待望のデビュー作
1976年、待望のデビュー作『青春の殺人者』が実現。野心的な映画を配給していたATG(日本アート・シアター・ギルド)の多賀祥介の抜擢によるもので、中上健次の「蛇淫」を田村孟がシナリオ化──今村プロ、綜映社、ATGの共同製作であり、師匠の今村昌平がプロデューサーを買って出た。
旧知の契約助監督仲間は日活撮影所から参加を阻まれ、学生運動くずれの相米慎二のみ「杉田二郎」名義でセカンド助監督を務めた。『日活1971-1988 撮影所が育んだ才能たち』(ワイズ出版)の長谷川和彦インタビューによれば、今村プロ時代に知り合った「女房の友だちの青年座演出部の女性の彼氏」とのこと。
やがて相米は『翔んだカップル』(80年)でデビューし、80年代を代表する監督となるが、そのほか『青春の殺人者』のスタッフからはチーフ助監督・石山昭信や製作担当の浅尾政行、製作進行の榎戸耕史、平山秀幸も一本立ち。低予算かつスケジュール度外視のハードな撮影現場に“未来の監督たち”が集っていた。
『青春の殺人者』で一躍脚光を浴びた長谷川和彦は、音楽会社が母体のキティ・フィルムで次回作を準備。『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した新鋭作家・村上龍と意気投合し、異色コンビが動き出す。じつに5本ものシナリオが書かれたが、そのうち『空と一緒の朝』はのちに村上の代表作『コインロッカー・ベイビーズ』として結実する。
また、村上の短編「ニューヨーク・シティ・マラソン」をもとにした企画では、青梅マラソンにカメラを向けての実景撮影が行われたが、これまた実現していない。そのほか小林信彦の『唐獅子株式会社』を映画化する企画もあったが頓挫。なかなか動かない長谷川に先んじて、村上龍の監督デビュー作『限りなく透明に近いブルー』(79年)がキティ・フィルムの出航となる。