甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の戦いで有名な「川中島の合戦」は、
歴史好きでなくても知っている人は多いと思います。
その「川中島の合戦」の中で一番激しかった第四次川中島合戦で戦死した
信玄の弟・武田典厩信繁と両軍の戦死者6000余名を弔い供養しているのが
松代大橋のたもとの千曲川河畔に建つ『典厩寺』です。
◆典厩寺
長野県長野市篠ノ井杵淵1000番地
山号・・・松操山
宗派・・・曹洞宗
開基・・・武田信繁
中興・・・真田信之
本尊・・・釈迦如来
【由来】
当寺は、創建(1500年頃)当時、鶴巣寺(かくそうじ)と称していました。
永禄4年(1561年)川中島合戦の際、武田信玄の弟、武田信繁は当寺を
典厩本陣として出陣しましたが、この激戦で惜しくも37歳で戦死したので、
当寺に埋葬され菩提を弔っています。
その後、初代松代藩主の真田信之(真田信繁の兄)が、かつて武田の重臣で
あったところから承応3年(1654年)、武田典厩信繁の菩提を弔うため、
寺号を典厩寺と改め、寺領5石の朱印地を給し、真田家の武家寺として寺は発展し、
その歴史を伝えています。
◆六地蔵
この山門は、松代藩三代藩主・真田幸道の霊屋の表門を移築したものです。
山門を入ると正面に大きな枝垂れ桜があります。
◆山門
この寺の枝垂れ桜は、薄いピンク色の花が満開に咲くのが見事で
桜の名所として人気があります。
◆枝垂れ桜
松代藩八代藩主・真田幸貫は、万延元年(1860年)川中島合戦300年を記念して、
閻魔堂を建立し、甲越戦没者の菩提を弔いました。
◆閻魔堂
閻魔堂の軒下に鬼が祀られていました。
受付は無人になっていました。
残念ながら御朱印は中止していました。
お皿に拝観料を納め、閻魔堂へ入りました。
この閻魔大王像は日本一の大きさと云われています。
◆閻魔大王像
天井には三十三身観音菩薩が描かれています。
◆天井画
十王経を絵に現した額が掲げられていました。
霧の川中島合戦を描いた合戦絵巻が掲げられていました。
◆閻魔堂の説明文
境内は小ぢんまりとしていますが見所がいっぱいです。
討死にした典厩信繁の首を敵から奪い返して清めた井戸です。
◆武田典厩信繁の首洗い井戸
◆ボケ封じの石
◆座禅石
自分の干支と下のカエルを触って、3年若かえる、旅を無事かえる、お金かえる
と縁起ものの大灯籠です。
◆縁起もの大灯籠
◆石臼
伊東祐亨元帥の揮毫による命名書で、明治39年(1906年)に
川中島合戦両軍戦死者の霊を慰める甲越弔魂碑です。
◆懐古の碑
懐古の碑の左側に、武田信玄の躑躅ヶ崎館の愛石が置かれています。
◆武田信玄の愛石
懐古の碑の右側に、上杉謙信の力試しの石が置かれています。
◆上杉謙信の力試しの石
この碑は明治39年(1906年)、伊東祐亨元帥、東郷平八郎元帥、
上村彦之丞元帥の三元帥が典厩信繁の尊霊参拝時に建立した碑です。
◆招魂碑
境内の一番奥に、川中島合戦の中で一番激しかった第四次合戦において
37歳で戦死した武田典厩信繁の墓があります
墓碑には「松操院殿鶴巣山月大居士」と刻まれています。
◆武田典厩信繁の墓
◆武田典厩信繫の墓の説明文
【武田典厩信繁】
大永5年(1525年)、父・武田信虎と母・大井夫人の間に次男として生まれました。
「甲陽軍鑑」によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛され、信虎は嫡男である
晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうと考えていましたが、天文10年(1541年)
晴信により駿河に追放されると、信繁は武田家副将として、晴信の領国支配、
軍事行動を補佐しました。
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、
嫡男・信豊も典厩を名乗っていたため、後世「古典厩」と記されています。
信繁は嫡男・信豊に家臣団の倫理規定とも云える99ヶ条からなる「武田信繁家訓」
(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読まれていました。
永禄4年(1561年)9月10日の第4回川中島合戦で、信玄本陣を守り壮絶な死を遂げ
ました。その遺骸は鶴巣寺に埋葬され、典厩塚と呼ばれました。享年37。
信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵将の上杉謙信からも
その死は惜しまれたと云います。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、
後年の信玄と武田義信の対立はなかったと云われるほどです。
父・真田昌幸は信繁の知性・武勇に心酔し、次男を信繁(幸村)と命名しました。
典厩信繁の墓の隣には、その真田信繁(幸村)の供養塔が寄り添うように建てられています。
真田信之と信繁は仲がとても良かったと伝えられています。
信之は信繁のことを「物ごと穏やかにして我慢の心があり、強がらず、怒ったり
腹を立てたりすることはない」と評しています。
幕府に対し表立って信繁(幸村)の供養塔を建てることができなかったので
武田典厩信繁の墓とともに同じ名前の弟・信繁を弔ったのではないかと思います。
◆真田信繁(幸村)の供養塔(左)
【信繁と幸村】
大坂夏の陣で徳川家康の本陣を突き崩し、家康が切腹を覚悟したと伝えられ、
家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田信繁(幸村)。
ただ、真田信繁と聞いても知らない人も多く、幸村と聞けば皆知っています。
信繁は生前一度も幸村を名乗ったことはありません。書状も信繁で出されています。
なぜ信繁が幸村になったかと云えば、家康を打ち破り、切腹を覚悟させた謀反人の
名を語ることが出来なかったからだと云われています。
それでも庶民の間で信繁の人気は高く、寛文12年(1672年)成立の「難波戦記」に
幸村として復活し、これが一般的に有名になりました。
本堂には、信繁の位牌が安置されています。
武田家の家紋である割菱紋が上部に彫ってあり、
位牌の中央に「当寺開基 武田典厩松操院殿鶴巣山月大居士」、
右側に「永祿四辛酉年」、左側に「九月初十日」と刻まれています。
◆本堂
◆庫裡
川中島合戦古戦場の一騎打ちの像の原画がこちらの碑です。
◆武田・上杉両雄一騎打ちの碑
この原画は有名で、映画やドラマでも必ず再現される場面です。
◆六地蔵
山門を入って右手に川中島合戦記念館があります。
武田典厩信繁の遺品など、貴重な史料60点余りが展示されています。
近々詳細をブログにしたいと思います。
◆川中島合戦記念館
◆典厩時周辺マップ
<参考文献>
・現地説明看板およびパンフレット
・歴史REAL「闘将真田一族」
・ウィキペディア