最初はほんの少しの好奇心だった。
その日は仕事がいつもより多く、学園でのトラブルが重なりシャーレに戻る頃には天窓から月光が差し込むような時間だった。前日も徹夜で仕事をしていたせいで心身ともに限界だったが、そんな状態でもシャーレに仕事は舞い込んでくるわけで、私に休息なんてものは無かった。多くの生徒が心配してくれたが、私が休むとあらゆる方面で滞ることは目に見えてわかっていた。
誰もいない静かな部屋でため息をつく。
デスクの方へ目を遣ると、出ていく前に積み上がっていた書類が何倍にも増えていた。辟易した私を嘲笑っているようで苛立ちを覚える。
疲労で倒れそうな体に鞭打ち、仕事をしようとデスクに腰掛けたとき。ふと、いつも使っているカッターが目に入ってきた。エンジェル24で買った何の変哲もない一般的なカッター。少し刃こぼれした冷たい金属の刃は、どこか歪んだ美しさを秘めている。私はそれに魅入られたように釘付けになっていた。
・・・どれぐらい見ていただろうか。
入れたばかりのコーヒーは冷めきり、月はその傾きをすっかり変え、暗い部屋に私の呼吸音だけが木霊する。いつもは明るい雰囲気のこの場所も、今は一種の懺悔室のように思えた。
私の中の誰かが言う。
そんなこと、してはいけない。
私の中の好奇心が言う。
楽に、なるのかな。
誰も見ていない。
傷は隠せばいい。
一度だけ。
意味のない言い訳を連ねながらカッターへ手を伸ばす。一度思ったこの気持ちはもう自分でも止められなかった。握ったそれは想像よりもずっと軽く、これからしようとしていることの無意味さを表しているようだった。私の罪悪感が少し減った気がした。
私の顔が刃に反射しているのが見える。髪はボサボサで目の隈もひどい。こんな姿じゃ心配してくれと言ってるようなものだ。罪悪感がまた戻った。
腕を捲り刃を手首に当てる。嫌な冷たさを感じ、頭が警告音を鳴らす。体から嫌な汗が出てくる。カッターを持つ手は少し震えていて、その様子に乾いた笑いが漏れ出る。ここまでして躊躇いを感じている自分に嫌気が差した。辞める気などもう無いというのに。
ゆっくりと右腕を動かす。
痛みがあったが痛いだけで、想像していたような状態にはならなかった。こんなことも満足にできない自分にため息が出る。このまま終わるなんてできない。さっきより強く押し当て、思いっきり刃を動かした。
とてつもない痛みとともに血がドクドクと流れ出てきた。想像よりもずっと綺麗な緋色で傷口から湯水のように溢れ出てくる。溢れた血は腕から床へと自由落下していき、すぐに大きな血溜まりを形成した。右手には血濡れたカッターが鎮座しておりこちらをじっと見つめている。
そんな光景を見て自然と声が出た。
ごめん、と誰に向けたか誰にもわからない謝罪だった。
言葉とは裏腹に心は晴れやかだった。罪悪感も後悔も無く、開放感だけが頭を支配していた。溜まった鬱憤も血と一緒に流れたのだろう。自分を取り巻く全てがどうでもよく感じ、キヴォトスに来てからずっと感じていた大人としての責任感すら一瞬忘れてしまう程だった。
これはハマってしまう人がいるわけだ、なんて考えていたら自分の腕が血まみれなことに気づいた。服にも垂れていて傍から見れば銃撃されたのかと思う位であった。近くにあったティッシュで血を拭き取り、ハンカチで傷口を塞ぐ。救護騎士団から貰った救急箱からガーゼを取り出し、傷口に強めに巻き付けた。どんどん赤く滲んでいったので相当深く切ってしまったようだった。
赤く染まった包帯がなんだか愛おしく見えた。
床にこぼれ落ちた血は結構な量で、手腕を切っただけとは到底思えなかった程だった。血痕が残ってしまうと大変なので念入りに拭いていると空が明るくなっていた。
大急ぎで服を着替え血まみれのカッターを引き出しの奥にねじ込む。着替えた服はゴミ袋に入れ朝一で捨てた。後片付けが面倒だなと思っていたら当番の子が来たのでその日はそのまま仕事をした。数名から昨日よりも元気に見えると言われたが苦笑いしかできなかった。
あれから私は手首を切ることにハマっていった。頻度も段々増え、やらない日の方が少ない位まで依存していった。最初はいけないことだと思っていたが、今ではそういう罪悪感すら感じなくなってきた。物足りなさすら感じる。この時期は長袖を着ることが多いので生徒には気づかれていないと思う。半袖は当分着れないなと思いつつ、私は今日も自傷する。ボロボロの腕が私を睨む。
この腕はもう誰も抱きしめられない。
読みました!これから生徒達に気付かれるのか、ハラハラします😆✨