『星獣戦隊ギンガマン』第四十六章『怒りの風』
◾️第四十六章『怒りの風』
(脚本:小林靖子 演出:辻野正人)
導入
本レビューが投稿されている頃にはYouTubeでの配信はとうに終えているだろうが、正直もう何千回・何万回と見てきた映像なので本当は配信なんかに合わせなくてもよかったりはする。
さて、今回の配信はハヤテ最後のメイン回であり、次回のヒカルメイン回に備え、ハヤテ自身のドラマも今回で1つの完結を見ることになったわけだが、色々と感慨深いまとめ方になった。
前回のサヤが明らかに失敗だっただけに、今回改めてハヤテというキャラクターがどのようにして成立していたのか、似た立ち位置にあるヒュウガとの差別化の中で明らかとなる。
とはいえ、今回描かれていた内容はさして特別なものではなく、ぶっちゃけていえば第九章からハヤテメイン回を追い続けた人にとっては「そんなの当たり前」と思うようなものばかりだ。
だが、今回はギンガグリーン/ハヤテが単なる「2枚目のイケメン」「冷静沈着な参謀」というありがちな戦隊キャラクターの造形からまるで収まりのつかない細部を捻り出すことに成功した。
シェリンダとの因縁、ギンガの森で自分の帰りを待っているミハルという婚約者、さらに自分と似た立ち位置にありながら、全く異なった道を進んでいる黒騎士ヒュウガとの差別化。
そして今回「怒りの風」というタイトルが示すように「怒り」が果たして何なのか?何に対する怒りなのか?この細部に至るまでを細かく検証した人はおそらくおるまい、私以外は。
そしてその「怒り」こそが同時にハヤテとヒュウガの差別化を図ると同時に、他の戦隊にある2番手キャラにない独自性をも担保するほどのものになったはずだ。
そういう意味で今回は実は「王道的なように見えて実は例外的」という再現性の無さ=独自性の高さを感じさせるものであり、こういうところが本作を最高傑作どころか殿堂入りたらしめている所以なのだろう。
風と怒り、まるで似ても似つかない単語が共起しているが、風というものが必ずしも人類にとって味方してくれるようなものではないことを端的に示してくれていたのではと思えてならない。
それを今回ハヤテはシェリンダとの戦いの中でアクションとして現れたと同時に、魔人ザッカスに対する勝ち方においても現れているという非常に面白いところだった。
要素自体は第十章「風の笛」で提示されていたものばかりなので新鮮味はないが、新鮮味がない=つまらないではなく、むしろ初期に提示した要素を繰り返し用いることで意味を深めると同時に「ずらし」を入れている。
今回のポイントは大まかに分けて以下の3つだ。
ハヤテの「怒り」がなぜ終盤で発露したのか?
「個人の名前」を認識するということ
ハヤテとヒュウガの決定的な違い
さあ、最後のハヤテメイン回がどのようなものであったか、改めて本質へ迫る形でレビューしよう。
ハヤテの「怒り」がなぜ終盤で発露したのか?
今回ハヤテの「怒り」がなぜこの終盤で改めて発露したのかということだが、そもそもスーパー戦隊シリーズにおいてハヤテのような2番手キャラが怒りに我を忘れること自体がありそうでない展開である。
その方法も決して褒められたものではなく、シェリンダがハヤテの落としたポーチのお守りを勝手に盗み、貝殻状の呪具でハヤテの婚約者・ミハルを勝手に再現し、ハヤテを襲わせハヤテが倒すように仕向けたというものだ。
要するに「身内同士の滅し合い=内ゲバ」を擬似的な形とはいえ誘発したことであり、思えばバルバンが組織内部でいつもやっていることをギンガマン側にやらせようとしたということだろう。
しかもそれを行ったシェリンダの動機が「自分に意識を向けてもらいたかったから」などという、ちょうど今SNSに跳梁跋扈している自己承認欲求の塊であるネット民とまるで同じ行為である。
宇宙海賊とはいえやることが小さすぎてしょうもないことだったわけだが、そのしょうもないことがハヤテの地雷を踏む結果となってしまったことが怒りの引き金となっていた。
その「怒り」とは第一章でギンガレッド/リョウマが見せていた「怒り」とは質がやや異なるものであり、リョウマの場合は発端が「兄・ヒュウガを地の底に沈められたこと」である。
確かにリョウマはあの時怒ったが、その怒りは言うなればリョウマ一人のものではなくギンガマン全体として持っていたバルバンに対する「絶対許さないぞ」という気持ちだ。
だから、リョウマは無自覚だったであろうが、あの怒りはあくまできっかけに過ぎず、大事なのはそのきっかけでリョウマが自身の中にあった強大なアースと共に戦闘民族としての闘争心を覚醒させることだった。
一方、ハヤテの怒りはそのような「ヒーローとしての至極真っ当な怒り」などではなく、もっと個人的かつ局所的な「私」の部分における怒りであったのだ。
これが今回の白眉であり、小林靖子をはじめ本作の作り手はあくまでギンガグリーン/ハヤテには一貫して「2番手」であることを求め続け、冷静沈着な振る舞いを心がけるようにしていた。
そのハヤテの「綺麗でない部分=獰猛な野生味」を今回改めて末吉宏司という役者を使って描き出してみせたことが今回の優れたポイントであり、どんな称賛も惜しむまい。
後述するが、それだけギンガグリーン/ハヤテにとってシェリンダという存在がもはや個人レベルで滅却したいほどに憎らしい存在に映ったということだろう。
ヒカルのような普段やんちゃな子が激情するのとは違い、普段どのようなことがあったとしても怒るまいと、中立的であろうとしたハヤテがそうなったことが大きい。
尚且つ、この個人イベントが生じたのが青山勇太少年が傷ついて弱っている子犬を連れてきたことであり、そこに対してシェリンダが一方的な因縁をつけるという図式だ。
まんま第三十一章の繰り返しになるのだが、勇太少年は今回は冒頭とラストシーン以外には話の中心に入ってきていない、これはすなわち勇太少年にはそのような個人的因縁に巻き込まない作り手の計算である。
見逃しがちであるが、今回は改めてハヤテのパーソナルスペースに立ち入る大人の話であったがために、このような生々しい細部に子供を巻き込むわけにはいかないということだろう。
「個人の名前」を認識するということ
さて、今回ハヤテの「怒り」を表出する前にこのような会話の応酬があった。
ハヤテ「お前の名は?」
シェリンダ「バルバン 操舵士ッ!…シェリンダ!!」
ハヤテ「シェリンダ。お前は俺の大切なものを汚した……お前は…俺が倒すッ!」
シェリンダ「その言葉を待っていた!…来い、ギンガグリーン・ハヤテ!」
実は終盤にもなってこのような「個人の名前」をギンガマンが認識するという展開はありそうで意外にないものだ、なぜならば名前というものは「勝手に他人がつけたものだから」である。
もちろん全く名前を呼ばないわけではない、ゼイハブは全員共通で名前で呼んでいるし、他にも第十二章でギンガレッド/リョウマがサンバッシュの名前を個人名で呼んでいた。
そして後半だとギンガイエロー/ヒカルとビズネラも個人的な因縁があるから名前で呼んでおり、またブクラテスとヒュウガの方も「ブクラテス」「黒騎士」という呼び方になっている。
これが珍しい細部として映るのは、そもそもスーパー戦隊自体に「名前で呼び合う」という文化があまり存在しないということが挙げられるのではなかろうか。
スーパー戦隊シリーズにおけるメンバー間の呼称の関係性については以下のサイトにて考察されている。
で、このことに関して「ギンガマン」ではwikiも含めて「ギンガマンにとっては星を守る戦いだからバルバンを個人名で呼ぶことはない」というふうに記載されてきた。
もちろんそれもそれで間違いではないのだが、100%正確な記述というわけではなく、対バルバンにおいても個人名を呼ぶということはある。
ただ、今回のようにギンガマン側がバルバンの名前を聞いた上で倒すべき敵と認識したという展開はおそらく今回が最初で最後だ。
やり取りだけを見れば普通にヒーローであるかのように見えるが、ハヤテが「俺の大切なものを汚した!」というふうに言っている。
ここでいう「大切なもの」とは決してミハルだけのことではない、もちろんそれもあるが、それ以上に自分のパーソナルスペースへ入って来られたことへの苛立ちだろう。
ハヤテがミハルを大切に思っていることはメンバーたちも知っている、だからこそハヤテのそれを尊重し、メンバーはあまり余計なことを言わない。
しかし、ミハルがやってみせたことはそのハヤテの大切な部分に踏み込み、あまつさえそれを自分に意識を向けるために利用してみせたことだ。
ちょうど2年ほど前に関わったZ世代と思しき鬼滅信者兼ドラゴンボールアンチのあの人などは正にそういうシェリンダのような存在だった。
自分の大好きなものを否定される、自分に意識を向けてもらえないことに腹を立ててこちらに意識を向けさせようとする、にもかかわらず私が好きなものはひたすらdisる。
正に今のZ世代の内面を先取りしたかのような存在がシェリンダではなかろうか、人のものは無遠慮・無神経に汚すくせに自分の大切なものを汚されると腹を立てる。
そういう意味ではシェリンダという存在はある意味でZ世代、分けてもSNSで目先の自己承認欲求を目指す思考停止状態のクズと同列のメンタリティーかもしれない。
「一緒にするな」と言われそうだ、悪役といえどそんなことを平気でやるようなのがZ世代以降の末恐ろしいとこである。
ハヤテとヒュウガの決定的な違い
そしてもう1つはハヤテとヒュウガの違いだが、これはもう単純に「私」の部分において大切なものを奪われた時にどう反応するか?ということだ。
ヒュウガにはリョウマ、そしてハヤテにはミハルという大切に思う存在がいるわけだが、それを失ったり穢されたりした時の反応が異なる。
ヒュウガは第四十一章がそうであるように取り乱すころがあったとしても、ハヤテと違って決して復讐や負の感情に流されることがない。
それが同時にヒュウガの優等生的なカリスマ性にもつながっているのだが、ハヤテはヒュウガのような優等生タイプではないとわかるだろう。
ヒュウガはハヤテのように内面に仕舞い隠すほどのものは持っていない、何なら戦う目的のためなら「私」すらも全部を捨ててしまうところがある。
だからこそブクラテスの復讐にも流されがちなところがあるわけだが、ヒュウガの場合はそのような「優等生」の思考がマイナスに働いていた。
一方でハヤテは「優秀」でははあるが、だからと言って「優等生」ではないし、むしろ異端児のような雰囲気さえ漂わせている。
そんなハヤテはヒュウガとは違い大切なものを奪われたら怒りをきちんと表すということがここで示されているのではないだろうか。
逆にいえば、小林靖子はのちの「未来戦隊タイムレンジャー」のリュウヤ隊長もそうだが、優等生やカリスマは「怒らない」というイメージが強いのだろう。
ただ、悪くいえばそれは「型にハマった思考しかできない」ということの表れでもあって、だから逆境に追い込まれると意外と弱かったりもする。
そのように考えていくと、小林靖子脚本はよく「優等生が書いたような脚本」と言われがちだが、実際は優等生とは真逆の反逆児ではないだろうか。
どこまでも上原正三・曽田博久・井上敏樹が作ったセオリーの真逆、道なき道を行くところがとても小林靖子らしいとも思う。
そんな彼女の作風は決して時代に左右されることがない、なぜならば目先ではなく長期で見て本質的な部分に対する問いと答えを出しているからだ。
今回でいえばハヤテの「怒り」が正にそれであり、リョウマともヒカルとも違う「怒り」の表現はいまだに衝撃であり続ける。
それでいて、あくまでも「星を守るための戦い」であることは忘れないのがギンガマンらしく素晴らしいところである。
思えば本作は「走る」戦隊であると同時に「怒る」戦隊であることが改めて強調された作りだろう。
総評
最後のハヤテメイン回だったが、内容自体はこれまでの流れから読み取れるものばかりであり、尚且つ映像としても特別なものは使われていない。
しかし、これまでの積み重ねからギンガグリーン/ハヤテの中にある「怒り」を引き出せいて見せるという流れをしっかり画面に提示してみせた。
シェリンダとの因縁、ミハルとの関わり、ヒュウガとの差異など全てがしっかり一本戦で肉付けされ、ここにハヤテのドラマも1つの完結を見る。
最終回を前にこういうことを言うのも何だが「有終の美」をある意味飾ったと言えるだろう。
総合評価:S(傑作)100点満点中105点



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