風の子学園事件

1991年

10代の少年少女2人がコンテナに閉じ込められて亡くなった「風の子学園監禁致死事件」から7月29日で33年が経ちました。

このブログでは、2022年に4回に分けて事件を取り上げましたが、今回、その後に入手した新聞記事などの資料を増補、文章も大幅に書き直して1回にまとめた改訂版を作りました。

 




【コンテナでの少年少女の死】

 

 

朝日新聞(1991年7月30日夕刊)

 

中国新聞(2021年7月28日)

 

1991(平成3)年7月30日午後9時半ごろ、広島県三原市の沖合にある小佐木島(こさぎじま)にあった「情緒障害児の体験療育」をうたう無認可の民間施設「風の子学園」(園長・坂井幸夫、当時67歳)から、「コンテナの中に入れていた園生の少年、少女の2人がぐったりして倒れ様子がおかしい」と119番通報がありました。

 

2人はすぐに三原市内の病院に搬送されましたが、脱水症状を起こしていてすでに死亡していました。

 

コンテナ(左)と施設の廃屋

中国新聞デジタル(2021年7月28日)

 

このコンテナは、JRが使っていた貨物用コンテナの廃物で、1991年2月に動物飼料の保管倉庫として園が購入したものですが、実際には、脱走をはかるなど「問題」を起こした園生を外から鍵をかけて閉じ込め、反省を促すための懲罰部屋として使われるようになり、坂井は「内観室」と呼んでいました。

 

下図のように、コンテナの内側にはベニヤ板が張られており、照明や窓はなく、長い座り机とプラスチックのポータブル便器が置かれているだけで、鍵をかけられると内側から開けることはできませんでした。

 

*実際の便器は下の写真の形

毎日新聞(1991年8月1日夕刊)

 

コンテナの内部

(左に座り机、右奥にポータブル便器が見える)

中国新聞(2023年6月22日)

 

亡くなったA君(14歳)は兵庫県姫路市出身で、中学1年生ごろから「ツッパリ」グループに属し、万引きなどの問題行動を起こし始めました。

彼はもともと小心で気の弱い性格でしたが、女性の担任に暴力を振るって警察沙汰になったこともありました。

 

そこで中学3年生になった4月ごろ、学校の生活指導教諭から「広島にミニ牧場的な施設があるので環境を変えてみないか」と誘われ興味を持ったA君は、父親にそのことを話しました。

A君の父親は、同教諭に紹介された姫路市教育委員会内の少年愛護センターに行き、そこの指導主事から「風の子学園」を勧められ強い関心を持ちました。

 

下見のために同学園を訪れて坂井園長から指導方針や教育内容、費用などの説明を受けた父親は好印象を持ち、A君に話すと彼も乗り気になりました。

そこで5月2日、A君は両親と一緒に同学園に行き、さしあたり夏休みの終わりまでの予定で正式に入園しました。

 

もう一人のB子さん(16歳)は広島県三原市出身。

小学校の終わりごろからいじめに遭い、中学2年生の時、学校の不良グループから恐喝やリンチを受けるようになって学校に行けなくなりました。

別の中学に転校したB子さんでしたが、まもなくまた不登校になりました。

 

引きこもったままの娘を心配した両親は、「風の子学園」に勤めていた知り合いから同園の話を聞き、園を訪れて坂井と面談をしました。

 

「これまで何十人もの子どもを立ち直らせたから、自分に任せたらいい」と言う坂井を信用したB子さんの母親は、夫とも相談して彼女を入園させることにしました。

 

ただし、A君の場合は本人も了解の上での入園でしたが、B子さんは母親から「ちょっと話を聞きにいこう」と言われ連れて行かれたもので、母親だけがこっそり帰り園に置き去りにされた、いわば強制的な入園でした。

 

【坂井幸夫と風の子学園】

二人が監禁致死させられた背景を理解するために、園長の坂井幸夫と風の子学園についてまず見ておきましょう。

 

風の子学園は、非行や不登校(当時の言い方では登校拒否)などの子どものための体験的療育施設をうたい、坂井幸夫が1989(平成元)年に開設した私的な施設です。

 

坂井幸夫

 

1924(大正13)年に日本統治下の韓国で生まれた坂井幸夫は、広島に帰って県立廿日市工業学校(現在の廿日市高等学校)を卒業後、呉市の第11海軍航空隊に整備兵として入隊しました。

 

1944(昭和19)年10月、乗り組んでいた空母「瑞鶴(ずいかく)」がレイテ沖海戦で撃沈され、海に投げ出された坂井は、九死に一生を得る体験をしています。

 

1944年10月25日、米軍機の攻撃で炎上する瑞鶴

 

敗戦後、父と弟が原爆で殺され廃墟と化していた広島に引き上げた坂井は、いくつかの職場を転々とした後、三菱重工広島造船所に入職します。

 

同社の正社員になって3年後の1964(昭和39)年、坂井は海軍の訓練を取り入れた「広島CY海洋スポーツ少年団」を作り、休みの日に近所の子どもたちを集めてセーラー(水兵)服を着せ、カッターボートの操法や手旗信号などを教えていたようです。

カッターボート

 

そうした活動をする中で、保護者から子どもの非行や不登校など悩みの相談を受けるようになった坂井は、自分がかつて叩き込まれた「海軍魂」で子どもたちを厳しく鍛えれば、立ち直らせることができると考えたようです。

 

少年非行が戦後第3のピークとなった1982(昭和57)年に定年退職した坂井は、「情緒障害児の矯正施設」を本格的に作ろうと決意し、翌年(1983)、退職金などを使って広島県佐伯郡大柿町能美島(のうみしま)の廃校になった中学校舎の一部を町から借りて、「スパルタ教育」をうたう青少年の合宿施設「飛渡瀬(ひとのせ)青少年海洋研究所」を開設しました。

1985(昭和60)年に「ふるさと自然の家」に改称したこの施設が、「風の子学園」の前身です。

 

「飛渡瀬青少年海洋研究所」を始めたころに、坂井は戸塚ヨットスクールに戸塚宏を訪ねており、「スパルタ教育」の考え方に通じ合うものを感じた2人は、その後も互いの施設を一度ずつ訪問し合っています。

 

訓練生を「指導」する戸塚宏校長

(共同通信)

 

坂井にアドバイスをしたことはないと戸塚は言っているようですが、「坂井が戸塚の暴力手法を参考にしたことは容易に推測され」(『朝日新聞』1991年8月5日夕刊、「戸塚ヨットがヒント? 三原・風の子学園園長、校長と会う」)、「青少年海洋研究所」においてすでに、入所者に対し部屋を施錠し戒具(手錠など身体を拘束する道具)を用いるなど行動の自由を不当に制限したとして、坂井は所轄警察署から指導を受けています。

 

坂井が一人で運営していたこの施設には、延べ人数でも10人ほどしか入所者がなかったのに加え、警察から指導があったように、校舎の窓には鉄格子、海との間には有刺鉄線を張るなど「収容所」まがいの施設に驚いた町から、青少年の健全育成という目的にそぐわないとして施設の明け渡しと立ち退きを求められます。

施設開所のために多額の借金をしていた坂井は、窮地に立たされたのです。

 

そこで一発逆転の賭けに出た彼は、広島市内の自宅を担保に新たに4千万円ほど借り入れて小佐木島の海水浴場跡地を購入し、1989(平成元)年に、もうこれ以上失敗は許されないという思いで「風の子学園」を開設しました。

 

 

事件当時の「風の子学園」全景

 

ところが、坂井が採算ラインと考えた「常時30人を収容」というもくろみは大きく外れ、開設から事件まで足かけ3年間の入園者は延べ17人しかなく、事件当日も被害者2人を含めて3人しか園生はいませんでした。

 

園生が集まらず

「ようこそ」の文字が虚しい入り口の看板

 

かつて「海洋スポーツ少年団」団長だった時、地元紙のインタビューに「私の務めは、次の世代を担う青少年を真っすぐ育てること」と語っていた坂井ですが、1億円近くにもふくれ上がった借金を抱えて当初の志はすっかり影をひそめ、いかにして借金を返すかにばかり頭が支配されるようになります。

 

そこで坂井は、保護者から「特別指導料」だなんだと名目をつけては金を出させ、途中で逃げ出したり退園しても前納したお金(数ヶ月分として100万円余り)は一円たりとも返さず、園生には訓練と称するタダ働きの肉体労働をさせ、嫌気がさした子どもたちが怠けたり逃げ出したりしないよう、管理と懲罰を厳しくしていきました。

 

【園生への虐待】

「指導員」と称する通いの女性職員と2人(時に3人)で園を切り盛りしていた坂井は、同園の案内パンフレットでうたっていた「ヨット、手旗信号の訓練、魚釣り、海洋気象の学習」などはせず、指導記録も簡単なメモ程度しか作らずに、園生に過酷な肉体労働を毎日させていました。

 

風の子学園でどのような労働が子どもたちに課されていたのか、毎日新聞姫路支局『追跡・風の子学園事件 追いつめられた子どもたち』には、次のように書かれています。

 

待ち受けていたのは、粗末な食事しか与えられないまま、朝から晩まで続く、連日の過酷な肉体労働だった。園で飼っている馬やニワトリなどの家畜にえさを与えたり、木小屋に防腐剤を塗ったり、さくの建設、草むしり、飼料小屋の清掃……。

夏になると、園内の宿泊施設を時折利用する海水浴客に、おでんやかき氷、ビールなどを販売する「売り子」としても使われた。これらはすべて無報酬で、売り上げは坂井園長の懐に入った。

 

それ自体がすでに虐待と言ってもいい「粗末な食事」について述べておくと、経費節減のために風の子学園ではごはんはおかわり禁止で、かさを増すためにしばしばおかゆにするなどして、ひとり一食分の食費はわずか77円でした。

 

毎日新聞(1991年9月12日)

 

この食費でまかなえる食事の熱量を試算すると、15歳の男子が何もしないでも1日に最低必要とされる1500キロカロリーに対し5分の1以下の260キロカロリーで、園生は常に栄養失調状態に置かれていました*。

 *園にいる時は坂井も園生と同じものを食べていましたが、酒好きの彼は、夜はもちろん時には昼間からビールを飲み、開園以来の園生の食費合計が68万円だったのに対して、自分の酒代に41万円使っていました

 

また上の記事にあるように、おねしょなどの罰として蚊取り線香の火を身体に押しつけ火傷を負わせる体罰を坂井はおこなっていました。

ただ、戸塚ヨットスクールのように訓練の一部として殴る蹴るの暴力を振るうことはなかったようです。

 

坂井が日常的にしていた体罰は、風の子学園の前身である「ふるさと自然の家」でも、脱走を図った園生に懲罰として1週間も食事を与えないという「指導」を行なっていたように、「問題」を起こした園生に手錠をかけるなどして小屋やコンテナに連行・監禁し、反省のためとして何日も食事や水を与えず放置していたことで、これがついには2人の致死事件を起こすことになります。

 

その予兆は事件の前年にありました。

自閉症で入園した22歳の男性が、過酷な生活のために入園してわずか1週間で急性腎不全を発症し、一命は取りとめたものの一時危篤状態になるという「事故」が起きています。

 

毎日新聞(1991年8月2日)

 

このように風の子学園では、粗食で体力の低下した子どもたちに無計画に作業をさせるだけでなく、坂井園長の気まぐれな判断によって罰として頻繁に「絶食」をさせていたのですから、逃げ出そうとする園生が後を絶たないのは当然です。

 

毎日新聞(1991年8月3日)

 

事件の前年(1990)1月に逃げ出した園生(16歳)は、保護された三原警察署で園での監禁や体罰について訴えたにもかかわらず、警察は調べようともせずに園に通報し、園長に彼を引き渡しました。

その後、彼は9月に再び脱走して園に戻らなかったそうです。

 

この時もし三原署が脱走した少年の話をちゃんと受けとめ、以前の「青少年海洋研究所」の時のように、坂井に虐待への警告を発していたらこの事件を防げたかもしれないと思うと、非常に悔やまれます。

 

毎日新聞(1991年8月6日)

 

【卑劣な策略と監禁致死】

事件が起きるひと月半ほど前の6月15日、A君とB子さんは、5日前に入園したばかりの女子園生(16歳)と一緒に脱走未遂事件を起こしましたが、失敗した3人は、この時も罰としてコンテナなどに閉じ込められています。

 

脱走未遂の話を坂井から受けたA君の父親は、中学の生徒指導担当教諭ら2人と一緒に学園に行きました。

しかし、坂井から息子との面会を拒否され、夏休みが終わった後も在園を続けないかと勧められましたが父親は即答せず、A君に電話連絡するよう依頼して帰りました。

 

その後、なんの連絡もないので心配していたところ、風の子学園についての良くない噂を耳にしたA君の父親は、1泊2日の「親子体験」に応募して7月13日に園に行きました。

 

その時にA君から、「手錠や足鎖をかけられて小屋に閉じ込められた、園長は昼間から酒を飲んでいる」などと聞いた父親は、坂井への不信感をさらに強めて息子を退園させようと決めました。

その日の夜、父親が坂井との面談で、「ここにいてもあまり良くなっていないようなので、7月28日に連れて帰りたい」と申し入れると、坂井は一応拒否したものの「しょうがないですなあ」という曖昧な態度に終始したそうです。

 

しかし本心では、貴重な収入源であるA君の退園をなんとしても阻止しようと考えた坂井は、姫路市教育委員会の指導主事や中学校の生活指導担当教諭に連絡をし、坂井の意向を受けてA君宅を訪れた中学教諭は、当初の予定通り8月末まで園にいさせてはどうかと父親に勧めましたが断られています。

 

坂井は、教委や学校に手を回しただけではなく、自らも卑劣な策略をめぐらします。

 

退園予定前日の7月27日夕方、坂井はA君に見つけさせるため目立つように千円札をはさんだタバコの箱を園内の馬小屋に置き、A君にその小屋から防腐剤の缶を取ってくるよう命じました。

 

毎日新聞(1991年8月20日)

 

そうしておいて坂井は指導員の女性に、「海水浴客から馬小屋にタバコを忘れたと電話があったので見てきてください」と言って行かせ、タバコの箱がなくなっていることを確認しました。

 

そして策略どおり、A君がB子さんを誘って部屋で隠れてタバコを吸ったことを察知した坂井は、27日の午後11時ごろ、在園していた3人を食堂に集めて「タバコを吸ったのは誰だ!」と怒鳴りつけて詰問しました。

 

A君とB子さんが喫煙を認めたため坂井は、28日午前1時ごろに片手に手錠をはめて2人をつなぎ、コンテナに鍵をかけて閉じ込めました。

 

一夜明けた7月28日の午前9時ごろ、そうとは知らないA君の両親と祖母が彼を迎えに園に到着しましたが、坂井はA君の様子や所在を教えずに、「連れて帰る」「帰せない」と押し問答を繰り返した末、A君がタバコを吸ったと父親に話しました。

 

コンテナに閉じ込めていることを坂井は言わなかったのですが、たまたま祖母がコンテナに入れられているA君に気づき、父親らは彼とコンテナの壁越しに声をかわして、喫煙のことやB子さんも一緒にいることを聞きました。

 

タバコを吸った事情やコンテナの暑さを心配した家族が坂井に問いただしたところ、「タバコは海水浴客が忘れていったもの」、「コンテナ内部の温度は34度から38度ぐらい」、「責任は絶対にもつ」、「夕方涼しくなったら外に出してお茶も飲ませる」と約束して家族を安心させる一方、「退園するなら連帯保証人と誓約書を入れろ」と要求して、その日の退園は頑として認めませんでした。

 

坂井の言葉を信じたA君の父親ら家族は、その日に連れ帰ることを諦めて、昼過ぎに島を離れました。

 

ちょうどそのあと、坂井と指導員女性がコンテナの扉を開いて水を与えたのを最後に、現実には40度にも達するコンテナ内に2人は放置され続けたのです。

 

検死によると、早くもその日(28日)の午後3時ごろにB子さんが、午後8時ごろにはA君が、コンテナの中で熱射病(熱中症)で息絶えたのです。

 

とすれば、A君は先に亡くなったB子さんの遺体の傍らで、自分も衰弱して亡くなったかと思うと、この世の地獄としか言えない最期だったことがうかがえます。

 

坂井がようやくコンテナを開けて2人の遺体を発見したのは、閉じ込められてから40時間以上、亡くなってからでも丸一日以上が経過した7月29日の午後8時ごろで、そのときすでにA君の口からは腐敗汁が出ていたことが認められていますから、腐敗臭も相当なものだったでしょう。

 

それを見た坂井は、2人の遺体を写真におさめてから119番通報したそうです。

この点についても、坂井はすでに2人の死亡が明らかでありながら「様子がおかしい」と通報し、しかも搬送の時間を3時間も遅らせて、その間に2人を着替えさせるなど証拠の隠滅を図ったのではないかと疑われる行動に出ています。

 

毎日新聞(1991年8月1日夕刊)

 

【裁判とその後】

坂井幸夫は、A君とB子さんに対する監禁致死に加えて、文中でも触れた

①22歳の自閉症の青年に対する監禁と監禁致傷(1990年7月30日から31日)

②7歳の児童に対する2件の蚊取り線香による傷害(1991年12月と1992年1月)

③園を脱走しようとした16歳の少女に対する監禁(1992年6月15日から26日)

④入園したばかりの14歳の少女に対する監禁(1992年7月18日から22日)

についても罪を問われ、1991年8月19日に広島地裁福山支部に起訴されました。

 

朝日新聞(1991年9月12日)

 

以下、A君とB子さんの件に限定して主な争点と判決を見ていきます。

 

坂井被告と弁護人は、園生への指導は親から委託された親権の行使であり、懲戒権の行使である監禁は不法なものではないのだから監禁致死罪は成立せず、せいぜい業務上過失致死あるいは重過失致死罪が問えるにすぎないと主張しました。

 

朝日新聞(1991年10月1日夕刊)

 

また、タバコの策略について坂井被告は、退園を阻止するための罠などではなく、A君がせっかく立ち直りかけていたのに、親が退園させると理不尽なことを言うので、退園できるようになったか試すためにしたと弁明しました。

 

さらに、コンテナに閉じ込めてからも、万全でなかったとはいえ、4回にわたって様子を確認し麦茶を与えたと主張したのです。

 

それに対して広島地裁福山支部の藤戸憲二裁判長は、親権の一部を第三者に委託することは不可能ではないが、懲戒権の行使は「健全な社会常識に照らして正当ないし相当と認められる範囲内においてのみ許される」もので、この件は「懲戒権の濫用として許されない」としました。

その上で、2人をコンテナに閉じ込めたことは不法監禁罪にあたることは明らかで、「両名に対する監禁致死罪の成立を認めるべきことは言うまでもない」と断じました。

 

タバコの件も、「A君をいわば罠にかけてその退園を阻止する等の目的のために作出した行為」であり、B子さんはその巻き添えになったものであり、4回にわたって様子を確認したという主張も公判の終わりごろになって突然言い出したことで、死亡推定時刻からしてもあり得ない時間を含み信用できないと退けました。

 

このようにして、1995(平成8)年5月17日の判決公判で藤戸裁判長は坂井被告に、懲役6年の実刑判決を言い渡しました。

 

朝日新聞(1995年5月17日夕刊)

 

 

争いは広島高裁での控訴審に持ち込まれましたが、1997(平成9)年7月15日の判決公判で荒木恒平裁判長は、一審判決の判断を支持しながら、坂井被告に反省が見られることと勾留が5年に及ぶことを考慮して、改めて懲役5年の実刑判決*を下し、判決は確定しました。

 *ウィキペディア「風の子学園事件」は、一審の広島地裁が懲役5年の判決を下したと誤記載しています

 

朝日新聞(1997年7月16日)

 

さらにA君の両親は、風の子学園の実態を把握せずに入園を勧めた姫路市(市教委と市立中学校)と坂井園長に対し、総額7千万円余りの損害賠償請求を神戸地裁姫路支部に提訴しました。

 

朝日新聞(1992年8月4日夕刊)

 

地裁支部は1997年11月17日、「十分な調査をせず、私塾を紹介するに際し、配慮義務を怠った」と市側の責任を認めて園長に対し6388万円、姫路市に対し1216万円の支払いを命じる判決を言い渡しましたが、姫路市は控訴します。

二審の大阪高裁も1998年12月11日に一審判決を支持したため姫路市は上告しましたが、1999年10月2日に最高裁が上告を退けたため、原告勝訴が確定しました。

 

坂井幸夫のその後ですが、2001(平成13)年8月にオーストラリア旅行で知り合った岡山県の女子高校生(同17歳)を、坂井(当時77歳)が「国際交流のボランティア活動をしてほしい」と誘い、10月6日の夜に一緒に食事を終えて帰宅中のタクシー内で胸を触るなどしたとして10月25日に強制わいせつ容疑で逮捕され、懲役2年の実刑判決を受けています。

 

晩節をさらに汚すことをした坂井幸夫は、その後病死したと伝えられています。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

まだ10代の少年少女2人が無惨な形で命を奪われた事件ですが、坂井園長が自らの責任を自覚しもう少し注意を払っていたら十分避けることができただけに、本人や遺族の無念はどれほどかと胸が痛くなります。

 

法律の解説サイトによると、監禁致死罪の量刑は「3年以上の有期懲役刑(20年以下)」だそうです。

坂井に対する一審判決の懲役6年に対して検察側は、検察が主張した事実関係を裁判所がすべて認めているのに量刑がつり合っていないというコメントを出しています(毎日新聞、1995年5月17日)が、二審ではさらに短い懲役5年になり、亡くなった2人の苦しみを想うと、小川としては納得できない気持ちです。

 

一審の判決文を読むと、一つには不登校や非行など子どもたちの問題行動には家庭や学校や教委(行政)にも責任があるのに、「問題生徒を一時的にせよ教育の現場である学校から隔離する方法によって当面の問題を回避し、事態を糊塗しようという風潮がある」と指摘し、風の子学園のような施設に手に余る子どもたちを押しつけておいて、そこで問題が起きたからと施設側だけを厳罰に処して「一件落着」で良いのかという裁判官の問題提起があるように思いました。

 

この事件をきっかけに、中学の生徒指導担当教諭や教委の指導主事が、実態をきちんと調べもぜず坂井の説明だけを聞いて風の子学園を保護者に強く勧め、まるで厄介払いをするかのように「問題生徒」を施設に送っていたことが問題になり、不登校を生む現在の学校教育自体のあり方や、体罰を当然視する風の子学園や戸塚ヨットスクールなど「収容所」まがいの私塾がはびこっている「事件の根」に目を向ける動きも出始めました。

 

毎日新聞(1991年8月31日)

 

朝日新聞(1991年8月3日)

 

ただもう一つ、地裁の判決文を読んで気になったことがあります。

 

それは、坂井は金儲け目的のためだけに風の子学園を開設したという検察官の主張を裁判官が退け、事件当時は借金返済のための収入確保に坂井は躍起になっており、A君をはめたタバコの罠などB子さんを巻き込んだ監禁致死に至る行為は、「教育を標榜する者にはあるまじき卑劣で陰険な犯行」で「被告人の刑事責任には重大なものがある」としながらも、坂井は私利私欲からではなく「町の篤志家として青少年の健全育成、非行防止活動にそれなりの情熱を持って取り組んできた」と評価している点です。

 

そうした善意にもかかわらず、「青少年の健全育成」という目的を実現するには、坂井には知識も能力も財力も決定的に欠けていたために、失敗を重ねてどうにもならなくなった末に引き起こした悲劇と裁判官はこの事件を捉えているようです。

 

それが量刑の判断にどう影響したのか判決文には明記されていませんが、坂井の動機の基本には善意があったという点で情状酌量したのではないか、それがまだ14歳と16歳の少年少女を危険な環境に40時間以上も放置して悶え苦しみ絶命するにまかせた大罪に対する罰としてはあまりにも軽い懲役6年(高裁で5年に減刑)の判決につながったのではないかという印象を小川は拭うことができません。

 

人間の行為を評価する場合に「動機」と「結果」という二つの視点があり、その両面を考慮しながら善悪の価値判断をすることになります。

 

ところが、「教育」については「動機」を過大に評価する傾向が強いのではないかと小川は思うのです。

つまり、理不尽な体罰や不適切な指導があっても、「熱血教師」「教育熱心」「生徒思い」といった「動機」面の善さを強調することで「結果」責任を軽く見る傾向が、教育の世界にあるのではないでしょうか。

 

料理の世界と比べると、それがおかしなことだとすぐに分かるはずです。

作られた料理が、味もまずく見た目も食欲をそそらないものだったら、その料理人がいくら「料理への情熱」と「客への真心」を込めて調理したと弁明しても、料理人としての責任がそれでわずかでも軽くなると考える人はいないからです。

 

確かに、教育と料理とは違います。

料理人の評価は客に提供する料理だけでなされますが、人を育てる教育者の評価は単に生徒に直接伝授する知識や技術だけでなく、師弟の人間的・人格的な交流を通して伝えられるもの学ばれるものでもなされます。

 

しかし後者は、前者のように試験の点数のような形ですぐに結果が分かるものではありません。

ですから、教育への「熱意」や生徒への「思いやり」といった「動機」面が、教育の世界では重視されるのでしょうが、問題はそれが時に「結果」責任を免れる口実に使われることがあるということです。

 

坂井は、金儲けや名声を得ようという私利私欲から風の子学園(とその前身の施設)を作ったわけではないと小川も思います。

彼は、退職金も自宅も私財を投じて「青少年の健全育成」という善き「動機」から「風の子学園」を作ったのでしょう。

 

しかし、彼が考えた「海軍魂」という単純な根性論では、「動機」と「結果」は極限までかけ離れたものになってしまわざるを得ませんでした。

 

その時に厳しく問われるべきは、「動機」を言い訳にするのではなく、「健全育成」すべき子どもたちを自分の作為で死なせてしまったという「結果」に対する指導者の責任です。

 

もし坂井が、自らの過ちを率直に認めどんな罰でも甘んじて受けるという真摯な態度をこの時にとっていたなら、彼の善意はまだ救われたかもしれません。

 

ところが彼は、裁判で虚偽の供述をしたり見えすいた言い訳を重ねて責任逃れをしようとしました。

そのことで坂井は、自分にあったかもしれない善なる「動機」までも自ら汚し、否定してしまったのです。

 

出所後に彼が、未成年への強制わいせつなどという恥ずべき罪で再び刑務所に入るまでに堕ちてしまったのは、その当然の結果ではなかったかと小川は思うのです。

 

 

最後に、小佐木島の住民が長年求めていた風の子学園跡に残るコンテナの撤去が、2023(令和5)年6月22日、地権者によっておこなわれました。

 

読売新聞(2023年6月23日、広島版)

 

作業員らがコンテナ前で亡くなった2人に黙祷を捧げたあと、重機でコンテナは解体され撤去されました。

 

毎日新聞(2023年6月22日)

 

中国新聞(2023年6月22日)

 

実は小川は、その前に一度ぜひ小佐木島を訪れたいと思っていたのですが、コンテナ撤去の具体的な日程を知らずに、行く機会を逸してしまいましたえーん

 

住民の方たちの思いは思いとして、悲劇的な事件の「生き証人」ともいうべきコンテナが撤去されてしまったことはとても残念ですが、亡くなった2人とご遺族の無念の思いは、これからもずっと忘れることなく語り継いでいきたいと、事件から33年目にあたる今日、7月29日、あらためて心に刻む小川です 🔚

 

 

コロナに感染していて自宅待機中です予防

今回のコロナは、発熱と喉の痛み、頭痛がひどくて苦しみましたが、3日目には少し回復したので、このブログを書きながらアクセサリーも6点制作しました。

そんなことで、ブログの完成がギリギリになりました驚き

 

 

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