「ゲラダヒヒ?」
青い空。白い雲。ぴかぴかと光り輝くお城。そのお城の、いちばんきれいでいちばん豪華な部屋に、すっとんきょうな声が響きました。
「ええ、ええ、そうです。そうです。ゲラダヒヒです。ゲラダヒヒ」
色とりどりの糸でたくさんの細かな模様が刺繍されている服を着た男の人は、しきりに頷いてそう言っています。
「待ってくれ、落ち着いてくれ」
お城のいちばんきれいで一番豪華な部屋の、その中でもいっとう豪華な椅子に座ったその人は、困ったような顔をしながら右手を上げて男の人を止めています。
座っている人は、その椅子とは全く合っていない服装をしています。白いシャツに、薄い茶色のズボン。靴は濃い茶色。町で牛乳を売っているおじさんよりはきれいだけれど、街で服を売っている大きなお店の人よりはきれいじゃない。そんな格好の人は、どうしてか椅子とは全く合わない服装をしているのに、その椅子がとっても似合っています。この国でいちばんきれいでいちばん豪華な部屋の、いちばんの椅子にいちばん似合う、そんな人がこの国の王様でした。
「話がさっぱりわからん。とにかくもう一度、ゆっくり説明してくれ。一体何があったんだ。ゲラダヒヒとは何なんだ」
そう言われて、慌てた様子の男の人は自分が随分と慌てていることに気が付いたのか、かいていない汗を胸ポケットから取り出したハンカチで拭うと、はあ、と大きな息を吐きました。そして、「申し訳ありません」ときびきびと謝って、もう一度ゆっくりと話をしてくれました。その話というのはこうです。
この国の端の端、山と山とに挟まれたところに小さな町がありました。その町はあまり広くない土地を耕して畑を作り、牛や羊や鶏を飼い、そうして人々はひっそりとつつましやかに、それでも仲良く平和に安全に暮らしていました。その街には、ときおり他所から商人の馬車がやってくるのです。
遠いところからたくさんの積み荷を乗せてやってくるその馬車は、町で唯一の宿屋に一晩泊まって、そうしてまた次の日の朝早くから馬車を走らせます。商人たちは一晩の宿のお礼にと、お金や珍しいものを譲ってくれて、それをささやかな楽しみとして生きている。そんな人たちの街でした。
ところがある日を境に、外から来る商人の馬車はぱったりと途絶えてしまいました。何かあったのだろうか。外では恐ろしいことが起きているのかもしれない。町の人たちは口々にそうささやきあいました。そうして外から来る馬車を見かけなくなってしばらく、外へと向かう馬車がやってきました。何も変わったことはなかったかと商人に尋ねられた町の人たちはこう言いました。
「最近外から誰も来なくなって困っているんだ。何かわかったら教えてほしい」
もちろんだ、任せてくれ、と力強くうなずいて出て行ったその馬車は、その日のうちに慌てて戻ってきたのです。それも、町のみんながびっくりするほどぼろぼろの姿で。
あんなにたくさん馬車に積んであった積荷はひとつも残っていません。
ああ、やっぱり! 外にはとても怖いものがいるんだ!
町の人たちは頷きあいました。
商人たちはこういいます。急に何かに襲われた。なんだったのかはよくわからない。気が付いたらめちゃくちゃになっていて、積荷がすっかり盗まれてしまった。ただ、それが大きくてけむくじゃらだったことはわかる。あれはいったいなんなんだ?きみたちはあれを知っているのか?
誰かがいいました。それはゲラダヒヒじゃないか?
「というわけで、ゲラダヒヒをなんとかしてくれという声がたくさん届いております」
そう男の人は締めくくりました。
王様はうん、と頷きます。
その町のことは王様も知っています。行ったことはありませんが、書類の上ではよく見る名前の町です。険しい山に囲まれたこの国で、人々が力を合わせて切り開いた小さな町の名前は、何度も王様が目にするくらいにはこの国にとって大事な場所でした。そこがたいへんなことになっているというのならば、なんとかしなければなりません。しかし
「それで、ゲラダヒヒとはいったいなんなんだ?」
結局ゲラダヒヒのことは何もわかりませんでした。
毛むくじゃらで、大きくて、力が強くて、乱暴もの。
そういうものがいるらしいということ以上のことは、何もわかりませんでした。
何もわからないのならば、見に行くしかありません。王様はさっそくお出かけの準備をしました。といっても、自分の部屋に戻って、上着を着て、お財布をポケットの中に入れて。そして少し考えてから、たくさん並んでいる剣を見て、一番右に置いてあったものをベルトにひっかけました。着替えは、今は必要ありません。王様の旅の準備はいつも早いのです。馬車の準備よりも先に終わってしまいます。
それでは行ってくるよとたまたまそこに居た誰かに声をかければ完璧です。どこかで誰かがおまちください!と声をあげた気がしましたが、それは王様の耳に届くことはありませんでした。
王様の旅はいつもひとりです。みんなにはそれぞれ仕事があるのだから、というのが王様の口癖でした。
馬車を乗り継ぎ、馬車のない道を歩いて3日ほど。ようやく目的の町につきました。王様がたくさんの人からの報告から想像していたように、その町は大きな山に囲まれていて、畑があって、家畜がいて、人々が生活をしていました。それでも想像していたよりも静かなのは、外から人が来なくなり、そして町のみんながゲラダヒヒに怯えているからでしょう。
「やれやれ、こまったなあ」
王様は大きな独り言をいって、町の食事処の戸をくぐりました。やっぱりちっとも活気がありません。それでも何人か客はいて、王様はすこし安心しました。
「おや見ない顔だ。最近は珍しいね。旅の人、いらっしゃい」
食事処の主人は愛想よく、けれども少し疲れたような顔でにこりと笑いました。
「やあ、何か出してくれないか。それから、すこし主人に聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
不思議そうに首をかしげながら、主人はカウンターに座った王様に愛想よくコップを出して、水差しから水を注いでくれます。
「ああ、そうだ。ここにゲラダヒヒというものが出ると聞いたんだ。誰か詳しいことを知っている人はいるかな?」
ぴたり、と周りの人が止まったようでした。大臣たちが集まる場所で自分が声を出した時のように。いや、どちらかというと馬小屋で大きな音を出してしまったときのような。そんな空気です。
「お客さん、ゲラダヒヒに何か用かい」
奥のほうに座っている若い男がそう声を出しました。
「この町の人が困っていると聞いて、それがゲラダヒヒのせいだっていうじゃないか。だから詳しいことを知りたいんだ」
出されたスープとパンをすっかり食べきるまで聞きましたが、結局ここでもゲラダヒヒのことはわかりませんでした。
毛むくじゃらで、大きくて、力が強くて、乱暴もの。時折この町の近くで見かけるゲラダヒヒ。
ただ、どうやらこの町から少し離れた、それでもそう遠くないところに住んでいるようだ、という話を聞くことが出来ました。
うん、と頷いて、王様は空を見上げます。お日様はすっかりてっぺんまで登って、あとは沈んでいくだけです。着替えは持ってきたほうがよかったかもしれません。
どうやらこのあたりにゲラダヒヒが住んでいるらしい。そんな不確かな話を頼りに、王様は足を動かしました。
お日様が沈んできて、あたりがオレンジ色に染まり始めたころ、ひっそりと隠れるように建つ小さな小屋を見つけました。屋根からひょっこり飛び出たえんとつからは煙が細く出ています。
おうい、おうい、と外から声をかけます。ここにゲラダヒヒがいると聞いたが、何かしらないか? おうい、おうい。
少しだけ扉が開きました。扉の向こうに誰かがいます。大きいことはわかります。毛むくじゃらかどうかまではわかりませんでした。
「おまえはいったいそのゲラダヒヒになんの用だ。追い出しにでも来たのか」
すごい勢いで馬車が駆け抜けていったときのような、そんな声でした。ちょっとびっくりしながら王様は答えました。
「ゲラダヒヒとはいったいなにものなのか、ちっともわからないんだ。みな口をそろえて怖い怖いというだけで、だれも教えてくれない。だから自分で確かめに来たんだ。もしゲラダヒヒがいるのならば、会ってみたい」
「会ってどうする」
「わからない。話ができるのなら、話をしてみたい。歩けるのなら、共に歩いてもいいだろう。一緒に食事をするのもいいかもしれない。ただ、ゲラダヒヒに何ができるのか、何をしているのか何も知らないんだ。何も知らないからどうするか決めることもできない」
扉の向こうの相手は黙ってしまいました。何かを考えているようです。王様はじっと待ちました。
鳥の鳴き声が3回ほど聞こえて、それから扉がゆっくりと開きます。
扉の向こうにある姿は、毛むくじゃらで、大きくて、とっても力が強そうです。そうです。この男が、町のみんなにゲラダヒヒと呼ばれていました。
入れ、と促されるままに王様は小屋に入ります。その小屋は王様がいつも座っている椅子のある部屋のはんぶんのはんぶんの、もう半分くらいの広さの部屋です。この部屋にあるものは何一つだってきらきらに輝いてはいませんが、どれもすべてきちんとぴかぴかに磨かれていました。机も、椅子も、床も、壁も。
示されるままに王様は小さな椅子に座ります。大きくない机を挟んで向こう側に、小さな椅子を持ってきたゲラダヒヒが座ります。
「それで、ゲラダヒヒのことをどうして知りたいんだ」
「最近この町の近くで馬車が襲われている。積荷が盗まれている。人々はみな、どうやらそれはゲラダヒヒの仕業らしいと言う。ゲラダヒヒでも、そうでなくとも。悪いことをした人間は、捕まえなくてはならないんだ」
ゲラダヒヒは毛むくじゃらの向こう側で、顔を動かしました。何を言っているのかわからない、とでもいうように。
「ゲラダヒヒを捕まえるのではないのか」
「ゲラダヒヒが悪いことをしているなら捕まえる。そうでないのなら捕まえない」
何を当然のことを聞いているんだ。王様は不思議そうな顔をしました。
ゲラダヒヒは少し黙ってから、
「ゲラダヒヒとは、おれのことだ。……たぶん」と言いました。
しかし馬車の積荷の件は自分ではない。しかし心当たりがある、と。
この近くに洞窟がある。その洞窟に最近、見知らぬ人間が二人か三人ほど住み着いている。何をしているのかまでは知らないが、何か疚しいことがあるそぶりを見せていた、と。
王様はとても喜びました。ゲラダヒヒに会えたこと、それから知っていることを話してくれたこと。この町を困らせている原因をどうにかできそうなこと。すべてがうれしいことばかりです。にこにこしながら王様はゲラダヒヒの手を取り、ぎゅっと握りしめ、何度もありがとうありがとうと言いました。
ゲラダヒヒは王様に尋ねます
「お前はこの後どうするんだ」
王様は答えました。
「その洞窟の様子を見に行きたい。そこに本当に悪い人間がいるかどうか確かめたいんだ」
ゲラダヒヒは頷きました。
「そうか、なら案内してやろう」
ありがとう、と王様はもう一度お礼を言いました。
さっきよりもさらにお日様が沈んで、オレンジ色から暗い青色に空の色が変わりかけたころ。ゲラダヒヒの家からそう遠くない洞窟にたどり着きました。
そよそよと風に乗って、洞窟から声が聞こえます。
「おい、今日も一台も来なかったじゃないか」
「仕方がないですよう、だって俺たちもう何度も積荷を奪っているじゃないですか」
「まったくまったく、このままじゃだめだだめだ、次のことを考えないと」
「どうやらうわさになっているみたいですよ」
「俺たちのことがか?」
「いいや、このあたりにゲラダヒヒが出る、そいつが馬車を襲ってるんだ、ってね」
わははは、と男たちが笑います。
三人か、と王様はつぶやきました。
どうする、とゲラダヒヒは王様に聞きました。
王様は首を振ります。
「戻ろう」
ゲラダヒヒは、毛むくじゃらでもわかるくらい不満そうです。
「自分で捕まえないのか」と唸るような声で王様に尋ねました。
「誰もが出来ることと、出来ないことがある。おいしい料理を作ることが出来るものにはおいしい料理を作ることを。読みやすい文章を書くことが出来るものには文章を書くことを。靴をきれいに磨けるものには靴を磨くことを。そして、悪い人間を捕まえるのは、悪い人間を捕まえるのが得意な人間に任せよう」
実はこれはね、ただの飾りなんだ。王様は自分の腰に佩いた剣を軽くたたきながらそう答えました。一度使おうとして、自分で自分にけがをさせてから、本物の剣を持ち歩くのはやめたのでした。
このまま町に戻ろうとする王様を、ゲラダヒヒは止めました。
「もう日が暮れている。歩くのは危険だ」
静かな夜です。ゲラダヒヒは大したものは出せないが、と言いながら王様に自分の分の夕飯を少し分けてくれました。
あたたかな食事と、雨風がしのげる場所。王様だって旅をしていれば野宿することだってあります。雨が降っている夜もありました。風が強い日もありました。そんなのとは比べ物にならないくらい、この夜はすてきな夜です。
風もなく、空は晴れ、星が瞬き、暖かい食事が出る。そして共に過ごす誰かがいる。
ご機嫌な王様を見て、それからゲラダヒヒは、少しずつ自分のことを話してくれました。
気が付けばゲラダヒヒはこのあたりにいたこと。親や兄弟などは記憶にないこと。この近くに洞窟があり、しばらくはそこで生活をしていたこと。何度も何度も町へ下りたことがあること。そのたびに怖がられたり、悲鳴をあげられたり、手ひどい言葉で追い払われたり、時には石を投げられることもあったこと。でも、それも仕方がないと思っていること。
ゲラダヒヒは、毛むくじゃらで、体が大きくて、力も強くて、声なんてまるで近くを大きな馬車が走っていったかのよう。そんなゲラダヒヒのことを、人はみんな怖いと思うのは、仕方がないのです。
そんなゲラダヒヒを見て、王様はこう言いました。さっきも言ったと思うけれど、
「人にはできることと、出来ないことがある。」それはもちろん、自分にも。
「まず、堅苦しいのが苦手だ」
王様は指を一つ立てました。
「難しいことを理解するのにも時間がかかる」
指をもう一つ立てました。
「ピーマンもあまり好きじゃない」
指をもう一つ立てました。
ゲラダヒヒは思わず言いました。
「さっき食っていただろう」
「それはお前が作ったものがおいしいからさ」
王様は楽しそうににこにこしています。そうして指をもう一つ立てます。
「朝早く起きるのも大嫌い」
だから明日は起こしてくれないか。
ゲラダヒヒは大きなため息をつきます。
「ほかにもまだあるのか?」
「ある。数えきれないほど。それに、そうだなあ、文章を書くのが壊滅的にだめだ。本当に。周りからもするなと言われている」
大臣たちが怒りを通り越して悲壮な顔でお願いをしてきたときのことを思い出して、王様は声を上げて笑い出しました。ゲラダヒヒにはなんのことだかさっぱりですが、まあこいつが楽しそうならいいだろう、と深く考えないことにしました。
「人はだれも、出来ることと出来ないことがある。出来ることは自分以外の誰かを助けることができて、出来ないことは時には自分以外の誰かを幸せにしたり、優しくしたりする。」
少なくとも今日の自分は幸福だ、と王様は言います。
ゲラダヒヒは「そうか」と言いました。
「誰か、か」
こんな夜にぴったりの静かな声でした。
次の日の朝。ゲラダヒヒに改めて礼と別れを告げた王様は、町に戻って兵士たちに伝えました。
洞窟の場所と、男が三人。ゲラダヒヒではなく。
それを聞いた大勢の兵士の人たちはそれぞれ武器を持って洞窟に向かいました。先頭には王様です。
そして、兵士たちは悪い男の人たちをあっさりと捕まえてしまいました。
町の人たちはそれを見て、ゲラダヒヒじゃなかったのか、と口々に言いあっています。
兵士の一人がいいました。なぜゲラダヒヒだったんだ。
男の一人が答えました。誰もそれを知らなかったからだ。
町の人たちは、お互いに顔を見合わせました。なんだ、ゲラダヒヒは悪くなかったのか。
すべてを見ていたゲラダヒヒは、顛末を知らせに来た王様に尋ねました。
「俺はどうしたらいい」
王様は答えます。
「町の人たちを許すも許さないも、自由にするといい。ここにとどまるもよし、ほかの町へ行くもよし、……この国を出ていくもよし、だ」
まあ少し寂しいけれども。
王様は山の向こう側を見てそういいました。
この不器用で実直で、繊細で心優しいゲラダヒヒのことを、王様はすっかり気に入ってしまったのでした。
それからしばらく経ってからの話です。
お城のある街から少し離れたところに、ひとつの食事処がありました。看板も出していないそのお店からはいつも決まっていい匂いがします。
「ねえ、おいしい?」
お店にお客としてやってきた親子連れ。母親が子供にそう聞きました。
「うん、おいしいよ! ぼく、このげらだひひ、すき!」
子供が汚れたほっぺたでとってもうれしそうに笑いました。
それを見たかつてゲラダヒヒと呼ばれたものも、かすかに笑いました。照れくさそうに。王様と出会った頃には想像もつかなかった顔で。
めでたしめでたし。