自己肯定感は、人を幸せにしない
-自己肯定感に「救済」を求めている人へ-
私は、いわゆる「自己肯定感が高い」側の人間だと思う。少なくとも、過去に自分を否定した記憶がない。
しかし、ここであえて断言する。自己肯定感は、すべての人にとって救済の道でもなければ、決して幸せな道でもない。
ここから先の話は、
自己肯定感を否定したいわけでも、下げることを勧めたいわけでもない。
むしろその逆。
今、「自己肯定感」に救われようとして、かえって苦しくなっている人に向けて書いている。
1. 自己肯定感とは何か
まず、言葉を整理したい。
ここでいう自己肯定感とは、「自分はすごい」「自分は価値がある」と思い込むことではない。
自己肯定感とは、
自分を一つの個体として客観視し、良し悪しを含めて“そういう存在だ”と認識できる状態を指す。
そこには評価も、救済もない。あるのは、判断と引き受けだけ。
この定義を飛ばしたまま語られる自己肯定感は、ほとんどの場合「自己愛(ナルシズム)」と混同されている。しかし、自己を過信することは本来の自己肯定感ではない。
そして、その混同こそが、多くの人を苦しめている。
2. 判断には二種類ある
自己肯定感の高低を分けている本質は、性格でも能力でもない。
「どの判断を、誰が引き受けているか」である。
ここでは、判断を二つに分ける。
・主体判断
自分で考え、自分で決め、その結果を自分で引き受ける判断。
・代行判断
判断の基準を他者・社会的正解・共感に委ねたまま、その結果の責任だけを自分のものとして引き受ける判断。
重要なのは、自己肯定感が高い人も、低い人も、どちらも判断を背負っているという点である。
ただし、背負っている「判断の種類」が異なる。
勿論、多くの人は、どちらか一方だけで生きているわけではない。
仕事では主体判断を引き受けられても、人間関係では代行判断に寄ることもある。
重要なのは、自分が「どちらの判断を使っているか」に無自覚でいることである。
3. 自己肯定感が高い人の構造
-主体判断が生む自由と孤独-
自己肯定感が高い人は、主体判断を引き受ける割合が高い。
だから、
・他人に過度な共感を求めない
・正解や承認にすがらない
・意味や評価を外部に委ねない
その結果、自分の行動に説明をつけなくて済む。
だが、これは「楽」ではない。
主体判断を引き受けるということは、行動に意味がなくなるということでもある。
誰かに理解されなくてもいい。共感されなくてもいい。褒められなくても、救われなくてもいい。
その代わり、
・孤独を引き受ける
・不安を外注できない
・「これでよかったのか」を誰にも委ねられない
自己肯定感が高い人は、幸せそうに見えるかもしれない。
だが実際には、意味を失った世界で立ち続ける覚悟を引き受けている。
これは資質であり、選択であり、万人向けの生き方ではない。
4. 自己肯定感が低い人の構造
-代行判断と「共感」による自己否定-
一方、自己否定をしている人は、代行判断を、過剰に背負っている。
・空気を読む
・正解を探す
・他人の期待を想像する
・共感を求め、共感に縛られる
共感とは、本来、他者と感情を共有する行為だ。しかし自己否定の文脈では、共感は判断の代行装置になる。
「わかってもらえた」
「共感された」
その瞬間だけ、自分の判断を免除できる。
だが次の瞬間には、こう思う。
「共感されない私はダメだ」
「理解されない私は価値がない」
自己否定している人は、他人の判断を引き受けすぎている。
5. なぜ自己肯定感ブームは苦しさを生むのか
昨今の自己肯定感ブームは、「自己肯定感を持てば幸せになれる」という語り方をされることが多い。
だが、この語り方は、人によって判断の置き場所が違うという前提を抜かしている。
主体判断を軸に生きている人にとって、「自分を肯定する」という言葉は、判断を引き受けることと矛盾しない。
一方で、代行判断を軸に生きている人にとって、同じ言葉は、引き受けきれない判断を一方的に押し付けられる形になる。
だから、自己否定している人が自己啓発本を読んで苦しくなるのは、当然である。
それは意志が弱いからでも、努力が足りないからでもない。
ただ、語られている前提と、自分の立っている判断構造が噛み合っていないだけである。
6. アドラー心理学への提言
アドラー心理学はよく言う。
・他人の課題と切り分けよ
・過去ではなく今を見よ
これは論理の整合性が取れているが、前提がある。
アドラーは、ある程度主体判断を引き受けられる人を想定している。
自己否定が強い人にとって、「切り分けろ」「今を生きろ」は、「全部お前の責任だ」と聞こえてしまう。それは残酷ですらある。
自己否定している人に必要なのは、いきなり主体判断を引き受けることではない。
7. 自己否定している人へ -判断を「休む」という選択-
ここまでの話を読んで、
「結局、自分はどうすればいいのか分からない」そう感じた人もいるかもしれない。
なのでこの項目では、具体例を列挙していく。必要なのは、新しい判断でも、強い決断でもない。判断を休むこと。
ここでいう「休む」とは、何も考えないことでも、責任を放棄することでもない。
判断を“減らす”こと。判断の席を、一時的に空けること。
以下に、自己否定が強い人でも実行できる、具体的な「判断の休み方」を挙げる。
① 「良くなろう」としない
自己否定している人ほど、「改善しよう」「成長しよう」とする。
だがこれは、判断を増やす行為。
・今より良い自分
・肯定できる自分
・変わった自分
それらを目指すほど、現在の自分を裁く判断が増えていく。
だから、あえてこうする。
・良くならなくていい
・変わらなくていい
これは諦めではない。
判断を、これ以上増やさないという選択。
② 共感を“目的”にしない
自己否定が強い人は、無意識のうちに共感を目的化している。
・分かってもらえるか
・否定されないか
そのために言葉を選び、行動を選び、自分を調整し続ける。
ここで一度、順序を逆にする。
「共感されなくても成立する行動か?」これを基準にしてみる。
共感を目的から外すだけで、判断の負荷は大きく下がる。
③ 「正しいかどうか」を考えない
自己否定している人は、日常のほとんどの行動に「これは正しいか?」という評価軸を持ち込んでいる。
・この返事は正しかったか
・この選択は間違っていないか
・嫌われないか、空気を壊していないか
まず、ここをやめる。
代わりに考えるのは、これだけでいい。 「今、自分はどちらを選んだか」
正しいかどうかは考えない。理由もつけない。
選んだ、という事実だけを残す。
④ 「何も引き出さない時間」を持つ
自己否定している人は、すべての経験から
意味や学びを引き出そうとする。
・この失敗から何を学ぶか
・これは将来どう役に立つか
だが、意味づけは判断である。
ときには、何も引き出さない時間が必要だ。
ただ過ごす。ただ終わらせる。それだけでいい。
8. 結論
自己肯定感は、人を幸せにしない。
だが、それは冷たい結論ではない。
自己肯定感とは、判断をどこに置くかの問題であり、幸福の条件ではないから。
主体判断を引き受ければ、自由と同時に、孤独を引き受ける。
代行判断に寄れば、共感と同時に、自己否定を引き受ける。
どちらも人間の在り方であり、優劣ではない。
もし今、自己肯定感に救済を求めて苦しくなっているなら、肯定しなくていい。強くならなくていい。正解に辿り着かなくていい。
判断を、少し休めばいい。
生きるとは、常に正しく判断し続けることではない。
ときには、何も決めず、何も意味づけず、ただ生きているだけでいい。



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