「絵を教える」ということ
絵を学びたいと思ったときに、絵描きの使う言葉の意味が捉えにくくて戸惑う初学者がいるように思います。
その原因のひとつとして、絵描きが言葉を使う時に、定義が不十分なままとなっている可能性を考えることができそうです。言葉は聞いた時と同じ場面で使えばとりあえずは会話が成立するため、それが実際に何を意味しているのか問い直される機会はあまりありません。これは絵に関する言葉でも同じように思われるのです。
結果として、「この場面ではこの言葉を使う」という慣習は生まれたとしても、その言葉が何を意味するのか明確に説明できる人はあまりいないということが起きかねないわけです。
そして、言葉の意味が曖昧なまま講師から生徒へ、そしてその生徒が講師となって次の生徒へ。こういうことが起こっているかもしれません。すると、その状況に違和感を覚える人は学びの場から離れていくでしょうから、ほんとうはもっと開かれたもにできるはずの絵を描く技術が、閉じたものとなってしまいかねません。もしかしたら、冒頭のような初学者の戸惑いは、そうしたことに由来するのかもしれません。
ほんらい、絵を描く技術なんて、修練を積めば多くの人が一定のレベルまでは身につけられるものです。それにもかかわらず、意味を明確にした言葉で説明できる人が少ないために、一部の人にしか技術が行き渡らないとしたら、とてももったいないと思います。絵はほんとうは楽しいものなのに、それが「神秘化」されて閉ざされてしまったら、せっかく学びたいと思ったのに「やっぱり絵には才能が必要なのかな」となってしまうかもしれないからです。そうなってしまったらとても悲しいです。
なので、絵を描くことがより開かれたものとなるためには、少なくとも指導の現場では、言葉を定義して使うことが大切なように思います。
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また、意味の取りにくい言葉とは別に、「よく見ろ」という言葉を初学者はよく耳にすると思います。
これは、「理屈よりも観察が大切」という意味で使われるフレーズですが、この言葉も初学者には負担があるように思います。というのも、モチーフをよく観察したとしても、観察から得られる気づきのほとんどは、その人がこれまで聞いたことのある知識や概念に由来するものだからです。
たとえば、初学者によく課されるモチーフにりんごがあります。ところで、りんごって横に切ると断面が緩やかな五角形をしていることはご存知でしょうか。これは、めしべの構造が果実のかたちに影響するからですが、このことをモチーフの観察だけから気づける人は現実的にほとんどいないと思います。
でも、実は絵を習ったことのある人はこの構造をたいてい知っています。というのも、初学者のころに講師がこのことを取り上げて、「観察が足りていないのでもっとよく見ろ」と指導するのが通過儀礼となっているからです。
でも、それは観察の重要性を伝えるというよりも、実質的には知識の有無が問われているようなものです。しかし、その構造は隠されているので、初学者は困難に突き当たってしまうのです。
つまり、もちろん観察はとても大切だけれど、それを実りあるものとするためには、対象を理解するための知識や概念もまた必要ということです。
それらを示さずに「観察から発見せよ」と求めてしまうと、初学者にとって負担がかかってしまうと思います。
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また、モチーフの特徴を把握できたとしても、それを絵にできるかは別の話です。
モチーフは三次元で、絵は二次元で、そもそも存在する次元が違います。なので、モチーフを絵にするためには次元の変換が必要となります。とはいえ、その変換の仕方をモチーフの観察だけから導き出すことは普通できません。それは、地域や時代によって多様な描き方(変換の仕方)が存在していることからも理解できそうです。つまり、モチーフの観察だけから描き方が導き出せるならば、地域や時代を超えて共通する描き方が見られるはずということです。
しかし、実際のところそうした現象は見られません。文化的な交流がない限り、描き方が共通することは基本的に生じないと言えそうです。
では、描き方はどこから生まれるのでしょうか。それは、基本的に描き手が受容できる先行作品からとなります。先行作品のモチーフの理解の仕方、そして、描き方を受容することで、はじめて自分もモチーフを描くことができるわけです。
ということは、先行作品を示さないままに「見て描け」と求められても、初学者はどうして良いか分からずに困惑してしまうということです。
もちろん、画集や参考作品を見せてもらっている場合もあると思います。しかし、りんごの例と同じように、絵を理解するためにも知識や概念が必要となるはずです。それらが示されなければ、初学者はそもそも絵を見ることができないのです。そして、もし講師が言葉の意味を理解して使えていなかったとしたら、絵を見るための知識や概念を示せていないということになってしまうのです。
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以上は、私自身の経験に基づいた記述であって、すべての学びの場に当てはまるものではないかもしれません。
この文章を読んでくださっている絵を習っている(習ったことのある)人の中には、自分はもっと良い指導を受けてきたと感じる方もいるだろうし、逆に共感を覚えた方もいると思います。
とはいえ、以上を踏まえて、最後に私の考えを述べさせてください。
それは、初学者が絵を学びたいと思った時に、基本的な原理原則が定義された言葉で表現されていて、社会の中でアクセス可能な状態となっているのが健全だと思う、ということです。
それは、教室でも本でもなんでもいいのですが、煙に巻かない伝える努力のこもった言葉で基本的なことが表現されていれば、初学者が不要に心を折ることもなく、楽しく絵に取り組めるのかなと思います。
もちろん、専門的に絵に取り組む中で、言葉にしにくい専門知が出てくることはあります。しかし、基本的なことまでも言葉にすることを諦め不誠実になってしまうと、絵を描くことが閉ざされてしまうかもしれない、ということです。
絵はほんとうに楽しいものだと私は思います。
なので、いたずらに「神秘化」することなく、絵を描くことがより開かれると良いなと思います。
私もそれに貢献できるようにこれからも活動を続けたいと思っています。みなさんが楽しく絵と関われるような社会になっていけば嬉しいです。おわり。


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