松本清張は小倉に生まれたとされていますが、これには異説があります。
さらには「清張」という名前も、最初は違う名前だったといいます。元の名前のままでは、「国民作家」となるにはインパクトに欠けていたようです。
※この記事は、昭和の国民作家・松本清張の生涯を描いた初の本格評伝、酒井信著『松本清張の昭和』より一部を抜粋・編集したものです。
「小倉生まれ」か「広島生まれ」か
松本清張は1909(明治42)年12月21日に、福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎で生まれた、とされる。松本清張の公的な記録は松本清張記念館の年譜も含めてこのような記載で統一されている(本書の年齢の記載もこの記録に即している)。ただ生後2ヵ月の頃の写真の台紙に「広島京橋」と記されていることから、清張は広島市の生まれだとも推測できる。清張自身も自伝的小説やインタビューで、広島市の生まれであると述べている。
「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」(「文学の森 歴史の海 松本清張氏に聞く 1」)
つまり晩年のインタビューで清張は、これまでプロフィールに記してきた小倉生まれというのは誤りで、自分が広島生まれであることを明言し、公的な記録を覆(くつがえ)しているのだ。
清張の母・タニは広島県賀茂郡西志和(にししわ)村別府(べふ)(現、東広島市)の出身で、峯太郎の6歳年下だった。「母は広島から十五里も奥に入つた田舎の百姓家の娘で、四人の弟妹の上にあつた。父との結びつきは、よく分らない。が、母も時折に紡績女工の辛さを話したことがあるので、恐らく広島に出て紡績会社の女工になつてゐたのであらう」(「父系の指」)と清張は推測している。また「記憶」には次のような一節もある。「両親が一緒になつたのは広島市ということであつた。その時の年齢も明治何年であつたかも分つていない」(「記憶」)と。初期の自伝的な作品では、主人公の出生前後の描写として広島が多く、小倉は少ない。
「父系の指」の次の一節には、『半生の記』などその後の自伝とは異なって、清張の分身である宗太が「広島のK町に生れた」ことが、明確に記されている。
「宗太は、自分の両親が人力車をひく車夫と紡績女工であつたといふことにも、殆(ほとん)ど野合に近い夫婦関係からはじまつたといふことにも、あからさまな恥は感じない。しかし自分の出生がそのやうな環境であつたといふ事実は、自分の皮膚に何か汚染(しみ)が残つてゐるやうな、他人とは異質に生れたやうな卑屈を青年の頃には覚えたものであつた。/宗太は広島のK町に生れたと聞かされた。その町がどういふ所か知らない。行つて見る気もしない。恐らく穢(きたな)い、ごみごみした所であつたらう。今の話ではない、四十何年も昔のことで、そこの狭い、小暗い長屋のやうなところで宗太は生れたに違ひなかつた」(「父系の指」)
「他人とは異質に生れたやうな卑屈」という表現は強烈なもので、作家・松本清張の核を成す感情と言えるだろう。このような「卑屈」をエネルギーにして、彼は国民作家になったのだ。「父系の指」は、書籍化に際して「宗太」という主人公の名前が「私」に変更されており、この点からも自伝色の強い作品だと判断できる。自らの出自に感じた「卑屈」を原動力として、清張は作家になったのである。