肆


 禰涅ねくろには主がない。

 己が霧島隠密組の十本忍刀じっぽんしのびがたなと言われていたのは、ずっとずっと昔のこと。

 あまりにも残虐かつ淫乱な忍びである己は、とうとう霧島を追放された。

 忍びとしての拠り所を失ったのである。

 霧島の頭領からみかぎられ、以来、流浪の殺し屋のようなことをしていた。

 あるとき、依頼を受けた。井筒国の藩主――否、それどころではなく、国主からの依頼である。


 ――山岳郷における最強の大妖怪、武の筆頭神使、梟福殿きょうふくでんなつめを誅殺せよ。


 禰涅はこれに挑み、返り討ちにあった。

 勝負は互角で拮抗、しかし、突如飛来した矢が禰涅の上腕骨に亀裂を入れ、握っていた銑鋧せんけん(いわゆる棒手裏剣)を手放させた。

 その毛ほどの隙をつき、なつめなる大天狗が握る杖の打突が、己の喉を突いた。

 気づいたときには股から小も大も垂れて、無様に空気を求めて死にかけの蝦蟇のごとく喘ぎ、爪で板の間をかいていた。

 げぇげぇ、反吐をこぼしながらうねりのたくり、鳴く己の胸を、なつめの足が踏みつけた。


 そのとき、ようやく落ち着いてなつめの顔を見ることができた。

 怜悧で、美しい麗人。目つきは鋭く、黄金色の髪は、本物の金のごとく煌めいていた。


 その時矢を射ったのが玄慈であり、彼は禰涅を忍びと知るなり、「俺の腕になれ」と言って、死罪から救い出してくれたのだった。

 彼に仕えるようになり、かれこれ、三節季(一節季が約六十日、三節季はおよそ半年)になる。

 これまでの馬鹿な男とは違う。肉欲でも、私欲でもないが――まるで、孤独を埋める誰かを求めるようなその寂しさが、あまりにも愛おしくて、気づけば主君と定めていた。


 ――あの方のためになら、死んでも構わぬ。死ねと言われれば、死ぬ。焙烙玉とともに爆ぜよと仰せならば、笑ってそうしよう。


 だが、こともあろうに玄慈はこういった。


 ――誰のためにも死ぬな。


 今までに一度だって、そのようなことを言われた試しはない。

 逆だ。

 死んででも任務を果たせ、殺し犯し犯されてでも任務を果たせ。

 それが、忍びである。名を持つな、名乗るな、真実を語るな。名を残すことは末代までの恥だと――そう、洗脳されてきた。


(玄慈様……)


 杉田屋の梁の上で、禰涅は息を止めて偵察していた。

 からだがまるで動いていない。死体のごとく、その微動さえも、一切無である。

 猫又は特に体臭が少なく、発汗量も少ない。


 彼女ら忍びは、常人の二倍は余裕で息を止めていられる。それこそ、水芸指南役と比較して二倍。

 加えて霧島の忍びは、通常の忍びの倍は無呼吸でいられる。禰涅ならば、五倍。

 まず、凡百の人妖であれば死んでいるであろう。


 自分は異常者なのだろう。玄慈のためを思うと、この世の一切がどうでもよい。

 あの方の喜ぶ顔をみたい。そのためならば、一日中でも息を止めていていい。


 さても、梁の下では、例の夫婦と家人の若者が、なにやら少年と折敷おしきの上の料理をつついている。

 あの少年は――先程の神社にいた、千疋狼。


 あの餓鬼め。

 禰涅は静かに呪詛する。顔色も一つ変えず、胸の内で。


 ――妖の誇りを捨てたか。


 夫婦は小声でやり取りしている。だが、禰涅には丸聞こえである。


「なるほど、索道搬器ごんどらか……」夫のほうが呟く。

 社人の袴から町民らしい着流しに着替えていた千疋狼の少年が応じる。「ええ。その連絡を絶ち、各山々を各個撃破する」


 間違いない、あの少年は敵方に寝返ったのだ。

 そのとき、階下のやり取りが聞こえてきた。玄慈だろう。

 その会話のやり取りの中に、「剃刀くらいはいいだろう」という声が混じっているのを聞き、禰涅は呼吸を再開した。


 玄慈は、どこかしらに入る際、かならず一切の武具をあずける。大小も、馬手差しも、刺刀も、それどころか小柄さえ持ち込まない。

 それが、――持ち込みを許せ、という言い振り。

 即ち先んじて潜んでいる禰涅への暗号であった。

 ――殺れ。

 そう言っている。


「む――」

 禰涅が放った銑鋧に気づいたのだろう、自分の喉に突き刺さる五寸ばかりの鉄の棒、その違和感に。夫のほうが手遅れになってから――ようやく喉に刺さった銑鋧に気づいて、ガボガボと血の泡を吐き出し、必死にそれを引き抜こうとするが、無駄なあがき。

 禰涅が放った銑鋧は頚椎を砕き、中枢神経を破壊。瞬く間に全身の制御を失い、男が、かくかく痙攣しながら倒れ込む。

 妻は悲鳴を上げず、だまって矢立から仕込んだ鉄針を抜いて、それをこちらに向けて振った。


 禰涅は梁を転がって下へ降り、仕込み手裏剣を躱す。

 家人の若者が短刀を抜かんとするが、禰涅は素早く相手の喉に貫手を打ち込み、それだけで頸部を圧壊せしめた。

 白目をむいて、立ったまま失禁する家人。白目をむいて、糸の切れた人形のようにくたりと倒れて、折敷を潰して料理を散らす。


 その家人から短刀を素早く奪うと、袂から針を抜く妻に斬りかかる。

 針をすべて刃で落とす禰涅。相手の喫驚を無視。

 懐に飛び込みつつ妻の右手首の動脈を断ち、肘に刃先をねじ込んで、関節を砕いた。

 が、女も素人ではない。悲鳴をあげず左の手で、こちらの顎を砕かんと掌底を繰り出してくる。


 禰涅は右肘で掌底を叩き落とすやいなや、そのまま右腕を内転、肘を相手の顎に打ち付けて、空いた左手で左の胸を掌打。

 掌が相手の胸を陥没させた。肋骨が砕けて、砕けた骨が肺と心臓を刺し潰す。

 女が血をごぼぉ、と吐いて、昏倒した。


 十を数える間もない、早業。


 禰涅がぎょろ、と千疋狼を睨む。

 彼は恐れおののき尻をついた。


「な、なんだ、おまえ」

「貴様に名乗る名など持たぬ」

「よせ、僕を殺せば、不敬罪だぞ。僕は、社人で、」


 そのとき、少年の背後の戸が開いた。

 玄慈がそこにいる。

「なら神使の俺が命令すれば良いな。立て。詮議といこうか」


 少年は奇妙な顔をした。口元を膨れさせ、憎まれ口を叩こうとするが、しかし殺される恐怖で萎縮し、結局何も言えず空気を抜くような息を漏らす。


 玄慈は禰涅を見、「ご苦労」とねぎらった。それから、「汚れ役ばかりですまぬ」と謝る。

 禰涅は無言で顎を引くくらいに頷いた。


 だが内心は、今にも舞い踊らんばかりに浮かれ、乙女のごとく胸は踊っていた。




 禰涅は常に玄慈の二歩半後ろを歩く。下賤が彼に歯向かわぬよう睨みを効かせるにはこの立ち位置が良い。

 その玄慈は千疋狼の少年を頑丈な麻縄で縛った。緊縛術は捕縛・警ら術の一つであり、武の神使の全員の必須習得技能である。

 遊里などでは性的な行いにも用いられていると聞くが、実際には、罪人や捕虜を縛り上げるものだ。

 縄には水を染み込ませている。こうすることで、乾燥している状態より、ぐっと解きにくく、切りにくくなる。


 玄慈は索道搬器ごんどらの乗場で、天嵐大岳――すなわち、天嵐神社総本社がある大霊山に向かう搬器を待っていた。

 隣では、どこにそんな体力があるのか、くノ一の禰涅ねくろが小柄ながらに平然と、縄でふん縛って、自害を防ぐための猿轡を噛ませた千疋狼の乱破者を片手で担いでいる。

 覆面で目元以外を隠すのが隠密としての彼女。だが今は、神使の槍持としての風貌――簡素ながらも実践的な、野良着と手甲、脚絆という装い。煙草、珠や札を入れる胴乱や、小筒ささえに酒を入れた小樽を腰に下げる。

 武器らしいのは、パッと見てわかるのは匕首。

 言うまでもないが、忍びである禰涅ねくろにとって、匕首とはいえ刃物が一振りあれば、百人力。自由になるのは左腕一本だが、――まずそこらの盆暗には負けぬだろう。


 索道搬器ごんどらが、風力式のからくりでごろごろと降りてくる。

 山は風が強い。しかも、この山岳郷を治めるのは嵐の女神である。風力式の索道搬器ごんどらほど、この山だらけの土地に適した移動手段はない。

 天狗ならば空を飛べるが、さすがに玄慈と禰涅ねくろは翼など持たぬゆえに、からくりに頼る。


 裏切り者は、すでに抵抗を諦めていた。

 索道搬器ごんどらが乗場に停まる。二人は係の者に要件を手早く告げて、乗り込んだ。

 天嵐大岳に向かう索道搬器ごんどらに乗れるのはごくわずか。玄慈は天嵐神社の神使故に、ほとんど挨拶程度で乗れるが、事情を告げたほうがいらぬ詮索を避けられるし、隠すことなどなにもないので、乱破者を捕縛したことと、それを詮議にかけるということを、全て話した。


 玄慈と禰涅の二人が索道搬器ごんどらに乗り込んで、裏切り者の少年を転がす。

 彼は何が愉快なのか、笑っていた。

 癇に障る。軽く蹴飛ばしてやろうかと玄慈は思ったが、仮にも捕虜。過剰な虐待が知れては面倒だし、そも、こんなことをしでかしたのだ――天嵐様への造反、玄慈が何をするでもなく、苛烈な拷問が待っている。


「よくて消し炭が残るか否かだ」

 玄慈が言ったことは、嘘ではなく、ただの事実。

 天嵐様――天慈颶雅之毘売あまじくがのひめ様は荒天、嵐、それによる山河と田畑への恵みの地母神であると同時に、荒れ狂う山の天候の如き龍神である。

 その怒りに触れるのだ。ひょっとしたら、詮議なぞと面倒を置かず、即座に落雷でおしまいということも、十分有り得る。


 玄慈は、まかり間違っても索道搬器ごんどらに雷を落としませぬよう、と手を合わせるしかない。

 願いが通じたのだろうか。長らく揺られた索道搬器ごんどらは、天嵐大岳の山麓部――といっても三合目付近――の、乗場にたどり着くのだった。

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