給料が上がる転職には気をつけろ
若い世代からキャリアのアドバイスを求められたとき、ぼくはかつて、ある種の中庸な言葉を投げかけていた。 長い目でキャリアを捉えてみては、と。
今振り返れば、これはあまりに解像度の低い、退屈なアドバイスだったと思う。 ほとんど誰の心にも響かなかったし、何より、彼らが今直面している手触りのある現実を無視していたからだ。
あなたにとっての問題は、いつだって、今、この瞬間にお腹が空いているということだ。 それは、目の前の天丼を大盛りにしたいと願う空腹の若者に、将来の健康診断の結果が悪くなるよと説くようなもの。あまりに野暮で、あまりに遠い。
だから、今のぼくならもっと直裁的に、あなたの人生のベネフィットに踏み込むだろう。 あえて、こう言う。 一度、あえて給料を下げる転職をしてみないか、と。 その方が、結果としてあなたはもっと遠くへ、もっと高い場所へ行けるはずだから。
ヘッドハンターという職業柄、ぼくは数えきれないほどのレジュメを読み込んできた。 その中で、いつまでも瞳の奥に焼き付いて離れないレジュメがある。それは、戦略的に、あるいは情熱に従って、給料を下げる決断をした足跡があるものだ。
それは、他のどんな華麗な経歴よりも雄弁に、その人の意志を物語る。 この人は、自分の人生のハンドルを自分で握っている、という手応え。 いつかまた、決定的な場面で声をかけたくなるのは、決まってそういう人たちだ。
そのメカニズムについて、少し補助線を引いてみよう。
まず大前提として、明日の食事にも事欠くようなステージにいる人には、この話は無効だ。迷わず目の前の糧を取りに行ってほしい。
けれど、もしあなたが、一般的には優秀層のスタートラインと言える、年収800万円という数字を一つの通過点として捉え、仕事を通じて自己実現を、あるいは自分自身の物語を紡ぎたいと願うなら、話は別だ。
多くの人は、転職で年収アップに固執する。 しかし、ここに巧妙な罠がある。 年収を上げることを絶対条件にすると、企業側はあなたに昨日までやっていたことの再現しか求めなくなる。 企業は合理的だ。高い報酬を払う以上、プラグイン(差し込めばすぐ動くデバイス)としての即戦力を求める。
そうなると、あなたのキャリアは同じOSの上で、同じアプリを動かし続けるだけのループに陥ってしまう。
ぼくは、自己実現には二つの形態があると考えている。
一つは、自己鍛錬型の自己実現。 より強く、より高く。アスリートのように専門性を研ぎ澄ます生き方。
もう一つは、自己表現型の自己実現。 自分の人生を一つの作品と捉え、起伏に富んだ物語を紡ぐ作家のような生き方。
もしあなたが純粋な自己鍛錬型なら、一つの道を極めることで高みに到達できるだろう。物流のプロが、転職などを経て、大手企業のSCMの責任者になるような、垂直な進化。それはそれで尊い。
しかし、このタイプの理性的、合理的なキャリアには二つのリスクがつきまとう。 一つは、その専門性が20年後も市場に求められているかという不確実性。 「一本の矢は折れやすいから三本ね」と言うのは広島県民にしか通じない知恵ではないはず。もう一つは、そのテーマが、あなたの知的好奇心を一生燃やし続けられるだけのフロンティアを持ち合わせているかという問題だ。
面白い物語には、一時的な下降トレンドが必要だ
一方で、もしあなたが自己表現型のキャリアを望むなら、答えはもっとシンプルだ。 ずっと右肩上がりの年収曲線なんて、物語としては退屈すぎる。 最初から最後まで平和なフランス映画を、誰がわざわざ観たいと思うだろうか。
給料を上げ続ける転職は、実は物語の死を意味しかねない。 この事実に気づいている人は、驚くほど少ない。転職エージェントは、絶対にそんなことは言わないだろう。
ぼくが提案したいのは、こうだ。
それは、単にランクを下げることでも、田舎でスローライフを送ることでもない。
給料が下がると分かっていても、ワクワクが止まらなくて飛び込んでしまう、という、極めて純度の高い冒険としての転職。
あるいは、目先のキャッシュを削ってでも、自分の市場価値を中長期的に最大化させるための、賢い投資家としての転職だ。
もちろん、こうした決断は、必ず痛みを伴う。大きなリスクを引き受ける覚悟も必要だろう。 しかし、その決断の印こそが、あなたのレジュメに、勇敢で、自律的で、決定力のあるリーダーという、消えない刻印を刻むことになる。
わたしたちヘッドハンターの視点から言えば、その意志あるチャレンジは、どんな学位よりも説得力がある。 彼らは自分の人生を生きているという独特のオーラを纏っているから、会えば一瞬で分かる。
もっと稼ぎたいなら、一度下げろ。
キャリアのデザインには、そんな美しいパラドックスがある。 あなたの物語を、もっと手触りのある、血の通ったものにするために、考えてみていただきたい。
Want to publish your own Article?
Upgrade to Premium