『星獣戦隊ギンガマン』第四十三章『伝説の足跡』
◾️第四十三章『伝説の足跡』
(脚本:沖田徹男 演出:田崎竜太)
導入
今回はスーパー戦隊シリーズである種定番となりつつあった「総集編」と呼ばれる回なのだが、正直この回自体は単品で見るとさして面白くない。
しかし、元々「ギンガマン」自体の作品の魅力がとてつもなく強いからか、今回の再視聴では最後まで普通に見ることができてしまった。
過去の映像が挟まれていることも含めてだが、「ギンガマン」という作品の魅力は決して「物語」だけではなく「映像=画」の持つ力が強いということだ。
映像の持つ力とはもちろん「どれだけ綺麗な画が撮れるか?」といったような、あるいは「いかに最先端の技術を使っているか?」といった底の浅い次元ではない。
髙寺成紀をはじめとする本作に関わる全てのスタッフ・キャストが集結して撮る「作品」それ自体がもはや国籍とか人種とか、あるいは「特撮」「戦隊モノ」というジャンルそのものをも超越しててしまっているのだ。
それでいて、でも根っこの部分はきちんと「戦隊」というところを押さえているから、少なくともどこぞの「俺たちは戦隊だ!」ばかり連呼している脳死状態の戦隊まがいの何者かであった2013年の作品とはそこが大きく異なる。
今まではどちらかといえば「物語」を中心にしたレビューに重点を置いてきたが、改めて本作はそもそも「撮り方」「見せ方」の部分に全くブレがないから安心して見られるということなのだ。
それを理解できない方々はくだらない枝葉末節のどうでもことばかりを議論しているようだが、私は当然ながらそんなものには全く興味がないし、やはり経験数を重ねれば重ねるほど見えるものも異なってくる。
今回のレビューは以下の3つのポイントだ。
ギンガマンの持つ「画の魅力」+「物語の魅力」
「型にはめる」ことでしか「型から自由になる」ことは不可能
「ギンガマン」は決して「スーパー戦隊代表作」ではない
ではかなり短めではあるが、サクッとレビューしていこう・
ギンガマンの持つ「画の魅力」+「物語の魅力」
まず、『星獣戦隊ギンガマン』という作品の魅力は決して「画の魅力」だけでも「物語の魅力」だけでもない、両方が非常に高いレベルでバランスが取れており、しかもその完成度が唯一無二と言えるほどだ。
本作はあくまでも「青山親子史観論」と言う、「デジモンアドベンチャー」「デジモンアドベンチャー02」が「高石タケル史観論」であることと似たようなメタ的な構造になっているが、そのメタ構造であることが有効に機能している。
1つの絵本として収まるようにするということは、自然と「1枚1枚のカット・絵に迫力があってかっこよくなければならない」ことを意味し、本当に1つ1つのカットが異常なほどに美しい。
それは構図がしっかりしているとかロケーションがいいとか、そういうことももちろん大きな要因としてあるわけだが、それ以上に大きいのはやはり「1枚の絵画のように1つ1つのカットができている」と言うことだ。
歴代戦隊はもちろんのこと、あらゆる特撮作品の中でもこの「絵画」のようなレベルで完成している作品は少なく、しかもこれみよがしに見せつけているような感じがしないところもまたいいのである。
何度も言っているが本作は決して突発的に生まれた作品ではなく前作『電磁戦隊メガレンジャー』までの90年代戦隊の蓄積を踏まえて生まれてきたわけだが、映像美そのもので楽しませる作品はほとんどない。
強いて言えば『鳥人戦隊ジェットマン』『五星戦隊ダイレンジャー』『激走戦隊カーレンジャー』は画面それ自体が持つ迫力がとてつもなくあるわけだが、それでも本作に比べたら1ランク下がってしまう。
それほどまでに本作は物語の魅力以上に画面それ自体が持つ力、要するに「ショット」そのものがYouTubeで見るには勿体なさすぎるくらいの迫力をもって画面から飛び出てくるような魅力を持っている。
そしてそれを支えているのが根幹にある「物語」の魅力なのだが、本作は何度も述べているように決して他の作品と比べて何か特別なことや変わったことをしているわけではない。
しかし、その「当たり前のこと」を決して「当たり前」としてではなく極限まで掘り下げて、それ以上ないレベルまで徹底的に詰めているからこその洗練された魅力が溢れ出ているのだ。
どうしても本作は小林靖子の脚本が優れているがために「物語」の観点がどうしても評価されがちだが、物語が優れているのはある意味で当然のことである、何も難しいことはしていないのだから。
大事なのはその「物語」をどのようにして「見せるか」にあるわけで、その「見せ方」の部分が他の小林靖子メインライター作品とも、またその他の戦隊とも大きく異なっていると思う。
ただ順番に振り返っているだけなのにも関わらず、どのシーンがどれかというのが見るだけ「ああ、この話のこの場面だ」という結びつきができてしまうのが恐ろしいところだ。
そう、この「ショットの美しさ」と「物語の再現性」が非常に高いレベルで連動しており、クオリティーの低い話があったとしても「この話はここ」という結びつきができてしまう。
そう言う意味で本作はとても「映画的」であるといえ、本作はさも「物語」がありきで作られたように思われるが、実際は逆で「ショット」ありきで作られている。
つまり「こういうイメージのヒーローにしたい」ということが「物語」としてではなく「映像」それ自体が伝わってくるという点において本作以上の作品は存在しない。
この「ショットを頭から再現できる」というところの再現性に優れているからこそ本作は単なる「王道戦隊」という括りには収まらない独自の魅力を誇っているのだ。
そこの「何を見せたいか?」「どういうヒーローとして描きたいか?」という「目的」が明確だからこそこれだけできるわけだが、その上でここまで連動性が完璧な作品はない。
単純に映像が綺麗なだけの作品もドラマが優れているだけの作品もごまんとある、だがそれだけではこの領域にたどり着くことはできないであろう。
そこがA(名作)かS(傑作)かの分水嶺となるわけであり、本作は大量のエピゴーネンを後に生み出しながらも、作品としての独自性で本作に匹敵するものは存在しない。
「型にはめる」ことでしか「型から自由になる」ことは不可能
そして本作の素晴らしいところは、「型にはめる」ことによってしか「型から自由になる」ことは不可能であるということだ。
実はこれが簡単なようでいてとても難しく、それこそ言語化することが難しいのだが、比較的近い感覚で言えばやはり小津に言及した蓮實重彦の次の説がそうだろうか。
小津安二郎は何よりもまず映画作家である。そのことの意味を誤解しないでほしい。彼が映画を撮ったのは〈思想〉を伝達したり〈問題〉を解決したりするためではなく、映画という媒体に何が可能で何が不可能であるか、その限界をきわめつくす必要を感じていたからだ。(中略)そのため小津は、厳格な形式的な自己拘束をうけいれる。形式による自己拘束とは、形式主義の対極にあるべき自由への試みなのだ。それは、厳格さを介した解放の身振りだとしてもよい。
ここなのだ、例えば小津安二郎の後期の作品群が「形式による自己拘束とは、形式主義の対極にあるべき自由への試み」であるように、「ギンガマン」という作品もある意味ではそういう「小津的な形式による自己拘束」というものを感じてならない。
もちろんこの感覚が私個人の錯覚に過ぎないことは重々承知だが、髙寺成紀をはじめとする本作の作り手は「戦隊には何ができて何ができないのか?何を語れて何を語れないのか?」というところに対して極めて挑戦的な作品と言えるだろう。
以前に私が交流を持たせてもらっていたZ世代のある人が「「ギンガマン」は100人中1000人が素晴らしいと褒める作品」「単なる王道戦隊の超すごい版程度だと思っていたらあまりの迫力に打ちのめされた。舐めていた」という呟いていた。
それはある意味で当然のことではある、なぜならば本作は徹底して「戦隊だからこそできないこと」の限界に向き合うことでその限界を露呈させた上で「戦隊的なるもの」を逆に破壊することに心血を注いだ作品だからだ。
実際小林靖子の本作の脚本は『未来戦隊タイムレンジャー』以後ほどの癖が強いわけでも個性的であるというわけでもない、1つ1つの展開もショットも全てがある意味では凡庸とさえ言えるくらいに「普通」である。
だがその「普通っぽさ」をとことんまで突き詰め、その上で「この展開はもっとこうできる」というのを映像と物語の両面から詰めていくことによって、「王道的なようでいて独自性が高い」という領域に昇華できたのだ。
いわゆる「守破離」の原則なのだが、徹底して「守る」ことでしか、その先にある「破る」ことと「離れる」ことも実現しないわけで、本作はそういう意味で過去の「戦隊」には近づいているが、そこから見事に身を離している。
これは近年のスーパー戦隊に限らないが、「表現の自由」というものを勘違いしている近年の作品群を見ていて改めて思うことだが、「自由」とは決して「好き勝手」「放埒」「やりたい放題」という意味ではない。
いかに制約がある中で知恵を絞って面白いものを作り出すか?というのが本当の意味での「自由」なのであって、好き勝手やった結果が評価されるというのは本質的な意味での「自由」ではないのだ。
前2作がいわゆる意識的に「自由」であろうとしてその限界点にぶち当たったのに対して(どちらも最終的にはヒーローの敗北を描いている)、本作はその「ヒーローの敗北」を逆に教訓化している。
第一章から本作はヒーロー側にも敵側にも「制約と誓約」を持たせており、ギンガマンもバルバンも物語上で決められたルールから逃れることはできないのだが、そこを受け入れた上で動かしていくことで逆にルールから自由になれる。
だから後半〜終盤になって、実は序盤で使われていた展開を繰り返しながらも、話の展開と映像としては全く別のものに仕上がってしまうというようなある種の矛盾・限界に辿り着くことも意図してそうなるというより自然にたどり着いた結果だろう。
ただ「星を守る戦士の物語」というそれ自体は珍しくもなんともないものにどれだけの説得力と色気を宿らせることができているかということに成功した作品だからこそ、自己拘束から解き放たれることが可能になったのだ。
「ギンガマン」は決して「スーパー戦隊代表作」ではない
こうして総集編をたどり着くと『星獣戦隊ギンガマン』は決して「スーパー戦隊代表作」ではない例外性と独自性を獲得できた作品ということであり、その点において本作以上の作品はないだろう。
スーパー戦隊大投票もそうだが、本作は決してスーパー戦隊のファンが両手挙げて大絶賛するような作品でもないし、小林靖子メインライター作品として見てもいちばんに好きな作品として挙げる人は少ない。
でも逆にそれがいいのではないかと思う、なぜならばそんなランキング形式で即座に挙げられて即座に語られるような作品ということは、逆に言えばすぐに消費されてしまう程度の価値しかないということでもある。
実際『侍戦隊シンケンジャー』『王様戦隊キングオージャー』辺りはそうではないか、あれらはいかにも作為的に「オタク向けにこういうもの作っておけば喜ぶだろう」という意識で作られた作品だ。
それこそ似たようなスタンスの作品で言うと、『勇者エクスカイザー』を作られた時に「アニメ雑誌に載らないような作品にしたい」というのがあったが、それは決してマイナスの意味からくるものではない。
大衆が持て囃している人気の作品というのは大抵の場合目先のWantやニーズを満たすものでしかなく、決して裏で語られるほどの作品にはならないのだ、近年だと「鬼滅の刃」「推しの子」とかそうだろう。
あれだけの社会現象と言えるほどの大ヒットを飛ばしながらも、じゃあ作品自体は今でも語り継がれるほどの作品なのかというと、別にそんなことはない。
そういう意味では「シンケンジャー」辺りはもう小林靖子信者をはじめとするオタクどもに擦られ消費され過ぎて、もはや批評する旨味がなくなったといえるだろう。
本作はそう言う意味では決して「スーパー戦隊代表作」などではない、少なくとも3年後の『百獣戦隊ガオレンジャー』みたいに目先の数字のために作品の内実を蔑ろにした作品ではない。
だが、だからと言ってオタク向け・マニア向けに作為的に作られたような『超獣戦隊ライブマン』『未来戦隊タイムレンジャー』『轟轟戦隊ボウケンジャー』ほどに尖っているわけでもないのだ。
真に優れた作品は決して目立つようなところには存在しておらず自己主張もしない、だが本気を出せば、一度作品を見れば誰もがその映像美に唸らざるを得ない。
だから単純に「人気である」「有名な俳優が出ている」だけの作品ではないし、別に歴史的に特別変わったことや革新的なことをやっている『鳥人戦隊ジェットマン』のような作品でもない。
どこの位置にも属さない不思議な位置付けにある作品として評価した方がいいのかもしれない、多くの亜種を生み出させながら、自らは決してどこにも属さない。
決して好き勝手やっているわけではなく作品として、戦隊として守るべき枠は遵守しつつも、徹底的に型を守ることでかえって型を破ってしまう作品。
そんな作品だからこそ私自身も見直すたびにいろんな面から語ることができるし、常に新しい批評が生まれる作品こそ真に独創性のある、長く生き残る作品だ。
本作が上位6%の作品として『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』と並んでこの3作さえあれば、他の戦隊は見なくても語らなくてもいいと断言できる。
総評
今回はスーパー戦隊にありがちな「普通の総集編」の域を抜け出ないものではあったが、最後まで見られたのは本作が積み上げてきた型が強固だからである。
1つ1つの絵の迫力とそれを支える物語との連動性、そして徹底して自己拘束することによってかえって真の自由を獲得するに至ることを感じさせる構成。
内容はほとんど学芸会に毛が生えたレベルのことしか語っていないのだが、本作はどこで切り取って見事な一枚の絵になっている。
まさに「映画」「映画的」といえるほどに魅力のしっかりしたB(良作)100点満点中70点といったところか。



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