『星獣戦隊ギンガマン』第四十九章『奇跡の山』
◾️第四十九章『奇跡の山』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
さあ、いよいよ最終章を前にした前哨戦という雰囲気のあるこの終盤の展開だが、あらかじめ言っておくと、この2回は特別に述べるようなことは実はない。
というのも、全ては最終回ありきで仕組まれていたという感が強く、改めて小林靖子は「逆算思考=引き算」の作家であるということがこの頃からもう作風として現れている。
だからコメントでは「伏線回収が凄い」「全部が綺麗に収束していく」というが、小林靖子と同じ銀の鳳凰座(午未天中殺)の私に言わせれば別にそんなの驚きでもなんでもない。
むしろ小林靖子くらいのスキル・テクニック・天才性があればこの程度のことは「出来て当たり前」であって、だからもう私は脚本の素晴らしさとかそんなことでは驚かなくなってきた。
その代わり、今回は改めて長石多可男の演出力に驚かされる、田崎竜太が演出してみせた第一章・第二章の映像演出をさらに思考の抽象度と映像の解像度の双方において最高のクオリティーに昇華したのだから。
まさにこれこそ職人芸であり、頭ではわかっていてもきちんと実践にまで昇華し組み込むことができている作品はおそらくどころか、スーパー戦隊シリーズ全体を通して見ても本作の他はあるまい。
少なくとも本作を貶して『未来戦隊タイムレンジャー』を褒めていればいいと思い込んでいるスーパー戦隊オタクかぶれではないので、そういう意味での判断やセンスを鈍らせたことは一度もないのだ。
物語として回収すべき要素は全てしっかりカメラの中に収め、決してテンションを落とさずに盛り上げ続けたわけだから、これで本作を評価できないのはスーパー戦隊への愛・批評眼が資質として欠落しているセンスのない白痴な連中とでも言っておこうか。
今回のレビューポイントは以下の4つ。
ラスト2話は全て序盤で用いたシーンの繰り返しor伏線回収
ヒュウガとブクラテス、そしてギンガグリーン/ハヤテとシェリンダ、それぞれの因縁
バットバスはなぜ地球魔獣に食われなければならなかったか?
地球魔獣はビオランテのオマージュか?
さあ、残り2話の画面の中に何が映されているのか?を改めて語ろう。
ラスト2話は全て序盤で用いたシーンの繰り返しor伏線回収
前回もそうだが、本作のラスト2話は全て序盤で用いたシーンの繰り返しor伏線回収であり、色んな要素が詰まっているが、コメントを見ると実際に「伏線回収しているのがすごい」と語られている。
だが、私はもうそんな次元はとうの昔に通過しているから、この程度の意見などは所詮半可通の戯言に過ぎないと断じた上で、大事なのはなぜ全て序盤で用いたシーン・アイデアの繰り返し・伏線回収にこうまで拘泥するのかという話だ。
これは以前にも述べたがいわゆる「頑ななまでに形式による自己拘束を介した自由への試み」であり、前2作を経験した髙寺成紀があえて「形式的」であることを意図的に選択し続けた結果としてこうなったのである。
本作の真の面白さ・ここに至って露呈したスーパー戦隊シリーズへもたらした揺らぎというのはまさにここにあり、『鳥人戦隊ジェットマン』『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』とは徹底的に相反するスタンスだ。
スーパー戦隊シリーズは『秘密戦隊ゴレンジャー』がそうであったように、元来骨太なテーマ性や悲劇など一貫性のある何かに貫かれて始まったシリーズではなく、ウルトラシリーズやライダーシリーズと比べると作風の自由度が高い。
しかし、だからこそウルトラシリーズやライダーシリーズとは違い、1年おきに「戦隊という入れ物を使って何を為すべきか?」を考え、ゴールを想定した上で物語を作らないと大きく外れてしまうことになるのだ。
しかも22作目ともなればシリーズのパターン・文法もある程度はできた上でなおゴールを自分たちで制定して自分たちの力で走り切らなければならない、しかもまだこの時期は「平成戦隊のニュースタンダード像」すらなかった。
そんな中であえて作風の厳密さを設定し、スーパー戦隊シリーズという大枠に対して逆らわず、しかしただ無思考で流されることなく、自分たちでできること全てをもってここに辿り着いたのである。
本作が他の髙寺成紀作品や小林靖子メインライター作品、そしてスーパー戦隊シリーズの歴史の中においても違っていたのはまさにそこであり、その点において『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』の2作とも違ったのである。
「チェンジマン」は徹底して「大枠をどこまで守れるるか?」という枠の制限を「伸ばす」ことに挑戦した作品であるのに対して、「ジェットマン」は枠を「壊す」ことに挑戦した作品として一定の成功を収めた。
本作はその2作を踏まえた上で「離れる」ことを重視した作品であり、その「離れる」ことを成し遂げるためにはあえてシリーズが設けた「枠」に逆らわず、形式的な厳密さを徹底することでしか解放されないのである。
別に伏線回収や序盤で用いネタの反復とズレの出し方が素晴らしかったから本作の終盤は素晴らしいわけではない、それを徹底することによって明確にスーパー戦隊シリーズで描けることと描けないことの境目を明らかにした。
それはまさに子供向け作品として実に誠実な態度であり、王道的なラインにありながら、だからといっていかにも誇張した演出やわざとらしさ・あざとさのような「ウケ狙い」の要素が一切ない。
計算尽くで戦略的にキャメラは全てを画面に収めていながら、同時にそれがすんなりと「自然」に収まっているということの方がはるかに奇跡的であるというのが本作の真の凄さである。
「ジェットマン」「カーレンジャー」、そして一部の「タイムレンジャー」のような「狙った逆張り」は誰しもがそれなりの技量とセンスがあれば、再現性はないが一度きりのネタとしてなら可能だから難しくはない。
しかし、本作は「王道的」という作品のカラーを重視しながら、それを決して誰にも真似できないレベルにまで昇華するという究極の職人芸を成し遂げて見せた、だから本作を私は唯一無二の作品と評価しているのだ。
ヒュウガとブクラテス、そしてギンガグリーン/ハヤテとシェリンダ、それぞれの因縁
さて、今回でヒュウガとブクラテス、そしてギンガグリーン/ハヤテとシェリンダ、それぞれの因縁に一応の決着がついた形なのだが、これも実はよくよく見るとあくまで「ギンガマンとバルバンは相互理解不可」としている。
まずヒュウガとブクラテスだが、これに関しては特別に面白い関係性というほどの意外性はないが、やはり今回の白眉はヒュウガから次のセリフが出たことだ。
「復讐の為に何もかも捨てるのやめろ。砕くのはゼイハブの星の命だけで十分だ」
このセリフは非常にインパクトがあったが、なぜにインパクトがあったのかというと、このセリフはいわゆる「カリスマ」「優等生」なヒュウガのイメージからは出てこない言葉だからである。
ヒュウガは2クール目で黒騎士ブルブラックと一体化するという状態を経験し、そして4クール目ではアースも失い、四十一章ではリョウマすら失いかけたという壮絶ない経験をした。
そしてモークの最期も経験した、そんな風にあらゆる「喪失」を経験したからこそ、今改めてヒュウガは決して「綺麗事」「説教」ではない「体を通して出た言葉」としてブクラテスの刺さる言葉を向けられたのだ。
ここで星の命が何であるかという第二章からの伏線がここで活きるわけだが、その星の命を砕くということはその星の命に凝縮された全ての思い出を破壊するも同然の行為なのである。
黒騎士側の気持ちを自分も経験した上でなおもヒュウガは星の命を砕くことを否定したわけだが、思えばもうこの時に最終章でヒュウガの結末がああなることへの答えは出ていた。
ナイトアックスで星の命を砕くこと、それはすなわちブクラテスの復讐を物語として肯定してしまうことであり、それだけは絶対に避けられなければならないのだ。
次にギンガグリーン/ハヤテとシェリンダだが、ここではまず細かいが第二十四章のギンガレッド/リョウマVSブドーで使われた「敵幹部が死場所として見定めて鞘を投げ捨てる」演出が引用されている。
もちろん同じ長石演出なのだが、獣装光ギンガレッドVSブドーが「ギンガマン代表としての戦い」であると同時に「星を守るための戦い」であるからこそ、ブドーが満身創痍の中で一矢報いようとしたのをレッドが切り捨てる構図が成り立つ。
一方でギンガグリーン/ハヤテVSシェリンダは因縁の対決ではあるが、第四十六章『怒りの風』のレビューをご覧いただければわかるように、ハヤテとシェリンダの因縁はほとんどシェリンダが一方的に個人的感情で執着しているに過ぎない。
だからこの2人の空間には誰も立ち入ることが許されていないし、またハヤテが獣装光となってトドメを刺すこともしない、強烈な一打は与えたが、その後はシェリンダが事切れるまでハヤテの方からは一切手を出さなかった。
なぜこのような演出になったのかについてだが、1つは演出として変身しているヒーローが生身の女性キャラを一方的に甚振って倒すということがエンターテイメントとして成立しづらいということが挙げられるだろう。
実際前作「メガレンジャー」の最終回手前の話ではメガレッド/伊達健太が何の恨みも因縁もないシボレナを倒すことになったが、これはあくまで何の因縁もない高校生とアンドロイドだからこそ成立した戦いだった。
一方で本作のハヤテとシェリンダは第十章から因縁を形成し物語を作ってきた、だからこそ「殺し」というところにおいてはとてもデリケートに扱っていたのではないかという風に考えられる。
今見るとかなり渋めの演出だったが、敢えてトドメを刺さないというギンガグリーン/ハヤテの静かな佇まいこそが全てをこれ以上なく雄弁に物語っているのではなかろうか。
バットバスはなぜ地球魔獣に食われなければならなかったか?
さて、今回唯一(?)と言っていい、ギャグとも取れるシーンがバットバスの最期だったわけだが、バットバスはなぜ地球魔獣に食われなければならなかったか?
答えから言うと簡単であり、以前にもGMS氏のコメントに書いた気がするのだが、バットバスはいつも作戦を展開する時に何と言っていたか?
「作戦失敗した奴は、てめえで頭を食いちぎれ!」
部下にまで言わせていた普段からの俺の口癖である「作戦失敗したら自分で頭を食いちぎる」が形になったものでしかない、要は自業自得・因果応報というやつだ。
だからこの結末自体はさほど驚きはなかった、そもそもそうなるだけの伏線自体はずっと貼られ続けていたわけだから、この程度で驚くようではまだまだである。
それよりもこのシーンが真に衝撃たりうるのは「ラスボスの生贄・餌になる形で無惨な最期を迎えた幹部がいるのか?」という話だが、私が知る限りバットバス以上に無惨な死を遂げた幹部もいるまい。
「ダイレンジャー」の泥人形ネタも大概インパクトがあったが、あっちはそもそも「泥人形」というネタ自体がそれまでになく、いきなり映像として唐突に挟まれたことへのショックが大きいだろう。
だが、本作のバットバスの最期はなるべくしてなった結末というか、もうその結末以外にはあり得ないという必然性をもって着地しているため、逆に自然に成立してしまっている。
もちろん大笑いしてもいいシーンではあるが、地球魔獣に食われる時の生々しさはとんでもなく、思えばこの描写がのちの「仮面ライダー龍騎」の契約モンスターに食われる人間という描写に繋がるのか?
バットバスに限らないが、本作の幹部はサンバッシュ・ブドー・イリエス・バットバスのいずれも死に方のパターンが違いながら、物語上での整合性はもちろん映像としても全てが完璧に噛み合っている。
だからこそここぞというときにインパクトが出るわけであって、バットバスは確かに力だけで言えば四軍団の中でも破格ではあったが、では初期に出していたら良かったかというとそういうわけでもない。
第四十八章以降の流れを見ればわかるように、バットバス魔人部隊がそれなりに戦ってこれたのはビズネラという優秀な2番手の参謀がいたからであって、そうでなきゃサンバッシュと大差ない脳筋集団である。
このことから見ても、やはり鷹羽ら一部のノイジーマイノリティが主張する「ギンガマンの間で四軍団の格差があったのは失敗だった」という意見は単なる的外れでしかない。
言ったはずだ、本作において大事なのは「考え方=脳のOS」であり、戦闘力の強さはあくまでもそれを支え目標達成を可能にするための手段=枝葉でしかないのだと。
逆に言えばそこを徹底しているからこそ、バットバスが終盤でギンガマンを苦しめるだけの脅威になることも、そして地球魔獣に食われることにも説得力が出る。
持っている力そのものが大事なのではない、持っている力を「どう有効に使いこなすか?」という目的・目標・戦略・戦術をどれだけきちんとできているかが勝敗を分ける。
そのごく当たり前のことがバルバンはできていなかった、だから負けたという至極簡単かつ真っ当な結末をバットバスの最期が示しているだろう。
サンバッシュ=ギンガの光はどこにもなかったので一騎討ちの末に死亡
ブドー=組織からその身を追われ一騎討ちの末に死亡
イリエス=しぶとく蘇ろうとするも、その魂をダイタニクス復活のために利用され死亡
バットバス=地球魔獣を成長させるのには成功したが、作戦失敗し続けたために頭を食いちぎられる
見事なまでに誰1人として被っていないというのがバラエティーという意味でも見事な結末になっているだろう。
地球魔獣はビオランテのオマージュか?
さて、見事なまでにバットバスの頭を食いちぎって登場した地球魔獣であるが、ダイタニクスとは対照的に禍々しいデザインであり、かっこよさや渋さよりもグロテスクさや不気味さが優っている。
口裂け女もびっくりなほど大仰に口を開いて雄叫び山を食べてしまったわけだが、どこかで見たことあると思ったので記憶をアクセスしてみたところ、おそらく近い時期の作品ではビオランテが近いだろう。
平成ゴジラシリーズの『ゴジラVSビオランテ』がそうであるように、ビオランテは数少ない植物から怪物に人間の手によって成長を遂げてしまい、ゴジラを飲み込もうとした恐ろしい怪獣である。
映画館で見た時のビオランテのインパクトは相当に強烈だったが、地球魔獣もそのビオランテのようなインパクトをこの1シーンで食べてしまうという意味で実に怪獣映画的だろう。
本作は決して怪獣映画そのものを戦隊の中で再現することを目的としていないわけだが、平成ガメラシリーズがそうであったように、すでに過去の文化となった怪獣映画を戦隊の中で再定義しようとする試みは伺える。
魔獣=暗黒進化した星獣という風に第四十四章で定義されたわけだが、星獣が「星を守るもの」であるのに対して魔獣は「星を食らい尽くすもの」として描かれているというのも第二章から示されていた。
だが、それがまさか他ならぬ地球から誕生するなどとは誰も思っていまい、つまりギンガマンが最後に相手をしなければならないのは地球の化身そのものという風に見ることもできるのだ。
スペックだけで言えば魔獣ダイタニクス以上というのも納得の設定・デザイン・キャラ描写・演出であり、全てにおいて文句なしに最高クラスの芸術点を叩き出していると言えるだろう。
ギンガイオーとブルタウラスが並ぶ画も久々であり、違う道を生きながらも最終決戦において1つに重なったギンガマン5人と黒騎士ヒュウガ、そしてゼイハブと地球魔獣。
この1話で詰め込める要素を詰め込んでおきながら一切破綻せず、全て収まるべきところに収まりつつ、同時に過去の作品との決別を果たす準備は整った。
さあいよいよ最終章での総括へと差し掛かる段階に入った「ギンガマン」、第一章から心血を注いで作り上げてきた本作はどのように着地をするか?
総評
総合評価方:S(傑作)100点満点中110点
次回、いよいよ全てに決着がつく。



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