いつもの風景、いつもの教室。
だけどその日は何かが違う。
何かが欠けている。
彼女は、生塩ノアはそう結論づけた。
〇
「ユウカちゃん。今日は当番の日じゃなかったですか?」
何気ない一言で疑問は確信に変わった。
「当番? 当番ってなんの?」
「シャーレの当番ですよっ、数日前からあんなに楽しみにしていたじゃないですか」
「何を言っているのノア。それにシャーレってなに? 新しい部活動?」
背筋が急激に冷えるのを感じた。
おかしい。何かが。
「シャーレはシャーレです。先生に会いに行くって」
「だから先生ってなんなのよ」
その瞬間、ノアは廊下に飛び出した。
誰でもいい、先生を知っている人を探さないといけない。
廊下の門で大量の書類を持たされながら桃色の髪を揺らすコユキの姿が。
「ノア先輩? うーん。先生、先生? にっはは~分かりませんっ」
諦めてはいけない。立ち止まったら、その瞬間何かが欠けてしまう。
「あっ、先輩……行っちゃった。なんでそんなに焦ってるだろ」
ヴェリタスは……ッ
「先生? ううん、少なくとも私は知らないな」
ゲーム部は……ッ!?
「すみません、アリスも分かりません……」
お願い。誰かっ。
「全知全能たる私の出番……と言いたいところですが、お役に立てそうにありませんね。全ネットサーバーにアクセスし検索をかけていますが、目ぼしい情報は……」
その日、世界から先生が消えていた。
自室に帰り、目を瞑る。
脳裏に過ぎるのは、つい昨日の出来事だ。
「目の前からいなくなってください……ッ」
強い拒絶。
「ご、ごめんノア。私が悪かった。今の言葉は忘れてくれ」
違う。先生を拒絶したかった訳じゃない。
『ノアは可愛いし賢いし。是非お嫁に欲しいくらいだよ、なあんて』
あれは単なる先生の冗談だ。
でもその好意は本来、私ではなくユウカちゃんに向けられるべきであって。
「先生……先生っ。どうしてわたし、せん……せい」
暗闇の中、ノアの双眸から光が漏れる。
後悔。自虐。自嘲。強く拳を握る。掌に血が滲んだ。
「どうして。どうして……私だけが」
そうだ、と悔しさに思わずノアは唇を噛む。
「どうして私だけ記憶を持っているんですか。こんなの、あんまりじゃないですか。私の記憶力のせいで、先生の記憶が抜け落ちなかったんですか!?」
馬鹿げている。無意味だ。不条理だ。
こんな記憶、さっさと忘れてしまった方がいいのだろうか。
〇
翌日、セミナーを訪れると珍しく思案顔のユウカが書類を手にしていた。
書類というより、領収書だ。
「ねえノア。この領収書の束って誰のか知ってる?」
「はいは~い。ええと……」
昨日のノアは、先生の記憶を失うよう努力する方向に決意を固めた。記憶にも記録にも残らない先生という存在。それを世界でたった一人、自分だけが持つというのは酷な話。
散々泣いて、泣きはらして。目の充血をやっとの思いで隠し、友達を騙した。
今日だけで何回、「大丈夫です」と口にした事か。
まだ完全に落ち着いたとはいえない。だけど、月日がきっとこの苦しみを和らげると信じて。
「クラブふわりん……それから、プラモデル、でしょうか」
「そうなの。まったくお金遣いが荒いんだからもう。ちゃ~んと私が管理して……管理。あれ、私は誰の管理をするつもりで」
「……っ」
やめて。そう言葉にしたかった。
だけど、聞かずにはいられない。
「ああ、そう。シャーレの。そう。せん……ううん。思い出せない。だけど、それでもっ。覚えている。私は、その人に導かれてここまでやってきた。私だけじゃない。みんな、そんなその人に助けられた」
ああ。覚えているんだ。
「シャーレが何かは分からないけど。シャーレのその人は、みんなにとってかけがえのない人で、失ってはいけない人。ねえ、ノア。そういえば昨日言ってたわよね。『先生』って」
「はい……っ、はいっ!!」
「な。なんで泣いてるのよ、ノアっ」
「違うんです。でも、嬉しくって」
記憶の残滓とでも言うべきだろうか。先生の記憶や記録は、ノアを除いて消え去った。だけど彼の遺したその優しさは。紡いできた『奇跡』は、こうして先生の存在を確立する。
「あのぉ」
セミナーの戸を叩いたのは、モモイにミドリ。ユズの姿もある。
「ぱんぱかぱーん。勇者アリスが現れた!」
「アリスちゃん?」
「アリスは、マスコットを探す旅に出ます」
「急に何……!?」
それから次々と。
「実は、どうやら街中で記録や記憶の齟齬といった事象が多発しているらしい。曰く、その間には、先生なる存在が間を取り持っていたそうで」
「ああん? 誰だが知らねえが、アタシらの脳を弄ったってのは気に食わねぇ」
「全世界の住人から特定の人物の記憶を消す。実に面白いことをしますね。ふふん俄然興味が湧いたといったところでしょうか」
普段は閑散としたセミナーの部室に、ミレニアムの住人が押し寄せる。
その日の放課後は、作戦会議に明け暮れた。
ちょうどいい機会だとノアは口を開く。
「実は」
「つまり、先生なる存在は、各地の紛争を取りまとめるためシャーレという組織に所属していたんだね」
ボールペンをくるくると回しながらチヒロはそう口にした。
「ノアの記憶力は本物よ。たとえメールや文書に残っていなかったとしても、私はノアの言うことを信じるわ」
「ユウカちゃん……」
真剣な眼差しが交錯する。
「するとよ、『敵』は結局誰なんだ。誰を潰せばいい」
戦闘に長けたC&Cの部長ネルからは彼女らしい殺伐とした疑問が飛ぶ。
「先生の存在が邪魔って思ってるって事だよね?」
モモイは当然の推察を口にした。
「いえ。その必要はないと思いますよ」
が、全知ヒマリは余裕めいた表情で頬を緩める。
「どういうことだよ?」
「ふふふ。簡単な話です。どうしてノアさんの記憶だけ残っているのか。別にノアさんが犯人とは言いませんが、ノアさんだけが免れた理由にはきっと意味がはずです」
「意味、ですか」
「ええ」
彼女は窘めるでもなく、ノアに優しく言って諭す。
「思い出してください。この現象が引き起こされるその直前の出来事を。そして、目を逸らさず見てください。すると答えは出てくるはずです」
目を逸らさず。
『ノアは可愛いし賢いし。是非お嫁に欲しいくらいだよ、なあんて』
『目の前からいなくなってください……ッ』
見たくない。怖い。だけど。
先生がいなくなるのは、もっと怖い。
答えは、己の心の内側に広がっている。
その『感情』こそが答えだ。
好き。
好き。先生のことが、好き。
先生をずっと見ていたい。
先生のことをずっと考えていたい。
ユウカちゃんを好きでいて欲しい。
それと同じくらい、私を愛してほしい。
先生。先生……!
「先生っ」
目が覚めた時、知らない天井があった。
身体の内側に籠る熱。
その熱は、暖炉のようにメラメラと揺れる。
心臓がどきどきする。同時に怖い。
動悸が収まらない。
その時、目の端に人影を捉えた。
大きな背中だ。銃弾一つで消し飛んでしまう程あまりに柔く。
されどたくましい身体。
「おはよう、ノア。よく眠れた?」
先生はそう言ってにこりと笑った。
身体を起こしたノアは辺りを見回す。
ここはどうやらシャーレの仮眠室らしい。
世界は元に戻っていた。
それとなく周りに聞いてみたものの、誰も先程までの事を覚えていない。
やはり夢だったのか、そう安心する。
それにしても酷い悪夢だ。
外の空気の吸いに公園のベンチに腰掛ける。
かなり肌寒くなってきた。
すると、コツコツと靴の音を立てて一人の大人が横に座る。
額に罅が入っていて、少し不気味だ。手には缶コーヒーを持っている。
「クックック……そう怖がらないでください」
「す、すみません。少し考え事を」
思わず、見過ぎてしまっていただろうか。
バッとノアは、目線を逸らす。
「時に、先生はこの世界線のことをあまねく奇跡の始発点だとおっしゃいました。数々の奇跡が生み出した結果、ここにいられるのだと。しかしそんな世界線だからこそ脆弱で誰かが見て支えていないと崩れてしまう」
「あの。急に何を」
「ノアさん。あなたは、この世界の観測者です。片時も先生から目を逸らしてはいけませんよ。先生と同じ、『大人』からの素敵なアドバイスです。クックック……」
そう言って、その男は缶コーヒーを飲み欲し、静かに去って行った。
「どうして私の名前を……」
自然と口角を上げたノアはふふっと笑みを零した。
白い息が視界の目の前に浮かぶ。
ノアは蒼穹に手を伸ばし、太陽を掴む。
「当然です。これからはちゃんとすぐ傍で記録をつけていきますから」
了。