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「だったん」「タタル」と表記される民族は時代と地域により用法・範囲が異なるのでなかなか複雑ですね。結論から言うと、女真族を含んで指す「だったん」「タタル」とモンゴル人を含んで指す「韃靼」「タタル」は用法が異なるものですので、両者を同一と捉えることは出来ませんし、そもそもこれらの用語の多くが1つの民族ではなく「ある場所に分布していた複数の部族」をまとめた呼称なので、同じ用法の「だったん」「タタル」という言葉で表されるからと言ってルーツが同じ民族とは断言出来ません。 なお、他回答者が記載しているとおり、満州人・女真人はツングース系民族に分類されますが、モンゴル人はモンゴル系民族に分類され、共にアルタイ系民族に含まれますが同一の系統とは考えられていません。 分布地もモンゴル高原東側の内陸部に分布したモンゴル人に対し、満州人・女真人は更に東側の沿岸部に分布しており、近縁ではありますがやはり異なっています。 詳細な「だったん」「タタル」の用法については以下に記します。 (大分長くなりますが、結論は上に全て書いてあるので暇でなければ読み飛ばして下さい) 「タタル」の初見はテュルク系民族で構成された突厥がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称で、テュルク語で「他の(tat)人々(ar)」を示す言葉と考えられています。 この言葉が中国に流入して用いられた際に「達靼」(『新五代史』など)「達旦」(『遼史』など)といった表記が用いられました。 例えば『新五代史』「四夷附録第三」には「達靼、靺鞨之遺種、本在奚、契丹之東北、後為契丹所攻、而部族分散、或屬契丹、或屬渤海、別部散居陰山者、自號達靼。」といった記載が見られます。これを見る限りでは「達靼」は靺鞨の後裔であると考えられています。靺鞨は渤海を建国した南部の粟末部や女真族の母体となった北部の黒水部が主要な部族で、やがて耶律阿保機の登場により強盛になった契丹により渤海は滅ぼされ、渤海の影響下にあった黒水部も契丹の影響下に入ります。なお、靺鞨が女真と呼ばれるのは契丹の影響下に入った以降のことです。 ただ、この記載にある通り、達靼という言葉はタタルのように他称ではなく自称(最後に「自號達靼」とあります)であったようで、その意味では当初の「タタル」からはこの時点で既に多少意味が変わってしまっています。 さて、靺鞨が渤海を建国してそれが契丹に滅ぼされた唐~五代の時期にモンゴル族はどこにいたかというと、突厥と靺鞨のちょうど間に分布していた室韋と言う民族集団に含まれていたと考えられています。この頃の室韋は突厥の影響下にあり、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)と呼ばれていました。そしてこれとは別にトクズ・タタル(九姓タタル)と呼ばれる民族集団がありこの両タタルの関係ははっきりとは分かっていません。トクズ・タタルは室韋から分かれたとも考えられているようですが、実証されているわけではありません(※タタルはあくまでも突厥による呼称で、室韋はおそらく突厥可汗国によってタタルという呼称が出る前から中国に存在する呼称ですので、「室韋から分かれた」≠「オトゥズ・タタルから分かれた」であることに注意して下さい) この室韋の中の「蒙兀室韋」が後のモンゴル部であると考えられているため、史書や碑文の内容で述べるのであれば、モンゴルは「タタル」ではあるが「達靼」ではないということになります。 さて、このモンゴル部の勢力が伸びてモンゴル帝国になると、領土拡大の過程で結果的にモンゴル帝国の中に、かつて突厥が「タタル」と呼んだ民族が全て含まれて大多数を占めることとなります。この民族の多くはタタルという他称であった民族(モンゴル部含む)だったのですが、中にはタタルを自称したタタル部も含まれています(初期は女真の多くは金王朝の影響下にいることが多く、こちらには含まれていません) その集団がヨーロッパに侵攻したために、ヨーロッパでは「モンゴル=タタル」の認識が広がります。もちろんこの「モンゴル」はモンゴル人ではなくモンゴル帝国構成員という意味合いなのですが、最終的にはモンゴル帝国崩壊後にジョチ・ウルスから興ったロシア周辺の後継政権の構成員まで含めて「タタル」と認識されており、これが現在の「タタール人」の認識の元となっています。 では「韃靼」という表記はどこから出たのか、ですが宋代にはタタル部及びその周辺に割拠する民族をまとめて「韃靼」と呼ぶようになっています。 この頃の中国東北部に分布した諸民族の総称は、『新五代史』では「達靼」、『遼史』では「達旦」、『宋史』では「韃靼」と史書によって表記が完全に統一されています。しかしその認識の細かさにより『新五代史』『遼史』の「だったん」と『宋史』の「だったん」が指し示す民族が異なっていることには注意が必要です。『新五代史』『遼史』の「だったん」には女真は含まれますがモンゴル部は含まれず、『宋史』の「だったん」には一般的には女真もモンゴル部も含まれません。 これに変化が出たのは元が北走して明が中国を制覇した時です。明としてみれば短期間といえども中国を統一した元王朝は正統王朝であると考えていたため、中国を支配するには「元の後継王朝」であることを示さなくてはいけません。ここで1つ問題になったのは北元の存在です。元王朝は中国の支配を失ったとは言え、モンゴル高原を含む広大な中国外支配地は残っており、これまでの王朝交代と異なり「滅んではいない」のです。 そのため、あの手この手で中国にあった元王朝と、当時中国西方から北方の満州まで民の勢力範囲を取り囲むように存在していたモンゴル政権の連続性を否定しにかかります。 元の北走直後に崩御した元の最後の皇帝であったトゴン・テムルを「順帝」(天意に順じ明に帝位を譲った、という意味)と諡して「元から明に帝位が譲られた」ことをアピールし、トゴン・テムルの後を継いで北元のハーンとなったアユルシリダラは「故元太子」と呼んで皇帝ではないことをアピールしました。この一環で行われたのが北元の呼称です。当然ながら「北元」などと呼んでしまうと「元の後継政権」であることを認めることになってしまうため、別の呼称を考え出します。そこで用いられたのが「韃靼」です。 もちろん何もないのに国号を変えることは出来ません。北走から20年ほど経って、クビライ末裔のハーンであるトグス・テムルが殺害されてクビライの弟であるアリクブケの末裔であるイェスデルがハーンとなります。明はこれを「王朝交代」と捉え、ここで元が完全に滅亡したと見なすようになりました。この後の北元を指したのが「韃靼」というわけです。 この段階に至って漸く「タタル」の用法と「だったん」の用法がほぼ一致するに至っています。 日本ではこの「韃靼」という用語が江戸時代頃から使われており、現在の中国東北部から中国北方、中央アジアに至るまでの広い範囲を指していたようですが、当然これらの地域に関する詳細な知識は入っておらず、「韃靼」の詳細な定義は成されていません。 そのため、モンゴル高原よりも更に西方に分布するキプチャクとも呼称されたテュルク系民族のポロヴェツ人をタイトルに含む、アレクサンドル・ボロディンが作曲したオペラ「イーゴリ公」の中の「ポロヴェツ人の踊り(Polovetsian Dances)」の邦名が「ダッタン人の踊り」となっているわけです。
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質問者からのお礼コメント
ラストが一番刺さりました。 「ダッタン人の躍り」と、ジンギスカンと、弁髪がどうしてもつながらなかったのですが、納得いたしました。 ありがとうございました。
お礼日時:2022/4/18 6:05
その他の回答(4件)
「韃靼」(ダッタン)という言葉の用法に注意する必要があります。 広義では、長城以北の遊牧民全般を指しますが、狭義では、東モンゴルのモンゴル系の一部族を指します。 満州人が「韃靼」であるというのは、前者の用法です。 しかし、後者の用法なら、「韃靼」はあくまでモンゴル系の民族のみを指し、ツングース系の女真族(のち満州族に改名)はそこに入りません。 ……以上の説明で理解してもらえたでしょうか。
女真族はツングース系の民族でモンゴル系ではありません。女真は、清のヌルハチとホンタイジの時代に満州に改められました。 ホンタイジの妃はチンギス・ハンの弟ジョチ・カサル末裔で、北元の末裔から投降時に元の玉爾を贈られた事から国号を後金から清と改めて皇帝に即位しました。
モンゴル族の方にうかがったことがありますが、満族はモンゴル族の一部族だったそうです。 満族は豚を飼育していたために次第に定住生活を始め、漢族との交流も始まり、ついには同化が始まりました。 故宮博物院で見られる満州文字はモンゴル文字と同じもので、モンゴル族にも読めるものだそうです。
辮髪の女真族は韃靼族ではありません。 韃靼族は基本的にはモンゴル系です。まあ、ロシアには、トルコ系と思われるコーカソイドのタタール族がいますけど。韃靼(タタール)族と名乗る人々は、世界史で様々な時代に出てきますが、同じ民族ではないことも多いです。 モンゴルと女真族は、どちらもフィンウゴル語族に属しているようなので、言語が近いと言えば近いですが、同じではありませんし、モンゴル人が女真族になったということもありません。 まあ、清は、モンゴル族を親戚民族として、重用していましたけど。