めたきっかけ、リストカットを辞められなくなっていたことを話してくれた。
私はそれを黙って聞いていた。
原因のほとんどは仕事関連で、あの日からもリストカットは続けていたらしい。
.....昔の自分に嫌気が差す。やっぱりあの時殴ってでも止めるべきだったと、頭の中で自己嫌悪が募った。先生の方を見ると落ち着いたのか恥ずかしそうな顔をしていたので腕を離してあげた。少しだけ名残惜しそうな顔した先生に安心した。今日はもう大丈夫だろう。
先生の安心しきった顔とは違い、私の心はざわめいていた。原因が生徒ではないのが幸いだが、仕事が原因だとすると今すぐに改善するのは厳しい。私に出来ることは何でも代わってあげたいが、先生にしかできないことは多い。キヴォトスはもはや先生がいないと成り立たないレベルになっている。疲労が溜まり、いつ自傷欲が出てきても可笑しくない。今度はもっと酷い方法を先生は取るだろう。
最悪の光景が頭に浮かぶ。吐き出した恐怖が大きくなって戻ってきて、今にも出てきそうな涙に鍵をかける。
私は、どうすればいいのだろう。
ふと、先生から奪ったカッターが目に入った。
先生の血で濡れたそれは、何か言いたげにこちらを見ていた。
ああ、そうか。
こうすればいいのか。
不敵に笑う私を先生は不思議そうに見つめる。
ごめんね、先生。
でも、もう先生に傷ついてほしくないから。
そっとカッターを近づけ、先生が止めるより速く自身の左手首を切る。
痺れるような、痛み。
心臓が異常事態を検知し、体に危険信号を送る。先生が大慌てでカッターを取り上げる頃には赤い液体が手首から漏れ出していた。
......痛い。
こんなことを先生は続けていたのか。
床に流れた血は先生の血と混じり合い、どちらのものかもう分からなくなっていた。
先生が恐怖に包まれた顔でこちらを見つめている。
私もきっと、こんな顔をしていたのだろう。
『ごめん、先生。急にこんなことして。今日のこと....忘れないために、残しておきたくて。
先生は優しい。
だから、こう言えば先生を繋ぎ止められる。
そう、確信できた。
『・・・これから切るときは私も呼んで。私も一緒に、切ってあげるから』
「・・・分かった。これからはカヨコにも言うね」
先生にも意図は伝わったようで、これ以上無い真剣な声でそう答えた。その顔は覚悟を決めたような、大人の顔だった。
それからはお互いに手当をし合った。
先生は私よりも断然慣れた手付きで手当してくれた。今まで何回こうしてきたのだろう。先生の隠していた部分に触れた気がして、少し苦しくなった。
あと片付けを終え、私は帰り支度を始めた。
遅いから送っていくと言われたが、先生も疲れているだろうと一蹴した。先生はこういう配慮を欠かさない。そういう性格が苦労を呼ぶというのに。
家に着いた私は倒れるようにベットへ潜り込んだ。
時刻は午前3時。お化けすら鳴りを潜める時間に、私は今日の出来事を振り返っていた。
今思えば、あのメッセージは先生が出した最後の希望だったのかもしれない。あの日、私が先生のリストカットを目撃していなかったら、先生は今も独りで苦しんでいたかもしれない。
そう考えると、あの日の私を好きになれた気がした。
・・・視界が暗くなっていく。流石に眠たくなってきた。明日もシャーレに行こう。当番の子に何を言われようと絶対に帰らない。
先生は、私が支える。
包帯に手を当て、決意を固める。
この傷の行方は愛か、呪いか。