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ミカが先生のリスカを手伝う話/Novel by レオ

ミカが先生のリスカを手伝う話

6,586 character(s)13 mins

エデンミカなら一緒に切ってたと思います。前作までの繋がりはご自由にお考えください。

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なんとなく、会いたいだけだった。
別に当番じゃなかったし、しばらく会ってないわけでも、話したいことがあったわけでもない。
でも数ヶ月前は毎週会っていたんだし、その頃を思い返して「あの頃は良かったな」って思う気持ちだってある。だから、先生の仕事が終わる深夜を選んだ。寮をこっそり抜け出して、気分はすっかりジュリエットだった。


『せん......せい.......?』


やめておけば良かった。と、今になって思う。
私がもう少し冷静だったら、知らないままでいられたのに。
私がもう少し馬鹿だったら、この夢を疑わずに済んだのに。


──私はいつから、先生が普通に生きていると思い込んでいたのだろう。


「ん........あれ、ミカ?」


いつもの声。
陽だまりのような、微睡みのような。嫌なことも、辛いことも、全部ふわりと消し去ってしまうような、そんな声。


「こんな時間にどうしたの?何かあった?」


いつもの優しさ。
風に揺れる木陰のような、冬の朝を包む毛布のような。何も言わなくても、全て吐き出してしまっても、そっと寄り添ってくれるような、そんな気遣い。


『そ、れ......だって.......』


言葉にした瞬間、自分の声が酷く震えていたことに気づいた。顔もきっと歪んでいたし、涙も溢れていたと思う。でも、誰だってそうなったはずだ。私の痴態を笑うことなんて、きっと誰にも出来ない。
だってそうだろう。
いつもの声のまま、いつもの優しさのまま。
何よりも守りたくて、誰よりも脆い、人生最初の最愛の人が。



自分の手首を、切っていたのだから。



『..........っ!』


気づいたときには、乱暴に刃を奪い取っていた。
世界がひしゃげて、音が遠のいて、心臓の音だけが耳の奥で暴れていた。ただ、これ以上させてはならないと本能だけが先に理解した、無意識下での行動だった。


『や、めてっ.........!なんで、こんな.........!』


熱いのか冷たいのかも分からない手のひらに、硬い金属の感触だけが確かに残っている。先生の皮膚の温もりと、私の震えが同じ場所でぶつかっていた。先生の手首には赤い線が薄く残っている。滲む赤色。抉れた肉塊。胸の奥で、何かがぐしゃぐしゃに潰れるように痛む。

知っている。私はこれを、知っている。
リストカット。リストカットだ。
あの頃何度もしようとして、何度も我慢して、結局怖くて出来なかった、やっちゃいけないことだ。
なんで。どうして。先生が、先生に、何が───


「あ......そっか。これ、見られちゃいけないやつか.......」


淡々と、まるで他人事のように呟いていた。
その声が、記憶の中で私を包んでいたものだと気づいて、底知れない恐怖と理解できない感情が一緒になって喉元にせり上がってくる。痛みも怒りもない、ただどこか遠いところを見ているような瞳。無表情のまま手首を軽く押さえるその姿は、無垢でありすぎた子供のように幼く、遠い。
理解できない。
こんなの知らない。
怖い。怖い。怖い。
先生なのに、先生じゃない。


『な、何考えてるの.....!?どうして......なんで、なんでこんなこと.....っ!』


頭は混乱している。整理なんてできていない。
それでも、どうしようもなく怒りをぶつけてしまう。先生の肩を掴んで、揺さぶって、自分でも驚くほど力を入れてしまう。
気づけなかった。思い込んでいた。
先生にだって、辛いことはあるんだ。


『お願いだから.......!やめてよ......こんなの、やめてよ......っ!』


それはもう、酷い懇願だった。
掴んだ肩越しに、先生の体温がじんわりと伝わってくる。それだけが唯一の現実で、他は全部悪い夢みたいにぼやけていた。
先生はしばらく黙って私を見つめていた。
目だけが静かに揺れて、何かを決めるように深く息を吸い込む。


「ねえ、ミカ」


小さく、けれど掠れていない声。
深夜の帷を縫うような空気の振動は、牙を立てるようにぐっと私の胸を締め付けた。


「なんで、止めるの?」


それは、純真な疑問だった。
呼吸が鈍りのように重くなり、周辺視が機能しなくなる。焦点だけ焦っていく私の景色に、先生だけがやけにくっきり見えた。


『なんでって......!わ、わたしは......っ、せ、先生に傷ついてほしくなくて.......!』


自分でも分かる。
これは我儘だ。
うんざりするほどの、ただの感情論だ。
でも、しょうがないでしょ?
好きな人には生きていてほしい。笑っていてほしい。それは誰しも思うことで、たとえ本人が嫌がっていても、勝手に思ってしまうことなんだから。
先生は一瞬だけ目を伏せ、それから緩やかに笑った。その笑みは優しさでも諦めでもなく、ただ無防備なものだった。


「.......ミカは、やっぱり優しいね」


細やかなほほ笑み。きつく締め上げられた心が少しだけ緩み、その拍子に床にへたり込んでしまいそうになる。
不安はまるで消えていないけれど、それでもちゃんと伝えられたと思った。言葉を探すほど底が見えなくなる足元の地面は、私がまだ子供だから、終わった出来事に杞憂しているだけだと思った。


「じゃあさ」


その響きが、何か取り返しのつかないことを口にする合図に聞こえた。
悪い予感ほどよく当たる。そんな皮肉めいた法則を、ちょうど先週授業で習ったところだった。



「ミカが私のこと、切ってよ」




『........え?』


言葉の意味が分からなくて、思わず間の抜けた声が漏れる。先生は冗談を言っているのか、それとも本気なのか、頭が追いつかない。


『なに、言ってるの......先生......?』


困惑だけが心を埋め尽くして、言葉も思考もぐちゃぐちゃに絡まっていく。ふざけているようにも聞こえなかった。かといって、現実のこととして受け止めるには、私には難しすぎた。
私が、先生を、切る?


「だって、私に傷ついてほしくないんでしょ?じゃあ、ミカが傷つけてよ。私、ミカにならいいよ」


先生の瞳はどこまでも澄んでいて、どこにも逃げ場なんてない。瞬間、右手にあるカッターが別のものに思えた。さっきまでただの筆箱の中身だったはずなのに。今は重く冷たい、一振りで人を殺してしまうような、何よりも恐ろしい凶器に見えた。


『ちが、違うの。わたし、わたしは、そんなつもりじゃなくて........!』


不定で未完な言葉を手繰る。
握りしめた凶器が手のひらの汗で滑りそうになって、私は無理やり繋ぎ止めた。
先生は微かに首をかしげて、知らない言葉を聞いたような顔でそんな私を見つめていた。
そして、ぽろりと。
子供が、母親の顔を伺うように。


「嫌なの?」


その言葉を耳に入れた途端、視界がぐにゃりと歪んだ。喉の奥が急に塞がって、暗いはずの視界が白くなって、心臓の音が聞こえなくなった。
そうだよ、先生。私、嫌なの。
絶対絶対、嫌なの。
切りたくなんてない。
傷つけたくなんかない。
先生には。先生には。
ずっと笑顔で、幸せで────








それを先生は望んでいない?







『...........』


先生が先生らしく生きるために、必要なことなのかもしれない。止めてしまった私が、その責任を取らなければならないのかもしれない。
私が先生のために出来ること。それは止めることじゃなくて、先生を手伝うこと? 先生が望んだことを、実現してあげること?
止めちゃいけないの?
押し付けちゃいけないの?


『私は......わたし、は.........っ』


天使に囁かれたのか、悪魔に唆されたのか、もう分からなかった。気づけば刃の先が先生の手首にそっと触れていて、交わった体温と白銀色の冷たさだけが、震えた私に現実を教えていた。


『先生のため........先生のために........っ』


責任なのか、義務なのか。
まだ取り回しも出来ないそれを、何度も何度も巡らせる。
この薄い皮膚の下に、先生の命の流れがある。
私だけが背負える、感情の路地裏がある。
失敗しない。絶対にしくじらない。
切る。切る。切ってみせる。
私が、先生の、責任を────










カラン───と、乾いた音がした。
刃と床が奏でた、私の失敗の音だった。


『......っ、やだ.......やだっ、いやだよ.........!』


抱きついていた。刃を握っていたはずの手は空っぽで、ただ先生の服を掴んで、言葉にならない声を漏らすことしか出来なかった。


『もうやめて.......お願い.......危ないこと、しないで.......』


しゃくりあげながら、言葉が次々と吐き出ていく。過呼吸に疲弊した肺が浅い呼吸を断続的につづけ、糸が切れた人形のようにだらりと身体が伸びていた。
できない、できないよ。
先生を傷つけるなんて、できっこない。


『私、頑張るから.......!何でもするから......!だから、もう、やめてよ......』


また、酷い懇願をする。
先生に鎖を付け、守れるはずもない約束を口にする。本当はわかっている。そんなことは叶わないし、私の言葉ひとつで先生が救われるはずもない。先生がリストカットをしたのは、誰にも言えない事情があるからだ。生徒には、子供には、想像もつかないような苦しみがあるからだ。
でも、それでも、私の気持ちだって本物だ。
守りたいって、支えたいって、抱きついてしまうのも本物だ。
先生はきっと分かってくれる。
先生ならきっとやめてくれる。
先生なら、先生なら──きっと、私の気持ちを。


「そっか」


その一言が、胸の奥に光を灯した。
魔法にかけられたみたいに世界が軽くなって、ぱあっと顔を上げた拍子に、半月欠けた空の闇が目に入った。
伝わった。
分かってくれた。
私は、先生をすくえ


「じゃあ、もういいや」



『........え』


その声色には、色が付いていなかった。
ぱきん、と何かが砕ける音がして、それが自分の心だと気づけないまま、頬に残っていた温かさが一気に引いていく。
もういいや。
───もう、いいや?
まって、それ、どういう。


『.......せ、んせ......?』


音にならない声が漏れる。
頭の中で世界が回り出し、さっきまで掴んでいた現実が全部、遠くへ流れていく。
先生はスマホを取り出していた。
誰かに連絡しようとしてるみたいだった。


『だれっ、だれに連絡するの......?』


縋り付くように、先生の服を引っ張る。
諦められた? え、ちがう、そんなはずないよね。だって私、まだ何もできてないし、ちゃんと頑張るって言ったばかりだし。ねぇ、なんで? 嫌われたの? やだやだやだ、そんなのだめ、絶対だめ。だめだってば。私そんなことされる覚えないよ、だって好きだし、ちゃんとしたいし、ちゃんとするし。私ここにいるよ? 先生置いていかないで。私まだ何もしてない、まだこれからなの、ねぇ信じてよ、お姫様なんでしょ。私になら切られてもいいって、それぐらい信頼してるってことじゃないの。


「ねっ、ねぇ......!だれっ、だれなのっ.......!?」


爪が肌に食い込んでいるのに、先生は何も言わない。先生の目に映っているのは、私じゃない、ただ冷たい光を放つガラスの板。その光が私の輪郭を少しずつ削り取っていくようで、先生から自分が消えていく感覚だけがじわじわと広がっていく。

先生が、ようやくこちらを見た。
その視線が通り抜けた瞬間、私の中にある一番大きな何かが、音を立てて潰れた。


────ない。



何もない。
色も。
光も。
感情も。


私に対する、期待も。


あ、わたし、すてられちゃう


『...........え?』


がつん、と音がした。
雷みたいな轟音だった気もするし、鼓動よりも小さい些細な音だった気もする。
そもそも鳴ってすらいなかったかもしれない。
ただ確かなのは、何か重たいものを引っ張った感触と、私が今、先生の微動だにしない手首に冷たい刃を当てていることだけだった。


「ミカ」


やっと、呼んでくれた。
やっと、見てくれた。


先生。違うの。これは、身体が勝手に


「お願い」





─────あ。








────やらなきゃ。







やらなきゃやらなきゃわたしがやらなきゃ
せんせいがのぞんでるんでしょ
わたしにしかできないんでしょ
わたしがやらなかったらだれもしないんでしょ
しょうめいしなきゃわたしのことやくにたつってしょうめいしなきゃ
おいていかれるきらわれるきえちゃうわたしもういらないっておもわれちゃう
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだでもでもでもやらなきゃやらなきゃやらなきゃ




ぷちっ。



『............ぁ』


ザクッ、とか。ザシュッ、とか。
漫画みたいな音だと思っていた。
血がぶわっと湧き出てきて、世界が真っ赤に染まって、でもそれでもいいのかなって思えるような、綺麗に見えてしまうものだと思っていた。


『ぁ........ぅえ...........!』


ちがった。
小さな膜が破れたような、果敢ない音だった。
ぶわっとじゃなく、滲む。ただ恐ろしいだけの液体が、空気の中で少しずつ広がって、ゆっくりと湿った線を描いていく。
あかい、あかい、あかい。
とまらなっ、とまらな────


「ミカ」


呼ばれた。
いつもの声だった。
柔らかくて、暖かくて、陽だまりの匂いがする。



「上手にできたね」



ただ頷いて、微笑んでた。
ずっとずっと、欲しかったものだった。
ぐちゃぐちゃの現実が、赤い液体が、私の全てが──価値を帯びていく。
褒められた。認めてもらえた。役に立てた。
できた、できた、出来た!!!


『うんっ!!わたし、やったよ......!できたよっ!ねえ、すごいでしょ、すごいよね.....?』


「うん」


二つの影が一つになる。
服の端を掴んで、離さない。ぐちゃぐちゃの顔を擦りつけるみたいにして、必死に先生の温もりを確かめる。


「わたしね、ちゃんと役に立てたんだよね?やっと、やっとだよ......!?いなくなったりしないよね?置いてったりしないよね?だって、わたしっ、ちゃんと』


「うん」


先生の声が脳に染み込み、足りなかった部分が埋められていく。ハート型に刳り抜かれたそれに注がれていくのは、血液よりもずっとずっと紅い愛のようなもの。
そこで、気づく。
私の心には、穴が空いている。
だって、これだけ貰って──まだ、足りない。


『わたし、なんでもするから......何回だってできるから......だから、そばにいさせて......ね、せんせい......』


「うん」


先生の相槌は気持ちが良かった。
まるで、私の体に何かを書き込んでくれるかのように感じられるから。先生に何か貰うだけで私は嬉しかった。それが値札か、賞味期限かなんて、どうでもよかった。


「ミカ」


呼ばれた。
真剣で、綺麗で、正しくて、間違っていた。



「もう一回、やってみよっか」



おままごとの続きみたいに、導かれる。
私はそれを握りしめた。
今度は震えたりなんかしなかった。


『それじゃ、いくね』


白銀を失った刃を先生に充てがう。
新しい物語の最初の一頁に。
愛のかたちをした最初の約束に。
この手を繋げば、もう離せないことに。
この手を離せば、もう繋げないことに。

先生のために。
その言葉の過ちに、未だ気づけないままに。

Comments

  • パパココ

    切ってもらいたい先生と見捨てられたくないミカっていう歪んだ構造が美しいと思いました。 こういう自傷系のやつレオさんにはもっと書いてほしい…

    November 2, 2025
  • スコッティ2倍長持ちロール

    ちょっと鬱になったからリスカしてくる

    October 20, 2025
  • モップ族愛好家

    ミカが先生を斬るまでの過程が良過ぎて夢中になって読んじゃいました。ミカの解像度が高過ぎる!レオさんの書く生徒が一番好みです。いつも素敵な小説をありがとうございます。

    October 5, 2025
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