『星獣戦隊ギンガマン』最終章『明日の伝説』
◾️最終章『明日の伝説』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
「これ以上、この星を荒らさせるわけにはいかない!」
まさかEDに使われているフレーズが最終章のサブタイトルに使われているなどとは誰も思うまい、そう思わせる戦隊史上最高に渋くてかっこいい無駄のないサブタイトルであり、映像面でも質量共に満足以上の最終回だった。
第一章が「伝説の刃」=OPで使われているフレーズに対して最終章が「明日の伝説」=EDで使われているフレーズだが、実はこのメタ的な「0P=始まり」「ED=終わり」というのをサブタイトルとかけた例はまずないだろう。
もちろんこれは意図的に狙ってそうしているわけだが、本作は「〇〇の××」という規則性のある凝ったサブタイトルがそうであるように、どこまでも「形式的」であることに厳密な作品ではある。
だが、「意味的」=内容としては実は王道的に見せておきながら視聴者の予想を遥かに超える仕掛けを数々凝らしており、その意味では『鳥人戦隊ジェットマン』とは真逆の作品となった。
「ジェットマン」もおそらくは最終回のことを念頭に置いて作っていたのだとは思うが、「ジェットマン」が徹底的に「脱構築」を行うことで「戦隊のエッセンスとは何か?」という大枠に対する格闘を行った。
本作はその「脱構築」を受け、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『超力戦隊オーレンジャー』までの杉村升がファンタジー戦隊のなかで実験要素として盛り込んだ数々のエッセンスを洗練させた形で凝縮している。
そして凝縮したものをただの「縮小再生産」にすることなく、全てを数珠繋ぎにすることで1つの「ニュースタンダード」としたわけだが、それにしてもここまで徹底的に「守りに見せかけた攻め」の作品は存在しない。
「ジェットマン」は一見「攻めている」ようで根幹の部分では80年代的なるものを「守っていた」のに対して、本作は90年代を「守っている」ようで「攻めていた」のであり、その意味で本作以上の作品を私はみたことがないのだ。
単純に「ドラマ性が深い」「ヒーローがかっこいい」「衝撃の展開がある」などというそんな次元すら凌駕するような、「映像の形式的自己拘束」がここまで極まった結果としてありがちな「王道の物語」を破壊した、そんな最終回である。
地球魔獣との星獣たちとの決戦もそうだが、少なくとも本作以前ならびに以後のスーパー戦隊をはじめとするヒーロー作品において、本作以上を上回った作品はなく、少なくとも『未来戦隊タイムレンジャー』は本作が成したことに毛が生えた程度に過ぎない。
そう断言しても差し支えないほどに映像から物語から全てのモチーフがスーパー戦隊の「今」を揺るがし続け、何度も何度も見直すたびに違った色に見えてくるのだから、こんな贅沢を味わえることの嬉しさを心から享受しよう。
今回のポイントは以下の4つである。
アースの本質
リョウマの兄超え
第一章の反転
「90年代」の終焉
では、ガッツリレビューしていこう。
アースの本質
さて、第四章『アースの心』がそうであったように、ギンガマンというヒーローの根幹にして作品的なテーゼと言えるところまで腰を下ろした特殊能力「アース」だが、最終章はまさにその「アース」こそがギンガマンの強さの源泉・象徴であることが示される。
地球魔獣を完全に焼き尽くした「銀河大火炎」、そしてゼイハブの星の命を砕く決定打となった「炎のたてがみ」、どちらもアースでトドメを指しており、このうち前者はまだ最終回限定の必殺技として納得できるが、後者は第二十六章で一度使用された。
しかも「ナイトアックスでしか星の命は砕けない。アースを捨てたことを無駄にするな」という趣旨のことをブクラテスに言われていたヒュウガがなぜアースを復活させることができたのか?に関しては当時から今まである種の賛否両論である。
鷹羽氏をはじめとする一部のノイジーマイノリティはヒュウガが炎のアースを復活させたことを「物語を台無しにしたご都合主義」と批判していたが、それはアースの本質および本作が第一章から積み重ねてきたものに対する理解・思考の抽象度が浅いからそうなるのだ。
少なくともブクラテスの頭の中には、星の命を破壊できるのはナイトアックスだけという確固とした信念があったことは疑いようがない。
そうでなければ、わざわざヒュウガが持つ便利な力=アースを捨てさせてまで新たな武器を持たせなくても、ブルライアットを使った新たな技を身に付けさせればいいのだから。
ブクラテスは、ギンガマンではゼイハブを倒せない理由として、“あの程度の力では無理”ではなく、“アースを持つ者には不可能”と言っているのだ。
この辺りは、アースという“星を守る力”では星の命を破壊する=星を殺すことはできないと解釈でき、実にストレートに納得できる。
ところが、最終話では、特に何かしたわけでもないのにヒュウガのアースは復活し、アース技である炎のたてがみで星の命を破壊している。
この意見、一見客観的に本作の欠点・瑕疵を指摘しているようでいて、実はそもそも議論の前提となるものが多分に氏の主観による思い込みが相当に働いており、議論の前提がそもそも破綻している。
「星の命を破壊できるのはナイトアックスだけ」ということは確かに言われていたしそう思われていた、だが第三十八章でブクラテスはそれも含めて「一か八かの賭け」と言っていた。
それにサンバッシュと組んでいた1クール目やブドーを陥れた2クール目を見ればわかるが、ブクラテスの作戦はほとんどが紛れ当たりであり、少なくともビズネラほど具体性のある戦略は立てられていない。
ヒュウガとの関係性にしたって、どこまで行こうと所詮敵でしかないわけだから、共通の利害があったとはいえ、根っこの部分で相容れないものだったわけで、最終的に否定されるべきものだった。
もっといえば「わざわざヒュウガが持つ便利な力=アースを捨てさせてまで新たな武器を持たせなくても、ブルライアットを使った新たな技を身に付けさせればいい」という議論自体が地の時代に囚われた昭和的な老害的思考=オタクの頑迷固陋でしかない。
何度もいうが本作はあくまで考え方=脳のOSが全てであり、星獣剣・アース・ギンガの光・自在剣機刃・獣撃棒の全ては「星を守るため」という目的があり、その中でもアースは星を守ろうとする思いがあれば無限に生まれることは第四章で示されていた。
それに対してナイトアックスはブクラテスの私怨が生み出させた「星を壊す力」であり、言うなれば「毒を以て毒を制する」ことになってしまい、それをやってしまうと本作が徹底して掲げる根幹が根っこから崩壊してしまうことになるのだ。
「それなのに実はアースで星の命を破壊できるし、アースも復活するんですでは、ブクラテスは大勘違い野郎だし、ヒュウガもリョウマ達5人も単にものを知らないで悲壮ぶっていただけの間抜け揃いになってしまう」と述べているが、勘違い野郎の間抜けは他ならぬ鷹羽氏ではなかろうか。
「ものを知らないで悲壮ぶっていた」のではなく、そもそも第一章〜第七章までの時点で本作は「自己犠牲」「復讐」といった前作「メガレンジャー」までに横たわっていたネガティヴな要素に対して徹底して否定的なスタンスを示して来た。
むしろ本作において自己犠牲を行っていたのはギンガマンではなくバルバン側であり、黒騎士ブルブラックならびにヒュウガが圧倒的な強さを持つ代わりに一番根幹の部分でバルバンに近い側にいたという事実を示していよう。
そこを徹底的に避けるために、第四章でヒカルを通してアースとは何か?を描き、第十七章で「力や技だけが強さの条件ではない」とし、その後黒騎士関連のドラマでリョウマが黒騎士の中の復讐を乗り越える物語を描いた。
ならばこの最終章でも同じこと、リョウマが黒騎士を通して「復讐」と「兄への憧れ」を超えてみせたように、今度はヒュウガ自身がブクラテスを乗り越えて「真のヒーロー」へと回帰しなければならない。
言うなれば、ブクラテスが教え仕込んだ3ヶ月間のナイトアックスならびに復讐はあくまでブクラテスがヒュウガにかけていた「呪縛」であり、真面目すぎるヒュウガはそれに囚われていた。
そこがカリスマの欠点でもあったわけで、小林靖子はヒュウガをはじめとする昭和型のカリスマヒーロー(優等生ともいう)が孕みうる欠点を見逃さずにしっかり描いている。
そしてヒュウガがそのブクラテスの呪縛から脱するためには、他ならぬギンガレッド/リョウマという唯一「ヒュウガを越えられる存在」が必要なのだ。
リョウマの兄超え
本作はよく「リョウマの兄超えの物語」と言われており、そのことに関しては「戦隊史学基礎」のところでえの氏も触れている。
第26話で「戦いたい」と言ったリョウマはあまり自信なさげに見える。実際ヒュウガの方が実力が上なのは明らかであった。兄を超えたいというのはリョウマの単なる個人的な事情に過ぎない。そんなものを優先させようと思ったリョウマは、多分、バルバンはそれほど大した敵ではないことに、薄々気がついていたのであろう。一方ヒュウガがアースを捨てたのは、自分を犠牲にする悲壮な覚悟をもってせねば、戦いに勝てないと思い込んだからである。
どちらが正しかったのかは、第50話(最終話)で明らかになる。そしてそれはリョウマの兄超えの物語の完結をも意味したのであった。
そう、リョウマにとっての「兄超え」とは戦士としての実力でヒュウガを上回ることではない、そんなバカの力自慢のようなことを誇らしげに行うようなことを本作はしていないし、それは第四十四章でゴウキと岸本先生の回でも触れられていた通りだ。
じゃあリョウマはどのようにしてヒュウガを超えるのか、それは徹底した「自己犠牲の否定」であり、また兄ヒュウガにはできなかった「強さも弱さも併せ持った万能型主人公」ならではの「俺たちのアースでゼイハブを倒そう」である。
つまり「競い合うこと」ではなく「共に戦うこと」であり、そこにこそまさに本作なりの「戦隊」としての意義、すなわち「力と技と団結」があるわけであり、だから欠けた最後のピースとしてヒュウガを5人の輪の中に戻す必要があった。
前2作で示されたのは「自分にある弱さと向き合い、それに打ち勝つことでヒーローは真の強さを得る」ことになるわけだが、本作はまさに自分の弱さと向き合いそれに打ち勝ったリョウマがヒュウガを絶望の淵から救い出して見せるのだ。
しかもこれのすごいところは単なる第一章の反転であるというだけではなく、第二十五章『黒騎士の決意』で黒騎士兄弟通じてその前段階が描かれていたことでもう一段階丁寧に仕掛けがなされていたのである。
そう、亡き弟・クランツの幻影がブルブラックの魂を揺り動かし、復讐鬼からギリギリのところで舞い戻るというものであったが、リョウマはその時黒騎士ブルブラックを絶望の淵から救うことはできなかった。
だからこそ、リョウマにとってヒュウガを救うことは単なる兄超えだけではなく、第二十五章では成し得なかった「黒騎士の魂」も含めて救いこの作品の中に落とし込むことで鮮やかに超えてみせたのである。
徹底して初期から掲げてきた形式を反復することによって逆説的に過去の因縁を超えていくのが本作の目指すところであり、逆にいえばそこまでやってようやく「チェンジマン」超えを果たすことができたのだ。
「兄さん、いくぞ!」「ん!」という流れを見ればわかるが、最後の段階でギンガレッド/リョウマが軽やかに戦隊の論理から離脱し、逆にリョウマに従う黒騎士ヒュウガのほうが地球とシンクロし始めたように見える。
第二十六章で物語を動かす力も含めてリョウマに全てを譲渡したヒュウガは救済されたことになるわけだが、ただの救済ではなく真の勝利を弟のリョウマに譲ったことになるわけだ。
それも含めての「兄超え」だったわけで、リョウマは仲間をまとめることを実は積極的にしていない、そんなことをしなくても全員がリョウマを支えてくれるのだから。
だが、ヒュウガを超えることは唯一弟のリョウマにしかできないことであり、第一章ではヒュウガが引っ張っていたとは見事な好対照を成していることがわかるはずだ。
ヒュウガのアース復活ならびにリョウマの兄超えとはまさにそういう点においてこそ理解されるべきものであり、それをご都合主義だと批判するのは本作の本質や豊かさから目を背けた的外れな逃げに過ぎない。
そしてその図式は後述するラストバトルにも現れており、黒騎士ヒュウガが最初にゼイハブに黒の一撃を仕掛け、最後にギンガレッド/リョウマがトドメを刺すという流れになっているのもそういうことである。
リョウマは間違いなくヒュウガを超えた、だがその方法はヒュウガを物語の中から追い出すことではなくギンガマン5人の輪の中に「星を守る戦士」として留めることによってこそ成し得たものだ。
だからこそ炎のたてがみでアースを砕くという映像にも圧倒的な説得力が生まれ、第一章ではリョウマ1人で打っていたアースを兄と2人で放つことにこそ本作のカタルシスがある。
第一章の反転
さて、炎のたてがみで一気呵成と言わんばかりの勢いでゼイハブにトドメを刺しにかかるギンガマンだが、サムネイルがそうであるように、このラストバトルは第一章の反転となっている。
具体的には以下の通りだ。
5人の「倒す!」カット→最終章ではギンガマン5人+ヒュウガの6人揃ってのカット
転生する時にリョウマ単独の掛け声→最終章では5人全員での掛け声+ヒュウガの騎士転生
5人だけのこぢんまりとした平面的な名乗り→人全員が揃った立体的な名乗り
各人が散会して各個撃破&レッド無双→全員で連携して黒の一撃、ギンガの閃光、炎一閃
主題歌が歌付きからインストへ→主題歌がインストから歌つきへ
田崎演出が計算尽くしで構築したバトルを長石演出が上手に継承しつつ最終回に合わせる形で反転しており、ギンガマン5人+黒騎士の集大成として文句ない完成度を誇るだろう。
最終回限定で返信前の役者がスーツの中に入っての名乗りは『鳥人戦隊ジェットマン』の最終回手前以来だが、そういうところでも80年代と90年代が非常に上手に融合している。
またギンガの閃光の演出も一段とパワーアップしているが、これはおそらく演出意図として5人の想いの強さがギンガの光の強さをさらに増幅させてこうなったのだろう。
しかも単に5人でトドメを刺して終わりではなく、最後はレッドがゼイハブにダメ押しの一撃を刺しているというのもまた細かい要素を拾っている。
結果的には個→多→個というトドメの差し方なわけだが、このトドメの差し方もまた特殊であり、レッドがラスボスにトドメを刺したという意味で本作以上に説得力のあるものはないだろう。
前作「メガレンジャー」は自爆だったし、「カーレンジャー」では5人揃ってのトドメだったから、全体での必殺技+個人の必殺技というこの贅沢な構成をよくも詰め込んだものだ。
それでいて決して破綻しているわけではなく、むしろこの演出以外にはあり得ないという確信をもってラストバトルのカットに本作が積み上げてきたものの全てを込めている。
個が強い上でチーム全体もしっかりしている、そういうヒーローであることを物語はもちろんのこと、何より映像のリズムとしてきちんと説得力をもって演出しているだろう。
ただ単に派手なだけのラストバトルなら本作でなくてもいくらでもあるし、感動できるドラマだけなら別に本作出なくともいいが、本作以上に「強いヒーローが強い敵を倒す」ことを画面で示した戦隊はない。
それこそ本日から配信が始まった次作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』にしたって、最終回において仕掛けはしてあるが、本作のように「徹底した形式的自己拘束がもたらす面白さ」の領域には到達していないだろう。
物語としても映像としても持ちうる迫力と背骨の強固さが他のシリーズと比べても段違いであるし、何より小林靖子の悪い部分というのが本作では髙寺成紀がいい感じに抑制している。
そして演出家もキャストたちも全ての本作に関わる人たちが一体感を持って作ったからこそ、ここまで異様な安定感と共に「守っているようで攻めている」作品になれたのだ。
その後のエンディングに関しては特筆すべきところは特にないが、この大団円を描くためにどれだけの心血を注がなければならなかったのかという話である。
これはもちろん第二章で森を失ったことの反転としてこうなったわけだが、本作はまさに「有言実行=言葉にしたことは全てを実現している」のだ。
それを「綺麗事すぎる」という向きもあるだろうが、「綺麗事」というのはそれを可能にするだけの実行力と考え方=脳のOSが完璧にできていてこそ有効となる。
本作が王道的でありながら、決して説教くささがなく爽やかに見られるのは目的・目標に対して一切のブレがなく、全てを実現させたからだ。
「90年代」の終焉
さて、まとめに入るが、本作は98年にして「90年代」の終焉とも言えるだろう、これはスーパー戦隊シリーズのみならず色んな意味での「90年代」が含まれている。
『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』では「実験的要素」だったものを1つの「文法」「文体」にまで高めた。
そして主題歌やアイキャッチのイラストなどでどこか「80年代」を思わせる懐古趣味的な要素もしっかり咀嚼・吸収した上で「子供向け」としてのあるべき姿を守る。
何より「強い戦隊」であることを力の面と作品としての足腰の強さの両方において徹底したことによって、激動の90年代を終わらせたと言えるだろう。
ちょうどジャンプ漫画ではポスト『ドラゴンボール』として『ONE PIECE』という次世代の看板漫画が登場したが、スタンスや作風は違えど「ONE PIECE」もまた「90年代の終焉」を担っていたと言える。
「古典的デクパージュとしての戦隊を復古させた」と書いたが、本作はそういう意味で「温故知新」の作品だったと言えるだろう、先達の恩恵を受けながらも、次世代へ「更新」していく。
「故きを温めて新しきを知る」とは決して「初期化」「先祖返り」ではない、先達が残した要素を因数分解した上で、現代にアップデートさせ新たな「神話」として創成することだ。
したがって本作をファンタジー戦隊の焼き直しとか縮小再生産とかいうのは全くの的外れということになるし、また後年の作品と比べると荒削りといった意見も有効な意見にはなり得ない。
確かに映像技術や話法、演出手法などという点においては本作よりも後年の作品の方が出来はいいのだろう、ただそのことと作品自身が持つ絶対的価値は決してイコールではない。
本作以後、『百獣戦隊ガオレンジャー』をはじめスーパー戦隊で本作を模倣したと思われるエピゴーネンは大量に生まれてきたが、どれも結局は枝葉=ガワしか継承していないだろう。
少なくとも本作の根底にある精神性、すなわち脳のOS=考え方を継承した上でポスト「ギンガマン」と言えるだけの作品は今まで一度たりとて生まれていない。
これは日本アイドルの世界において嵐を超える国民的スターがその後登場していないことや「ONE PIECE」を超える国民的漫画が出ていないことと似たようなものだろうか。
いずれにせよ、スーパー戦隊シリーズはギンガレッド/リョウマの「お前を倒して、戦いを終わらせるだけだ!」がそうであるように、ヒーローもののあらゆる「呪縛」「因縁」「固定観念」に真正面から向き合い決着をつけた。
その1点において本作以上のものは間違いなく生まれていないし、どれだけ物語の完成度が高かろうがなんだろうが、芯の強さと背骨の強固さがいまだに見るものの感性を揺るがし続けるだろう。
総評
前作『電磁戦隊メガレンジャー』までが持っていたあらゆる要素を全て完璧に乗り越えて見せた出色にして、まさに伝説の最終回である。
総合評価はSS(殿堂入り)100点満点中300点。



コメント
2『ギンガマン』終わっちゃったね。お疲れ様。
僕自身は『90年代の終焉』は『未来戦隊タイムレンジャー』だと思っている。
2000年の作品だけど、企画自体は1年前から始まるから俺の中では90年代の作品。
『90年代のスーパー戦隊』は「青年期・成長期」って言葉に尽きるよね。
70年代でハリウッドの『アメリカン・ニューシネマ』が終わった後は、
80年代の筋肉おバカアクション映画が隆盛を極めたように、
『未来戦隊タイムレンジャー』で90年代の『スーパー戦隊ルネサンス』は終わり、
2001年の『百獣戦隊ガオレンジャー』から商業主義バカレッド戦隊が始まる。
そして2014~15年『列車戦隊トッキュウジャー』で小林靖子先生が離脱したことで、
90年代バブル崩壊から20年遅れで、『スーパー戦隊バブル崩壊』が起きて、
スーパー戦隊は売上で苦戦する『冬の時代』を迎えて、今はその真っ只中。
日本は『失われた30年』に沈んでいるけど、スーパー戦隊もそうなると思っています。
ハリウッドの映画産業は事実上死んだから、スーパー戦隊シリーズも消滅するかもね。
『ギンガマン』全レビューお疲れ様でした!
ギンガマンリアタイしていた時は、終盤のダイタニクス復活〜最終回までの展開が一番印象に残っていました。
最終回も終わりまで熱い展開が続いて盛り上がりました。スーパー戦隊シリーズで、一番初めに『ギンガマン』に出会えて良かったと思います。
ヒュウガさんのレビューをすべて拝見して、『ギンガマン』は細かい部分も無駄なく設計された作品だったのだなと改めて感じました。
以降のスーパー戦隊のファンタジー系戦隊でも、ギンガマンオマージュの作品(例えばガオレンジャーなど)はいくつかありますが、どれもギンガマンの表面的な部分だけ切り取っていて中身が無いし、『ギンガマン』で描かれた「熱さ」も感じられない作品ばかりだと感じます。