有料マガジン「加藤文元の「数学する精神」」では、新しく連載「微分「dx」の正体」を始めようと思う。第1回目の今回は、この連載の問題設定や動機について説明しよう。(初回は無料で誰でも読めます。)
§1. 微分積分学における不思議な約束事
微分積分学を学んだことのある人なら、誰でも一度は以下のようなことを読んだり聞いたりしたことがあるだろう。
関数 y = f(x) の導関数は、極限を用いて
f'(x) = \lim_{\Delta x \to 0}\dfrac{f(x+\Delta x) - f(x)}{\Delta x}
と定義される。これは極限値なのであって、分数ではない。すなわち、dy と dx というなんらかの「量」がそれぞれ独立に存在して、その「比」をとっているのではない。ライプニッツの記法 \dfrac{dy}{dx} は便利な記号ではあるけれど、あくまで f'(x) を表す一つの書きかたにすぎず、dy と dxを別々に考えることはできない。
しかし、理工学のさまざまな専門書や微分積分の教科書でも、しばしば、
dy=f'(x)dx
のような式を目にする。
例えば、積分{\displaystyle \int^b_af(x)dx}をx=g(u)で置換するなら、「dx=g'(u)du」であるから、これらを代入して
\int^b_af(x)dx=\int^d_cf(g(u))g'(u)du
(ただしb=g(d),a=g(c))となる、とか言ったりする。
ここではdu や dx を独立した量として扱っているように見える。一方では「\dfrac{dy}{dx} は分数ではない」と言っておきながら、他方では dx を独立した記号として切り離し、普通に代数的な計算をしている。
このようなことを不思議に感じた人は少なくないはずだ。しかし多くの場合、教科書はこの点に深く立ち入ることなく先へ進んでしまう。先生に尋ねても「これはあくまでも便宜的な書きかたであって……」とか「形式的な操作として……」といった説明が多いかも知れない。
でも、dx を独立した記号といて計算しても、ちゃんと整合的になっていることは多い。他にも、合成関数z=g(y)=g(f(x))の微分の鎖法則は
\dfrac{dz}{dx}=\dfrac{dz}{dy}\dfrac{dy}{dx}
と目にも鮮やかな公式で書ける。これだけ鮮やかな式を見せられて、それでもなお、それは「便宜的・形式的」でしかないと考えるのは、いささか無理がある。そう感じた人も多いはずだ。
§2.「方便」の実例たち
この種の「方便」は置換積分や鎖法則の他にも、まだまだたくさんあって、微分積分学のあちこちに顔を出している。というより、これらの式は、むしろdxやdyを独立のものとして計算した方が、自然な計算ができるということを示唆している。
例えば、y = (x^2+1)^3 を微分したいとしよう。そのためu = x^2+1 とおけば y = u^3 となる。この最後の式の「両辺を微分」して
dy=3u^2 du=3(x^2+1)^2 du
が得られる。また、u = x^2+1の「両辺を微分」すれば
du=2x dx
となる。この2つの式から
dy=3(x^2+1)^22xdx=6x(x^2+1)^2dx
と簡単に計算できる。
これはもちろん、合成関数の微分公式(鎖法則)だ。しかし、鎖法則という公式を知らなくても、上のような微分の計算を素直にできる人だったら、完全に自然な、普通の計算だけで、これを得ることができる(一見複雑な「合成関数の微分法則」とかおぼえる必要がない)。これはdxやdyを独立のものとして計算するやりかたの方が、本当は自然なやりかたなのではないか?という感覚を起こさせるだろう。
変数分離形の微分方程式
他の例も見てみよう。たとえば
\dfrac{dy}{dx} = \dfrac{x}{y}
微分方程式を解くことを考えよう。微分方程式の教科書ではしばしばこれを
ydy = xdx
と変形、両辺を積分して
\int ydy = \int xdx
そこから、
\dfrac{y^2}{2} = \dfrac{x^2}{2} + C
(Cは積分定数)とするだろう。これはまさに\dfrac{dy}{dx} を文字通り分数のように扱い、挙げ句の果てには、そうして得られた微分式の両辺にインテグラル「{\displaystyle \int}」をかまして、それを不定積分の式に見立てて計算してしまうわけだ。「方便というにもほどがある」という感じがしないだろうか。
全微分
2変数関数 z = f(x, y) の場合も同様である。z = f(x, y) の「両辺を微分」すれば
dz = \dfrac{\partial f}{\partial x}dx + \dfrac{\partial f}{\partial y}dy
という式になる。これは大学初年度で教わる「全微分」の式だ。これは z の微小変化をx 方向の微小変化と y 方向の微小変化に分解したものだと説明される。この式では dxやdyやdzといった「各変数の微分」たちは、それぞれ独立した量概念のように扱われなければならない(さもないと、こんな式は書けない)。
積分記号の中の \bm{dx}
そもそも {\displaystyle \int^b_a f(x)dx} と書かれるとき、この dx はなんだろうか。定積分をリーマン和の極限として定義する(リーマン積分)なら、dx は変数xの動く範囲[a,b]の分割を限りなく細かくしたものの一片ということになる。極限概念を使わないで素朴に考えてしまうと、それはいわゆる「無限小」であり、量概念として独立した意味を考えることは困難だ。そして上でも見たように、これは変数xの「微分」dxと名実ともに同じものでなければ、上でやったような置換積分の計算はできないことになる。
つまり、こういうことだ。変数x,y,z,\ldotsの微分dx,dy,dz,\ldotsとは、なにやら「それらの変数の変域の無限分割の一片一片」とでもいうべきものになっていて、dy=f'(x)dxのような微分式は、それらの間の関係式を表している。
この考え方は、それそのものをどこまでも押し通していくことができるなら、それなりに一貫したものになりそうではある。そして、もしそうなら、それはとても魅力的な説明になるだろう。微分積分学の本質が垣間見えるかも知れない。
しかし、なにしろここで扱っている題材は「無限分割の一片」であるとか「無限小」であるとか、数学的な概念としてはかなり「怪しい」ものばかりである。果たして、そんなものを考えることが許されるのだろうか?
§3.本当に「方便」なのか
「結果が正しいのだから、それでいいではないか」という実用的な態度もあり得るだろう。実際、多くの理工系の教科書はそうした立場をとっているようだし、実際それで計算は合うのだから、細かいことは気にしても仕方がない。
しかし、「仕方がない」では済まされないのではないか?という側面もいくつかある。
まず第一に、上のような「方便的」計算がなぜ正しいのかがわからない限り、それが応用できる範囲もわからないということがある。dx の形式的な操作がうまくいくのは偶然なのか、それともなにか深い理由があるのか。もし理由があるなら、どこまでこの種の操作を信頼してよいのか。理由がわからないまま使っていると、いずれ限界に突き当たったとき、なぜうまくいかないのか理解できないだろう。
実際、数学における計算や手順には、それが成り立つ「範囲規定や前提条件」が必ずある。dy=f'(x)dxという計算が正しい結果を導くのは、「いつでも」というわけではないはずだ。そしてその「範囲規定や前提条件」を見極めるためには、どうしてもその「正しさ」の根拠が理解できなければならない。
第二に、状況は多変数になるとより切実になるということがある。上では2変数の場合の全微分概念(それは偏微分ではなく、「本当の」微分とでも呼ぶべきものだが)について述べたが、そこでは1変数の場合のような「微分商」\dfrac{dy}{dx}だけでなく、素のdxやdyを用いなければならない。
また、2変数関数 f(x,y) において x = x(s,t), y = y(s,t) と変数変換するとき、例えば
\frac{\partial f}{\partial s} = \frac{\partial f}{\partial x}\frac{\partial x}{\partial s} + \frac{\partial f}{\partial y}\frac{\partial y}{\partial s}
という式が現れる。これは連鎖律の多変数版だが、1変数のときのような素朴な「約分」はもはや通用しない。右辺には \partial x を含む項が2つあり、単純に \partial x を消去することはできない。\partial f/\partial x の \partial x と \partial x/\partial s の \partial x は、そもそも同じものなのかどうかすら判然としない。1変数のときにうまくいった形式的な計算が、多変数で素朴には通用しなくなるのはなぜか。dx の正体を理解せずにこの問いに答えることは難しい。
第三に、数学は「結果が正しい」だけでは満足しない営みである。なぜ正しいのかを問い、その理由を明らかにすること自体が、数学の中心にある。dx の形式的操作がうまくいく理由を問うことは、微分積分学の構造をより深く理解することに直結しているだろう。だから、その問いについて考察することで、微分積分学の風景が以前とは違うものに見えてくるかもしれない。
§4. この連載の見取り図
というわけで、この連載「微分「dx」の正体」では、この問いにいくつかの方向から光を当てていこうと思う。
あらかじめ断っておくと、「これが dx の正しい意味だ」という唯一の答えを提示するのが本連載の目的ではない。微分積分学は、現代数学の水準においても「完璧な学問」とは言い難い面がある。どのように厳密に基礎付けても、なにかしらの不自然さや約束事は残るものだ。それに実際「答え」は唯一ではなく、いくつもある。dxやdyも、数学の他の深い概念と同様に、いくつもの本質的側面を兼ね備えた「複合概念」なのである。
だから本連載が目指すのは、「これが最終的な答えだ」と宣言することではなく(そんなことは原理的に不可能なので)、「こう考えると見通しがよくなる」「こうすれば、あの方便の意味がよりはっきりする」という発想の転換を読者と共有することにある。もちろん、その中で「部分的な答え」や「一面的な答え」のいくつかを見ていくことになる。しかし、それらはどれも完全に普遍的な答えにはなり得ない。
大まかな道筋は次のようになる。
まず歴史を辿る。 dx はもともとライプニッツが「無限に小さい量」として導入した記号である。この発想は驚くほど自然で強力だったが、論理的な基礎には問題があった。19世紀にコーシーやワイエルシュトラスが \varepsilon\delta論法によって解析学を厳密化したとき、無限小量は不要なものとして退けられ、dx は独立した意味を失った。この歴史的経緯を知ることで、現在の教科書が dx を「方便」として扱うようになった理由がわかるだろう。
次にdx を「無限に小さい量」ではなく線形関数として見るという見方を紹介する。こうすることで、dy = f'(x)dx という式に明確な意味を与えることができる。これが 微分形式 の考えかたであり、この枠組みの中では、さまざまな微分計算が自然な帰結となる。ただし微分形式は「形式的な計算の体系」であり、その背後には多様体論という幾何学的な世界が広がっている。もちろん、この形式的な枠組みの中で考えるなら、すでに微分形式としてのdxはただのひとつの見方でしかない。例えば、積分との関係を論じるなら、測度(measure)との関係も考慮しなければならない。
さらにもうひとつの道を紹介しよう。1960年代にエイブラハム・ロビンソンが創始した 超準解析 は、ライプニッツの「無限に小さい量」を現代数学の中で復権させた。超準解析では dx は文字通り無限小量であり、dy/dx は無限小の比である。この枠組みでは、「方便」とされていた計算がそのまま代数的な計算として意味をもつ。
最後に、これらの考察を通して、数学における「厳密さ」とはなにか、微分積分学の理解を深めるとはどういうことかを考える。dx の意味の「答え」はひとつではなく、いくつもある。そして、そのそれぞれが異なる角度から微分積分学を照らしている。この多面性自体が「数学」という営み自体の、あるひとつの本質を照らし出している。
こうした道筋を辿ることで、冒頭で述べた dx への違和感が(あなたのそれが完全に解消されるかどうかまでは約束できないにしても)かなり軽減されるだろうと思う。少なくとも、「方便だから気にするな」よりは、遥かに見晴らしのよい場所に立てるはずである。
次回はまず dx の生まれた場所、すなわちライプニッツの時代に遡ることから始めようと思う。
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