【玄闇ノ譚】弐ノ章 山の麓の一行
拾壱
拾壱
――六十四年前。
その日、梟福殿――
夜半、目を光らせて山岳郷の大霊山近傍を飛び、眼下睨む。
夜風が躰をなぶるように吹いている。自分は周囲の山々より高い位置を飛び、希薄な空気を、ものともせずやり過ごす。
天狗が高空域で活動できることには理由がいくつかあると考えられていた。
まずひとつに、血中の酸素運搬効率が極めて高いこと。
少量の酸素を無駄なく肉体に巡らせる機能があるため、並大抵の妖怪や人間ならあっという間に気を失う環境下でも、平素と変わらぬ振る舞いができる。
さらに、天狗の特徴である翼は筋肉の塊。ここに膨大な酸素を溜め込むことで、一定の「酸素貯蔵器官」のような役割を果たしている。
この二つの理由があり、天狗は普通の生物なら死に絶える領域を飛んでいられる。
余談だが、鬼も同じ理由から、山に強い。
彼らは過密・超密度の筋肉に大量の酸素を溜め込むことで、高山地帯への瞬間的かつ完全な適応を可能としている。
なつめは膜の張った瞳を、首を回しながら巡らせた。
膜の正体は、粘質な涙である。妖力を練り込んだこの涙膜は、高高度の環境で瞳を守る役割を持つ。
フクロウの因子を強く継ぐなつめは、視野の補正、拡大などを容易に行う能力を生得的に持っており、また、夜間視力も高い。
夜警にこの上ない人材と言えよう。
くわえてフクロウは、耳が良い。
なつめの顔を真正面から見ると、実は、右耳が少しだけ左耳より低い位置にある。
こうすることで、音響差をつけて音響測定をおこなっている。
怪しげな光の気配や、異音ともあれば、即座に降下してそれを目視し、脅威であれば一切の手段を問わず排除する。それが彼女のお役目であった。
この危険な夜警という仕事についてかれこれ二年。なつめはすで、己だけで十九の脅威を排除。不穏分子――内部から膿のごとく淀み滲んだ不逞者、外から入り込んだ愚物を悉く殺害している。
本来は痛めつけて社に放り出せばよいが、この頃の――六十四年前の――なつめは、まだ、若かった。
彼女はまだ齢二十三。妖怪としては、神童と呼ばれているだけで、実際は赤子のようなもの。
物事の判断は、まだ白と黒が基本であった。
もともと、険のある顔立ちであった。父者に似て眼力が強く、口は、への字に曲げていることのほうが多い。
母者はよく「嫁の貰い手がありませんよ」等と言っていたが、なつめは「いらぬ、私より弱い男など」と吐き捨てる始末である。
ゆえにこのなつめ、幼い頃から人形や、かるた、裁縫、すごろくなどにとんと興味を示さず。
どこかから持ってきた棒切れをふりまわし、あろうことか近所の少年や己の兄を追い回す始末だ。
乱暴者の末娘に頭を抱える父は、なつめのきかん坊っぷりを郷に役立てるにはどうしたらと考えた末に、
「なつめ、お前はひょっとして
と、いっそあけすけなほどはきと問うた。
「いいえ。神使になりとうございます」
なつめが十の頃である。
父はつてを頼り、また、神社に奉公に出ている長女――のちに、智の神使となる女、
なつめは、神前にて仕合に出られることとなった。
なつめは数千、あるいは数万段、もしくは登る者の精神次第で千変万化とも噂される総本山への階段を、いつも通りの済ました顔で登っていた――手に、先端を綿と布で丸めた棒を持って。
父者はこの階段を、何度か登っている。歳を食うと少々骨が折れるが、まだ一二〇歳。子供には負けない。
「命は奪ってはならぬぞ」
「努力はしますが。弱い相手に合わせるつもりは毛頭のうございます、父上」
「お主のようなのを、
「……父者も、天狗では?」
「……のちにわかる」
「息が上がっています。父者、このままでは日が暮れます」
「言うてくれるわ」
ややあって――。
なつめは、天嵐神社総本社、雅楽がなめらかに漂うそこで、相手を睨んだ。
その相手は、身丈六尺七寸(二〇一センチ)もある巨漢。種族は狗賓天狗である。
対するなつめは、身丈に関しては三尺八寸(一一四センチ)。これでは勝負にもなるまいと、周囲はあきれていた。
だが。
勝負を仕切る行事が軍配を掲げ、「はじめェ」と言った、次の瞬間。
狗賓が、情け容赦なく、手にしていた長板斧を無拍子で打ち下ろした。
子供相手に油断も慢心もない攻撃。神前においては手を抜くほうが無礼であることを考えれば、むしろ、普通。
おもわず、なつめの父は膝から崩れ落ちたが。
そこからは、一方的であった――。
長板斧の振り下ろし攻撃を身を開いて躱していたなつめは、舞い上がった土煙を切り裂くように斧の背を駆けて相手の腕に登るやいなや。
棒の石突で男の右手首を打突して、骨を粉砕。
眉一つ動かさず棒を旋回させて、鉄の石突で男のこめかみを打撃。
狗賓が短く苦鳴を漏らす。
なつめは相手の肩を蹴って宙に踊ると、身をひねりつつ相手の背後に流れるように落下していき、――うなじ、肩甲骨、脾腹と臀部、左膝蓋裏をぐるぐる回転しながら連続で打撃する。
相手が声にならない悲鳴を上げてくずおれる。
そして思い切りすりあげた棒の先で、男の金玉を、ゴンッ、と打ち据えれば。
その巨体がどうと音を立てて、倒れるのだった。
「あの娘は……?」
周囲の神使、神職らがにわかに囁く。
「梟福殿の娘だそうだ。ほら、先代当主が美の筆頭だったろう」
「今の当代は、凡夫であらせられるというが」
「鳶が鷹を生むとはこのことよ――まあ、フクロウではあるがね」
なつめは、それらが聞こえていたのか不遜な遣り取りをする連中へ、びっ、と棒を向ける。
棒にへばりついていた血が跳んで、神使の一人の鉄扇に赤い花を開かせる。
「次は、そちらか」
「ひっ――」
「貴様、無礼だぞ! そも――やりすぎではないか!」
「なにをしておる! この娘を縛り上げろ! このような暴虐、謀反者のすることだぞ!」
にわかに、まずい空気。
なつめがじり、と草履を鳴らし。
周囲には、刺股を持った連中が数人現れるが。
そのとき、神前の御簾が、なつめに向けてそよいだ。
その途端、口々に悪態をついていた連中も、何事が起きようかと泡を食っていた連中も、なおも平常心で演奏していた楽師らも、みな、その場に平伏した。
「おいおい。娘っ子ひとりによってたかってなにをしておるか」
妖艶な、女の声だった。威厳に満ち、力強く、けれど落ち着き払った。
姿は見えねど、その鶴声は――。
「盛んでなにより。しかし若いのう。遺恨を残してなんになるか。……しかし。良い、その武は称賛すべきものよ。
よかろう。おい、そこの伸びておる大男を治療せよ」
神使の一人が無言で頷き、大男を軽々担いだ。
「娘、名は」
「なつめ……です」
「うん、うん。なつめ。ではなつめ、神使になりに来たのであろう?」
「はい」
「であれば妾は、ぬしに、七、八年ばかり修行を命じることになる。よいな?」
なつめは、「しゅぎょう」と鸚鵡返しにいった。
「そう、修行。タマとココロ、カラダの鍛錬じゃ。これを失して神使などありえん」
なつめは、曖昧に頷いた。
「よろしい。おうい、だれぞ、なつめに修行の段取りをつけてくれぬか――」
――それが、なつめの人生の転換期。
彼女は十七歳の冬に修業を終えて、神使として登用された。
そうして彼女は、冒頭の警邏の時代――二十三歳の春の夜に、大霊山の一角で不審な発光現象を認めた。
それは、ある――木のうろに抱かれていた大きな「卵」が発していた、翡翠の雷光であった。
これが、戦灰暦五五二年現在から数えることずっとずっと前のこと。
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