アパグループ創業者、元谷外志雄氏が逝去

アパホテル&リゾート〈大阪難波駅タワー〉

アパグループは、創業者で会長の元谷外志雄氏が、2月11日に逝去したことを明らかにした。

元谷外志雄氏は、1943年生まれの82歳。父は戦時中に軍需工場、元谷木工製作所を営む実業家だったものの結核を患い、中学生の時に逝去。元谷氏は長男として、工場を仕切った貸間業のほか、回収業などで家計を支えた。奨学金を得て進学した小松高等学校を卒業後、現はくさん信用金庫に入行するとともに、慶応大学経済学部通信教育課程に入学。北陸地区信用金庫労働組合連合会の副議長などを経て、1971年4月に当時の信金開発(現アパグループ)を創業。3信用金庫の合併に賛成することと引き換えに退職し、同庫に当時なかった元利均等返済の長期住宅ローンを商品化させ、会社員もわずかな頭金で住宅を購入できるようにした。

信金開発は注文住宅から戸建分譲、マンション分譲、ホテル事業、総合都市開発へと事業を拡大した。1997年にランドー・アソシエイツ・ジャパンと提携してコーポレート・アイデンティティを導入し、社名をアパグループに変更した。2002年に本社を東京に移転した。グループ会社は19社に及ぶ。

中でも、マンション分譲の売却益をホテルの減価償却と損益通算し、利益を圧縮する目的から初めたホテル事業は、1984年12月に開業したアパホテル〈金沢片町〉から北陸、全国へ拡大。2005年には当時日本最高層のホテルであった旧幕張プリンスホテルを買収し、翌年にアパホテル&リゾート〈東京ベイ幕張〉をオープンした。コンパクトかつ機能性に優れ、利便性が高い客室コンセプト「新都市型ホテル」は支持され、主要都市や主要駅近くを中心に多く展開した。2010年には東京都心で圧倒的地位を確立する戦略、2015年には地方中核都市へとエリアを拡大し、大型タワーホテルの出店を積極化する戦略、2020年には5年間でネットワークで15万室に拡大する戦略を発表した。低金利下で直営ホテルの大半を所有し、2,000万人以上の会員を誇る、一大チェーンを築き上げた。会員プログラムでは当初からキャッシュバックシステムを提供したことから出張族に支持され、高い稼働率や送客手数料の削減に貢献した。

バブル景気にはブラックマンデーを機に土地の暴落を予見し、不動産や資産の売却を断行。2007年には田村水落設計の水落光男建築士が構造計算を手掛けたホテルで、耐震強度不足が発覚。金融機関から借金の返済を求められ、一部の資産をリーマン・ショック前年に高値で売却したものの、暴落後に売却益で底値で用地を購入できるなど、強運も味方につけた。コロナ禍には政府の要請を受け、コロナ軽症者療養や入国者の隔離のため、自治体へのホテルの一棟貸しを即決。新築のタワーホテル、アパホテル&リゾート〈横浜ベイタワー〉などを貸し出した。

近年はデジタル・トランスフォーメーションを積極化し、二次元バーコードをかざすと1秒でチェックイン手続きが完了する「1秒チェックイン」、チェックアウト時のカードキー投函ボックス「エクスプレスチェックアウトポスト」を導入し、オペレーションを効率化させることによって、客室稼働率を高めることに成功した。

創業以来黒字を継続するなど、卓越した先見性や強いリーダーシップといった経営手腕にも注目されたものの、創業50周年を機に、2022年4月に新体制に移行し、長男の一志氏が社長兼CEO、次男の拓氏が専務に就任し、元谷氏は会長として世代移行を進めた。

事業の傍らで言論活動にも力を入れ、藤誠志のペンネームで、アパグループの月刊誌「Apple Town」へ社会時評エッセイを32年に亘って掲載していたものの、2025年8月号をもって終了していた。「報道されない近現代史」などの著書を発表したほか、「真の近現代史観」懸賞論文制度、「アパ日本再興大賞」表彰制度、「勝兵塾」を主催していた。

妻は信用金庫の労働組合の会合時に出会った芙美子氏で、起業前の1970年に結婚。当初は営業として活躍したものの、アパホテルの社長に就任。”アパ社長”として「私が社長です」のキャッチフレーズとともに会社の顔となり、元谷氏と二人三脚で活躍した。

通夜と告別式は近親者のみにて執り行った。後日、お別れの会を予定している。