「オカルト」に傾倒して…
さて、ようやくキティ・フィルムで実現した長谷川和彦の第2作『太陽を盗んだ男』は、レナード・シュレイダーの原案によるもの。もともと『名前のない道』というプロットが岡本喜八のもとに送られていたが、最終的にシュレイダーと長谷川の共作で破格のスケールを湛えた準備稿シナリオ『日本対俺』が完成する(主人公のキッドを城戸に変更)。
撮影前にタイトルは何度も変更されており、『日本対俺』に続いて『笑う原爆』──しかし“原爆”の二文字に配給元の東宝が反対し、『プルトニウムラブ』『日本を盗んだ男』を経て『太陽を盗んだ男』となった。チーフ助監督は相米慎二、セカンドの高橋芳郎もゴジ直系の日活契約助監督であり、勝手知ったる撮影所に原子力発電所などのセットが建てられた。
助監督の矢野広成、榎戸耕史、森安建雄、さらに製作進行の大谷康之、黒沢清まで後年それぞれ監督として一本立ちしたことも書き添えておこう。まだ立教大学在学中、自主映画作家として長谷川に見込まれた黒沢は『太陽を盗んだ男』の脚本にも携わり、やがて監督として大成。その後も長谷川は黒沢のような若者を相談相手として、新作執筆のパートナーに据えた。
バスジャックにカーチェイスなど活劇たっぷりの『太陽を盗んだ男』だが、未整理の分厚い台本と監督の粘りにより現場は混乱を極めて(またも)大赤字、プロデューサーの伊地智啓は著書『映画の荒野を走れ』(インスクリプト)で「最初組んだのが45日、トータルの撮影実数が75日、推して知るべしですよ」と回想し、長谷川と袂を分かつ。興行も不入りに終わるが、やがて再評価とともに70年代を代表する映画となったのは前述のとおり。
『太陽を盗んだ男』で刑事を演じた菅原文太は、青函トンネル工事を題材にした企画『青函トンネル』を東映に提案し、脚本に長谷川和彦を指名。俊藤浩滋プロデューサーの回想録『任俠映画伝』(講談社)によれば、現地リサーチ後に完成した脚本は「なんと竜飛岬にUFOが降りてくるという話や」。俊藤は激怒し、東映と東宝の競作という話が出たこともあり、これまた潰れた。
当時、長谷川はUFOや超能力といった「オカルト」に傾倒しており、その影響は未映画化シナリオの数々に反映されていく。またテレビやラジオなどメディアへの出演も相次いだが、黒いサングラス姿のツッパリぶりが物議を醸したことも。その存在感から俳優としても活動し、のちに鈴木清順監督の映画『夢二』(91年)などで堂々の大役を演じている。
後編記事『「飲めば映画関係者の批判」…「撮る撮る詐欺」で「臆病者」と罵られた長谷川和彦とは対照的な早撮りだった盟友映画監督たち』へ続く。