愛知県学校群制度の顛末

学校群というものはもはや過去のものであり、今更それをまとめてもどうするというところではあるが、しかし一方で、ネット上で集められるような資料には当時の状況と現在の状況の違いを踏まえていない記述など、誤りや疑問を持たせる記述が大半であるように思われ、調べれば調べるほどに見えてくるものがあるだけに、やはりまとめておきたくなったのである。

学校群制度前史〜戦後改革に由来する問題から〜

戦後行われた教育の民主化政策の中で、中等教育の分野は戦前の男子5年制の「中学校」、その女子版の「高等女学校」、2年間の小学校の延長扱いの「高等小学校」を解体し、前半3年間の「中学校」と後半3年間の「高等学校」に集約する政策が取られて、現在の制度へと変化した。この時の高等学校については「高校3原則」と呼ばれる原則が適用されたのだが、その中に「小学区制」と呼ばれるものがあった。

小学区制というのは、公立の小中学校をイメージしてもらえるとわかりやすいが、生徒目線で考えれば、住んでいる場所ごとに決められた1つの高校のみ受験可能であるという制度、学校側から見ると、各学校ごとに指定された地域からのみ生徒を受け入れられ、その地域は学校別で重なりがない制度、と言ってもいい。このようなことを上から制限することができたのは結局公立学校のみにとどまってしまい、私立に実質的な戦前スタイルの学校が残ってしまって、現代に「中高一貫校」としてもてはやされているのはまた別のお話。当時は、学区割をしっかり行っておくことで、地域の同世代の青年たちが同じ環境で育つことによって、地域への理解が増進され、民主化に寄与するという思想のもとで、学区の分割が進んだのである。

このような学区の設定の徹底具合には地域差が見られたものの、結果として、特定の学校に成績優秀層が集中する現象が一定程度抑制された。民主化路線を支持する立場では、成績優秀層も成績優秀層だけで固まるのはよくないという考え方があり、その意味では一定の成果を上げていたように見える。しかしながら、1950年代に入ると逆コースと呼ばれる戦前化路線が各方面で見られるようになり、高校教育の文脈でも戦前からの伝統校を尊重し、戦後改革を否定する政策が始まるようになる。

学区制について極端に動いたのが愛知県である。愛知県は戦後の民主化路線では県全体で普通科については小学区制を徹底的に採用しており、人口増加や高校進学率の高まりもあって高校新設が重なったことと合わせて、1955年の段階では40におよぶ学区が広がる状態であった。しかし、この小学区制時代には越境入学が後を絶たず、高校間格差は設備面、実績面など様々な側面で生じており、小学区制が現実的ではないことが明らかになっていた。このため、1956年に学区を再編するのだが、この時に学区数を2(尾張と三河。学区としては現在と同じ。)にまで減らす。どうやら全県1学区を実行する案さえあったようだが、当時の法律との関係によりこの時点での全県1学区は断念せざるを得なかった、という説まであり、これが本当だとすると、最も極端に学区を細分化した愛知県が、最も早く学区制度廃止に動いた、という事になる。

この学区拡大の効果は凄まじく、成績優秀者は軒並み戦前からの伝統校に集中する結果となった。特に、愛知第一中に由来する旭丘高校は、1967年に東京大学合格者数71名という、中部圏の他のあらゆる進学校はおろか、東京に近いために東大志望者が集中している関東地区のの名だたる進学校にさえ並ぶような合格実績をあげてしまった。この数字はこの年愛知県にあるすべての高校から出た東大合格者数(120名)の半分を超える実績であり、尾張学区内に所在する高校としては2位の東海高校の12名や、尾張学区内公立校2位の明和高校の10名と比較しても突出しており、この年尾張学区内公立3位の名古屋西に至っては2名というのだから、「東大にいきたければ旭丘」と言わんばかりの状態になってしまった。

愛知県周辺という地域全体を見回した場合、東大合格というパイはそれほど大きくはないため、地元名古屋大学の実績も考えるべきところなのでこちらにも言及する。さすがに「1校集中」ではなくなるが、今度は明和高校が同じ年に196名という実績をあげている中で、今では名古屋大学合格者トップ争いをしている一宮高校でも46名という状況であり、名古屋市内の旭丘(名古屋大156名)、明和が突出し、次いで東海(107名)、瑞陵(92名)が追従するという状況だった。

学区拡大の結果として、名古屋市内の伝統校が独占的に大学合格実績を上げるようになってしまった。このような結果を招いたのは結局成績優秀者をそうした伝統校が吸い上げてしまったからに他ならないのだが、東大ならば旭丘、名大でも旭丘、明和、東海、瑞陵あたりの名古屋市内の伝統校のどこか、というイメージをもたらすことになる。これは郊外校や新設校を整備・発展させたい立場や、戦後の「民主化路線」に共鳴する立場など、さまざまな立場から見て望ましくない結果であった。また、このような現象は東京などの他地域でも起こっており、1960年代後半以降は、学区見直しで区割りを増やすなど、高校教育でも戦後改革路線への復帰が全国的に進む事態となったのだが、この時期には小学区制の弊害も認識されていたこともあり、むしろ京都や兵庫などで実行されていた「総合選抜制」が注目された。

東京都や愛知県は学区の見直しではなく、この総合選抜制をベースとした対策を打つことになる。こうして生まれた制度が「学校群制度」と呼ばれる制度である。

学校群前の進学実績〜突出した進学校と中堅上位の戦国時代〜

ここで、学校群制度導入直前の進学実績について触れておく。今回の記事は進学実績という指標で物事を議論する。一部の学校が突出した進学実績というのはよく言われていることだが、実の所、それは一面的に過ぎない。1967年、旭丘高校が東京大学に71人の合格実績を挙げた年の愛知県内の高校の名古屋大学合格実績を、合格実績10名以上の学校について列挙する。

明和:196名、旭丘:156名、東海:107名、瑞陵:92名、時習館:55名、岡崎:52名、一宮:46名、半田:43名、刈谷:40名、向陽:38名、名古屋西:25名、滝:25名、横須賀:23名、熱田:22名、西尾:19名、菊里:17名、南山:16名、名古屋:13名、松蔭:11名、桜台:10名

太字は尾張学区の公立校で、全部で12校あり、うち一宮、半田、横須賀を除く9校は名古屋市内にある。この点からわかるように、名古屋市内に有力公立校が集中している状態であった。私立では東海高校、滝高校、南山高校が愛知の3大私立である点や、その中でも東海が突出している点は今と変わらないが、それでも当時の東海高校は(当時の)瑞陵高校程度だったと考えられ、圧倒的な上位校である明和や旭丘には敵わない状況だった。

また、その東海と瑞陵は競りつつも、他の学校と比べればかなりの優位につけていることもわかる。実際、続く時習館は55名であり、大差がついている。そもそも、40〜60人の郊外勢(時習館、岡崎、一宮、半田、刈谷)があって、これらは名古屋市内とはそれほど干渉しない。

注目するべき点は、向陽の38名からは名古屋市内有力校がだんご状態になることの方である。最上位の有力校を除いた名古屋市内公立6校が名古屋大学2桁進学実績を持っており、上位の旭丘、明和、東海、瑞陵に続くポジション争いをしているような状態なのである。現在名古屋TOP6と呼ばれる公立上位6校体制における菊里、向陽、瑞陵の3校はこの団子のポジションの生き残りであり、実は現代においてもこの団子の存在している場所はそれほど大きく変わっていない。突出した上位2校の地位低迷と、団子の崩壊が6校体制を構築する基本的な図式になる。

学校群制度とは〜「この学校に行きたい」は許されない〜

総合選抜制度というのは、学区の中には複数の学校を置いておくものの、入試ではそれらの学校が単独で入試を行うのではなく、全体で一括して「合格者」を決めて、その合格者を各学校に配分するという制度である。

例えば、ある学区にA高校とB高校とC高校があったとする。また、総合選抜を導入する以前、「伝統校のA高校にいくのは成績優秀者、普通の生徒はB高校、いまひとつな生徒はC高校という棲み分け」が暗にあったとしよう。この学区に総合選抜を導入すると、各生徒は「A高校」や「B高校」といった各高校を受験するのではなく、「高校」を受験し、合格すると、「ランダムに」振り分けられる。特に成績についてはランダム性に注意されたようで、結果的に成績優秀者もきっちり3等分して、B高校やC高校にも配分されるのである。

愛知県では学区の再編が困難であったため、尾張学区や三河学区全体で総合選抜を実施してしまうと、最北端の一宮市民が南の知多の高校に通わされるようなケースが発生しうる。このように、あまりにも規模が大きい学区で総合選抜を行う場合には、学区内にある学校の一部を「群」として指定し、その指定した「群」を受験校として選択できるようにし、合格者は群構成校の中で配分される、というのが学校群制度である。

つまり、学区にある高校を「A高校とB高校が1群」、「C高校とD高校が2群」、というように群を作っていき、受験生は1群なり2群なり、という群を受験する。そのため、「A高校に行きたい」生徒は1群を受験するが、どんなに成績が良くても確率1/2でB高校に行かされるのである。

多くの場合、全ての学校に群を組ませるのではなく、上位校や都市部に限定して群を組ませるため、学区内には群を組んでいない学校も存在している。実際、愛知県では名古屋市内15校、豊橋市、岡崎市、刈谷市、一宮市でのみ学校群が形成され、他の地域の高校は個別で受験していた。

愛知県での学校群制度の概要

愛知県では1973年から1988年までの間、先に述べた通りの名古屋市、豊橋市、岡崎市、刈谷市、一宮市の5市に学校群を設定されていた。名古屋市以外の学校群は単純なものであり、豊橋市は2つ、他の市は1つの群を置いて、それぞれの構成校は
豊橋1群:時習館、豊橋南
豊橋2群:豊橋東、豊丘
岡崎:岡崎、岡崎北
刈谷:刈谷、刈谷北
一宮:一宮、一宮西
という組み合わせであった。

学校群制度の狙いとしては先述のような突出した進学校の発生を抑止し、個性の異なる高校の差異を抑制するもので、豊橋1群は戦前からの伝統校の時習館と1972年新設校の豊橋南、豊橋2群はこれまた伝統校の豊橋東と、1963年新設校の豊丘という組み合わせである。

他の3市は制度開始時点で2つしか普通科高校がないためただ組み合わせただけではあるが、岡崎高校が戦前の中学校に由来するのに対して、岡崎北高校が高等女学校に由来するという個性の違いを埋め、より平等な共学化を進めることも企図されたようである。

これに対して名古屋市は状況が異なる。名古屋市は人口が大きいために学校群も巨大なものとなるが、名古屋で学校群制度を実行する以前の段階ですでに総合選抜制の問題点や限界が見えてきたこともあり、それらを踏まえて複雑な組み方をすることになった。

というのも、豊橋の例をみて想像して欲しいが、1群と2群では構成校が異なるため、群ごとの人気不人気が生じうるのである。したがって、単純に群を振っていくだけでは名古屋市内ではたくさんの群が生じてしまい、群ごとの格差が大きくなってしまう恐れがあった。もともと学校群の狙いは突出した学校を作らないことにあるが、どれかの群が圧倒的な実績を持ってしまっては結局あまり意味がないのである。

しかし一方で、名古屋市内全校を一括募集とする総合選抜を行うというような策を取った場合混乱が大きく、そもそも論として、旭丘や明和のような突出した進学校の発生は抑止したいが、全部完全平等にしたいと考えたわけでもないのである。一定の格差は認めるが、突出は許さない。当時の教育長はどうも数校単位の学区を作っていくということ(中学区制)を望んでいて、その数校単位での上位校の発生は許す、という発想だったようだが、学区の割り直しができず、結局複合学校群という制度になった。

複合学校群というのは、各学校が複数の群から生徒を受け入れるというものである。学校群制度の性質上、受験難易度は群に対して決定される。しかし、受験生は受験が終われば、群構成校のどこかにいくだけなので、群の選択は学校の選択と当然強く相関する。同じ学校にいける群が複数あれば、受験難易度の低い群に回ることが発生し、結果的に格差の緩和につながるというアイデアだ。

名古屋の複合学校群は15校が15個の群から生徒を受け入れるというもので、
1群:菊里、千種
2群:千種、旭丘
3群:旭丘、北
4群:北、名古屋西
5群:名古屋西、中村
6群:中村、明和
7群:明和、松蔭
8群:松蔭、惟信
9群:惟信、熱田
10群:熱田、瑞陵
11群:瑞陵、桜台
12群:桜台、緑
13群:緑、昭和
14群:昭和、向陽
15群:向陽、菊里
という組み合わせだった。

学校群制度下での動き〜上位校視点から〜

東京で学校群制度が採用されたときには、国立ないし私立の高校への流出が進んだ。しかし、愛知県では私立校への流出は緩やかで、大半の生徒は学校群を受験した。

学校群を受験するにあたって、もともと伝統校に行きたい高レベルの受験生(というよりは中学校教員?)はやはり伝統校に行きたいという気持ちは強かったようである。したがって、確率1/2ということにはなってしまうが、伝統校である、旭丘、明和、瑞陵、一宮、三河学区では時習館、岡崎、刈谷を含む学校群を成績優秀者が受験した。そのため、これらの上位校には半分ながら成績優秀者が確保されたため、実績は以前ほど突出したものではなくなるものの、進学校としての地位は一定の範囲で保たれることになる。とはいえ、多かれ少なかれ、パワーバランスの変化をもたらしている。実際、半分は伝統進学校から優秀者が流出してしまうわけで、その「流出」というのが、学校群時代に生じた変化を掴む本質になる。

三河学区

まずは比較的単純な三河地区から述べる。学校群制度開始以前の三河地区の進学校は豊橋の時習館高校が最上位になる。ついで、岡崎、刈谷であるが、この3校の1967年の大学合格実績を書くと
時習館:東大12、京大16、名古屋大55
岡崎:東大2、京大5、名古屋大52
刈谷:東大2、京大0、名古屋大40
である。名古屋大を考えると大差はないが、東大や京大を見ると時習館がやや抜きん出ている。ただ、高校の定員を考えれば東大や京大に行く層の割合がそれほど大きいとは言えず、東大京大レベルの生徒に選ばれていたのは時習館ではあるが、その時習館を含めて、大半の生徒はそこまでの成績ではなく、基本的には地元の進学校ということになる。

学校群が始まるとやはり流出という現象が起こるため、進学実績は幾分か下がる。実際、学校群3年目の生徒が卒業した1978年の大学合格実績を書くと
時習館:東大8、京大9、名古屋大18
岡崎:東大8、京大6、名古屋大39
刈谷:東大1、京大0、名古屋大24
である。名古屋大の実績に注目すると、3校とも10年前の実績の半分程度となっている。もっとも岡崎だけは7割以上なのだが、それでも大幅な低下ということは否めない。

ただ、東大京大に注目すると、岡崎だけは実績が落ちていないという特徴がある。年度による揺らぎが少なからずあるため単純にこの年度だけから判断できないのだが、最終的な結論から言えば、岡崎と時習館の関係が逆転する。

まず大事なこととして、学校群制度下においては、確率1/2で望まない学校への進学を強制される。そのため、望まない学校に行くリスクを背負ってまで遠方の学校を受験するということが減少する。したがって、地元住民の成績優秀者の数が合格実績を確保する上では試されることになる。また、望まない学校に行く可能性が十分高いので、「相手校がどれほどのネガティブさか」という点が、選ばれる群か選ばれない群を分ける重要な点になる。

時習館高校の相手校は豊橋南高校だが、群制度終了後には進学校の地位を完全に失い、成績上位者でなくてもいける普通の高校へと変貌した。群制度下で進学校化した学校は群制度終了後も最上位校としての地位こそ失ってしまうものの、地元目線で考えれば一定の地位を保つことは少なくないのだが、数少ない本当に並の高校へと変貌したケースである。豊橋南高校は中心部から離れており、人気がないのである。一方で、岡崎高校と組んだ岡崎北高校は今でも岡崎市内2番手校で、名古屋大学への合格実績も十分にある進学校としての地位を保っている。これは刈谷についても同様である。

つまり、学校群を組んだ3校の中で、群制度以前にもっとも有力だった時習館は、相手校が最も悪い組み合わせになっており、三河の最上位の受験生たちは、比較的相手校がマシな岡崎、刈谷か、相手校が悪いが群制度以前にトップだった時習館かという選択肢になっていた。時習館が地位を下げた原因として取り上げられており、そのようなマインドは少なからずあったのだろう。このような「相手校のどちらがマシか」という観点が、より上位校をえらぶという発想以上に強い理由になっていたということは尾張においても起こっていた。

尾張学区

尾張学区は基本的には名古屋市内15群の動きということになってくる。一宮は孤島であり、尾張地区にあって名古屋にも一宮にも行ける津島や稲沢などの動きを通じて相互の影響はあるが、群制度初期にはそれほど大きなことは起きておらず、一宮市周辺の人が一宮高校を受験していたのが、一宮学校群を受験するようになる、という話である。

しかしながら、名古屋市は複雑であった。まず、初年度の動きとしては、伝統校である旭丘、明和、瑞陵を中心に考えるということは間違いなかったようである。ただし、旭丘、明和、瑞陵とも岡崎のように相手校に恵まれたとは言えない。実際、旭丘は2群で千種、3群で北、明和は6群で中村、7群で松蔭、瑞陵は10群で熱田、11群で桜台だが、そういった「相手校」たちの学校群開始前の1972年のそれぞれの高校の名古屋大学合格者数は、千種4、北不明、中村9、松蔭7、桜台21、熱田16という状況で、どれも旭丘明和瑞稜には大幅に劣る実績であった。

そこで、相手校のどちらがマシか、という発想がまず出てくる。これについては多くのウェブ記事でも取り上げられていることを私なりに解釈して書けば、旭丘の相手校については地下鉄でアクセスできるなど交通の便が比較的よい千種の方が、北方で鉄道が近くを通っていない北よりもよく、明和の相手校については、交通アクセスよりも、その学校の明和以外の相手校、すなわち、中村の場合名古屋西、松蔭の場合惟信というのをみて、名古屋西は地味に1967年の東大合格者の記述でも述べたとおりで一定のレベルの進学校だったのに対して、惟信は底辺校というのがあって、名古屋西と組む中村が、瑞陵についても伝統校と組んでいる桜台がそれぞれ選ばれたといわれる。

したがって、旭丘・千種の2群、明和・中村の6群、瑞陵・桜台の11群がそれぞれ群形成前の旭丘、明和、瑞陵の地位を引き継ぐことになった。ただ、基本的には千種も中村も桜台もネガティブさがどうしても拭えない学校であることを忘れてはならない。特に、千種や中村は名古屋大学合格者数も一桁、72年はともかくとして、71年の桜台も一桁である。

それでも旭丘は中心に位置づけられた。やはり「一番」だから。しかし、明和や瑞陵はもとより2番手3番手の学校であり、名古屋大学の進学実績でこそ高い実績をあげていたが、旭丘に比べて、その学校でなければならない理由には乏しくなる。

一方で、ネガティブさがない群があったのである。例えば、名古屋大学の合格者数という観点で言ったときに、1972年の時点で明和は130名、瑞陵は61名だが、市立の伝統校である菊里15名、向陽45名という2校が組んでいる名古屋15群を選んでおけば、合格者数1桁台の千種、中村といった学校に回される可能性をなくすことができる。また、多くの群が構成校間の距離が5kmほど離れていた中で、千種と菊里は互いに2kmほどで、一社と星ヶ丘の隣接する地下鉄駅が最寄駅となっており、新設校と伝統校の違いがあるものの、周辺環境は類似している。つまり、入学前から通学環境の想像がしやすい組み合わせだった。他の群の場合、片方なら自転車通学だが、片方なら電車やバス通学、という可能性も少なからずあった。また、千種高校に成績上位者が大量流入して進学校化することは当初から予想されていたようで、そのことも合わせて、千種高校の「裏口」ともいうべき名古屋1群はネガティブさのない群という位置付けになったと考えられる。

結果として、名古屋2群が最難関になり、それに続く位置に名古屋1群が入り込む。ほどなく千種高校が高い実績を挙げるようになったことで、これが定位置化する。一方でこれまで名古屋2番手だった明和高校を引き継いだ名古屋6群は3番手に甘んじた。その結果、進学実績は、入口となる群が2つとも高レベルにあった千種高校がもっとも高いレベルになり、ついで旭丘、いくぶん間を開けて菊里、そして、中村、明和の順になるようになったという。実際、1980年の大学合格実績は
千種:東大25、京大33、名古屋大87
旭丘:東大24、京大21、名古屋大58
菊里:東大2、京大14、名古屋大51
中村:東大3、京大5、名古屋大66
明和:東大4、京大3、名古屋大46
であった。

これまでの書き方からもある程度想像がつくかもしれないが、実はこれが複合学校群によって回避することを狙っていた、群の間の格差の縮小は果たされず、成績順に序列化した群を受験するようになり、また、それによって変化した進学実績に対しても、「裏口」から入るということは、群制度によって進学校化した千種に、その裏口の1群を使うケースを除けば、ほとんど生じなかったために、序列は固定化されたようである。

学校群制度下での動き〜中位校視点から〜

こちらも三河学区から述べる。三河学区で特筆すべき点は、豊橋市における元2位校豊橋東高校の没落と、蒲郡東高校の躍進である。

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豊橋東、豊橋南、蒲郡東3校の名古屋大学合格実績

名古屋大学の合格実績を調べてみると、データ欠損等があり確かなことは言えないのだが、80年代前半にある蒲郡東高校の進学実績のピークは、学校群制度開始直前の豊橋東高校の実績に近く、一方で、豊橋東高校は、79年以降、その蒲郡東高校のピークの高さに到達していないため、蒲郡東高校が豊橋東高校の地位を実質的に吸収した可能性が見て取れる。

蒲郡市はもう一つ高校があるため学校群を設定する可能性もあったそうだが、取りやめとなったおかげで隣接する豊橋市の学校群を回避する受験生の一部が流入するという現象があったことは多数の記述がある。もっとも、それでも時習館高校および、時習館高校と群を組んだ豊橋南高校の進学実績を比べると段違いで低いもので、最上位の生徒の大半は豊橋1群を受けたのだろうと思われるが、豊橋2群と比較すれば十分な実績を挙げるくらいの生徒の流入があったのは否めなさそうだ。

豊橋で起きたことは名古屋市でも起きている。しかもより激しく。名古屋市の場合、向陽から桜台までが6校戦国状態だった。この6校は明暗分かれる形となる。

まず、菊里高校から述べる。菊里高校は現在進学校として認識されているが、学校群制度開始前は団子状態の進学校の中でも下位側の学校で、名古屋大学の合格実績は毎年10人台という学校だった。しかし、群の組み合わせが大変よかった。というのも、1群では旭丘高校と組んでいることで進学校化する千種高校と組んでおり、しかもこの群は他の群と違って相手校との距離が近く環境も比較的類似している。

学校群制度初年度の生徒が卒業する76年からすでに効果が出始め、その後80年代前半までかけて菊里高校の進学実績は向上しており、これは結局、進学校化した千種高校の裏口としての名古屋1群の人気向上が聞いているものと見られる。

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向陽高校と菊里高校の合格実績の推移

菊里高校は学校群終了とともにトップ校の相手校というインセンティブは失われる一方で、現在の複合選抜でも、トップ校の旭丘高校の滑り止めとして受験生に選ばれるポジションを確立しており、滑り止めである分いくらか実力が劣るのか、やや実績を落としたものの、学校群制度期に上昇した地位をある程度保っている進学校である。

この菊里高校の「裏口」にあたる、名古屋15群を組んでいたのが向陽高校である。といっても、向陽高校は学校群制度が開始直前の時点では菊里高校や千種高校よりも上位校である。瑞陵高校や東海高校にこそ劣るものの、その次の実績を挙げる学校たちのなかでは上位の学校になる。したがって、学校群制度期には、当初はやはり実績を落とすことになる。

しかし、菊里高校が学校群制度の導入によって実績が向上したことが見えてくることで、名古屋15群の優位性が高まってくる。名古屋1群は名古屋2群に次ぐ地位へと高まっており、対応して、菊里高校の実績は学校群時代には名古屋市内公立校では千種、旭丘に次ぐ3位にまで向上して明和高校や瑞陵高校をも上回っている。しかし、その菊里高校には名古屋15群という裏口があるわけで、その生徒の半分を向陽高校が吸収する。明確に「そのせい」とまでは断言できないが、80年代前半は向陽高校にとっては一転攻勢の時期になる。それも3年ほどで落ち着きを見せるが、向陽高校は結局学校群時代を、合格実績という面では「安定」で乗り越える。向陽高校は、学校群開始以前の中堅上位校の上部にいたそのポジションをそのままに複合選抜制度に移行し、そしてその当時のポジションを継続しているのである。

本来旭丘の実力が、学校群という制度を通じて千種のみならず、菊里の実力を明らかに押し上げ、さらに向陽までをも押し上げた可能性があると考えると、やはり旭丘の当時の突出ぶりが凄まじかったと思われる。このように、名古屋市東部では上位校の実力が学校群を通じて新設校の千種のみならず伝統中堅校(菊里、向陽)の地位を向上させる働きを見せたが、名古屋市西部は様相が異なる。

明和高校と群を組んだ中村高校に与えた影響は大きかった。しかし、その中村高校の裏口にまで好影響を与えるほどではなかった。確かに、80年代前半に名古屋西高校の凋落は一定の落ち着きを見せていることから、中村高校の進学実績の高まりによって中村高校の裏口として名古屋5群が見直されたことが推測されるが、それでも名古屋大学合格者数は毎年10人台というところで、学校群制度開始以前の、名古屋大学40人という実績を持ち、向陽高校と並び、瑞陵高校の次のグループの中で上位にいる状態からはかけ離れ、むしろ下側へと突き落とされることとなる。

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中村高校と名古屋西高校の名古屋大学進学実績の推移

中村高校と名古屋西高校の特徴は、学校群終了後に実績を落としたということである。中村高校は学校群制度によるいわゆる「群進学校」であることから地位を落とすのはそれほど不自然ではないが、興味深いのは、名古屋西高校が地位を戻すどころか、さらに落としたという点である。名古屋大学合格者数単独での優位性は50名でもそれほどインパクトはないのかもしれない。

瑞陵高校と桜台高校、熱田高校のケースを見てみよう。この3校は元々は瑞陵高校が頭ひとつ抜けていて、その瑞陵高校とペアを組むことができた中堅上位校2校である。

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桜台、熱田、瑞陵の参考の名古屋大学合格者数

学校群制度初年度生が卒業する1976年に大きな変動があるのは瑞陵と桜台である。このことからもわかるように、瑞陵の少なくとも上位の生徒は桜台と組んだ名古屋11群から入学したと見られる。しかし、こののち、学校群制度が終了するに至るまで瑞陵高校の実績は継続的に低下し、桜台高校の実績もまた、これに引きずられて落ちていくことになる。

1970年代前半の瑞陵高校の名古屋大学合格実績は60名程度あるが、この実績は1980年代になるとものの見事に凋落し、先に挙げた菊里高校や中村高校が、瑞陵高校のかつての実績を上回るような実績になっている。瑞陵高校に元々求められていたスペックは、この時期になると結局群進学校たちにとって変わられてしまったのである。東京では都立校の実力が低下すると、国立や私立の有力校の方がより優れた実績を挙げるようになり、そのことがまた連鎖的に実績を落とす原因となったように映るが、名古屋でも瑞陵高校をみると、東京と似たような現象が生じていたのだと思われる。もっとも、名古屋の場合は、公立校同士でそのような食い合いをおこなっていたのではあるけれど。いずれにしても、学校群開始以前の団子状態の地位から追い落とされていっているのが見て取れる。

このように中位校は名古屋東部に位置した菊里、向陽は地位の向上ないし維持ができたが、西部の名古屋西、熱田、瑞陵、桜台、そして明確には書かなかった松蔭も含めて、中堅上位の地位はだんだんと失われていくことになる。一方で、それよりも下位にいた千種、中村は高いレベルの進学校として登場した。

学校群制度とともに成長した進学校たち

改めて、千種、中村、そして、先ほど述べたように群制度とともに実績を向上させた菊里高校の名古屋大学合格実績を並べてみよう。

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菊里、中村、千種の名古屋大学合格実績

こうしてみると、改めて千種高校がもっとも極端に、そしていち早く、実績を向上させ、そして、学校群制度の終了時にストンと、実績を落としているのがわかる。また、菊里、中村も傾向は同じである。右端のデータの欠落が痛いもので、学校群終了後の地位の変化には多かれ少なかれ差異があるのが読みづらい。それでも、菊里は右端でも40人の実績をあげつつ、中村はほぼ0に近くなっているのが読みとれ、これから、学校群終了後の明暗が分かれていることもみえるだろう。学校群に起因して成長した学校はこのように、完全に元通りになっていく学校もあるのだが、学校群時代をいい意味で引きずって成長したままの学校もあり、その意味では、学校群が育て上げた進学校というのもあるのである。

ここまでに述べてきたように、千種は旭丘と、中村は明和と直接組んだ相手校である。学校群の性質上、相手校のブランド力が直接進学実績を向上させた。一方の菊里は、千種高校の成長と、群の中では比較的好条件があったことなどが奏功しての進学校化を果たしている。前者のような、直接相手校に支えられた進学校はたびたび「群進学校」と呼ばれるが、菊里のように、「群進学校を母体とした群進学校」のようにみえるケースや、豊橋に関連して言及した蒲郡東など、学校群制度の性質に起因して、自身は直接進学校と学校群を組んだわけではないものの進学校化した学校も広義には群進学校と言いうるもので、ここではそのように記述しよう。

名古屋における群進学校は、主に2種類あって、一つは進学校と群を組んだことで相手校のブランド力で進学校化した狭義の群進学校である。すでに述べている千種、中村のほか、一宮西、刈谷北、岡崎北、豊橋南の6校が該当するだろう。瑞陵と組んだ桜台は一時的な実績向上のように見える現象は見てとれたものの、それほど大きなものではなかったことから、むしろ群進学校に「なり損ねた」学校といった方が正しい。

もう一つは、蒲郡東の類型、すなわち、群制度もしくはそれによってもたらされた結果を踏まえて、群を構成する上位校を回避する受験の結果生じた進学校である。菊里高校がいずれの類型に当てはまるかは微妙なので、完全に網羅しているわけではないのだが、典型例とされるのは五条高校、名東高校、旭野高校である。

この類型は、学校群制度を忌避して、あるいは、学校群制度によって低下した地位を忌避して、学校群を構成しない学校を受験するというもので、東京都では主に国私立校への受験という形で現れるのであるが、愛知県の場合は、私立よりも、郊外の学校群未実施地域にある学校や、学校群制度開始後の新設校が学校群に組み入れられなかったことによって生じた抜け穴校がその役を担った。

とはいえ、最上位の群構成校の地位は高いため、蒲郡東の説明でも述べたように、即座に地域最上位校の地位まで脅かされるようなものではなく、むしろ2番手以下の学校群構成校が餌食となったのである。

とりあえずは五条高校の動きを見てみよう。

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名古屋西の実績低迷を打ち消すかのように、五条が学校群時代に実績を伸ばす。ただし、学校群終了とともに、右肩下がりになる。

名古屋大学の合格実績では1970年代に卒業している、学校群初期に入学生は毎年20名未満で、市内の「戦国」ともいうべき、中堅上位校になんとか追いついた程度である。そこから学校群制度期を一貫して実績を向上させて名大ではトップレベルの実績をあげたものの、東大京大でトップレベルの実績に到達するまでには至れなかった。

東大合格者は87年に6名という実績があるが、コンスタントに出せたわけではなく、前後の年が1名という状況であり、これが名古屋における、「群忌避」の学校の限界であった。

制度終了後の動き〜実は戻らなかった実績〜

学校群は1988年をもって終了し、1989年から複合選抜制という現行制度へと移行した。これによって伝統進学校を復活させることも意図されていたようだが、実のところ、部分的にしか成功していないと言わざるを得ない。

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旭丘高校の大学合格実績の推移

1977年から92年の間が京都大学の実績を見ると谷間のようになっているように見えると思う。それが学校群時代に入学した生徒の実績である。しかし、東大や名古屋大学の合格実績を見ると、この期間が谷間になっているわけではないことに気がつくだろう。むしろ、学校群時代に今の合格実績が固定化されており、京都大学の合格者数だけが、90年代と2010年代後半に例外的に盛り上がっているだけ、というのがわかる。

明和高校の場合は少し異なる。

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明和高校の合格実績の推移

やはり1977年から92年は谷間ではあるが、東京大学の実績はもともとそれほど高くなく、京都大学の合格実績こそ、学校群開始以前よりも高い実績をあげているが、名古屋大学に至っては、学校群時代と比して微増という範疇である。これが最も「復活」した高校の実績である。瑞陵に至っては復活という様相が全く見えない状況である。

旭丘高校と群を組んだ千種高校や明和高校と群を組んだ中村高校など、群制度によって進学実績が伸びた群進学校はどうなったか。

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千種高校の進学実績

結論から言えば、群制度終了とともに全て地位を落とした。三河学区の項目で述べたとおり、完全な普通の高校にまで低迷したケースは少ないものの、地域2番手校ないしそれ以下へと転落していった。愛知県トップ進学校と化した千種高校も、今では名古屋市内公立5位ないし6位の地位に甘んじているし、中村高校は豊橋南高校と並んで壊滅した。

もっとも実績を保てた菊里高校であってもなお、実績は下がっている。菊里高校が地位を(比較的)保てた理由は明白で、複合選抜制になったときに、旭丘の滑り止めの地位を独占できたことにある。もっとも、そうであってもなお実績が悪くなったということを考えると、1番校である旭丘の不合格者というのは、学校群制度で2番手の群に合格できる生徒よりも成績が悪い、そのようにも見て取れる。

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菊里高校の東大、京大、名古屋大学合格実績。前半部は群制度下、後半部は複合選抜時代に入学した生徒による実績。明らかに後半の方が実績が悪いことがわかる。

複合選抜制は群制度と違って、志望順位を付けて公立を2校受験できるようにした制度なので、菊里高校に流入する生徒は旭丘の生徒より(個別例では反例もあるが、少なくとも統計的には)明白に成績が劣ってしまい、群制度ほど相手校の実績を支える効果がないことが見て取れる。

さて、名古屋市内公立校で実績を伸ばしたのは旭丘と明和の2校でしかも京大合格実績こそそこそこしっかりとした復活ながら、他は限定的で、復活しきれなかった。そのくせ、それに代わる強豪校が出てくるのかと思いきや、市内有力校は他校もこぞって伸ばせなかった。そう、この点は意外と知られていないのだが、実は名古屋市内公立高校は合格実績の意味で一人負け状態になった。東大と京大の合格者合計を各校ごとに各10年代ごとに求め、尾張学区全体の合格者に占める占有率を求めてみた。名古屋市内公立校全体のシェア、国私立校のシェア、名古屋市以外の学校のシェアの推移をグラフにするとこんな感じだ。

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東大京大合格実績シェアの年代推移

70年代は76年から学校群制度下での入学者が含まれるようになるが、学校群制度以前の勢いが継続されている。しかし、80年代から00年代にかけて、名古屋市内公立合計の地位がどんどん低下している。90年代は92年以降学校群制度終了後の世代が実績をあげているにもかかわらずである。

代わりに、名古屋市内の国私立校と、名古屋市以外の学校のシェアが伸びている。尾張地区全体で、学校群制度が本質的に効いていたかどうかはともかくとして、学校群制度を終えても止まらない「市内公立離れ」が進んでいたのである。

東京でも同様のことがもっと深刻に起きていた。東京では学校群制度終了後、グループ合同選抜制度と呼ばれる、学校群制度開始以前に行われていた制度に近い入試制度を実施していたが、この時期に都立高校は致命的に水準が低下したと言われているように、学校群制度をやめても、その学校群制度時以上に状態が悪化するという現象が起きているのである。それほど明らかに言及されることはないが、少なくともデータ上は、名古屋においてもこれに近い現象が起きていたと捉えることもできなくはないのだ。

ただし、名古屋でなぜこのような現象が生じたのかについては理由が今ひとつわからない。まず、学校群時代というのは名古屋市周辺部の人口増加が進んでいた時代でもあり、学校群制度とは無関係に一宮や、学校群を構成していない名古屋市周辺進学校にとっては有利な時代だったことは間違いない。また、経済成長によって私立高校が地位を高めたというのも、不自然な話ではないだろう。ただ、学校群制度終了とバブル終焉は数年差であり、人口増も鈍くなってくるのがこの時期であり、学校群制度終了後即私立や周辺校の地位が低迷して名古屋市内公立校が復権してもおかしくないところを、90年代を一貫し、ついに2000年代まで名古屋市内公立校の地位が低下するという憂き目にあっている。

ただ、いくつか考えられることはある。まず、一宮学校群の解体により、一部地域を除けばアクセスが微妙な一宮西に回される可能性がなくなったことや、これまで一宮西に回されていた進学実績が一宮に集中したことで、一宮高校の人気が高まったことである。実際、学校群時代に毎年5人以下だった東大合格実績は96年に23人を記録するなど、一宮西の実績を吸収したには止まらない実績を挙げている。つぎに、東海高校の実績が公立最上位校に肩を並べるまでになるなど、私立上位校が着実に力をつけており、制度を改変しても、それだけで公立高校に回帰するほど弱くはなかったことである。むしろ90年代を一貫して私立高校は強化されており、この辺りは東京でも起きたような、「度重なる制度改変による教育委員会への不信」などによる、「学校群終了後の公立校の地位のさらなる低下」現象のようにも見える。

私はこの学校群終了後の一時的な実績回復が終わった後の、再度の実績低下、すなわち、名古屋市内公立校全体の地盤沈下が旭丘や明和にも露骨に現れてきた時期に旭丘高校に入学した。この時期は確かに三河の岡崎高校、地元の一宮高校、そして刈谷高校といった、名古屋市外の旧群構成伝統校がピークの実績をあげていた時期で、岡崎、一宮、刈谷がもてはやされ、旭丘、明和は沈没、東海は平常運転、というような雰囲気の時代だった。

群制度終了後の動き〜中堅校の場合〜

学校群開始前、名古屋大学合格実績を一定程度抱えている中堅校も名古屋市内に多数あって戦国状態だったことを述べたが、この状況はどう変化したのだろうか。

2021年の名古屋大学合格者数10名以上の学校の実績を並べると
刈谷:83名、一宮:77名、向陽:74名、岡崎:67名、明和:61名、東海:59名、旭丘:54名、豊田西:54名、岐阜:48名、菊里:45名、滝:39名、一宮西:36名、四日市:35名、時習館:33名、半田:32名、南山:31名、大垣北:29名、瑞陵:28名、西春:26名、千種:25名、西尾:24名、五条:22名、岐阜北:21名、浜松北:21名、津:19名、多治見北:18名、岡崎北:18名、名古屋:18名、金沢泉丘:17名、藤島:16名、関:15名、名東:15名、春日井:13名、刈谷北:13名、富山中部:12名、磐田南:12名、浜松西:12名、江南:12名、伊勢:12名、桑名:12名、松本深志:11名、名古屋大附属:11名、愛知淑徳:11名、中部大春日丘:11名、彦根東:11名、静岡:10名、旭野:10名、横須賀:10名

の48校である。尾張学区の公立校は全部で16校と、1967年と比べて4校増加したものの、名古屋市内は7校と、2校減少している。名古屋市内公立校で1967年、2021年の両方に名を残したのは向陽、明和、旭丘、菊里、瑞陵の5校で、名古屋西、熱田、松蔭、桜台は1967年のみ、千種と名東は2021年のみ入った。桜台は惜しくも2021年に9名、1967年もギリギリ10名でランクインとのことでもとより当落線上ギリギリなのをキープしたような状況ともいえるが、だとしても3校ないし4校が学校群前の「戦国」から脱落し、複合選抜でも回復できないままとなっていた。

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名古屋西、熱田、松蔭、桜台の4校の名古屋大学合格実績の推移

名古屋市内最上位校の復活が限定的だった理由は今ひとつわからないところも多いが、中堅上位勢が復活できなかった理由はある程度わかる。それは後継制度の「複合選抜制」と、学校群時代末期の情勢を総合すればよい。まず、複合選抜制では1群と2群があり、それぞれにAグループとBグループがあって、同じ群のAグループ校とBグループ校を志望順位を付けて受験できる。複合選抜制はこの併願によって一定の間隔の序列を与えていく特徴を持っている。

それぞれの群のAグループに核となる学校を配置してある。すなわち、1群Aグループに旭丘を置いてある。この学校は群制度開始以前にはダントツの、群制度開始後も1位校とは僅差で、3位以下には圧倒的大差をつけていたので、この学校を中心に動くのは自然な流れである。ただ、1群Aグループには他に上位校、中堅上位校を置かなかったのである。この点は非常に重要である。対して2群Aグループには有力校を複数おいた。明和と向陽、一宮の3校である。最有力校として位置付けているのは一応明和だが、学校群最末期には向陽高校と大差なかった。

これらのAグループと対になるBグループには1群と2群の両方にちゃんと有力校を配分した。すなわち、1群ではのちに旭丘滑り止めを独占する菊里、学校群開始前には上位校にいた名古屋西、学校群時代に高い実績をあげた中村、そして地理的に離れた一宮西半田の5校である。2群Bグループには、学校群時代最強を誇る千種、学校群で実績を落としたものの、伝統校として一定の実績はキープしていた瑞陵、学校群時代に群忌避で実績をあげた五条、瑞陵とともに群制度によって混乱を続けた桜台、知多半島で一定の実績を持つ横須賀の5校ないし、西春を入れた6校が有力校として入る。

1群Bは旭丘の滑り止め受験が一定程度見込めるが、旭丘以外の有力校がないため、上位の生徒の流入が見込めず、自前で成績上位層を確保できる学校以外は残れない。菊里高校を含む名古屋市東部は住民の学力水準が高いが、名古屋市西部にある名古屋西や中村はその点で劣っていた。また、1群Aグループに中堅上位校がないというのは、名古屋西や中村にとってその滑り止めになるいい学校がないことにもなる。実際、現在の菊里高校も、昭和高校が07年に1群Aグループに移るまでは滑り止め校は名古屋市東端の名東高校くらいしか候補がない、と言われていた。滑り止め候補が東端になることもあって、そこから遠い名古屋西や中村は不利であり、菊里か同レベル帯の2群の学校に流出する。

一方の2群Bは2群Aに3校も上位校があるので、地位を保ちやすい。複合選抜開始直後、結局は明和高校が2群Aのトップ校になって、千種、瑞陵がその滑り止めと位置付けられた。その結果、千種は学校群時代の地位は失ったが、一方で、明和落ちレベルの上位の生徒を集めることはできた。もっとも菊里について述べたとき同様、複合選抜の性質上、上位校の併願先のレベルはかなり落ちざるを得ないもので、結局「明和落ち」という序列を与えられた千種は、向陽をも下回ることにはなるが、有力校の一角には踏みとどまる。瑞陵にとっては「向陽落ち」が同じ役割を果たす。また、五条や西春には「一宮落ち」が加勢し、地元民で支えた。桜台は「〇〇落ち」に恵まれたとは考えにくく、その意味では2群Bの中では危ないとみえるが、立地面で桜台を追い込むことになる群進学校もない。

結局、複合選抜制度は、名古屋市内の上位校にとって「1群Bグループがババ」というものだったのである。複合選抜についてwikipedia等に「1群は有力校を極力入れず、2群に配置した」と記述されているが、それは最終結果から見た結論であって、旭丘と比較する意味で「明和の方が選択肢が多くなるようにした」というのは少なくとも複合選抜開始時点では完全な誤りである。旭丘の滑り止め候補は、菊里の他、中村や名古屋西まであって、これらの学校が墜落したために、「明和の方が選択肢の多い」状態に遷移したのである。

大学合格実績で、名古屋市内の中堅勢が崩壊した代わりに増加したのは尾張学区の名古屋市外勢、特に十分に離れた郊外勢である。1967年と2021年の両方にランクインしたのは一宮、半田、横須賀の3校、1967年にあって2021年にない高校はなく、逆に、一宮西、西春、五条、春日井、江南、旭野の6校が追加されて、2021年には名古屋市内よりも多い9校がランクインしている。

一宮地区は人口増加が多かった地域であり、学校群時代から着々と実績を伸ばしてきた。学校群制度終了後は東大や京大では一宮高校に実績の集約が進んだが、名古屋大学の合格実績を一校だけに集約するほどには至らず、相手校である一宮西高校も一定の地位を保持した。

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一宮高校と一宮西高校の名古屋大学合格者数。学校群制度終了後一宮高校の実績は高まるが、一宮西高校の実績は維持された。

学校群時代に群構成校の地位が低迷するのを尻目に実績を伸ばした五条高校や旭野高校の群制度終了後の実績はゆるやかながら下降基調となる。もともと、学校群時代に名古屋市内の有力校の実績低下と歩調を合わせて成長したので、それが終われば伸び悩むこと自体は変な話でもない。ただ、郊外の、人口が増加した地域にあることもあって、当時の勢いは失われたものの、現在でも一定の実績を保持しているということに疑う余地はない。

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学校群時代の五条、旭野の伸びは瑞陵、名古屋西の地位の低下と歩調を合わせて進んだ。

さて、最後に西春・名東という少し変わった例を取り上げて終わることとする。西春も名東も学校群制度下で新規開校した学校で、生まれた当初から群を忌避する生徒を吸収していた学校とは言われるが、より周辺の宅地開発が進んでいる地域にあったことや、名古屋市中心部からの距離が遠いこともあって、五条ほど群進学校然とした学校ではなく、学校群終了後僅かに低迷したが、五条ほど激しい低迷ではなく、着実に実績を伸ばした。

その結果、名古屋市郊外の学校としての相対的な地位が五条の低迷という効果もあるが、学校群を終えた後に向上する結果となり、2000年代に入ってから実績を向上させることになる。また、これは五条高校とも共通する事項ではあるが、西春高校は一宮高校の滑り止めとして受験可能な地位にあって、一宮市東部の一宮高校の受験生の流入があったことも奏功し、緩やかながら複合選抜進学校ともいうべき状況になる。

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西春は五条と異なり、単なる群進学校ではなく、複合選抜下でも地位を高めることとなった。

名東については菊里の滑り止めとなったことでこのような現象が生じた。

いずれにせよ、中堅上位校においては上位校と異なる動きが見て取れる。まず、学校群制度の影響や周辺の都市化などが奏功してこれまで有力校がなかった名古屋市外に有力校が生じた。そして、そのような名古屋市外の有力校が複合選抜開始時に地位を一定の範囲で保持し、一方で、学校群によって影響を受けた一部の学校は、複合選抜によってバランスの変化で行き場を失い、戦国状態から転落した。

群制度終了後の動き〜三河の場合〜

群制度終了時の三河は刈谷と岡崎は一宮と同じである。すなわち、岡崎では岡崎高校、刈谷では刈谷高校に実績が集約され、しかも、刈谷と岡崎は強化復活となり、刈谷や岡崎と組んでいた相手校も一定の実績は保持したままになるというものである。

豊橋は様子が異なり、時習館高校は完全復活ではなく、三河最上位校は岡崎へと移行した。また、時習館高校と組んでいた豊橋南ではなく、もう一つの群を構成していた豊橋東高校が2番手校、そしてその相手校である豊丘が市内3番手校の地位に収まる。豊橋南高校は市内4番手校で、本当に平凡な成績でも合格可能な普通の高校に、そして五条などと類する地位にいた蒲郡東高校の地位は「底辺校」に近い水準まで低下した。

改めて三河学区内の名古屋大学合格実績を1967年に遡って確かめると、時習館:55名、岡崎:52名、刈谷:40名、西尾:19名ということで、2桁合格校は4校という状況であり、上位進学校はあれど、中堅が不足していたといえよう。2021年になると刈谷:83名、岡崎:67名、豊田西:54名、時習館:33名、西尾:24名、岡崎北:18名、刈谷北:13名ということで、群進学校の岡崎北、刈谷北、元々中堅だった西尾に加えて豊田西が新たに登場ということになる。

三河地区で人口が最も多い豊田市はこれまで進学校がなかった。そのため、刈谷や岡崎へ成績上位層が流出していた。しかし、学校群制度末期にこの状況が改善する。豊田西高校が名古屋大学合格実績で2桁の実績を挙げることになる。これにより、続く複合選抜の時代に入ると、岡崎高校の滑り止めとしてのポジションが与えられたこともあり、豊田市内での進学校としての地位を与えられるようになる。

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豊田西高校の名古屋大学合格実績

これにより、上位進学校というまでの地位は手に入らなかったが、中堅上位校が豊田市にも確保された。ただし、2000年代に入ってからは、岡崎の滑り止め、というのが足を引っ張っているようにも見える。すなわち、結局岡崎に行けない生徒が中心になるため、どうしても伸び悩まざるを得ないのである。

三河地区を総合してみると、尾張と比べて学校群の前後での変化が小さい。ただ、岡崎や刈谷が伸びたことや、豊田に進学校が発生しているなど「いい進化」が見られたのと比べて、豊橋では従前の学区トップ校が地位を落とし、学校群時代は中堅校が失われ、学校群終了後は、「群進学校」が底辺校化するなど、学校群が混乱や被害をもたらしたように見える。

複合選抜の組み合わせ方の考察

余談だが、複合選抜制度下での推移は、複合選抜という、制限付き2校受験可能な制度における制限の付け方抜きには議論できない。上記で書いたように、1群Bがババだった、というわけだが、それがどのようにして決定されたのかを考察してみたい。

名古屋の15群の中で、2群、1群、6群、15群は難関の群である。そして、2群の旭丘は1A、千種は2B、1群の千種2B、菊里は1B、6群の明和は2A、中村は1B、15群の菊里1Bで、向陽が2Aということからわかるように、上位群構成校は1群と2群が分かれるようにしてある。おそらくこれは基本方針として、学校群でペアになる学校を遠ざけるという狙いがあったのではないだろうか。そうすることで、学校群でペアになった学校はペアにはならないと宣言し、学校群とは違うのだ、ということを意思表示しているように見える。一方で、11群のように、瑞陵、桜台ともに2Bというケースもあるため、下位の群ではそこまで慎重ではない。自分が決めた現行制度を否定するのは不可能な役所という立場にあって、精一杯の自己否定の一部がここに隠されているように見える。

次に、明和と千種を旭丘と異なる群にしたが、明和は群制度以前の2位校で、千種は群制度下で急造されたトップ進学校である。伝統的権威のトップ進学校を抑える立場の学校を旭丘と異なる群におくことで、1群と2群を対等化する狙いがあるように見える。また、この明和と千種を異なるグループに置くことにより、どちらかがどちらかを上回る状態を作り出し、ここで明和が勝てば「復活」、千種が勝てば「学校群時代の秩序の継続」という秩序の明確化をさせたい意図を感じ取れる。一部の記述で明和の復活を意図した、と書かれているものを見たことがあるが、明和の実績が千種を上回る保証は当初からあったとは思えない。それでも、千種と明和を同じグループにした場合、いずれかがいずれかの滑り止めという形にならないため、序列が曖昧になる可能性があり、二群が微妙という可能性を忌避したのだろうか。

ほかはどうしたか。2群と1群は同じ数にしたかったのだろう。実際、15校の学校群構成校は4校ずつ配分(1Bのみ3校)である。この配分の中で、2群に上記理由で明和と千種は確定とさせたとして、あとどうするか。ここで学校群の解体だ。名古屋1群菊里は千種との兼ね合いで1群だろう。となると、15群の向陽は2群に確定される。また、明和との兼ね合いで中村は1群だ。これにより、旭丘、菊里、千種、明和、向陽、中村の6校が群は確定した。瑞陵は群以前に高い実績を伸ばしてブランドがあるので、あまり1群にはしたくはなかっただろう。それで2群である。以前の有力校や群進学校で残るは名古屋西だけである。が、均等配分を考えたら1群になる。

次にABの配分だが、旭丘の1A、明和の2A、千種の2Bは確定だ。他をどうするかだが、まず2群から。向陽、瑞陵をABどちらにするかで、両方をAもしくはBにしてしまうとアンバランスになる点を考慮して分けたのではないか。ただ、戦前からの伝統校でブランドが強かったのはどちらかと言えば瑞陵、という点を踏まえるとAに置いてしまうと明和と競合してしまう。明和復活を狙うなら、「第一志望明和、第二志望瑞陵」を可能にしておくと都合が良かった可能性は感じられる。とすると、A向陽、B瑞陵という現行配分に落ち着くだろうか。

名古屋市内公立校の地位低迷で加速した「東高西低」状態

名古屋市中心部の久屋大通を境目に東側と西側では街の構造が大きく異なる。そしてこれは進学校という文脈でも当てはまる。名古屋市内の伝統的3強ともいうべき旭丘、東海、明和の3校はいずれも名古屋市東区に直線状に分布しており、互いの距離は一番遠い旭丘と明和の間でさえ3km程度でしかない。また、瑞陵高校、菊里高校、向陽高校はこれらの3校から見て南もしくは東という立地で、久屋大通よりは東側にある。

とはいえ、1967年時点では久屋大通の西側にも有力校が存在していた。名古屋西高校、松蔭高校である。残念なことに、現在の名古屋市西部には有力校が存在していない。学校群制度下では中村高校が伸びたものの、名古屋西高校、松蔭高校の地位が低迷してしまい、市外の五条高校などにとって代わられてしまった。そしてその中村高校まで、学校群制度終了後に地位を失ってしまい、名古屋市内の中堅以上の高校は全て東側に集中する状況になってしまった。

昨今の愛知県教育委員会もどうもこのことを気にしているようで、松蔭高校を複合選抜における群共通校に指定するなど、名古屋市内西部の有力校としての地位向上を狙っているようにも見えるが、松蔭高校の地位は残念ながら現時点ではまだ低いままであり、名古屋市の進学校事情における東高西低は改善されていない。

このことは、名古屋市西部のみならず、旧海部郡、特にその南部地域にとって望ましくない状況と言える。海部郡は進学校を形成させるほどの人口がおらず、名古屋市や一宮市の進学校まで遠距離通学するか、津島などの中堅校にとどまるかを考えることになる。海部郡南部は近鉄線や関西本線といった東西移動は比較的スムーズなのに対し、南北移動に難がある状況で、高校では名古屋市に頼らざるを得ない。ところが、その大動脈である近鉄沿線に中堅上位以上の進学校がないため、名古屋市東部まで通学する選択をする割合が少なくない。近鉄線沿線地域における選択肢を増やす意味でも、松蔭高校には期待をしたいところである。

名古屋市内公立校の復権なるか〜2010年代の傾向〜

尾張地区における東大と京大、そして医学部合格実績で特徴付けられるような最上位校争いは東海と旭丘の2強、それを追う明和と一宮で、最強校3校分のパイを4校で分け合う情勢が30年近く安定している。

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東大と京大の合格実績の合計の推移。1958年までが小学区制、1959年から1975年が学校群実施前、1976年から1991年までが学校群時代、それ以降が複合選抜時代である。

問題視された1959年から1975年の旭丘一強体制は学校群の実施により、急成長した千種と元からの旭丘、そして、じわりじわりと成長してきていた東海の3強体制に移行し、学校群終了後は名古屋市内は東海と旭丘の2強と明和の0.5の「2.5強」、そして一宮がその明和と並ぶ0.5強となった。

さて、グラフを見ると、旭丘が少し実績を下げて、一宮とタッチしているのが2000年代後半にある。私が高校受験をした名古屋市内の公立校の地位が低迷した07年度は、このタッチしている時期である。実は京大を合計するとタッチしている程度なのだが、東大単独でみると06年に旭丘20名、一宮28名という大幅な逆転をしているほか、一宮高校が名古屋大学に近年稀に見る142名という実績をあげていた。私が旭丘に入学する頃は一宮高校はSSH指定校であるなど科学教育に力を入れていた。

しかし、その06年の一宮高校の奇跡の年ともいうべき実績を見た翌年には、旭丘25名、一宮18名と息切れをしており。この時期確かに一宮高校は強かったが、旭丘を上回るまでには至っていなかった。そして、入試難易度では相変わらず旭丘明和の順だった。

そして、中堅上位においては、向陽高校が実績をあげているようである。また、瑞陵高校は学校群時代の負の連鎖は完全に消え、安定的な上昇傾向かは微妙ながら、下向き傾向ではなく、名古屋市内上位校に戻るべく実績をあげつつあるという声も聞く。千種高校の実績は学校群終了後は長く右肩下がりだったが、2010年代に入ってそのフェーズは抜け出したようである。もっとも入試偏差値は近年下がっているようで、受験生の親世代が学校群世代から複合選抜世代へと移行して千種高校のイメージの悪い世代となっているあたりが不安要素ではある。

いずれにしても明らかなのは、名古屋市内公立校の地盤沈下は2010年代に入って歯止めがかかったということである。

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各校の2010年台の推移

2021年の名古屋大学合格者のうち、10名以上合格校による合格実績は1343名だそうだが、この範囲について調べた場合、愛知県にある公立高校がそのうち832名を、名古屋市にある公立高校が302名を占めている。名古屋大学合格者数について、名古屋市公立校が愛知県全体の公立校に占めている割合は36%である。一方で、愛知県の人口が755万で、名古屋市の人口が230万であるので、こちらは30%。名古屋市の内外の交流がある点を一切度外視しているが、正味で考えれば、名古屋市は名古屋市、名古屋市外は名古屋市外で人材育成をしたと考えて自然な割合になってきているのではないか。

個人的な思いと締め括り

私一人いなかったところで旭丘の地位が下がるとは思えないが、あまり地位を下げて欲しくはないと思っている。というのも、個人的には私立校がダントツというのは、教育投資を過熱させてしまいあまり良くないと思う。また、男子校に有力校があれば女子校も有力校がなければ不釣り合いながら、愛知県では東海高校と互角な女子校はない。それゆえ、東海高校が55年前の旭丘みたいな独走状態にならないよう、旭丘にはある程度実績をあげてもらいたいと思う。

もっとも、他校を潰して1967年のような実績を挙げるのもいいとは思わない。旭丘は名古屋市内でも個性派という扱いであり、没個性に走っても欲しくはなく、その点、ライバル校がなければ望まぬ生徒、すなわち反「個性派」的な、校風に合わない生徒も受け入れざるを得なくなる。結局、学校群制度導入時に掲げられていたような「突出した進学校の発生の抑止」という目標には私は完全に反対するような立場ではなく、私立高校を含めて、一定のバランスをとりながらの安定を目指してほしいと思っている。

東海高校の成長はまだ続いているようで、その意味では「落ち着いた」とまでは言えないかもしれないし、名古屋市内公立校の成長と引き換えにか、一宮高校の実績がかなり下がってしまった。正直そこまで落ちることを望んではいない。

ただ、それでも、学校群制度開始50年を経て愛知県の高校事情はとりあえずの落ち着くべきところへと概ね落ち着きつつあるように見える。名古屋市西部の高校事情や、豊田地区の問題など一部の問題は残されたままであるが、大枠作りはもう終えたといってもよいであろう。

そしてこのように調べてみると、私の生まれ育った一宮市は学校群制度の実施と終了のいずれの段階の変化もプラスに働いたように見える。すなわち、一宮高校という上位校が非常に高いレベルの進学校になり、また、それに次ぐ一宮西高校もかつての名古屋市内の中堅上位の1校程度にまでレベルを上げており、名古屋市まで通学する必要性を大幅に減じているのである。その中で名古屋まで通学したというのだから、まあ私は贅沢をしたものである。

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愛知県学校群制度の顛末|YuichiroMori(てんそるたん)
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