陸


 戦灰暦せんかいれき五五二年。繁茂季・一四日。

 天嵐大岳山麓町


 申の上刻(午後三時頃)。

 玄慈と禰涅は、旅籠・鶉屋に入った。

 濯ぎ盥が用意されて、二人の足を丁稚に出てきている少年らがすすぐ。

 玄慈もそうだが、実は、禰涅もまた美女である。

 少年らが何を思うかは言うまでもないが、しかし、粗相をすれば主人に叱られるため、健気に仕事をこなしていた。


 玄慈は、特定の勤め先を持たない神使である。

 武の神使は往々にしてそうだ。持ち場がなく、流動的に各地の分社などを巡り、細々とした仕事を受け、それをこなす。

 今日は十分な成果を出した――玄慈はそう判断した。

 密偵に扮した囮だけでなく、本命も捕まえ、密書ともども天嵐様へ引き渡した。

 これは大金星といっていいだろう。

 少々早いが、暇をもらってもバチは当たるまい。


「禰涅、先に風呂に入るぞ」

「ごゆっくり」

 二階の部屋で、禰涅は三指を突いて深く頭を下げる。そこまでされると流石に申し訳なくすらあるが、忍びの根性はそうすぐに抜けるものでもないのだろう。

 玄慈はしかし、彼女のその反応を見て、眉を少し開くようにして鼻から息を吐いた。

 が、禰涅はやはり勘違いしている。

「間をおいて入る必要があるか。ともに行くぞ」

「む……まあ、その方がお守りしやすいのは事実でしょうが」

「ならいくぞ」


 玄慈は禰涅とともに一階にある風呂場に向かう。

 衣服を脱いで、丁寧に畳んでかごに入れる。

 玄慈の躯は、見れば、なるほど――その男女の別を超えた美貌に得心が行く。


 彼にはまず喉仏があり、女性の乳房があり、男性器があり、女性器もある。

 すなわち、両性具有――双形ふたなりだ。

 彼は――玄慈の性自認が男に寄っているため、彼としておくが――本来的にその性別は男女の両方であり、そして、両方という躯なのだ。

 これならたしかに霊性、魔性と言える美しさにも、納得がいく。

 玄慈は長すぎるくらいに長い髪を後頭部で団子にまとめる。


 禰涅は素肌を人に見せるのが嫌いなのと、垢と一緒に普段の気の構えが流れ落ちていってしまう――という実に忍びらしい理由から、風呂嫌いだった。

 猫の妖だから、というだけで風呂嫌いというのも早計であり、別に、猫又の中にも風呂好きの者くらいいる。


 あの場で――禰涅がお先にと言ったときに玄慈が「じゃあ俺が戻るまで待っていろ」なんて言ったら、その後禰涅は「私は匂いませぬ」とか「衣だけ洗えばよいのです」とか言ったに違いない。


 彼女の実年齢は知らぬが、まさか、見た目通り二十歳そこそこということもあるまい。妖怪で、それに、元霧島隠密組の十本忍刀という経歴から、よゆうで二百年は生きていると見ていい。


 一方の玄慈は処女で童貞だから、上も下も、桜のような撫子色。脇の毛は手入れしているが、下の毛は、うっすらと茂っている。


 禰涅が、ぺろ、と舌なめずりする。

「なんだ」

「美味しそうな、まことに……仕込みがいのある躰と思いまして」

「おかしなことを……言わんでいい」


 玄慈が低い声で突き放すと、禰涅は淫靡な顔を抑えて、「お背中を流しますね」と桶で湯を掬い取ってさっとかける。

 玄慈は「自分でやれる。あまり俺を骨抜きにするな」といった。禰涅はときに尽くしすぎる。器量良しも、行き過ぎれば、やはりよくない。

 以降は、各々で躰を洗って髪をすすぎ、馬油で毛髪を整える。そうして湯船に浸かる。

 やや熱い気もするが、ぬるま湯よりはずっといい。


 湯屋は煙で視界が遮られている。音も、こもっている。

 禰涅は顎まで湯に浸かっていた。やると決めたら嫌いなことでも徹底的にやる。彼女らしい誠実さだ。

 玄慈は手ですくった湯を首やうなじにかけた。赤らんだ首筋と鎖骨が、ぞくりとするほどに扇情的に湯気を立てる。

 そうしてたっぷり湯に浸かって躰を芯まで温めると、体を手ぬぐいで丁寧に拭いた。

 持ち込んでいた木札からさっと着替えの着流しを顕現し、それに着替え直す。

 ちなみに、神社貸出の具足はすでに預けているが、個人的な具足は同じように札に入れて持ち歩いている。


 女中に着物の洗濯を頼んで、二人は部屋に戻った。

 玄慈が煙管を取り出す。禰涅が煙草の用意をしようとするのを制し、己で刻み煙草を詰めた。変わりに彼女は携帯火鉢を用意して灰の中に埋火を起こす。

 玄慈はそこから硫黄を染み込ませた紙に火を移すと、煙草に火を入れて、一服吸った。

 口の中で転がすようにきゅっと吸い、甘やかな香りを味わいながら、煙を開け放っている窓へ向けて放った。


 まだ明るいうちから宿で一服――というのは、決して、贅沢な話ではない。

 基本的に光源が限られているこの時代、明るいうちに風呂と飯を済ませねばならない。

 というのも、暗がりで作業などしていれば、いくらろうそくがあってもあちこちのものをひっくり返したり、炊事中に火事を起こす。

 そのため旅人は日が昇る前には起きて、薄明るいときに朝飯を喰らい、宿を出て日が暮れる前には次の宿場へ――というのが普通だった。


 この山岳郷も、真夜中に索道搬器ごんどらを動かすことはめったにない。光源という理由は無論だが――。

 なによりもまず、夜は神様もお眠りになられる。祭日は別として、普段は、夜は燭台で事足りる程度のちょっとした晩酌だったり、子作り以外では、神々を慮って阿呆のように騒がないのが普通だ。


 と、戸の向こうで人影が揺らぐ気配がする。

「飯が用意できました」

 旅籠の女中、あるいは主人の女房か。

「ありがたい」玄慈が応じると、戸が開いた。

 脚付き膳を持った二人の女妖怪――ムジナ妖怪が、慣れた手つきでそれを並べる。

 膳には湯気を立てる汁物、香の物、山鳥の焼き物と、山菜の煮物に、卵焼き、玄米とがある。

 さらに酒が入った大徳利が置かれ、二人の女ムジナは微笑み、辞していく。

「ごゆるりと」


 空きっ腹に酒を入れる気はないので、玄慈と禰涅は手を合わせていただきますと唱和し、食事にありつく。

 ふわふわの厚焼き玉子の旨味たるや、まさに山の味。というのも、山岳郷のだし巻き卵の「だし」は、魚介ではない。野菜くずや乾燥キノコの戻し汁、獣の骨から出た旨味汁を使っている。

 卵も、天嵐鶏テンランケイという大柄な鶏のものを使っており、ひと玉で余裕で二、三人前になる。


 玄米のちょっとぷちぷちした食感と、もっちりした噛み応え、おこげの香ばしさ。汁物は、熊肉のアラ汁。臭み消しの柑橘の乾燥粉末の風味が、涼やかだ。

 そうしてひとしきり食事を楽しんだ二人は、外が夕暮れになる頃、まだ視界がはっきりしているうちに燭台に火をともして、晩酌を始めた。


「明日以降、どうすべきか考えたのだが」

 玄慈がそう切り出すと、禰涅は乳酒を盃から飲みつつ、小さく頷いて先を促す。

「桜之丞岳へ向かい、師に――和真に会おうと思う」

「なるほど。意見を賜るということですね」

「然り。少々胡乱なことが続いた。先達に意見を求めたい」


 むしろ十八の若輩者に過ぎない自分が、浅い経験則で大きな過ちをして、郷に被害をもたらすほうがまずいだろう。

 何事も挑戦とは言うが、その挑戦で大勢を巻き込むのは大間違いだ。己の挑戦を正当化する言い訳を探す前に、まず、その道の玄人に尋ねるというのも、選択の一つである。

 禰涅はこれに賛成した。

「わかりました、ではそのように段取りを整えておきます」

「頼む」

 玄慈はそう言って、酒をぐいと呷った。

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