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天皇と帰化人

半島・大陸からの帰化氏族が自らの出自が日本神話の神から別れたかの如き偽書で偽る→平城天皇「帰化人の系譜が混じり祖先を汚し愚民を惑わせ、真実だと謂う者までいるから諸司官人等は全部差し出せ、もし情を挟んで出し渋ったら重罪に処す」→嵯峨天皇、古代氏族を皇別神別諸蕃に分類した新撰姓氏録整備

新撰姓氏録によれば畿内の氏族の内、一つが皇別(皇室から別れた氏族)で、もう一つが神別(日本神話の神から別れた氏族)で、もう一つが諸藩(渡来系帰化氏族)である。

飛鳥時代には、帰化氏族の影響が強まり、秦氏や漢氏などの技術や文化が日本に導入されていました。しかし、平安時代には、彼ら帰化氏族の一部が自らの帰化氏族の出自を日本神話の神々や皇族に結びつける偽系譜を作成し、地位向上を図る動きがあったとされます。
これに対して平城天皇が厳しく取り締まり、嵯峨天皇が『新撰姓氏録』を編纂して氏族の出自を整理しました。 

『神皇正統記』応神天皇条
「異朝の一書の中には、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地が開いて後、すさのを尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」

「(半島や大陸の王と同種など)あたらぬことなり。(返す返す、決して正しくない事である。)」

「昔よりもちゐざることなり。(日本が三韓や呉の太伯と同種であるなどは、昔より用いられていない異説である。)」

『日本後紀』巻十七 大同四(809年)年二月辛亥条 辛亥 「勅倭漢惣歴帝譜図天御中主尊標為始祖至如魯王呉王高麗王漢高祖命等接其後裔倭漢雑糅敢垢天宗愚民迷執輒謂実録 宜諸司官人等所蔵皆進若有挾情隠匿 乖旨不進者 事覚之日 必処重科」
「大同四年(809年)二月辛亥の日、勅命が出された。「倭漢惣歴帝図譜」は、天御中主尊を祖とし、魯王、呉王、高麗王、漢高祖などの後裔を連ねるものとして、倭(日本)と漢(大陸)の系譜が混淆し、あえて天皇の正統性(天宗)を汚し、愚民が惑わされてこれを真実の記録と信じている。よって、諸司の官人等が所蔵するすべての系譜を提出せよ。もし私情を挟んで隠匿し、勅命に背いて提出しない者があれば、発覚した日に必ず重罪に処す。」

『神皇正統記』の「日本は三韓と同種也。と云事あれば、かの書をば桓武の御代にやきすてられしなり。」は、この「倭漢惣歴帝図譜」を指し、帰化氏族が作成した偽系譜を平城天皇が取り締まり、それを「桓武の御代」と簡略化・誇張して表現したものと考えられます。

男系を重視する日本の皇室においては、桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいがさ)の祖先が百済(くだら)の武寧王から帰化した一族であったとしても、高野新笠は約三百年も離れた帰化氏族であり、日本の皇室は百済系などとは言えません。

むしろ、彼らは百済から帰化したにもかかわらず、和(やまと)姓を名乗っています。和氏とは「大和に帰化した一族」を意味し、帰化した地の象徴として「和」を採用することで、「日本の氏族」としてのアイデンティティを確立したのです。

和氏は『大和』に由来する姓を採用し、日本社会への統合を反映した可能性が高い。

『日本書紀』によれば、武寧王はヤマト王権の人質として日本(筑紫)に到着後に生まれた。日本の島で生まれたことから「嶋君」と呼ばれ送り返された。

『日本書紀』雄略天皇五年 「夏四月、百濟加須利君(蓋鹵王也)、飛聞池津媛之所燔殺(適稽女郎也)而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我国名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君(崑支君也)曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送国。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於国、是爲武寧王。」
「雄略天皇五年(夏四月)、百済の加須利君(蓋鹵王=がいろおう、百済の第21代王)は、池津媛(採女)が焼き殺されたと聞き、協議して言った:「以前、献上した女性が採女として仕えたが、無礼な扱いを受け、我が国の名誉を失った。今後は女性を献上しない。」そして、弟の軍君(崑支君)に言った:「汝は日本に行き、天皇に仕えなさい。」軍君は答えた:「君の命令には逆らえません。ただし、妻を賜ってから日本に参ります。」加須利君は、妊娠中の女性を軍君に娶わせ、こう言った:「私の妊娠中の妻は、間もなく出産する時期だ。もし道中で子が生まれたら、その子を船に乗せ、どこに着こうとも速やかに我国に送り返しなさい。」こうして軍君と別れを告げ、朝廷に遣わした。六月丙戌の朔日、妊娠中の女性は加須利君の言った通り、筑紫(九州)の各羅嶋で子を生んだ。そこでその子を「嶋君」と名付けた。軍君はすぐに一隻の船で嶋君を百済に送り返し、これが武寧王である。」


武寧王の子孫を自称する和(やまと)氏という氏族は、同じく帰化氏族である漢氏(あやうじ)や秦氏(はたうじ)と比較すると、和氏(やまとうじ)の「和」は、渡来の出自を強調するよりも、ヤマト王権や日本への統合・同化を反映した名称である可能性が高いです。

日本の皇室伝統は、こうした歴史的背景を踏まえつつ、男系を重視することで、神武朝の連続性と日本の国民的アイデンティティを守り続けてきたからこそ、維持されてきたのです。


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