出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/05 16:21 UTC 版)
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三ツ組橘は、圓楽一門の定紋。本人は笑点でも使用する「八角持ちに片喰[1]」と併用。 |
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| 本名 | 家入 信夫(いえいり のぶお) |
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| 生年月日 | 1946年8月6日(79歳) |
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| 師匠 | 林家彦六 五代目三遊亭圓楽 |
| 弟子 | 三遊亭好太郎 三遊亭兼好 三遊亭好の助 三遊亭好一郎 三代目三遊亭百生 錦笑亭満堂 三遊亭ぽん太 三遊亭好好 三遊亭好志朗 三遊亭好青年 |
| 名跡 | 1. 林家のぶお (1966年 - 1967年) 2. 林家九蔵 (1967年 - 1983年) 3. 三遊亭好楽 (1983年 - ) |
| 出囃子 | ずぼらん 元禄花見踊 |
| 活動期間 | 1966年 - |
| 配偶者 | 死別 (2020年以降) |
| 家族 | 七代目三遊亭円楽(息子) |
| 所属 | 落語協会 (1966年 - 1983年) 大日本落語すみれ会 →落語圓楽党 →落語ベアーズ →圓楽一門会 →五代目圓楽一門会 (1983年 - ) |
| 公式サイト | 三遊亭好楽 |
| 備考 | |
| 五代目圓楽一門会会長(2015年 - 2020年) 五代目圓楽一門会顧問(2020年 - ) |
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三遊亭 好楽(さんゆうてい こうらく[2]、1946年〈昭和21年〉8月6日[2] - )は、日本の落語家。東京都豊島区出身。前名は林家九蔵[2]。出囃子は「ずぼらん」[2]、あるいは五代目三遊亭圓楽、および六代目円楽と同じ「元禄花見踊」。2020年より、五代目円楽一門会顧問を務める[3]。演芸番組『笑点』(日本テレビ)の 「大喜利」メンバー。
本項での落語家の高座名は、それぞれ出来事があった当時のものとする。
豊島区東池袋で、8人兄弟の6番目として生まれる[4][5]。6歳の時に警察官であった父親が40代で急死したのちは母親の手で育てられる[5]。幼少時代は、いわゆる「面倒見のいいガキ大将」だった[5]。日頃は厳しいものの、家事一切を済ませ子供を寝かしつけた後、ラジオで落語を聴いて楽しんでいる母親の姿を見て、落語に興味を持つようになる[4][5]。京華商業高等学校時代は、小遣いなどをやりくりして池袋演芸場に日参していた[5][注釈 1]。
高校卒業後の1966年4月[2]、19歳の時に八代目林家正蔵(のち彦六)に弟子入りを志願するも、その時は「私は来月70歳になるから」と弟子入りを断られた[2]。しかし、4回目の願い出でようやく「死んだ息子と同じ名前だから」と入門を許可され、「林家のぶお」名義で前座、1年後に「九蔵」の名をもらう[2]。
1971年11月に三遊亭歌司、金原亭駒三郎、橘家竹蔵、柳家さん八、三遊亭歌橘、三遊亭楽松、三遊亭朝治と共に二つ目に昇進[2]。1979年より、日本テレビ系列の『笑点』の大喜利メンバーに加入[2][6]。
1981年9月に柳家さん八、柳家小袁治、十代目土橋亭里う馬と共に林家九蔵で真打に昇進する[2]。それから間もない1982年1月29日に師匠・彦六[注釈 2]が死去。それから約1年後の1983年4月、五代目三遊亭圓楽門下に移籍して「三遊亭好楽」に改名[2][7]。同時に落語協会から大日本落語すみれ会(→五代目円楽一門会)へ移籍する。移籍後、「古典落語をしっかり修業」すべく、『笑点』を1983年10月9日放送分を最後に一時降板[8]。それから約4年半後の1988年4月3日放送分から、降板した七代目桂才賀に代わって『笑点』に復帰する[9]。
2010年、初の落語集CD『三遊亭好楽 落語集 好日楽語(よきひにらくご)』をリリース[10]。2012年、自身の半生を振り返る「好楽日和。」を晶文社から上梓[11]。2013年には自らの高座や若手(主に好楽の弟子)の育成を目的に、自宅を新築して寄席「池之端しのぶ亭」をオープンさせた(後述)[2]。2015年から2020年まで円楽一門会の会長を務めた[2]。
2016年から2017年にかけては、王楽のプロデュースにより自身の芸歴50周年を祝う「好楽ちゃん祭り ~芸歴50周年&古希記念落語会~」を開催[2]。5年後の2023年から2024年には「帰ってきた好楽ちゃん祭り」が開催された[12]。
落語協会から移籍して以降は、寄席での定席興行[注釈 3]には弟弟子にあたる6代目円楽が客員として所属していた落語芸術協会の興行[注釈 4]などにゲストとして出演したことはあったが、2023年2月の落語協会・浅草演芸ホール中席昼の部(主任:六代目春風亭柳朝)の出演者に顔付けされた。落語協会定席興行への出演は圓楽一門会への移籍以来40年ぶりとなる。この興行は好楽のかつての兄弟子(彦六門下)に当たる五代目春風亭柳朝の三十三回忌追善興行と銘打たれており、柳朝の弟子である春風亭小朝が好楽の出演を提案、他流所属であるが特例として落語協会の承認を得ての出演となる[14][15]。
元々、五代目圓楽の惣領弟子になることを希望していた時期があったが、新聞で楽松(現:三遊亭鳳楽)が惣領として弟子入りしたことを知り考え直したあと、2代前の圓楽だった、当時の八代目正蔵(後の林家彦六)が口演する「鰍沢」をラジオで聴いて感動し、その翌日に正蔵に弟子入りを志願することにした[5][16]。来歴の通り、正蔵への弟子入りの際に初めの3回は断られているが、4回目に志願した際に正蔵から名前を聞かれ、「信夫」であることを明かすと、「"のぶお"が帰ってきたんだね」ということでようやく入門を許可された[2]。正蔵の長男である岡本信男は17歳になった1945年8月7日に勤労動員先の豊川海軍工廠で空襲に遭い、辛くも東京に帰ってきたものの肺をやられており、終戦後間もなく亡くなった[17]。このことから、正蔵は信夫に亡くなった信男を重ね合わせて、よくかわいがったという[4]。「九蔵」の名前は、好楽の説明では「正蔵の9番弟子」という意味ではなく、「もう弟子は取らない」という止めの意味[2]。ただし、正蔵自身はこの当時、自身の弟子の数を三遊亭市馬(岸正次郎)から勘定しており、「(岸正次郎から数えて)9番目の弟子だから「九蔵」」という認識だった[18][注釈 5]。正蔵曰く、「九蔵」は「役者と同じ名前」とのこと(おそらく市川九蔵のこと)[18]。(好楽説をとると)「もう弟子は取らない」はずだった正蔵はその後、林家上蔵(のち三代目桂藤兵衛)、林家よし蔵(のち時蔵)、林家茂蔵(のち林家正雀)と、3人の弟子をとっている[2]。
1971年11月に二つ目に昇進。昇進前、九蔵には後に妻となる女性と交際していたが、このことに関しては「結婚は真打になってから」という不文律の手前から師匠の正蔵には黙っていた[2]。しかし、正蔵に「お前、女ができたね」と言い当てられた[2]。結婚式まで1か月を切っていた時期だったが、九蔵が「はい」と答えると怒られるどころか「前座で祝言挙げるんじゃ格好がつくめぇ」と言われて二つ目に昇進させてもらうこととなった[19]。九蔵を二つ目にするためには香盤上他に10人も二つ目に昇進させる必要があったが、無事昇進した[19][20]。妻の父は五代目柳家小さんの贔屓筋だった[19]。最晩年の彦六が体調を崩し入院すると、よく妻を連れて看病に来ており、この際、しばしば彦六の手を取って「師匠!」ときめるゆえ、たまりかねた彦六が目を見開き、「そうまい日泣かれちゃ、オレは死ななきゃなんねェ!」と言ったエピソードもある[21]。
1982年1月29日、この日は夜に、本牧亭で九蔵主宰の一門会があった[22][23]。この日の彦六の容体は比較的よく、一門のほとんどが彦六の見舞いをした後一門会に向かった[22][23]。そしてその夜に彦六は容体が急変し、86年の生涯を終えた[23][24]。
好楽本人曰く、彦六からは23回も破門されたというが[2][5][25]、いつもしばらくすると済し崩し的に復帰が認められていた[26]。
九蔵時代の愛称は九(きゅう)ちゃん、九(きゅう)坊であり、好楽に改名後も兄弟子の林家木久扇は九ちゃんと呼んでおり、好楽の妻も死去するまで九ちゃんと呼んでいた。
彦六没後1年を経て、九蔵は既に真打に昇進していたが、5代目圓楽門下に移ることとなる。当時、圓楽一門会は落語協会分裂騒動の末に東京の寄席[注釈 6]から締め出されており、このことから周囲からは「バカだね。大企業を飛び出して、中小企業に行くなんて」と言われたこともあった。しかし、圓楽が好きだったことに加えて「落語はどこでも勉強できる」という信念を持っていたため、移籍を決断した[2]。移籍後、「三遊亭好楽」と改名した。
5代目圓楽からは九蔵時代から何かと気にかけて貰っていたようであり、後に好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのも5代目圓楽だった。
五代目圓楽の弟子としては香盤順は鳳楽に続く2番弟子となっているが、直弟子ではなく移籍組であり、自身と同じ移籍組の3番弟子の圓橘や4番弟子で直弟子では鳳楽の次である六代目円楽より五代目圓楽一門入りは後である[注釈 7]。また、彦六門下で落語協会在籍時に真打に昇進したため、円楽一門会で真打に昇進した圓橘と六代目円楽の方が先に真打に昇進している。五代目圓楽門下に移籍後も彦六門下時代の兄弟弟子達とも『笑点』で長年共演していた兄弟子の木久扇や彦六の孫弟子である春風亭小朝を中心に現在も交友を持っている。
圓楽からは、「酒を飲んでもいいから勉強しなさい」「米屋や酒屋は、お米やお酒を売る。落語家は“噺”で食べていく。人間は誰でも言葉をしゃべれるんだ。その言葉を生業にするなんてふてえ商売だ。だから勉強しなきゃダメだよ」と、よく言われたという[2]。
兄は機動隊員で、あさま山荘事件の現場に立ち会っていた[34]。
息子は落語家の七代目三遊亭円楽(旧名・王楽)で、父親の師匠である五代目圓楽に入門し、圓楽にとっては最後の弟子となった。このため、好楽とは兄弟弟子の関係であるが円楽自身は好楽一門の落語会に出演することも多い[35]。 このほか、円楽と好楽門下のマネージャーを務める長女[36]と雑司が谷でたい焼き屋を開いている次女[37][38]がいる(いずれも円楽の姉)。なお、彦六は好楽の3人の子の名付け親となっている[39]。また、1981年5月に放送のNHK『お笑いオンステージ』の「減点ファミリー」のコーナーで子供3人と出演したことがある。
また、自身の惣領弟子でもある三遊亭好太郎とは母方の遠縁の親戚であり、関係性としてはいとこ違いにあたる[40]。
前座時代に結婚した妻のとみ子が、2020年4月13日に大腸がんにより死去(72歳没)。家族以外には一切非公表にして闘病を続け、遺言により一部関係者以外には訃報が伏せられていた。訃報を公表したのは2020年11月、CD『熱燗二本』のレコーディングの取材時である[41]。その後、2021年7月14日の『徹子の部屋』出演時に、亡き妻への思いを語った[42]。奇しくも弟弟子の6代目円楽もとみ子と死期は違うが、同じ72歳で亡くなっている。とみ子と6代目円楽はとみ子の生前、友人として親しくしていた。その為、とみ子の死去がコロナ禍の2020年であったが葬儀には既に得度していた為、黒衣と袈裟の僧侶の出で立ちで参列した。
真打は太字、前座は小文字。
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三遊亭好太郎 |
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三遊亭らっ好 | |||||||||||||||||
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三遊亭兼好 |
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三遊亭兼太郎 | ||||||||||||||
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三遊亭好二郎 | |||||||||||
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三遊亭兼矢 | |||||||||||
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三遊亭兼作 | |||||||||||
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三遊亭げんき | |||||||||||
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三遊亭好の助 | ||||||||||||||||
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三遊亭好好 | ||||||||||||||||
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三遊亭好青年 | ||||||||||||||||
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