宗教団体の献金・支援は認められるか 法哲学者が語る政教分離の本質
「憲法季評」安藤馨・一橋大学教授(法哲学)
これまでの国会や、衆院選を通じて問題となったのが、特定の政治家や政治団体の政治活動を支援するような宗教と政治の関係である。今回は民主政と信仰の関係について考えてみたい。
宗教は、(典型的には超自然的な)世界像と、それに基づく人間の生に対する救済的処方からなっている。それゆえ信仰は、世界についての(たとえば輪廻(りんね)の存在などの)信念を含み、真偽が問われる対象となる。個人の信仰は人種や性別などとは異なり、理性的批判――真か偽か、合理的か不合理か――の対象である。しかも、宗教的要求は、単なる個人的嗜好(しこう)とは異なり、客観的な真理によって支えられているがゆえに非信仰者を含む万人が従うべきものである(と信仰者は考える)。
他方で、現代の我々が知る宗教的多様性が、客観的な宗教的真理に対する懐疑を生み出すことも確かである。全体として知的能力などに有意な差のない人々の間で、互いに相いれない内容を有する多様な信仰が形成されていることを前にして、自身の信仰こそが正しく、他者の信仰は間違っていると主張することが一見して不合理だからである(ある物体が何色であるかの判断や、ある計算の暗算結果が、視覚や計算能力の似通った人々の間で分裂してしまった場合を考えてみてほしい)。
「宗教的真理に関して民主政は機能しない」
だが、国家が宗教的多様性に基づいて信仰の不合理性を認めてしまうならば、たとえば憲法20条が要請する政教分離とは、不合理な主張に基づく実践に国家が公金を拠出してはならないといった要請だということになろう。信教の自由は私的領域内で不合理な信念を保持することを(もっぱら本人の精神的安定といった主観的充足のために)許すにとどまり、宗教は非科学的な医学的主張(たとえばホメオパシー)と選ぶところがなくなる。このような宗教理解に基づく世俗主義的国家像は首尾一貫したものではあるとしても、日本を含めリベラルな諸国家が信教の自由に対して有する態度――とりわけ宗教的真理への立ち入りを避ける中立性と手厚い保護――をこれに基づいて説明することは困難である。
単に不合理な主張一般と宗教的教説の重要な違いは、後者が人間を含む世界全体についての包括的教説であることによって人間の認識能力についての教説を含みうる点にある。ある宗教によれば、信仰者はその信仰と実践によって非信仰者が欠く、宗教的真理に対する知覚能力を獲得するとしよう(たとえば真の信仰によって神との霊的接触が成立し、聖典が神の言葉だということがわかるようになるとしよう)。この宗教が正しいとすれば信仰者のみが宗教的真理の知覚能力を有する。非信仰者たちは知覚能力を欠くがゆえに四分五裂しており宗教的多様性が生じているが、信仰者は特権的に正しく宗教的真理を知覚し、その信仰は知覚に基づき合理的である。真なる信仰はこのように合理的でありうるので、宗教的真理に対して中立的な国家は信仰の不合理性を持ち出すことができない。
だが信仰者が不合理性の譏(そし)りを免れるべく自己の認識的特権性に訴えることで、民主政における宗教の特殊な位置が判明する。民主政は政治共同体の抱える問題に対して、おおむね対等な認識能力を有する人々が様々な観点からの見解を提出することによって、どの単独の個人よりも優れた認識を達成するという機能を有し、それゆえに権威を有する。だが、宗教的真理の認識能力が信仰者にのみ特権的に備わる場合には、認識能力を欠く非信仰者が多数派であることは、その信仰の合理性をなんら揺るがさない。宗教的真理に関して民主政は機能しないのである。
改めて問われるべき分離のあり方
他方、民主的決定はそれが多数派に支持されたことを理由として服従を要求するものであるがゆえに、そこに宗教的真理が入力されてはならない。宗教的理由の民主政への混入は宗教的理由を不当に権威化してしまうからである。たとえば、人工妊娠中絶に宗教的理由から反対する多数の信仰者がいたとしても、民主的決定によってそれを禁止すべきではない。そもそも信仰者の多寡は信仰者自身にとって認識的意義を持たない。それゆえ、多数派であることを理由とした禁止は、信仰者自身の観点からも的外れであり、それに基づく国家的強制は許容できない。
したがって、民主政が宗教的真理から分離されていることは、信仰者自身の観点から(も)要請される。法がある宗教を取り扱う際に、宗教的理由を排除して有利にも不利にも考慮せず、もっぱら非宗教的な世俗的理由に基づいて取り扱うことはリベラルな民主政にとって不可避の要請であるが、民主政の下での信教の自由と宗教的理由の排除が、宗教的真理と認識的特権に関する民主政の機能的限界という同一の基盤を共有している点が重要である。
個人の内心を規制し得ない以上、民主政からの宗教的理由の完全な分離を制度化することは実際上困難である。だが、政党や政治家の政治的言説から宗教的理由が排除されるべきことはもちろん、これまで当然視されてきた宗教団体による政治献金や選挙活動支援もまた、宗教的理由の民主政への浸潤の経路として何らかの規制の可能性を考慮すべきではないのだろうか。目下の日本に限らずリベラルな諸国家で、終わる気配を見せない政治と宗教を巡る議論を前に、民主政と宗教の分離のあり方が改めて問われるべきである。
安藤馨さん
あんどう・かおる 1982年生まれ。一橋大学教授。専門は法哲学。著書に「統治と功利」、共著に「法哲学と法哲学の対話」など。
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結論部の「宗教団体による政治献金や選挙活動支援」という表現が現下の日本の状況で何を指しているかは容易に推察できます。その具体的な問題性もよく理解できます。ただ、それを規制することは、特定の宗教を信ずる市民の政治参加の権利を制約することにつながります。これまで国内外で論じられてきた争点でしょうから、この先の議論がどう展開されるのかを伺いたいです。日本を含むリベラルな諸国家でなぜ信教の自由に特別な庇護が与えられているかについても、もう少しお考えを伺いたいです。 それと、怖れながら申し上げます。「宗教の信仰は客観的真理に支えられているから、非信仰者を含む万人が従うべきだ」と信仰者が考えているとか、信仰者は「不合理性の譏りを免れるべく自己の認識的特権性に訴える」とかについては、一般化がやや困難なように思います。
…続きを読む - 【視点】
安藤馨先生が主張する<個人の内心を規制し得ない以上、民主政からの宗教的理由の完全な分離を制度化することは実際上困難である>(2月11日「朝日新聞」デジタル版)という考え方が重要です。これは宗教以外の世界観型の思想(例えばマルクス・レーニン主義。最近は科学的社会主義と称されることが多くなった)に基づく団体に関しても適用されます。 こういう団体の政治献金や選挙活動支援については、その宗教的価値観や思想が問題にされるべきではありません。具体的な行為が法に抵触する場合には当然、規制されるべきです。具体的な行為が法に触れない場合でも、公序良俗原則をはじめとする社会規範から著しく乖離する場合に限り、何らかの社会的制裁を加えればいいのです。 問題は宗教や思想ではなく、個別の具体的行為を問題とすべきです。宗教団体を他の団体(とりわけ世界観型の思想を基礎にする団体)と区別して論じる必要はないと思います。
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